フェイク ラブ

熊井けなこ

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第一章 烏と塵

烏と塵 9

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高い湿度。建物の冷たさ。

…同じなのに、子供の頃に過ごした孤児院とは違い、ほんの少し何故か居心地が良い。子供の笑顔が多い気がする。


ワンギ先生の診療所を少し手伝いながら、孤児院の空き部屋で寝泊まりさせて貰う日々。
ここへ来て1週間が経った。


「ワンギ先生は市街に戻らないんですか?」

「…ジョンクーの交渉が終わったら…ですかね。変に巻き込まれたくないですからね。」

「……すみません…巻き込んでしまって…」

「……いや、こういうのいつもの事だから。だからこうして、この場所がある。」 

「…交渉って、こんなに時間…かかるものなんですかね…」

「…簡単じゃなさそうですね…恋愛の縺れ…?
貴方もジョンクーも…けど話にならないようなら、貴方を迎えに来て逃げてると思うから…まだ望みはあるはずかと…」

「…そう…かな…殺されたりは… ?」

「それをしたら、ツーボスが黙ってない。現にあのビルから2人が逃げて来た時、ジョンクーはキム達から狙われてなかったでしょ?
…テフォンも加勢してるはずだし…おっと…噂をすれば…」


話しの途中で携帯電話が鳴り、画面を確認するとテフォンからだったようだ。直ぐに耳に当てて話し出した。

「はい。え?来てないけど?………え?
………うん。…うん。あぁ…分かった。伝える。」


切られた通話。……伝えられるのは僕か…?
真っ直ぐに厳しい視線が向けられた。


「ジョンクーは2.3日前、キムの妹に刺されて…
どこかの病院にいるだろうけど見つからないって。
あと、ソクワンさんは警察としての身分が保証されてるらしい。
ジョンクーが潜入してる時にソクワンさんの業績をまとめといたって。身近な警察の人…ホンソクさんに連絡すれば大丈夫だって。」



別れ際、ジョンに泣きついた。

『…これから何をして…僕は何者に…?』

『ソクワンさんが行きたい所に…
なりたい自分に……これから、自由な環境……
…もしかして怖いですか?』


……なんだよ……

潜入が終わった先の僕の場所…
警察としての事実と身分を作ってくれてた…?

そんな事、一言も……


……刺された??

どれくらい?治療は?


「……またあいつの悪い癖が…」

「……はい?」

「……何でも1人で解決しようとする…」






ジョンからは何の連絡も無い。

僕からは、なすすべがない。


孤児院の子供達が遊び疲れた夕方。
ひっそりと誰もいなくなった教会のピアノの前に、いつものように座る。

ピアノなんて習った事無いけど、鍵盤に触れると響く音。
…どうにか音を探してジョンの部屋で聞いていたメロディーが少しづつ繋がり出した。

「~~~~♪」

外は雨が降りしきり、いつの日かのジョンの部屋の音を思い出す。

目を瞑るとシャワーの音だし、切ないメロディー…が脳内を満たす。


僕の意思を見たがったジョン。
ジョンの嘘に気づかずに信じて…だんだん本気になる僕を見てどう思っただろう。

今、何を考えて…ここに来ないんだろう……




"1人じゃない"と伝えたいのに。

彼に伝えるすべが見つからない…


キム達を騙していたのはジョンクー1人じゃない。
ジョンが1人で取る責任なんて無い。
危険な駆け引きを1人でする必要なんて無い。


言ってたじゃないか…
2人で逃げましょうか…って……

何でジョンは逃げて来ないんだよ…


何で僕だけ安全な場所にいて、ジョンはケガまでして…重傷……?何処に……?








1週間…待ちくたびれた僕は市街へ…
ホンソク君と会えるかもと、いつもの屋上へ来た。


「何となく…来ると思ってました。…ジョンクーは元気にしてますか?
一緒に仕事出来なくなって寂しいって伝えて貰えますか…」

「…僕も会えて無いよ…ケガもしたらしいし、何処にいるか分からない。ホンソク君の方が知ってると思った…」

「…そうですか。……ジョンクーに自分で身を隠されたら勝負にならないな…
何を頼んでも完璧にこなして来る男で……
マフィアに侵入させた警官をバラされたけど、逆にソクワンさんを助けた事の方が多いし…
1人裏でね。知らなかったでしょう?…ひけらかす奴じゃないのが小憎たらしいですね。
ソクワンさんの仕事をデータ化して証拠に残して警官の役職としての道を作ったり…
警察としての仕事、優秀でしたから…」


彼以外の人から聞く、彼の事。

彼に会っている時のように胸が高鳴るし…締め付けられるし…
愛されてるとも思えるし…
愛してる事を実感してしまう。


余計に会いたくなる。

…………会いたいよ。


「……泣かないで下さいよ…
あ、上司が殺された事件、キムの手下と会った時で確定しました。
証拠の写真も…これです。
ソクワンさんが自分の為に使うのであれば、上に文句は言わせないし、…ジョンクーの為でもいいですよ。上には報告しないで止めてあるんで…」

「……交渉のカードか…使わせて貰うけど…
警察からしたらジョンクーに騙された、とか…
怒ってないの?」

「……言ったじゃないですか…
マフィアとしての仕事より警察としての仕事が優秀だったんで、また仕事して欲しいくらいですよ…」






写真と拳銃を胸のポケットにしまう。

交渉のカードを手に入れた。
本部の上司がキムの手下と話している、殺された日の日付入り写真。
キムの手下と裏付けるようにキムと何度も会っている写真。


僕の生息が分からなくなったら、この証拠はワンギ先生に任せればジョンクーの為になるはずと伝え、ホンソク君と別れた。


キムの所へ行ってもジョンはいないかも知れない。
それでも少しの手がかり、状況が分かるかも。


……キムから何をされようと、別れの挨拶…
僕なりのカタをつける事も必要だと思った。








KIMU Officeへ足を踏み入れると、何事も無かったように挨拶してくる人達。
事情を知ってるであろう人からは不思議そうな視線。

あまりにも平然と歩き進む僕は自分でも不思議。
なんでこんなに恐怖心が無いのか…


4階へ進むとちょうどキムの妹が部屋から出てきた。睨まれるのは分かってる。

廊下ですれ違う際、罵声や暴力も覚悟した。
…けど…彼女からはあの強いストロベリーの香り。ジョンの部屋にあったオイルと同じ。
使った本人も言ってたけど、強烈で…間違えるはずは無い。


「……どうしました?身に覚えがある香り?」

近くで睨み付けてけてくる瞳からは、今にも涙が出て来そう。
…僕達の関係に気づいても…
彼女はジョンが本当に好きなんだろうな…

ジョンを刺す程…


もしこの香りがジョンと彼女の仲、今の居場所と関係していても…

ただ、香りを自身に付ける程狂ってるとしても…



僕は譲れない。


僕は僕の意思でジョンクーを助けたい。

未来なんて無いかもしれないけど…
ジョンクーがジョンでいて、僕が僕でいて、2人が愛し合える未来を望む僕の意思。願い。


「ごめんなさい…これからは、僕は僕として…
ジョンクーにもジョンクーとして生きて貰いたくて…」


彼女は既に反対側を向いていて、
そのまま振り向きもせず去っていく。



「……まさか、貴方からいらっしゃるとは…」

彼女の背中とは逆、声の方へ振り向くと、キムが部屋の扉を開けてこちらの様子を見ていた。
…毎日顔を合わせていた顔つきとは違い、明らかに憎悪の表情。
そして…出会った時から体力、健康の為に食事や運動を大切にしてた彼の顔は、少しやつれている気がする…


「警察官が何の御用で?
まさか、僕は逮捕されるのかな?」

開いた扉は中途半端、扉の枠に寄りかかりながら落ち着いたトーンで話してくる。

「……今は、何の捜査でも無いです。
けど、以前僕の上司が殺されました。
この写真…証拠が揃ったので、僕も交渉に参加しようかと。」

「…交渉?何の事ですか?」

「紫羅(ツールオ)の組織と駆け引きしてますよね?
それともジョンクーは寝返って、そちらの人間になりました?」

「……さぁ…」

キムの表情からは読めない。
ジョンクーは1人でカタを付けようとしても…
もしかすると付けきれず諦めた可能性もある。

「この証拠は僕の命か、ジョンクーの為なら
揉み消されます。けど…僕がここで得た情報、
ごく僅かだけど、これからあなたが逮捕された時、全て明らかにする。僕がここにいた理由だから。
チャラにはしない。それが僕の…最初から欲しかった甘い蜜。」

「啖呵切って…カッコイイな……
…お金って感じでも無くて…
楽しみとか無さそうで…
けど、何にも執着しない人だと……すっかり騙されたな。
………いや…貴方はいつも本心を隠してましたね。それでも…どうにかなると思ったけど…」

「僕はもうあなたに会う事は無い。
会うとするならあなたを逮捕する時。
……ジョンクーが自由になる事を許して欲しい。妹と婚約させるまで信用していたんだとしても、これからは彼を自由にして下さい。
彼は…今何処に…?」

「…妹が刺した事は知っていますか?
病院で治療して…命の山場は越えたから安心してたんですが…
麻酔が切れて意識が戻った後、彼の姿はありませんでした。……もう…ジョンクーに会う事は無いのかな…
彼に騙されてたバカな兄弟のプライド…
兄はその証拠写真を揉み消して貰う事、妹はもうジョンクーに怪我をさせた事でチャラに……
ジョンクーに会ったら伝えて下さい。
ツー組織の人間としてでも僕の前に現れるといい。
それだけお前は賢くて器が大きな人間だって…」






ワンギ先生やツーマフィアが全総力で怪我をしているジョンを探しても、居場所は見つからなかった。

ワンギ先生は市街に戻って行った。

テフォンは偶に現れ、ジョンの悪口を言いながら僕と孤児院の手伝いをしては帰っていく。



僕がやるべき警察本部での仕事は、ジョンにお礼を伝えてから…と自分に言い訳して毎日ジョンが来るのを待っていた。

ジョンクーに伝える事、聞きたい事だけが溜まっていく。


溜まっていくばかりで、身体も心も重くなって…

この先、ジョンクーに会えなければ、僕は気分だけでも空を飛ぶ事すら出来ない。





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