割烹着のスパイ 〜おつりは、世界の命運〜

桜井 うどん

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老眼に霞むそれは極小の釣り銭

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 白山トシ子88歳にとって、それはありふれた日常の一コマであるはずだった。

 11月初旬、穏やかな月曜日の午後三時。
 町内のグランドゴルフチームの活動もない今日は、溌剌たる後期高齢者を自称するトシ子にとっては、商店街を徘徊……ではなく散策する日課をこなしていた。

 だいたい月曜日というのは老人だって忙しい。
 日曜日に孫を接待した疲れでへたっていたりだとか、そろそろ切れてきた気がする湿布をもらいに整形外科に並んだりだとか、人が多すぎて出られなかった買出しに行くためにゆっくりとカートを押したりだとか、そんな用事に忙殺されている。
 毎日が日曜日でいいなぁ、ではないのだ。残り少ない余生の中でいかにたくさんの美しい思い出を残すかということに、老人たちは文字通り命をかけている。

 トシ子としても例外ではない。
 あれだ。それだ。あれよ。
 それとは、コンビニのスイーツだ。
 美しい思い出とはコンビニスイーツの新製品である。
 コンビニスイーツというのは素晴らしいものだ。新製品となればもう極上である。
 なぜならば、考えてみてほしい。
 今日発売された新製品。
 トシ子88歳。
 今後同じものが食べられると思いますか?
 答えは限りなく否に近い。
 もしかしたら好評で復刻されることがあるかもしれない。それは確かにそうだ。
 だがしかし、生きている可能性を考えてみてほしい。確かにトシ子88歳、溌剌たる後期高齢者だ。元気である。だが元気だからと言って明日元気である保証はどこにもない。今日とも知れず明日とも知れず、我や先人や先というやつだ。
 となれば致し方あるまい。
 トシ子が商店街散策の最後に、必ずお気に入りのコンビニ『コロモストア』に立ち寄ることはもはや自然の摂理なのだ。
 
 ティリラリルラ、タリルリラ♪
 ほら、入店チャイムもいつものようにトシ子を歓迎している。自動で鳴るなんて野暮なことは言わないでほしい。自然の摂理なのだ。
 その証拠に割烹着を着たトシ子は実に幸せに満ちた顔をしているではないか。
 デザートコーナーを見つめる瞳は14歳の乙女のそれではないか。瞳から星が溢れ落ちそうではないか。星のこぼれ落ちた先には皺の山脈がそびえ立ってはいるけれど。

 2分ほどの時間をかけてトシ子はデザートたちをじっくりと検分し、不意に興味をなくしたように店内を浮遊し始めた。
 時々ぴたっと止まって俯いたりと、その真剣さは実に不気味である。
 そしてさらに3分が経過し、天啓を受けたように動きを止めると、あとは迷いなく割烹着を翻してデザートコーナーに突進し、ひしと目当てのものを掴んでレジへと向かった。

『完熟イチゴの生カステラ』

トシ子、さすが歴戦の勇者である。
なかなか良い趣味をしている。

店員はトシ子のチョイスを興味がなさそうに一瞥してレジを通す。
名は佐藤という。
名前の通り、特に特殊な雰囲気のないごく一般的な気力のない若者である。
いくらでもバイト先がありそうなのに家が近いからという理由だけでコンビニバイトを選んだような雰囲気しかない、生命力の薄い青年である。

『382円』

レジのディスプレイに表示されたお値段。
食後のデザートにはやや良いお値段であるが、トシ子は顔色ひとつ変えずに500円玉をセミセルフレジの投入口に入れた。

かくして28円が排出された。
そうだ。
10円玉が2枚と5円玉が1枚と1円玉が3枚である。通常であれば。
そしてさすがにトシ子も疑いもしなかった。
そしてアルバイト佐藤も気がつくはずもなかった。
いやそもそも金額は合っていたのだ。ちゃんと28円であった。
ただ、トシ子は気がついていなかったのだ。
お釣りとともに、小さな小さな黒いチップが排出されていたことを。
気付くはずもなかったのだ。

なんでって?
簡単なことだ。

老眼なんだから。
88歳なんだから。
 
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