雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

文字の大きさ
24 / 30
回帰5

囚われの光

しおりを挟む
白い光は徐々に弱まり、その向こうに闇が広がっていった。

湿気……そして鉄錆と、血の匂い。


その中の宙中に、ヴェラの意識はぼんやりと浮かんでいる。


彼女はこの場所を、実際に訪れたことはない。

”前回”訪れることを、許されなかった場所ーー宮廷のはずれ、地下にある牢獄。


冬の夜の冷気と石壁の湿気で重苦しく閉ざされているその一角、闇の中にほぼ呑まれるようにして、かすかにミハイルの姿が見える。

傷だらけの顔、血で濡れた衣服、伏せられた瞼……それらに、”ヴェラ”の胸は引き裂かれそうになる。


ミハイルの呼吸は荒く乱れているが、瞼の影からうっすらと覗くその薄青い瞳に、曇りはなかった。

痛みや苦しみの影に覆われてくれていた方が、むしろ良かったかもしれない……と、淡い意識の片隅で”ヴェラ” は思う。


何故この人は、捏造された罪に落とされ身も心も痛めつけられたこの状況下でなお、尊厳をまったく傷つけられず保ち続けることができるのか。その静かな矜持が、むしろ”ヴェラ”には痛ましい。


松明の炎が揺れ、影が壁に不規則に踊った。

鉄の匂いと血の匂いが混じり合う。


その静けさを破るように、衣の裾が石床を擦る音が響いた。

うっすらと、灯が揺れる。ランプを下げた紅の妃ハーモニアが、紅い衣を翻してミハイルの牢の前に歩み寄ってきた。

その金茶色の瞳はランプの炎を映し、冷たく強ばった笑みを浮かべている。 彼女の姿は牢の闇にあってなお鮮烈で、紅絹の衣は血の川のように揺れていた。

「反逆者になった気分はどう?ミハイル・ルース」

ハーモニアの嘲るような声に、ミハイルのまぶたが上がった。

「それでもあなた、まだ忠誠を口にしているんですってね。そんなに命が惜しいの?自分の?それとも彼女の?」

ミハイルは答えない。ただ、薄青い瞳で静かにハーモニアの紅い全身に視線を送っている。

何も言わない彼にいら立ったように彼女は鉄格子に近づき、声を低くした。

「こんな状況だというのに、陛下は今日も白の妃のもとーー今も、彼女は彼に抱かれてる」

その声は怒りや嘲りや煽りよりも、彼女自身の底のない苦さに覆われていた。

「あなたが血にまみれている間にも、彼女は陛下の腕の中で捕らわれている。どう?愛する女が陛下の玩具になっている気分は?悔しい?……ああ、でも、そうしたのは、あなた自身だったかしらね?本当に……ひどい男」

その言葉は鋭い刃のように次々と放たれた。だが、ミハイルの瞳は揺れない。 彼はしばらく黙し、紅の妃の手元に揺れるランプを見つめながら静かに口を開いた。

「……哀れだな」

紅の妃の眉が跳ねた。挑発の言葉に返ってきたのは怒りでも悔しさでも憤りでもなく、彼女への憐れみの言葉。 美しく塗られた彼女の唇が激しく震え、笑みの形が崩れる。

「ーーあなたは愛を乞い、拒まれた。だから他人の愛を嘲り、自分を支えようとする。ヴェラを陛下の玩具だと笑うのは、あなた自身がそう扱われてきたからだろう」

ハーモニアの瞳の奥に、かつての記憶がちらりと暗く覗いた。炎の影がその顔に暗い曇りを落とし、紅の衣の輝きさえも翳らせる。

「……黙りなさいよ」

重い声は、激しく揺らいだ。彼女の指先が扇を握りしめるように震え、紅の爪が白い肌に食い込む。

ミハイルは静かに彼女を見つめ続け、牢の中に沈黙が落ちた。

炎が揺れ、紅の衣の影が石床に波打つ。

「……本当に、腹が立つ」

ハーモニアはミハイルから顔をそむけ、吐き捨てるようにつぶやいた。

「白の妃といい、あなたといい。そうやっていつも、人形みたいに澄まして。憐れみの目で、私を見る……」

その瞳は曇り、広がって揺れる瞳孔の奥に、憎しみに隠された深い孤独が見え隠れする。ミハイルが、おもむろに口を開いた。

「あなたはーー本当は、誰かに優しくされたいだけなのではないですか」

その言葉は刃ではなく、あまりにも柔らかかった。だが、それに打ちのめされたように、ハーモニアの肩が大きく揺れる。

自分が仕掛けた残酷な罠の相手に、自分が倒されようとしている……そのことに、彼女の心身が大きく反発した。

「……っ、黙りなさい。黙れ……黙れ……!!」

美しい爪を鉄格子に叩きつけ、金属音が鳴り響く。それが、彼女の心の崩れを代弁していた。

そして逃げるような足音を響かせて、ハーモニアは足早に牢から去っていく。その後ろ姿は変わらず誇り高かったが、重く沈む影を背負っていた。

灯を失い、牢がふたたび闇に落ちていく。

ミハイルのまぶたが閉ざされていき、唇から弱い吐息とともに小さな声がこぼれる。

「ヴェラ……」

そのかすかな響きが”ヴェラ”の胸を詰まらせ、息苦しく締め付ける。

ミハイルの言葉の続きは、もはや生身の声ではなく、彼女の脳内に直接響いてきた。

(私は、お前に何ひとつ与えられなかった。守るべき時に守れず、遠ざけるべき時に遠ざけることができず……今や、無実の罪でここにいる)

それは彼が決して実際には口にしない、悔恨に似た言葉だった。

(だが、お前が……どこで誰と共にいようとも、それでお前が誰かに奪われるわけではないし、誰かの所有物になるわけでもない。お前ははじめから、お前自身の光で立っていた……この先もどうか、そのままで……)

ミハイルの言葉が、かすれて遠のいてゆく。

意識だけで漂う”ヴェラ”は愛しい人に触れることも涙を流すこともできず、ただ千々に乱れ引き裂かれる心と魂の悲鳴と痛みに、声にならない呻きを上げる。

ミハイルの額の傷から落ちる血が冷たい石の床に落ちて滲む音がしたのを最後に、夜の沈黙と小さな息づかいだけが再び牢を満たした。

ーーこの人の心は、最後の最後まで自由だった……何者も、彼を貶めなかったーー

ーーでも……ミハイル、あなたはわかっていない。私が私として立っていられたのは、あなたが居てくれたからなのに……!ーー

真っ白な光が、またヴェラの意識を覆ってゆく。その渦に飲まれそうになりながら、ヴェラは必死にミハイルに手を伸ばした。

ーー待って……せめて、もう少しだけ……ーー

ーーこの人の最期の瞬間に、そばに居させて!!ーー

 

”神の声”の宣告が、ヴェラの想いなどおかまいなしに、冷たく響く。

光がーー全てを、吸い込み、飲み込み、包み込んだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

最強令嬢とは、1%のひらめきと99%の努力である

megane-san
ファンタジー
私クロエは、生まれてすぐに傷を負った母に抱かれてブラウン辺境伯城に転移しましたが、母はそのまま亡くなり、辺境伯夫妻の養子として育てていただきました。3歳になる頃には闇と光魔法を発現し、さらに暗黒魔法と膨大な魔力まで持っている事が分かりました。そしてなんと私、前世の記憶まで思い出し、前世の知識で辺境伯領はかなり大儲けしてしまいました。私の力は陰謀を企てる者達に狙われましたが、必〇仕事人バリの方々のおかげで悪者は一層され、無事に修行を共にした兄弟子と婚姻することが出来ました。……が、なんと私、魔王に任命されてしまい……。そんな波乱万丈に日々を送る私のお話です。

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す

RINFAM
ファンタジー
 なんの罰ゲームだ、これ!!!!  あああああ!!! 本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!  そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!  一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!  かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。 年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。 4コマ漫画版もあります。

婚約破棄された幼い公爵令嬢、目覚めたら絶世の美女でした

鍛高譚
恋愛
『幼すぎる』と婚約破棄された公爵令嬢ですが、意識不明から目覚めたら絶世の美女になっていました 幼すぎる、頼りない――そんな理由で婚約者に見限られた公爵令嬢シルフィーネ。 心ない言葉に傷ついた彼女は、事故に遭い意識不明となってしまう。 しかし一年後、彼女は奇跡的に目を覚ます。 そして目覚めた彼女は――かつての面影を残しつつも、見る者すべてを惹きつける絶世の美女へと変貌を遂げていた! 周囲の反応は一変。婚約破棄を後悔する元婚約者、熱視線を送る他家の令息たち、さらには王太子からの突然の縁談まで舞い込み――? 「もう、誰にも傷つけられたくない。私は私の幸せを手に入れるの」 これは、冷たく突き放された少女が美しく咲き誇り、誇りと自由を手に入れる、ざまぁ&逆転恋愛劇。

〖完結〗終着駅のパッセージ

苺迷音
恋愛
分厚い眼鏡と、ひっつめた髪を毛糸帽で覆う女性・カレン。 彼女はとある想いを胸に北へ向かう蒸気機関車に乗っていた。 王都から離れてゆく車窓を眺めながら、カレンは振り返る。 夫と婚姻してから三年という長い時間。 その間に夫が帰宅したのは数えるほどだった。 ※ご覧いただけましたらとても嬉しいです。よろしくお願いいたします。

虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました

たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。

廃城の泣き虫アデリー

今野綾
ファンタジー
領主の娘だったアデリーはある日家族を殺され育った領地から命からがら逃げ出した。辿り着いた先は廃城。ひとり、ふたりと住人が増える中、問題が次々とおこって… 表紙はフリー素材です

【完結】悪役令嬢は何故か婚約破棄されない

miniko
恋愛
平凡な女子高生が乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまった。 断罪されて平民に落ちても困らない様に、しっかり手に職つけたり、自立の準備を進める。 家族の為を思うと、出来れば円満に婚約解消をしたいと考え、王子に度々提案するが、王子の反応は思っていたのと違って・・・。 いつの間にやら、王子と悪役令嬢の仲は深まっているみたい。 「僕の心は君だけの物だ」 あれ? どうしてこうなった!? ※物語が本格的に動き出すのは、乙女ゲーム開始後です。 ※ご都合主義の展開があるかもです。 ※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしておりません。本編未読の方はご注意下さい。

処理中です...