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回帰6
神の時代の終わり
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「神を、葬る――だと?」
その言葉が室内に落ちた瞬間、部屋の空気が一変した。
ミハイルの声は低く、かつてのやわらかで優しい残響は影を潜め、いまは鋼のように硬かった。
その声に宿っているのは、単なる驚きではない。信仰を揺るがそうとしている者への恐れと憐みが、混ざり合っていた。
昔、この同じ声音に諭され、涙を流した夜もあった。――あのとき、それでも彼は優しかった。
だが、いまその声は、世界の秩序そのものを背負って彼女を断罪するかのような響きを帯びている。
「ヴェラ……おまえ、何を言っているのかわかっているのか?」
だがその声には、何よりも深い動揺があった。
ミハイルはヴェラを見つめる。目の前にいる彼女は、自分のよく知っている少女のはずなのに、そうではなかった。
ふと、記憶が閃く。
初めて出会った日――ヴェラの白いヴェールのすき間からのぞく銀水色の瞳は、まっすぐ澄んでいて、世界のどんな罪も洗い流すようだった。彼女の声が聞こえてきたとき、ミハイルは本当に神の声そのものを聞いたような心地になったものだ。
その輝きが、いまは――異なる場所に立っている。
神を葬ると言い放ったその口からは、祈りの調べは消えている。
彼女は、ただ静かにそこに居た。
その姿はなお聖女のように清らかで――だが、その瞳にはもはや神ではなく、自ら選んだ運命の光を映している。
ミハイルの喉が小さく鳴った。
声を発しようとしても、言葉は出てこない。
彼の中で、何かが静かに形を変えていく音がした。
ヴェラはただ、彼のもの言いたげな瞳を見つめ返した。
その眼差しにあるのは、信仰よりも深く、祈りよりも冷たい――決意の光。
「神が、その沈黙で何を試しておられるのかわかりませんが、私は、その“試練”を拒もうと思います」
ミハイルは、ゆっくりと立ち上がった。
重い椅子の脚が、床石の上で軋む音を立てる。
燃える炎の光が、彼の頬の皺を深く照らした。
「ヴェラ、それは、冒涜ではないか?我々の祖先が、何百年もかけて築いてきた信仰を――お前一人が、崩すというのか」
窓辺の縁に白く凍りついた霜が、淡い光を宿してきらめいていた。
その結晶ひとつひとつは、まるで天から零れ落ちた星の欠片のようで――永遠の祈りが、静かに形を成したもののようにも見えた。
だが、ミハイルの声に、霜がわずかに砕ける。
細かな結晶がぱらぱらと舞い落ち、冷たい床石に散った。
「はい――崩そうと、思います」
ヴェラは、静かに頷いた。
その姿は、炎の前に立つ白衣の祭司のようでもあり、断罪の天使のようでもあった。
霜の結晶が、床石の上で音もなく静かに融けていく。
それは、信仰が崩れゆく音のようでもあり、長く続いた祈りがゆっくりと終わりを迎える気配のようでもあった。
一方で暖炉の炎が、より強く燃え上がる。
その熱が、ヴェラの決意を映し出すかのように、赤々と。
「陛下は、”神の代理人”の名のもとに人の死に目をつむり、愛を無視なさる。ならば、その“神”そのものが誤っているのだとーー私は、考えます」
ミハイルの口から、小さな吐息が漏れた。
その胸に去来するのは、恐れか、誇りか、あるいは他の何かなのか。
「……おまえが、そんな言葉を口にするとは思わなかった」
ヴェラは、小さく微笑んだ。
その微笑みの奥に、死と再生を経た影が宿る。
「私は、陛下に抗えず、あなたを失い……この帝国が滅びる未来を、一度体験しています。時を超えて戻ってきて、そこからどうにか抜け出そうとあがいてきましたが、神はただ“見いだせ、そして選べ”と繰り返すだけ。そこには、何の導きもありません」
その言葉とともに、ヴェラの胸の奥で時間が揺らぎ、過去の光景が霧のように立ち上がって脳裏を走る。
初めて出会った日、信仰の光そのもののように輝いて彼女を包み込んでいた愛しい人--彼は今、帝国の未来を背負い、運命を悟って世界を見据え、祈りに殉じようとしている。ヴェラの胸は、その変化に鈍く痛む。
「……ヴェラ、まさか、神の声を……?」
「聞いています。けれど、それはただの命令です。魂を試すかのような――」
ヴェラの声がかすれた。
胸の奥で、炎が燃え広がるような痛みが走る。
「神が、何を試しておられるのかわかりませんが――」
ヴェラは一度、言葉を切った。
“試す”という響きが、自らの舌の上で重く沈むのを感じる。
その言葉を口にした瞬間、彼女の脳裏には、過去の祈りの光景が鮮やかに蘇った。
――白い神殿、冷たい石の床。
まだ若かった自分は、ひざまずき、神の名を呼んでいた。
指先で灯した聖火が、祈りの息で揺らめく。
あの頃の自分は、信じていた。沈黙もまた神の慈悲であり、痛みもまた救いの形なのだと。
けれど、もう違う。
神の声を待つうちに、どれほどのものが失われていったことだろう。
その沈黙が、どれほど残酷に世界を締めつけてきたことか。
ヴェラはゆっくりと息を吸い、胸の奥に溜まった長い歳月の澱を吐き出すように言った。
「――私はその“試練”を、拒もうと思います」
その瞬間、胸の奥で、何かが切れる音がした。
細く、長く続いていた鎖の軋みが、断ち切れるような。
ヴェラがまとっていた“神の代理人の妃”という衣は、まるで光の鎖のように、長い間彼女を縛っていた。
その鎖は、白く輝きながらも、血に刻まれた呪いのように肌を焼いていた。
だが今、それはゆっくりと消え、焼け跡のような痛みだけが胸に残る――けれど、それは苦しみではなかった。
彼女の言葉に、ミハイルは目を閉じた。
深く、長い沈黙。
その沈黙の中で、暖炉の火がゆらめき、雪が窓を打つ音が、やけに遠くに聞こえた。
「……おまえは、神を葬って、何を望む?」
「愛を」
その短い言葉は、炎よりも熱く、雪よりも冷たく響いた。
「神が沈黙するというのは、君自身が声を発するのを望んでいるから……以前そう、言いましたね?ミハイル。私はーー」
ヴェラは、両の手を胸の前に持ってきた。
指に光る、皇帝から贈られた白金の指輪を引き抜き、暖炉の炎めがけて投げ捨てる。
「あなたを失うことなく、共に生きていける未来を、望みます」
暖炉の炎が、皇帝の指輪を飲み込んで赤々と燃え立つ。
窓の外で雪が崩れ落ちる音が、二人の間で重く響いた。
「だから……あなたを私にください、ミハイル。もう一度」
ヴェラの華奢な両手が、ミハイルを求めて差し伸べられる。
同じ言葉を、彼女はかつても口にした。だが、その時と今とでは、大きく意味が異なる。
「あなたの命……あなたの未来が、私は、欲しいです」
ミハイルは、穏やかに凪いだ瞳で彼女を、その差し伸べる両手を、しばし見つめた。
そしてその両手の指先をそっと自分の両手で取り、恭しく自分の額に押し当てる。
「私は……初めて会ったあの日から、ずっとお前のものだよ。我がヴェラ」
その姿は、古の騎士が生涯の主と決めた姫君に誓いを立てる姿のようでもあり、神の前にひとりぬかずいて告解と懺悔を行う罪人の姿のようでもあった。
「お前がそれを望むなら、共に行こう。それが、どこであっても」
壁や窓に映る二人の影が揺れ、空間全体が生き物のようにざわめく。
遠くの塔から鐘の音が鳴り、重く低い余韻が空気にしばらく残った。
響きは回廊や石壁に跳ね返り、時間そのものを震わせる。
その音を合図に、長い沈黙の時代が、静かに軋みはじめた。
その言葉が室内に落ちた瞬間、部屋の空気が一変した。
ミハイルの声は低く、かつてのやわらかで優しい残響は影を潜め、いまは鋼のように硬かった。
その声に宿っているのは、単なる驚きではない。信仰を揺るがそうとしている者への恐れと憐みが、混ざり合っていた。
昔、この同じ声音に諭され、涙を流した夜もあった。――あのとき、それでも彼は優しかった。
だが、いまその声は、世界の秩序そのものを背負って彼女を断罪するかのような響きを帯びている。
「ヴェラ……おまえ、何を言っているのかわかっているのか?」
だがその声には、何よりも深い動揺があった。
ミハイルはヴェラを見つめる。目の前にいる彼女は、自分のよく知っている少女のはずなのに、そうではなかった。
ふと、記憶が閃く。
初めて出会った日――ヴェラの白いヴェールのすき間からのぞく銀水色の瞳は、まっすぐ澄んでいて、世界のどんな罪も洗い流すようだった。彼女の声が聞こえてきたとき、ミハイルは本当に神の声そのものを聞いたような心地になったものだ。
その輝きが、いまは――異なる場所に立っている。
神を葬ると言い放ったその口からは、祈りの調べは消えている。
彼女は、ただ静かにそこに居た。
その姿はなお聖女のように清らかで――だが、その瞳にはもはや神ではなく、自ら選んだ運命の光を映している。
ミハイルの喉が小さく鳴った。
声を発しようとしても、言葉は出てこない。
彼の中で、何かが静かに形を変えていく音がした。
ヴェラはただ、彼のもの言いたげな瞳を見つめ返した。
その眼差しにあるのは、信仰よりも深く、祈りよりも冷たい――決意の光。
「神が、その沈黙で何を試しておられるのかわかりませんが、私は、その“試練”を拒もうと思います」
ミハイルは、ゆっくりと立ち上がった。
重い椅子の脚が、床石の上で軋む音を立てる。
燃える炎の光が、彼の頬の皺を深く照らした。
「ヴェラ、それは、冒涜ではないか?我々の祖先が、何百年もかけて築いてきた信仰を――お前一人が、崩すというのか」
窓辺の縁に白く凍りついた霜が、淡い光を宿してきらめいていた。
その結晶ひとつひとつは、まるで天から零れ落ちた星の欠片のようで――永遠の祈りが、静かに形を成したもののようにも見えた。
だが、ミハイルの声に、霜がわずかに砕ける。
細かな結晶がぱらぱらと舞い落ち、冷たい床石に散った。
「はい――崩そうと、思います」
ヴェラは、静かに頷いた。
その姿は、炎の前に立つ白衣の祭司のようでもあり、断罪の天使のようでもあった。
霜の結晶が、床石の上で音もなく静かに融けていく。
それは、信仰が崩れゆく音のようでもあり、長く続いた祈りがゆっくりと終わりを迎える気配のようでもあった。
一方で暖炉の炎が、より強く燃え上がる。
その熱が、ヴェラの決意を映し出すかのように、赤々と。
「陛下は、”神の代理人”の名のもとに人の死に目をつむり、愛を無視なさる。ならば、その“神”そのものが誤っているのだとーー私は、考えます」
ミハイルの口から、小さな吐息が漏れた。
その胸に去来するのは、恐れか、誇りか、あるいは他の何かなのか。
「……おまえが、そんな言葉を口にするとは思わなかった」
ヴェラは、小さく微笑んだ。
その微笑みの奥に、死と再生を経た影が宿る。
「私は、陛下に抗えず、あなたを失い……この帝国が滅びる未来を、一度体験しています。時を超えて戻ってきて、そこからどうにか抜け出そうとあがいてきましたが、神はただ“見いだせ、そして選べ”と繰り返すだけ。そこには、何の導きもありません」
その言葉とともに、ヴェラの胸の奥で時間が揺らぎ、過去の光景が霧のように立ち上がって脳裏を走る。
初めて出会った日、信仰の光そのもののように輝いて彼女を包み込んでいた愛しい人--彼は今、帝国の未来を背負い、運命を悟って世界を見据え、祈りに殉じようとしている。ヴェラの胸は、その変化に鈍く痛む。
「……ヴェラ、まさか、神の声を……?」
「聞いています。けれど、それはただの命令です。魂を試すかのような――」
ヴェラの声がかすれた。
胸の奥で、炎が燃え広がるような痛みが走る。
「神が、何を試しておられるのかわかりませんが――」
ヴェラは一度、言葉を切った。
“試す”という響きが、自らの舌の上で重く沈むのを感じる。
その言葉を口にした瞬間、彼女の脳裏には、過去の祈りの光景が鮮やかに蘇った。
――白い神殿、冷たい石の床。
まだ若かった自分は、ひざまずき、神の名を呼んでいた。
指先で灯した聖火が、祈りの息で揺らめく。
あの頃の自分は、信じていた。沈黙もまた神の慈悲であり、痛みもまた救いの形なのだと。
けれど、もう違う。
神の声を待つうちに、どれほどのものが失われていったことだろう。
その沈黙が、どれほど残酷に世界を締めつけてきたことか。
ヴェラはゆっくりと息を吸い、胸の奥に溜まった長い歳月の澱を吐き出すように言った。
「――私はその“試練”を、拒もうと思います」
その瞬間、胸の奥で、何かが切れる音がした。
細く、長く続いていた鎖の軋みが、断ち切れるような。
ヴェラがまとっていた“神の代理人の妃”という衣は、まるで光の鎖のように、長い間彼女を縛っていた。
その鎖は、白く輝きながらも、血に刻まれた呪いのように肌を焼いていた。
だが今、それはゆっくりと消え、焼け跡のような痛みだけが胸に残る――けれど、それは苦しみではなかった。
彼女の言葉に、ミハイルは目を閉じた。
深く、長い沈黙。
その沈黙の中で、暖炉の火がゆらめき、雪が窓を打つ音が、やけに遠くに聞こえた。
「……おまえは、神を葬って、何を望む?」
「愛を」
その短い言葉は、炎よりも熱く、雪よりも冷たく響いた。
「神が沈黙するというのは、君自身が声を発するのを望んでいるから……以前そう、言いましたね?ミハイル。私はーー」
ヴェラは、両の手を胸の前に持ってきた。
指に光る、皇帝から贈られた白金の指輪を引き抜き、暖炉の炎めがけて投げ捨てる。
「あなたを失うことなく、共に生きていける未来を、望みます」
暖炉の炎が、皇帝の指輪を飲み込んで赤々と燃え立つ。
窓の外で雪が崩れ落ちる音が、二人の間で重く響いた。
「だから……あなたを私にください、ミハイル。もう一度」
ヴェラの華奢な両手が、ミハイルを求めて差し伸べられる。
同じ言葉を、彼女はかつても口にした。だが、その時と今とでは、大きく意味が異なる。
「あなたの命……あなたの未来が、私は、欲しいです」
ミハイルは、穏やかに凪いだ瞳で彼女を、その差し伸べる両手を、しばし見つめた。
そしてその両手の指先をそっと自分の両手で取り、恭しく自分の額に押し当てる。
「私は……初めて会ったあの日から、ずっとお前のものだよ。我がヴェラ」
その姿は、古の騎士が生涯の主と決めた姫君に誓いを立てる姿のようでもあり、神の前にひとりぬかずいて告解と懺悔を行う罪人の姿のようでもあった。
「お前がそれを望むなら、共に行こう。それが、どこであっても」
壁や窓に映る二人の影が揺れ、空間全体が生き物のようにざわめく。
遠くの塔から鐘の音が鳴り、重く低い余韻が空気にしばらく残った。
響きは回廊や石壁に跳ね返り、時間そのものを震わせる。
その音を合図に、長い沈黙の時代が、静かに軋みはじめた。
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