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蛇の抜け殻②
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翌日、俺は普段よりも早く目覚めた。
今日は重要な日だった。
上層街に潜入するチャンスを掴むかもしれない。
俺は慎重に身支度を整えた。
下層街の泥臭さを消し去り、上層街の住人に近づけるよう努める。
俺は幸運なことに見た目が良いらしい。
お陰で異性であれば、初対面でも相手の壁を取り除くのはたやすかった。
ただ、愛想良く微笑みかけてやればいい。
あとは相手の欲しがる言葉を投げるだけで、面白いほど好意を示してくれるようになる。
それほどまでに人間は、相手の美醜によって行動を左右される生き物なのだ。
それがたとえ意識したことであっても、無意識だったとしても……。
鏡に映る自分の姿を確認し、満足げに頷いた。
「よし、行くか――」
俺は隠れ家を出て、上層街と下層街の境界にあるテルミヌス市場へと向かった。
そこは、両方の世界の人間が交錯する稀有な場所だ。
そして、俺の目的の人物もそこにいる。
テルミヌス市場は朝から活気に満ちていた。
露店が立ち並び、色とりどりの商品が並べられている。
上層街の住人たちが珍しそうに品定めをする傍らで、下層街の住人たちが必死に商売をしている。
俺はその喧騒の中を歩きながら、目的の人物を探した。
――見つけた。
彼女の名はセリア。
上層を支配する三大貴族家が一角、ローレン家のご令嬢だ。
本当なら下層になど足を運ぶことなく一生を終える身分。
だが、彼女には秘密があった。
下層街に興味を持ち、時折こうして市場に姿を現すのだ。
この世間知らずのご令嬢には、自分の行いがどれほど愚かで無意味だということが理解できないのだろう。
俺はセリアに近づき、さりげなく声をかけた。
「お嬢様、何かお探しでしょうか?」
セリアは驚いた様子で俺を見た。
「え?ああ、いえ……別に」
「そうですか」俺は恭しく微笑んだ。
セリアが恥ずかしそうに目を逸らした。
心なしか頬も赤く染まっている。
俺は内心でよしよしと頷いた。
どうやらこのご令嬢にも、俺の外見は通用するらしい。
「お嬢様のような方がこのような場所にいらっしゃるとは、まことに珍しいことです。何かご用件でもおありですか?」
セリアの表情が強張った。
「あなた、もしかして私のことを……」
「ご安心ください、私はただの情報屋です。お嬢様の秘密を口外などいたしません」
俺は声量を落とし、丁寧に答えた。
セリアは一瞬躊躇したが、やがて小さく頷いた。
「……あなたの名は?」
「カインと申します――もし、何かお力添えできることがございましたら、どうぞお申し付けください」と、俺は恭しく答えた。
セリアは俺をじっと見つめた。
その瞳に、好奇心と警戒心が混じっている。
「そうね……実は、少し聞きたいことがあるのだけれど……」
俺は内心で嘲笑した。
こんな子供の遊びに付き合うだけで、上流社会に潜入する扉が、今まさに開こうとしている。
この愚かにも、世間知らずのご令嬢の手によって。
「それは光栄です、お嬢様」俺は丁寧に答えた。
「どのようなことでも、私の浅知恵ながらお答えさせていただきます」
俺はセリアから目線を外し、馴染みの茶房に目を向けた。
「しかし、人目につく場所では話しづらいでしょう。よろしければ、あちらの茶房でお話しをお伺いさせていただいても?」
セリアは少し迷った様子を見せたが、すぐに決意を固めたように頷いた。
「わかったわ。行きましょう」
俺たちは人混みをかき分け、市場の片隅にある小さな茶房に入った。
ここは俺が情報の受け渡しや待ち合わせに使う馴染みの店だ。
店主は俺の息がかかった手駒であり、情報が漏れる心配はない。
席に着くと、セリアは周囲を警戒するように見回した。
「ここなら大丈夫?」
「はい、ご安心ください」俺は落ち着いた様子で答えた。
「ここの主人は口が堅く、誰かに見られる心配もございません」
セリアは少し安心した様子で、俺に向き直った。
「じゃあ、聞くわ。あなたは下層街のことをよく知っているの?」
「はい」俺は自信を持って答えた。
「下層街のことなら、誰よりも詳しいと自負しております。お嬢様のご興味に少しでもお応えできれば幸いですね」
セリアの目が輝いた。
「本当⁉ 実は、私……下層街の実情を知りたいの。上層街では、下層街のことを悪く言う人ばかり。でも、本当はどうなのかを、この目で確かめたくて……」
俺は内心で笑った。なんて馬鹿な好奇心だ。
だが、これは予想以上の展開だ。
セリアの愚かな興味を利用すれば、もっと深く上流社会に潜り込めるかもしれない……。
「お嬢様のお考えは素晴らしいですね……!」俺はさも敬意を示すように言った。
「下層街には確かに厳しい現実もあります。でも、そこには上層街にはない活気と人情もあるんです。お嬢様のような聡明な方なら、きっとその公平な目で、下層に光を照らしてくださることでしょう」
セリアは熱心に聞き入っている。
「本当に?ねぇ、もっと詳しく教えて!」
俺はゆっくりと、下層街の様子を語り始めた。
貧困と闘いながらも、互いに助け合う人々の姿。
上層街では想像もつかないような、生々しくも温かい人間模様。
俺は丁寧に、時に脚色を交えながら語った。
何てことは無い、いかにも恵まれた連中が好みそうなお涙頂戴のストーリー。
上層の誰もが対岸の火事を眺め、その惨状に心を痛ませながら、自分達は慈悲に満ち溢れた存在なのだと思いたいのだ。
彼等を救おうと煌びやかな宴を主催する。豪華な食事に舌鼓を打ち、支援の数を競い、己が勢力を周囲に誇示する。
貴族とは例外なくそういう生き物だ。
そして、この目の前の女も例外ではない。
セリアは目を輝かせながら俺の話を聞いていた。
そして、話が一段落すると、決意に満ちた表情で言った。
「カイン、あなたを信用していいかしら?」
「もちろんです、お嬢様」俺は誠実そうに答えた。
「私を下層街に案内してくれない?」セリアは真剣な眼差しで言った。
「もちろん、報酬はきちんと払うわ」
きっと、この女は自分が下層の救世主でもなったつもりなのだろう。
自分が安全に慈悲を施せる場所を探したい。
そんな愚かな考えが透けて見える。
ここまで思った通りに動いてくれるとは……。
これこそが俺の狙いだった。
俺は内心で勝利の笑みを浮かべながら、表情を引き締めた。
「光栄です、お嬢様」俺は丁寧に答えた。
「ですが、お嬢様の身元がばれては大変です。変装が必要でしょう……。私めにお任せいただければ、万全の準備をさせていただきますが?」
人は誰しも面倒なことは他人に任せたくなるもの。
しかも、普段から尽くされる立場であり、自分が害されるなどと思いもしない高位貴族のご令嬢なら尚更だ。
セリアは少し考え込んだ後、頷いた。
「そうね。あなたに任せるわ――」
* * *
俺はセリアと別れ、下層街に戻った。
今日の出来事を振り返りながら、俺は満足げに笑った。
セリアという駒を得たことで、上流社会への扉が開かれた。
彼女の愚かな好奇心と、上層街の者特有の傲慢さを利用すれば、きっと面白いことになるだろう。
そして、彼女を通じて得られる情報は、必ず俺の力になる。
「三日後か……」俺は呟いた。
三日後の夜、俺は再びセリアと会う。
上層への最初の足掛かりは、ローレン家だ。
俺は脱皮する。
帝国を裏から支配する龍となるのだ。
下層の情報屋という蛇の皮はもう必要ない。
俺の野望は、今まさに動き出そうとしていた。
今日は重要な日だった。
上層街に潜入するチャンスを掴むかもしれない。
俺は慎重に身支度を整えた。
下層街の泥臭さを消し去り、上層街の住人に近づけるよう努める。
俺は幸運なことに見た目が良いらしい。
お陰で異性であれば、初対面でも相手の壁を取り除くのはたやすかった。
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あとは相手の欲しがる言葉を投げるだけで、面白いほど好意を示してくれるようになる。
それほどまでに人間は、相手の美醜によって行動を左右される生き物なのだ。
それがたとえ意識したことであっても、無意識だったとしても……。
鏡に映る自分の姿を確認し、満足げに頷いた。
「よし、行くか――」
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そこは、両方の世界の人間が交錯する稀有な場所だ。
そして、俺の目的の人物もそこにいる。
テルミヌス市場は朝から活気に満ちていた。
露店が立ち並び、色とりどりの商品が並べられている。
上層街の住人たちが珍しそうに品定めをする傍らで、下層街の住人たちが必死に商売をしている。
俺はその喧騒の中を歩きながら、目的の人物を探した。
――見つけた。
彼女の名はセリア。
上層を支配する三大貴族家が一角、ローレン家のご令嬢だ。
本当なら下層になど足を運ぶことなく一生を終える身分。
だが、彼女には秘密があった。
下層街に興味を持ち、時折こうして市場に姿を現すのだ。
この世間知らずのご令嬢には、自分の行いがどれほど愚かで無意味だということが理解できないのだろう。
俺はセリアに近づき、さりげなく声をかけた。
「お嬢様、何かお探しでしょうか?」
セリアは驚いた様子で俺を見た。
「え?ああ、いえ……別に」
「そうですか」俺は恭しく微笑んだ。
セリアが恥ずかしそうに目を逸らした。
心なしか頬も赤く染まっている。
俺は内心でよしよしと頷いた。
どうやらこのご令嬢にも、俺の外見は通用するらしい。
「お嬢様のような方がこのような場所にいらっしゃるとは、まことに珍しいことです。何かご用件でもおありですか?」
セリアの表情が強張った。
「あなた、もしかして私のことを……」
「ご安心ください、私はただの情報屋です。お嬢様の秘密を口外などいたしません」
俺は声量を落とし、丁寧に答えた。
セリアは一瞬躊躇したが、やがて小さく頷いた。
「……あなたの名は?」
「カインと申します――もし、何かお力添えできることがございましたら、どうぞお申し付けください」と、俺は恭しく答えた。
セリアは俺をじっと見つめた。
その瞳に、好奇心と警戒心が混じっている。
「そうね……実は、少し聞きたいことがあるのだけれど……」
俺は内心で嘲笑した。
こんな子供の遊びに付き合うだけで、上流社会に潜入する扉が、今まさに開こうとしている。
この愚かにも、世間知らずのご令嬢の手によって。
「それは光栄です、お嬢様」俺は丁寧に答えた。
「どのようなことでも、私の浅知恵ながらお答えさせていただきます」
俺はセリアから目線を外し、馴染みの茶房に目を向けた。
「しかし、人目につく場所では話しづらいでしょう。よろしければ、あちらの茶房でお話しをお伺いさせていただいても?」
セリアは少し迷った様子を見せたが、すぐに決意を固めたように頷いた。
「わかったわ。行きましょう」
俺たちは人混みをかき分け、市場の片隅にある小さな茶房に入った。
ここは俺が情報の受け渡しや待ち合わせに使う馴染みの店だ。
店主は俺の息がかかった手駒であり、情報が漏れる心配はない。
席に着くと、セリアは周囲を警戒するように見回した。
「ここなら大丈夫?」
「はい、ご安心ください」俺は落ち着いた様子で答えた。
「ここの主人は口が堅く、誰かに見られる心配もございません」
セリアは少し安心した様子で、俺に向き直った。
「じゃあ、聞くわ。あなたは下層街のことをよく知っているの?」
「はい」俺は自信を持って答えた。
「下層街のことなら、誰よりも詳しいと自負しております。お嬢様のご興味に少しでもお応えできれば幸いですね」
セリアの目が輝いた。
「本当⁉ 実は、私……下層街の実情を知りたいの。上層街では、下層街のことを悪く言う人ばかり。でも、本当はどうなのかを、この目で確かめたくて……」
俺は内心で笑った。なんて馬鹿な好奇心だ。
だが、これは予想以上の展開だ。
セリアの愚かな興味を利用すれば、もっと深く上流社会に潜り込めるかもしれない……。
「お嬢様のお考えは素晴らしいですね……!」俺はさも敬意を示すように言った。
「下層街には確かに厳しい現実もあります。でも、そこには上層街にはない活気と人情もあるんです。お嬢様のような聡明な方なら、きっとその公平な目で、下層に光を照らしてくださることでしょう」
セリアは熱心に聞き入っている。
「本当に?ねぇ、もっと詳しく教えて!」
俺はゆっくりと、下層街の様子を語り始めた。
貧困と闘いながらも、互いに助け合う人々の姿。
上層街では想像もつかないような、生々しくも温かい人間模様。
俺は丁寧に、時に脚色を交えながら語った。
何てことは無い、いかにも恵まれた連中が好みそうなお涙頂戴のストーリー。
上層の誰もが対岸の火事を眺め、その惨状に心を痛ませながら、自分達は慈悲に満ち溢れた存在なのだと思いたいのだ。
彼等を救おうと煌びやかな宴を主催する。豪華な食事に舌鼓を打ち、支援の数を競い、己が勢力を周囲に誇示する。
貴族とは例外なくそういう生き物だ。
そして、この目の前の女も例外ではない。
セリアは目を輝かせながら俺の話を聞いていた。
そして、話が一段落すると、決意に満ちた表情で言った。
「カイン、あなたを信用していいかしら?」
「もちろんです、お嬢様」俺は誠実そうに答えた。
「私を下層街に案内してくれない?」セリアは真剣な眼差しで言った。
「もちろん、報酬はきちんと払うわ」
きっと、この女は自分が下層の救世主でもなったつもりなのだろう。
自分が安全に慈悲を施せる場所を探したい。
そんな愚かな考えが透けて見える。
ここまで思った通りに動いてくれるとは……。
これこそが俺の狙いだった。
俺は内心で勝利の笑みを浮かべながら、表情を引き締めた。
「光栄です、お嬢様」俺は丁寧に答えた。
「ですが、お嬢様の身元がばれては大変です。変装が必要でしょう……。私めにお任せいただければ、万全の準備をさせていただきますが?」
人は誰しも面倒なことは他人に任せたくなるもの。
しかも、普段から尽くされる立場であり、自分が害されるなどと思いもしない高位貴族のご令嬢なら尚更だ。
セリアは少し考え込んだ後、頷いた。
「そうね。あなたに任せるわ――」
* * *
俺はセリアと別れ、下層街に戻った。
今日の出来事を振り返りながら、俺は満足げに笑った。
セリアという駒を得たことで、上流社会への扉が開かれた。
彼女の愚かな好奇心と、上層街の者特有の傲慢さを利用すれば、きっと面白いことになるだろう。
そして、彼女を通じて得られる情報は、必ず俺の力になる。
「三日後か……」俺は呟いた。
三日後の夜、俺は再びセリアと会う。
上層への最初の足掛かりは、ローレン家だ。
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