雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

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沈黙の鼓動

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真っ白な光はヴェラの肌を突き抜け、血管の中まで透き通るかのようだった。

鼓膜の奥で、何かが規則正しく脈打つ。耳鳴りにも似たその振動は、ヴェラの心臓の鼓動と同期していた。

夢か現か、記憶か幻か――区別のつかない世界の縁。

光の粒子がまぶたの裏で舞い、過去の光景や声が、断片となって逆流する。

雪に覆われた宮廷の回廊、遠くで鳴る鐘、凍った泉に映った蒼の空、誰かの涙で濡れた頬――すべてが同時に押し寄せ、視界の端にちらつく。

光が消え……気が付けばヴェラは、後宮の自室で暖炉の前の椅子に腰を下ろしていた。

うずくように頭の芯が痛んで、思わず目を閉じ、掌で額を覆う。
鼓動が早い。
まるで夢から戻ったばかりのような――いや、夢よりも生々しい“記憶”が、まだ血の底で脈打っていた。

「……どうした?――ヴェラ」

声が、空気の奥から滲み出るように響いた。
時が止まり、世界の輪郭がふっとゆらぐ。
胸の奥で鼓動がはげしく打ち、耳鳴りのように血の音が響く。
まるで、亡霊に名を呼ばれたように。
いや、違う――それは確かに、生身の声だった。

ヴェラは、息を詰めて顔を上げた。
隣の長椅子に腰を掛けているのは、もうこの世にいないはずの人。


淡い茶色の髪、澄んだ水のような薄青の瞳。
陽の光が差したときにだけ銀灰に見える、長い睫毛。
どれも、忘れようとして忘れられなかったものばかり。
けれど、今目の前にあるそれは、記憶よりも少しだけ影を帯びていた。

「ミハイル……おとうさま……!」

声が震えた。
その瞬間、現実がゆがみ、過去と現在が溶け合った。
ヴェラは考えるより先に、その胸に身を投げた。
あたたかい……。

抱きしめた瞬間、ヴェラは思い出す――この温もりを、もう二度と感じられぬ未来を。その、長く辛い孤独を。

時間は逆流しても、魂の震えは変わらない。
彼の胸に耳を押しあてると、低く穏やかな鼓動が聞こえる。
それはどんな祈りよりも真実の“神の声”に思えた。
あの“沈黙する神”の代わりに、今はこの鼓動だけが、世界のすべてを肯定してくれている。

「ほぼ一年ぶりだが……元気にしていたか?」

柔らかで、優しい声。
一年ぶり――ということは、“今”はミハイルが反逆の疑惑をかけられる少し前、最後の邂逅の時だ。
まだ何も壊れていない、ただ静かで危うい均衡の中にある時期。
だが、すべてはもう裂けはじめている。
暖炉の炎がゆらぎ、天井の影が波のように揺れた。
この部屋の静けさは、暴風の前の沈黙のように、あまりにも張りつめていた。

ミハイルの声には、静かな安堵と少しの疲労が混じっていた。
彼の指先が、ためらいがちにヴェラのクリーム色の髪を撫でる。
その指がヴェラの頬に触れた瞬間、彼女の肌の冷たさを感じたのか、彼の瞳がわずかに曇った――まるで、死の運命の残り香を感じ取ったかのように。

ヴェラは、涙をこらえながら微笑もうとした。

「……はい。おとうさまも、お変わりなく」

けれど、言葉に滲む震えを隠すことはできなかった。
彼女の中で、過去と未来がせめぎ合う。“この瞬間は再び訪れたのに、いずれまた失われるかもしれない”――それを知る痛みは、神の沈黙よりも辛かった。

この時期、五つの一族の代表者たちは、蒼の一族の領地で起きた暴動が片付き、その後処理のために宮廷を訪れていた。ミハイルも含めて。

暖炉の炎が、ぱちぱちと小さく音を立てている。
その音が、雪の降る夜の遠い記憶を呼び覚ます。


ミハイルはヴェラをそっと離し、火に照らされた横顔をゆっくりと上げた。
「蒼の一族の暴動は、すぐに鎮圧された」
低く落ち着いた声。だがその声は、静けさの中で冷たい現実を告げる。

ヴェラは息を詰めた。
――鎮圧。
その一語に、いくつもの情景が蘇る。
雪の夜、遠くの鐘が途切れ、空が青く燃えた。
蒼の旗が裂け、吹雪の中で血が凍る音が”聞こえた”。
あの時、月明かりさえも青く染まり、凍てついた地面の下から、誰かの叫びがまだ響いていたように思う。
“鎮圧”という言葉は、あまりにも静かだ。
だがその静けさの裏に、どれほどの声が閉じ込められているのだろう。

ミハイルの瞳が、火の光を受けてかすかに揺れた。

「成人していない子は罪を問われないから、蒼の妃の娘たちは〈銅の庭〉のアグニ様に預けられた。だが……現地の首謀者たちの中に、蒼の妃の父方の従兄がいた。もともと彼と蒼の妃は幼馴染で、同じ師に学んだ仲だそうだ。その師の教えが、彼を蜂起させたらしい。彼女は彼との連帯を疑われ、責を問われて処刑された」

その言葉を発する彼自身の唇が、僅かに震える。
命を奪う側に立ちながら、なお痛みを覚える男の声。

「はい……存じ上げています」

ヴェラの喉が乾いていた。

アグニ様ーーというのは、この宮廷の亡霊のような存在だ。皇帝アルセニイにとって血縁上は叔母にあたるはずだが、若い頃に宮廷内の抗争に巻き込まれて失脚して罪を得、罰で子孫を残せない体とされた上で皇族の身分を剥奪されてなお、幽鬼のように宮廷の片隅で生きている。

先代の白の妃の子供達が彼女に預けられているため、その様子を訪ねる際に、ヴェラは時々彼女に会うことがある。文字通り、声を発しなければ亡霊と遭遇したかと思うような、全身ーー髪の毛も瞳も服も肌色さえもーー灰色の、初老の婦人だ。

だが、妃たちの去就の多い後宮において、残された子供達を保護し、侍女たちを率いてその面倒を見てくれているのが、彼女なのである。

その生き方は、宮廷内での抗争に巻き込まれ、命こそ失わなかったもののそれ以外のものをほぼ全て失った者の……ひとつの姿だった。

それは一つ足を踏み外せば、宮廷内の誰にでも訪れうる未来。

香炉の煙が細い糸のように立ちのぼって、部屋の空気が少しだけ重くなる。

蒼の妃ルドミラ――ヴェラは、その名を胸の奥で反すうする。
決して親しい間柄ではなかった。
それでも、彼女の大きな青い瞳を思い出すと、心のどこかが冷たくうずく。

“明日は我が身”――
その言葉が、心の闇にゆっくりと形を持ちはじめる。
恐怖は影ではなく、透明な氷のように内側から広がっていく。
鼓動が速まり、血の流れが耳鳴りのように響く。

ミハイルは、そんなヴェラのわずかな震えに気づいたようだった。

「だが……お前に何もなくて、良かった。」

彼はそう言って、愛しさをこめた手のひらでヴェラの肩を撫でる。その手のひらは温かく、優しかった。
けれど、その優しささえも脆いガラスのように思えて、ヴェラは小さく息をのむ。

確かに何もなかった――だが、これから、起こるのだ。

ヴェラは息を吸い、唇の裏を噛みしめる。
言わねばならない。
けれど――口を開くその瞬間、世界が終わる気がした。

――怖い……。でも、沈黙していても、あの未来が再び来る――
心臓が胸の奥で痛む。
指先が冷たくなっていく。
目の前の男は、あまりにも静かだった。
炎の揺らめきがミハイルの頬を照らし、その影が床に長く落ちている。
まるで、背後から誰かが刃を突きつけているように――。

「……おとうさま」

ヴェラの声は震えていた。
だが、その震えの奥には、確信の芯が存在していた。

「私の話を……信じていただかないと、いけません」

「ああ、もちろん信じるが。何をだ?」

喉が乾き、声が出なかった。
香炉の煙がゆるやかに上昇し、炎の明滅にあわせて白い糸のように揺れる。

「紅の妃が――」

その名を口にした瞬間、空気が軋んだ。
室内の温度がわずかに下がったように感じた。
ヴェラの舌の裏に、血の味が滲む。
嘘ではない。だが、これを告げた瞬間から、引き返すことはできなくなる。

「おそらく紅の一族すべてが、おとうさまを陥れようとしています」

ミハイルが小さく息を飲み、全身をこわばらせる。
暖炉の炎が揺らめき、彼の瞳の奥にその炎が映った。

「今回の蒼の暴動を金銭面で支援していたとか、裏で糸を引いて首謀していたとか……今まさにその証拠が、捏造されている頃だと思います。そして……」

一瞬、言葉を飲み込んだ。
けれど決意と共に、ヴェラはその顔をまっすぐに見上げて告げる。

「白の妃――私と、密通している、とか」

仮面のように強ばっていたミハイルの表情が、わずかに緩み、苦笑が浮かんだ。

「最後の点は……たとえ証拠が捏造だとしても、まぁ、否定はできんな」

「笑いごとではありません、おとうさま!」

ヴェラの声が、思わず強く響いた。だがその奥にあったのは、恐怖と、そしてどうしようもない愛しさだった。
彼女の声を受け止めながら、ミハイルは視線を落とす。
長い睫毛の影が、その頬に落ちた。

「……ヴェラ」

絞り出すように呼ばれた名は、まるで祈りの残響のようだった。

その声を聞いた瞬間、ヴェラの喉の奥が熱くなった。
――今この瞬間、ミハイルと私は、同じ刃の上にいる……。

暖炉の火が再び弾け、光が二人の間にひとすじ走った。
まるで天が、その会話の行方を見届けようとしているかのように。
ミハイルは静かに首を振って、わずかに微笑んだ。

「人は……紅の一族や皇帝は、それを罪と呼び反逆と糾弾するだろう。だが、私は……それを罪とも禁忌とも、捉えてはいない」

「おとうさま……」

養父の静かな告解は、ヴェラの胸を熱く焼いた。

「私にとって、お前は……鼓動や呼吸、命の炎の一部だ。その火を消すことなど、できはしない。かといって、必要以上に燃え上がらせてお前の重荷になることも、したくはない。お前がどう言おうとも、お前に孤独な犠牲を強いているのは私だし――それこそが、私の罪なのだから」

そう――後宮入りの前夜、ミハイルを訪れ彼を求めたヴェラを、彼は受け入れはしたが、そのまま翌朝、予定通り宮廷へと旅立たせた。人はそれを、彼の保身とーーあるいは狡さと、呼ぶかも知れない。

だが、ヴェラは知っている。

約千年にわたって続くこの神聖帝国にしみわたっている秩序にあくまでも従いながら、渾身で自らを生き抜こうとする。それが、彼女の想い続けているこの人の在り方だし、その在り方こそが、彼女の魂を根底から揺さぶり続けているのだ。

「やめてください……その罪を引き受けたのは、私自身なのですから。罰を受けるなら、私が受けるべきです。それに……」

ミハイルの手をつかむヴェラの手が、小さく震える。

「私は、おとうさまを、こんなことで失いたくはありません。紅の一族に本気で謀略を計画された時に、私たちが身の証を立てられるとは、思いません。ですから……」

「逃亡しろ――とでも言うつもりか? ヴェラ」

「はい」

即答するヴェラにーーミハイルは、軽く目を見開いた。
まさか、彼女がそんなことまで考えているとは思っていなかったのだろう。

「紅の一族が真剣におとうさまを狙い定めたのなら、宮廷にいてはいけません。急いで領地に戻り、ミシュに後を任せて行方をくらます――そのくらいのことを、しないと」

「おいおい、ヴェラ」

ミハイルは軽く首を振り、小さな子供に諭すような口調になった。

「私は、仮にも皇帝の臣下だ。そんなことをすれば、たとえ後に疑いが晴れたとしても、戻ってくることはできない。私は永遠に、“行方知れずの男”になる」

「それでも……」

ヴェラは、両腕でぎゅっとミハイルを抱きしめた。
温かいーーその温もりを失ったあの日の記憶が、体の奥で冷たく疼く。

「生きていてさえくださったら、それで……」

「よしなさい、ヴェラ」

ミハイルの手が優しく、ヴェラの背をさする。 
皇帝の――アルセニイ一世の触れ方とはまるで違う、慈しみのこもった手のひら。 

「それでは、たとえ私の命が運よく助かったとしても、お前が無事ではいられまい。それは、私にはできない選択だよ、ヴェラ」 

ヴェラの喉の奥が鳴った。 
――そうだ。ミハイルのことばかり考えていて、我が身のことにまで気が回っていなかった。 

「後宮に入ることを決めてから実際にここに来るまでの間、お前が毎日のように祈っていたことを、私は忘れたことがない。沈黙し続ける“神”の声を、お前はそれでも真摯に、”神の耳”で聞こうとしていた。あくまでも皇帝の臣下としてあり続けようとする私と、同じだ」 

ミハイルの唇がそっと、ヴェラの額に落ちる。 
炎の光がその輪郭を金に染めた。 

「お前は、私にとって自分は“娘”でしかないと言っていたが……そんなことはない。お前は、その静けさの中でいつでも一人の人間としての私と、同じ目線で対等に向き合ってくれていたのだから」 

「おとうさま……」 

ヴェラの銀白の頬を、涙が伝った。 
ミハイルの指先が、それをそっとぬぐう。 
 

暖炉の火の揺れとヴェラの冷たい涙が、ふと、ミハイルの瞼の裏に別の光景を呼び起こす。 
炎に残る、薬草の匂い。まだ幼かった息子を残して、妻が先だった日……。 

あの年は、熱病が国のあちこちで猛威を振るっていた。 

対策のための会議で帝都に呼び出されていた彼は、”奥方、重篤”の報で故郷に引き戻された。 

だが、戻った彼を待っていたのは、前の晩に息を引き取ったという妻の冷たくなった姿。そして、その頬に残っていた冷たい涙の後を、ぬぐった苦い記憶。 
名を呼んでも、答えるものは沈黙と冷たさのみ。 
枕元の小卓には、ただ「ごめんなさい」と書かれた紙片だけが残されていた。 

その言葉が、赦しを求めていたのか、あるは悔いだったのか。そもそも、何に対する物だったのか。 

わからないまま、小さな悔恨とその解けない謎が、気が付けばミハイルの人生を灰色の深い霧のようにすっぽりと包み込んでいた。時折勧められる再婚の話もその霧を晴らすことはなく、独り身の日々を過ごすままに、年月だけが過ぎた。 

ヴェラがーーこの、美しく儚いようでいて、誰よりも凛とした娘がーーある日突然、鮮烈な白い閃光のように現れて、すべての霧を追い払ってしまうまでは。 

亡き妻の残した言葉の意味は、今もわからない。おそらく永遠に、わかる日などこないだろう。 

だが、ひとつだけ確かのは、二度と大切な者をひとりきりで死の運命にたちむかわせてはいけない……ということだった。 

「私のことを考えてくれるのは嬉しいが。単に命が続いているだけのことを、“生きている”とは言わないよ、ヴェラ。まして、そのためにお前を犠牲にすることはできない」 

その言葉は、限りなく優しくも残酷だった。 
暖炉の炎がゆらりと揺れ、ふたりの影を壁に映す。 

ミハイルの言うとおりだった。 
皇帝も、紅の妃も、ヴェラの裏切りを見逃すはずがない。 
たとえすぐには立証されなかったとしても、いずれはこの身は罪に問われるだろう。おそらくは、極刑。 

――あぁ、ダメ……これでは、ダメ……―― 

ヴェラは重い嘆息をこらえながら、心の中で繰り返す。 
どうしたら、この運命を変えられる? 
どうしたら、この人と共に生きていけるの……? 

その問いと同時に、世界が真っ白に灼けた。 

  

”神の声”が、またしても響いた。 

世界が反転する。その光の中で自分の涙の雫が空に昇ってゆくのを、ヴェラは見た。 
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