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回帰6
沈黙は承認か
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白い光が薄れていく中、塔の鐘が遠くで二つだけ鳴った。
それは夢と現の境界を揺らすように、低く、長く空気を震わせる。
頭の芯が、重くうずく。
喉の奥に、毒の熱さがまだうっすらと残っているような気がする。
息をするだけで焼けるような感覚が甦り、体内の温度が上がるようだ。だが目を開けると、冷気が頬や指先をかすめ、雪の白さと氷の冷たさが肌を刺す。
喉の内部のほのかな熱と、外側から伝わる寒さが、全身の感覚を鋭く研ぎ澄まし、息を整えるたびに胸がひりつくように痛んだ。
まるで時間も温度も逆巻く中に、自分だけが置き去りにされているような錯覚に囚われる。
喉を抑え瞼を開くと、ヴェラは宮廷の回廊の影に立っていた。
足元の雪がしんと冷え、月光を受けてわずかに青白く光っている。
冷気を含んだ風が、彼女の頬をかすめた。
指先を見下ろすと、そこには白金の光を返す繊細な細工の指輪があった。
後宮に入って間もなく皇帝から贈られた、皇室と皇帝と五つの一族をあらわす、五芒星と黄金の鷹が刻まれたもの――「そなたに、これをやろう。必ず絶えず、身につけるように」と笑って渡されたそれは、妃たちの水面下に激しい波風を起こし、まるで鎖のように、彼女の自由を封じた。
たったひとつの小さな輝きが、血に刻まれた呪いの印のように見えてくる。
それは小さな指輪にすぎないのに、ヴェラの胸に冷たく重く沈んだ。
光の反射は束縛の輝きに変わり、自由な心を確実に締め付け、過去の選択も、未来の希望も、白金の小さな輪の内側に押し潰されていくようだった。
そのとき、回廊のむこうから、懐かしい低い声と旋律が聞こえてきた。
「小さな星よ、静かに眠れーー」
ヴェラの胸に、まだ子供だった日の記憶がよみがえる。
夜半、嵐の夜に怯えて泣くミシュを膝に抱き、彼が歌っていたあの子守歌。
声は細く、少しかすれているが、確かに覚えている――ミハイルの声。
裏庭の雪影に、白い外套の影が立っていた。
肩には、雪がうっすらと積もっている。
それでも、彼の眼差しは変わらずにあたたかく、静かに彼女を包みこんだ。
「……おとうさま」
声のはずみと滲む涙を抑えきれず、ヴェラは駆け寄った。
衣の裾が雪をかきわけ、足跡が二つ、白の上に並ぶ。
指先が触れ、わずかなためらいの後、二人は手を取った。
その温もりが、過去と現在をつなぐたった一本の糸のように感じられる。
ーー“前回”の私は、この瞬間、ただ神の沈黙を嘆くだけだった。
でも、今は違う。
神の声が告げる謎めいた言葉――その意味を探すために、私は生かされているのかもしれない。
「……神は、今も変わらず沈黙しています。これを、おとうさまはどう解釈されますか?」
ヴェラの声は雪の結晶のようにかすかで、礼拝堂の鐘の音と溶け合うように低く響いた。
ミハイルは目を伏せ、冷たい息を吐いた。
唇の端が震え、やがて、低く答える。
「神は、おそらく――もはや、我々を見捨てたのだ」
その瞬間、ヴェラの心が深く揺れた。
“前回”も確かに彼はこの言葉を口にした。
だが、あのときのヴェラは、意味を深く追わなかった。
ただその響きの冷たさに怯え、何も掴めぬまま時間を失ったのだ。
雪が静かに舞い、二人の肩に積もる。
白い花びらのような雪片が頬に触れ、溶けて、涙のように流れた。
二人の足跡はやがて重なり合い、室内へと向かっていく。
温かな空気と焚き火の匂いが、凍りついた指先を少しずつ溶かした。
「神が、我々を見捨てた……と、さきほど言われましたね」
暖炉の火を背に、ヴェラは椅子に座るミハイルの横顔を見つめた。
雪に濡れた外套を脱いだ彼は、疲れたように目を細めていた。
「どういう意味でしょうか?」
「意味……か」
ミハイルは、暖炉の炎に照らされた手を組み、低く吐息をもらす。
「僻地では暴動が絶えず、飢餓や疫病が人々を襲っている。宮廷の五家は皇帝に仕えているようでいて、武力は紅に、財力は金に握られ、民の祈りはどこにも届かない。そして……神の声は、お前の”神の耳”にすら、もはや届かない」
炎の赤が、彼の頬を照らした。
その表情には、静かな絶望と諦念が滲んでいる。
「神は我々を見捨てたか、あるいは興味を失ったか。……いや、もしかしたら“自立を促している”のかもしれぬ。もはや神にすがることなく、自らの手で生きよ、とな。しかしーー我々は今もなお、神にすがろうとしている」
ミハイルが言葉を紡ぐたび、雪の舞う音が静かに落ち、風が窓の隙間をかすめて音を立てる。その間に暖炉の火が弾ける音が混じり、沈黙の間は重く広がった。
神は、私たちを見捨てたのだろうか?――その沈黙の意味を、彼女は改めて探ろうとする。
だが、耳に残るのは、暖炉の弾ける音と雪が窓に当たるかすかな響きだけ。
心の奥で問いかける。自分は、何を為すべきなのか――祈るだけで終わったら、前回と同じだ。
「陛下は、『沈黙は承認だ』とおっしゃっています。『余のすることに文句がないからだ』と」
「そんなわけがあるか」
苦い笑いが、ミハイルの唇に浮かんだ。
だがその笑いは、祈りの終わりのように静かでもあった。
「民が飢え、子が泣いている国だぞ? どこに承認がある」
「それで……おとうさまは、どうされようとしておられるのですか?」
「私は貴族の一員であり、皇帝陛下の臣下だ。立場を踏み越えることはできぬ」
ヴェラは、ミハイルの言葉に滲む疲労と諦めを感じ取った。
この人はその誇りの中で、すべてを受け入れて終わりを待とうとしている。
「おそらく、遠からずこの帝国は崩壊していく。その時、私は民に責を問われるだろう。せめて――お前や息子が、その咎を共に背負うことのないようにとは思っているがな」
ミハイルの手がやさしく伸びてきて、ヴェラのクリーム色の髪を愛おしげに撫でた。
その心地よい温もりにヴェラは目をつぶって、彼の胸に頭を預ける。
(この人に、あきらめさせてはいけない。私も、あきらめてはいけない。)
「おとうさま……いいえ、ミハイル」
髪を撫でる彼の手をつかんで、ヴェラはミハイルの薄青い瞳を見上げた。まぶたの裏に滲む涙を押さえながらも、その目には、これまでにない光が宿っていた。
「私の話を――私の計画を、聞いてください。神の沈黙に流されるのではなく……」
ミハイルの視線は穏やかに、しかし確かな重みを持って彼女に注がれている。
ヴェラは言葉を紡ぐ前に、世界の静寂に自分の決意を確かめる。
言葉をひと呼吸分、止め。
その瞳に、聖なる狂気のような決意を宿す。
「私たちが、神を――葬るのです」
暖炉の炎が、ぱちりと弾けた。
その音が、二人の間に静かな予兆のように響いた。
それは夢と現の境界を揺らすように、低く、長く空気を震わせる。
頭の芯が、重くうずく。
喉の奥に、毒の熱さがまだうっすらと残っているような気がする。
息をするだけで焼けるような感覚が甦り、体内の温度が上がるようだ。だが目を開けると、冷気が頬や指先をかすめ、雪の白さと氷の冷たさが肌を刺す。
喉の内部のほのかな熱と、外側から伝わる寒さが、全身の感覚を鋭く研ぎ澄まし、息を整えるたびに胸がひりつくように痛んだ。
まるで時間も温度も逆巻く中に、自分だけが置き去りにされているような錯覚に囚われる。
喉を抑え瞼を開くと、ヴェラは宮廷の回廊の影に立っていた。
足元の雪がしんと冷え、月光を受けてわずかに青白く光っている。
冷気を含んだ風が、彼女の頬をかすめた。
指先を見下ろすと、そこには白金の光を返す繊細な細工の指輪があった。
後宮に入って間もなく皇帝から贈られた、皇室と皇帝と五つの一族をあらわす、五芒星と黄金の鷹が刻まれたもの――「そなたに、これをやろう。必ず絶えず、身につけるように」と笑って渡されたそれは、妃たちの水面下に激しい波風を起こし、まるで鎖のように、彼女の自由を封じた。
たったひとつの小さな輝きが、血に刻まれた呪いの印のように見えてくる。
それは小さな指輪にすぎないのに、ヴェラの胸に冷たく重く沈んだ。
光の反射は束縛の輝きに変わり、自由な心を確実に締め付け、過去の選択も、未来の希望も、白金の小さな輪の内側に押し潰されていくようだった。
そのとき、回廊のむこうから、懐かしい低い声と旋律が聞こえてきた。
「小さな星よ、静かに眠れーー」
ヴェラの胸に、まだ子供だった日の記憶がよみがえる。
夜半、嵐の夜に怯えて泣くミシュを膝に抱き、彼が歌っていたあの子守歌。
声は細く、少しかすれているが、確かに覚えている――ミハイルの声。
裏庭の雪影に、白い外套の影が立っていた。
肩には、雪がうっすらと積もっている。
それでも、彼の眼差しは変わらずにあたたかく、静かに彼女を包みこんだ。
「……おとうさま」
声のはずみと滲む涙を抑えきれず、ヴェラは駆け寄った。
衣の裾が雪をかきわけ、足跡が二つ、白の上に並ぶ。
指先が触れ、わずかなためらいの後、二人は手を取った。
その温もりが、過去と現在をつなぐたった一本の糸のように感じられる。
ーー“前回”の私は、この瞬間、ただ神の沈黙を嘆くだけだった。
でも、今は違う。
神の声が告げる謎めいた言葉――その意味を探すために、私は生かされているのかもしれない。
「……神は、今も変わらず沈黙しています。これを、おとうさまはどう解釈されますか?」
ヴェラの声は雪の結晶のようにかすかで、礼拝堂の鐘の音と溶け合うように低く響いた。
ミハイルは目を伏せ、冷たい息を吐いた。
唇の端が震え、やがて、低く答える。
「神は、おそらく――もはや、我々を見捨てたのだ」
その瞬間、ヴェラの心が深く揺れた。
“前回”も確かに彼はこの言葉を口にした。
だが、あのときのヴェラは、意味を深く追わなかった。
ただその響きの冷たさに怯え、何も掴めぬまま時間を失ったのだ。
雪が静かに舞い、二人の肩に積もる。
白い花びらのような雪片が頬に触れ、溶けて、涙のように流れた。
二人の足跡はやがて重なり合い、室内へと向かっていく。
温かな空気と焚き火の匂いが、凍りついた指先を少しずつ溶かした。
「神が、我々を見捨てた……と、さきほど言われましたね」
暖炉の火を背に、ヴェラは椅子に座るミハイルの横顔を見つめた。
雪に濡れた外套を脱いだ彼は、疲れたように目を細めていた。
「どういう意味でしょうか?」
「意味……か」
ミハイルは、暖炉の炎に照らされた手を組み、低く吐息をもらす。
「僻地では暴動が絶えず、飢餓や疫病が人々を襲っている。宮廷の五家は皇帝に仕えているようでいて、武力は紅に、財力は金に握られ、民の祈りはどこにも届かない。そして……神の声は、お前の”神の耳”にすら、もはや届かない」
炎の赤が、彼の頬を照らした。
その表情には、静かな絶望と諦念が滲んでいる。
「神は我々を見捨てたか、あるいは興味を失ったか。……いや、もしかしたら“自立を促している”のかもしれぬ。もはや神にすがることなく、自らの手で生きよ、とな。しかしーー我々は今もなお、神にすがろうとしている」
ミハイルが言葉を紡ぐたび、雪の舞う音が静かに落ち、風が窓の隙間をかすめて音を立てる。その間に暖炉の火が弾ける音が混じり、沈黙の間は重く広がった。
神は、私たちを見捨てたのだろうか?――その沈黙の意味を、彼女は改めて探ろうとする。
だが、耳に残るのは、暖炉の弾ける音と雪が窓に当たるかすかな響きだけ。
心の奥で問いかける。自分は、何を為すべきなのか――祈るだけで終わったら、前回と同じだ。
「陛下は、『沈黙は承認だ』とおっしゃっています。『余のすることに文句がないからだ』と」
「そんなわけがあるか」
苦い笑いが、ミハイルの唇に浮かんだ。
だがその笑いは、祈りの終わりのように静かでもあった。
「民が飢え、子が泣いている国だぞ? どこに承認がある」
「それで……おとうさまは、どうされようとしておられるのですか?」
「私は貴族の一員であり、皇帝陛下の臣下だ。立場を踏み越えることはできぬ」
ヴェラは、ミハイルの言葉に滲む疲労と諦めを感じ取った。
この人はその誇りの中で、すべてを受け入れて終わりを待とうとしている。
「おそらく、遠からずこの帝国は崩壊していく。その時、私は民に責を問われるだろう。せめて――お前や息子が、その咎を共に背負うことのないようにとは思っているがな」
ミハイルの手がやさしく伸びてきて、ヴェラのクリーム色の髪を愛おしげに撫でた。
その心地よい温もりにヴェラは目をつぶって、彼の胸に頭を預ける。
(この人に、あきらめさせてはいけない。私も、あきらめてはいけない。)
「おとうさま……いいえ、ミハイル」
髪を撫でる彼の手をつかんで、ヴェラはミハイルの薄青い瞳を見上げた。まぶたの裏に滲む涙を押さえながらも、その目には、これまでにない光が宿っていた。
「私の話を――私の計画を、聞いてください。神の沈黙に流されるのではなく……」
ミハイルの視線は穏やかに、しかし確かな重みを持って彼女に注がれている。
ヴェラは言葉を紡ぐ前に、世界の静寂に自分の決意を確かめる。
言葉をひと呼吸分、止め。
その瞳に、聖なる狂気のような決意を宿す。
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