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神成
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「……安田くん。どうして、ここに」
顔を見なくても、その声だけでどれだけオサムが驚いているのかが伝わってくる。それほど、普通じゃ有り得ない状況だってことは、当事者である私も、もちろんわかってた。
この場からいくら逃げ出したいと思っていても、唯一の出入り口には安田とオサムが向かい合っていて、それが叶うことはない。どうにかできないかと往生際悪く後ろを見ても、そこには当然洋式トイレとタンクがあるだけ。秘密の抜け穴なんてもの、あるはずない。
軽く現実逃避するも、もちろん最悪の状況なのは何も変わらない。そして一番最悪なのは、今の状況をつくったのは他でもない、私自身だということ。
ただ一つ、目の前に立つ安田に隠される形となって、オサムの姿がほとんど見えないことだけが、そしてオサムからも私が見えないことだけが、不幸中の幸いだった。
「そんなの、見りゃ分かるだろ」
張り詰めたこの場の空気にそぐわない、笑い混じりの安田の声に、不安で胸が締め付けられた。
「……え?」
「男と女が酒の席抜けだして、個室に籠ってやることっつったらーー」
その先を聞きたくなくて私は両耳をぎゅっと塞ぎ、うずくまる様にその場にしゃがみこんだ。ゴーゴーと血が廻り、バクンバクンと心臓が鼓動する音が耳元でうるさく響いている。
満足気に笑う安田と、軽蔑の眼差しで私を見るオサムが目に浮かび、一気に背筋が凍りついた。
どうしよう、どうすればいいの……
不安で胸の中がぐるぐる渦巻き、動悸が激しさを増す。ハッハッと小さく息をつき、酸素を取り込むことで、私はどうにか自分を保っていた。
「……なーんてな。ははっ!何想像してんだよ、オサム。顔真っ赤だぞ」
一瞬、安田が何を言ってるのか理解できなかった。
それでも笑う安田の声を聞いてるうちに、遅れて私はホッと肩を撫で下ろした。
安田なら暴露しかねないと完全に諦めていたが、どうやら人としての情は残っていたらしい。大元の原因はこの男であることを一瞬忘れ、言わないでくれたことに、心の中で感謝すらした。
「お前今、俺と神成がここでヤッてんの、想像したんだろ。これだから童貞歴長いやつは。エロビ見すぎで現実と妄想の区別がつかなくなってんじゃねーの」
「なっ!!そんなこと思うはずないよ!」
「そうやって必死に否定する所が、完全クロだろ。外行こうとしたら、神成がトイレの前でうずくまってたんだよ。だから、こうやって優しい俺が介抱してやってたってわけ」
ふいに振り返った安田に、「なあ?」と同意を求められる。
薄暗い個室に洗面所の光が差し込み逆光となり、その表情は読み取れない。安田が何を考えているのか全く分からないことに不安を覚えながらも、私はコクコクと必死に首を上下し、それを肯定した。
安田が背中を壁につけたことで私を遮るものはなくなり、見上げた安田の先には当然オサムが立っていて。
これが現実なんだという事実をまざまざと突き付けられ、死にたくなる。
「……あ、そうなんだ」
目が合ったオサムは、心配そうに眉を下げて私を見下ろしていた。いつも通り、私のよく知るオサムがそこにいた。
普段は鬱陶しくて仕方ないけれど、安田のよく回る口は、こう言う時とても役に立つらしい。
なんとかこの場を切り抜けることができたようで、私はホッと息をついた。肩の荷が降りたのかどっと疲れが押し寄せてくる。安田がついた嘘ではないが、本当に気分が悪くなってきた気がして、私はうずくまったまま頭を下げた。
「神成さん、ちょっと飲みすぎたんじゃない?家まで送ろうか?」
「……え?」
うずくまっている私に合わせるように、オサムが中腰になり私を覗き込んできた。さっきよりも近くに聞こえるオサムの声でそれが分かり、ビクッと肩が跳ねる。
さっきの痴態の残骸が私のどこかにあって、それをオサムに見つけられたらと思うと、とても生きた心地がしない。
オサムからどこかにあるかもしれないそれらを隠すように、自分自身をきつくきつく抱きしめる。
脅えながらも顔を上げれば、そこにはさっきと同じ、純粋に私の体調を心配してくれるオサムがいた。
その澄み渡った湖のようなオサムの姿は、心も身体も穢れきってしまった今の私には、ちょっと眩しすぎた。
「一人で帰るの、きついでしょ?」
「う、うん。ありがとう」
オサムの親切な申し出にお礼を言いつつも、私はその先の言葉に詰まった。
『この先は、お前が選べ』
ついさっき囁かれた安田の声が、さっきからずっと頭の中で繰り返しリフレインしている。
このままオサムの手を取ってしまえば、どうなるのか。反対に、オサムではなく安田の手を取ったらどうなるのか。
さっきまで激しくかき回されていた場所が、寂しいと物足りないと、ヒクヒクうねって催促している。胸の奥のさらに奥、お腹のさらに向こう側が、ひどく熱くてもどかしい。
自分では答えが出せず、思わず縋るように安田を見上げれば、安田は笑みを消し、感情の一切を消した面持ちで私を見下ろしていた。氷を襟から入れられたかのような、ヒヤッとしたものが背中を滑り落ちる。
今まで私が何度嫌だと言っても、強引に事を進めてきたくせに、今私が一言「嫌だ」と言えば、すぐにでもこの場からいなくなってしまうような。
無関心と呼ぶのが相応しい冷ややかな安田の眼差しに、不安、いや強い恐怖に襲われた。
「……や、安田!」
咄嗟に安田の名を呼び、その腕を両手で掴む。そして、その腕に縋りつくようにぎゅうっと力を込めた。
そんな私の行動を見る安田の眼差しは、相変わらず冷たい。ただ真っ直ぐに、私を見下ろしている。それは、この先私がどうするのかを冷静に見定めているような、生徒がちゃんと正しい選択をするかを遠くから観察する先生のような。そんな第三者的な視線だった。
未だ葛藤を繰り返す心を押さえつけるかのように、私はごくりと一回喉を鳴らし。
そして、ついに選択をする。
「……安田に、送ってもらうから。大丈夫」
「え?でも」
オサムが眉をひそめ、心配そうに首を掲げた。私はもう一度繰り返されるだろうオサムの言葉を遮る様に、言葉を重ねる。
「本当に大丈夫だから。オサムは、戻って」
建前ではなく本音だと伝えるために、はっきりと、きっぱりと。拒絶ともとれる私の言葉に、オサムは一瞬目を瞠った。傷ついたように瞳が揺れた気がしたのは、多分私の見間違いだ。そうであってほしい。
斜め上を見上げると、相変わらず安田は無表情だった。
「なんで俺が?オサムが送ってくれるっつーんだから、オサムに頼めよ」
突き放す様な安田の声に、お腹がひゅっとすくんだ。
「なあ、オサム?送ってくれんだろ?」
「うん。それはもちろん」
「だって、神成。じゃ、オサム。後はよろしー」
「安田!!」
それ以上聞きたくなくて、安田の声を無理やり遮った。そして、安田の腕に縋り付くように、額をつける。
「安田に送ってほしいの!……お願い」
絞り出した声は、自分でもわかるくらい、弱々しく震えていた。こんな男に頭を下げて、懇願するような真似までして。惨めすぎる自分に泣きたくなる。それでも私は、積み上げてきた自分という自分をかなぐり捨ててでも、今安田に私の手を離してほしくなかった。
安田に、この昂った身体を、どうにかしてほしかった。
「……」
重い沈黙が流れる。安田は今、とてもうんざりして面倒臭いという目で、私を見下ろしてるのかもしれない。安田に拒絶される恐怖が全身に走り、目の前が真っ暗になる。
……お願い、お願い!
きつく目を閉じ、祈るようにもう一度、ぎゅっとしがみついた。
「やっぱり、僕がー」
安田の沈黙をNOだと察したオサムが、耐えかねて口を開く。と同時に私に向けて手を差し出した。
しかしその手は私に辿り着く前に、パシンと軽快な音を立てて弾かれた。
他でもない、安田によって。
「触んな」
そしてその手で私の肩を抱き、安田の胸に引き寄せられる。
一瞬、何が起こったのか、理解できなかった。
だけど、安田の体温とその匂いに包まれて、これが現実であることだけは理解できた。胸が締め付けられて、ひどく痛む。
でもその痛みこそが喜びだということを、この時の私はまだ知らなかった。
「しょうがねえから送ってやるか。ほら、立てよ」
やや乱暴にグイっと身体を引きあげられ、思わずよろめく。足が痺れて、上手く力が入らない。安田はそれをわかっているのか、私の腰をしっかり抱いて安田に密着させた。
「じゃーな、オサム」
安田の胸に顔を伏せたまま、連れられるようにその場を離れる。
とても、オサムの顔をみることなんてできなかった。
顔を見なくても、その声だけでどれだけオサムが驚いているのかが伝わってくる。それほど、普通じゃ有り得ない状況だってことは、当事者である私も、もちろんわかってた。
この場からいくら逃げ出したいと思っていても、唯一の出入り口には安田とオサムが向かい合っていて、それが叶うことはない。どうにかできないかと往生際悪く後ろを見ても、そこには当然洋式トイレとタンクがあるだけ。秘密の抜け穴なんてもの、あるはずない。
軽く現実逃避するも、もちろん最悪の状況なのは何も変わらない。そして一番最悪なのは、今の状況をつくったのは他でもない、私自身だということ。
ただ一つ、目の前に立つ安田に隠される形となって、オサムの姿がほとんど見えないことだけが、そしてオサムからも私が見えないことだけが、不幸中の幸いだった。
「そんなの、見りゃ分かるだろ」
張り詰めたこの場の空気にそぐわない、笑い混じりの安田の声に、不安で胸が締め付けられた。
「……え?」
「男と女が酒の席抜けだして、個室に籠ってやることっつったらーー」
その先を聞きたくなくて私は両耳をぎゅっと塞ぎ、うずくまる様にその場にしゃがみこんだ。ゴーゴーと血が廻り、バクンバクンと心臓が鼓動する音が耳元でうるさく響いている。
満足気に笑う安田と、軽蔑の眼差しで私を見るオサムが目に浮かび、一気に背筋が凍りついた。
どうしよう、どうすればいいの……
不安で胸の中がぐるぐる渦巻き、動悸が激しさを増す。ハッハッと小さく息をつき、酸素を取り込むことで、私はどうにか自分を保っていた。
「……なーんてな。ははっ!何想像してんだよ、オサム。顔真っ赤だぞ」
一瞬、安田が何を言ってるのか理解できなかった。
それでも笑う安田の声を聞いてるうちに、遅れて私はホッと肩を撫で下ろした。
安田なら暴露しかねないと完全に諦めていたが、どうやら人としての情は残っていたらしい。大元の原因はこの男であることを一瞬忘れ、言わないでくれたことに、心の中で感謝すらした。
「お前今、俺と神成がここでヤッてんの、想像したんだろ。これだから童貞歴長いやつは。エロビ見すぎで現実と妄想の区別がつかなくなってんじゃねーの」
「なっ!!そんなこと思うはずないよ!」
「そうやって必死に否定する所が、完全クロだろ。外行こうとしたら、神成がトイレの前でうずくまってたんだよ。だから、こうやって優しい俺が介抱してやってたってわけ」
ふいに振り返った安田に、「なあ?」と同意を求められる。
薄暗い個室に洗面所の光が差し込み逆光となり、その表情は読み取れない。安田が何を考えているのか全く分からないことに不安を覚えながらも、私はコクコクと必死に首を上下し、それを肯定した。
安田が背中を壁につけたことで私を遮るものはなくなり、見上げた安田の先には当然オサムが立っていて。
これが現実なんだという事実をまざまざと突き付けられ、死にたくなる。
「……あ、そうなんだ」
目が合ったオサムは、心配そうに眉を下げて私を見下ろしていた。いつも通り、私のよく知るオサムがそこにいた。
普段は鬱陶しくて仕方ないけれど、安田のよく回る口は、こう言う時とても役に立つらしい。
なんとかこの場を切り抜けることができたようで、私はホッと息をついた。肩の荷が降りたのかどっと疲れが押し寄せてくる。安田がついた嘘ではないが、本当に気分が悪くなってきた気がして、私はうずくまったまま頭を下げた。
「神成さん、ちょっと飲みすぎたんじゃない?家まで送ろうか?」
「……え?」
うずくまっている私に合わせるように、オサムが中腰になり私を覗き込んできた。さっきよりも近くに聞こえるオサムの声でそれが分かり、ビクッと肩が跳ねる。
さっきの痴態の残骸が私のどこかにあって、それをオサムに見つけられたらと思うと、とても生きた心地がしない。
オサムからどこかにあるかもしれないそれらを隠すように、自分自身をきつくきつく抱きしめる。
脅えながらも顔を上げれば、そこにはさっきと同じ、純粋に私の体調を心配してくれるオサムがいた。
その澄み渡った湖のようなオサムの姿は、心も身体も穢れきってしまった今の私には、ちょっと眩しすぎた。
「一人で帰るの、きついでしょ?」
「う、うん。ありがとう」
オサムの親切な申し出にお礼を言いつつも、私はその先の言葉に詰まった。
『この先は、お前が選べ』
ついさっき囁かれた安田の声が、さっきからずっと頭の中で繰り返しリフレインしている。
このままオサムの手を取ってしまえば、どうなるのか。反対に、オサムではなく安田の手を取ったらどうなるのか。
さっきまで激しくかき回されていた場所が、寂しいと物足りないと、ヒクヒクうねって催促している。胸の奥のさらに奥、お腹のさらに向こう側が、ひどく熱くてもどかしい。
自分では答えが出せず、思わず縋るように安田を見上げれば、安田は笑みを消し、感情の一切を消した面持ちで私を見下ろしていた。氷を襟から入れられたかのような、ヒヤッとしたものが背中を滑り落ちる。
今まで私が何度嫌だと言っても、強引に事を進めてきたくせに、今私が一言「嫌だ」と言えば、すぐにでもこの場からいなくなってしまうような。
無関心と呼ぶのが相応しい冷ややかな安田の眼差しに、不安、いや強い恐怖に襲われた。
「……や、安田!」
咄嗟に安田の名を呼び、その腕を両手で掴む。そして、その腕に縋りつくようにぎゅうっと力を込めた。
そんな私の行動を見る安田の眼差しは、相変わらず冷たい。ただ真っ直ぐに、私を見下ろしている。それは、この先私がどうするのかを冷静に見定めているような、生徒がちゃんと正しい選択をするかを遠くから観察する先生のような。そんな第三者的な視線だった。
未だ葛藤を繰り返す心を押さえつけるかのように、私はごくりと一回喉を鳴らし。
そして、ついに選択をする。
「……安田に、送ってもらうから。大丈夫」
「え?でも」
オサムが眉をひそめ、心配そうに首を掲げた。私はもう一度繰り返されるだろうオサムの言葉を遮る様に、言葉を重ねる。
「本当に大丈夫だから。オサムは、戻って」
建前ではなく本音だと伝えるために、はっきりと、きっぱりと。拒絶ともとれる私の言葉に、オサムは一瞬目を瞠った。傷ついたように瞳が揺れた気がしたのは、多分私の見間違いだ。そうであってほしい。
斜め上を見上げると、相変わらず安田は無表情だった。
「なんで俺が?オサムが送ってくれるっつーんだから、オサムに頼めよ」
突き放す様な安田の声に、お腹がひゅっとすくんだ。
「なあ、オサム?送ってくれんだろ?」
「うん。それはもちろん」
「だって、神成。じゃ、オサム。後はよろしー」
「安田!!」
それ以上聞きたくなくて、安田の声を無理やり遮った。そして、安田の腕に縋り付くように、額をつける。
「安田に送ってほしいの!……お願い」
絞り出した声は、自分でもわかるくらい、弱々しく震えていた。こんな男に頭を下げて、懇願するような真似までして。惨めすぎる自分に泣きたくなる。それでも私は、積み上げてきた自分という自分をかなぐり捨ててでも、今安田に私の手を離してほしくなかった。
安田に、この昂った身体を、どうにかしてほしかった。
「……」
重い沈黙が流れる。安田は今、とてもうんざりして面倒臭いという目で、私を見下ろしてるのかもしれない。安田に拒絶される恐怖が全身に走り、目の前が真っ暗になる。
……お願い、お願い!
きつく目を閉じ、祈るようにもう一度、ぎゅっとしがみついた。
「やっぱり、僕がー」
安田の沈黙をNOだと察したオサムが、耐えかねて口を開く。と同時に私に向けて手を差し出した。
しかしその手は私に辿り着く前に、パシンと軽快な音を立てて弾かれた。
他でもない、安田によって。
「触んな」
そしてその手で私の肩を抱き、安田の胸に引き寄せられる。
一瞬、何が起こったのか、理解できなかった。
だけど、安田の体温とその匂いに包まれて、これが現実であることだけは理解できた。胸が締め付けられて、ひどく痛む。
でもその痛みこそが喜びだということを、この時の私はまだ知らなかった。
「しょうがねえから送ってやるか。ほら、立てよ」
やや乱暴にグイっと身体を引きあげられ、思わずよろめく。足が痺れて、上手く力が入らない。安田はそれをわかっているのか、私の腰をしっかり抱いて安田に密着させた。
「じゃーな、オサム」
安田の胸に顔を伏せたまま、連れられるようにその場を離れる。
とても、オサムの顔をみることなんてできなかった。
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