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触れるだけの口づけ…。
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ある所に、"織り姫"と言う大変働き者の娘がおりました。"織り姫"は、毎日毎日休まずにはた織りの仕ことをしているとても感心な娘でした。
ある時、そんな働き者の娘、織り姫の元へ父親である神様は、牛飼いの"彦星"を連れてきました。二人は恋をし、来る日も来る日も一緒にいました。それこそ"織り姫"ははた織りを、"彦星"は牛飼いを忘れるくらいに…。
神様は仕ことを忘れた二人に腹を立て、天の川を隔てた先に離してしまいました。
けれど二人は離ればなれになった悲しさに耐えるように、また必死に仕ことました。そんな二人を神様は許し、毎年七月七日の晴れた日に二人が逢えるようにしてくれました。
二人は年に一度、七夕時に逢うために必死に仕ことをしました、とさ…。
めでたしめでたし。
七月七日と同じ日に生まれた兄弟は、兄の名を
"彦星"から一文字取って、"俊彦"。弟は"織り姫"から一文字取って、"奈織"と名付けられた。
八歳も年の違う兄弟の所為か、俊彦は両親よりも奈織の世話を色々とみてくれた。男らしく優しい兄を、奈織はこの世で一番大好きになっていった。
"織り姫と彦星の話"は、子供の頃よく俊彦が奈織にしてくれた話だった。
奈織が一人で寝付けない夜。
いつも仕ことでいつもいないお父さんや婦人会で出掛けることの多いお母さんの変わりに、俊彦が寝物語に七夕の神話を話してくれた。それから、話終わると、いつも優しく頭を撫でながら訊ねる。
『奈織もいつか"織り姫"のように、すべてを捨ててもいいくらいに好きになる人が、できるのだろうか?』
奈織はそう問いかけられると、『相手がお兄さんみたいな人だといいな…』、といつも真剣に思っていた。
その気持ちが俊彦にも伝わるのか、微笑んで優しく額や頬に口付けをしてくれた。
奈織の夢は、兄のお嫁さんだった。
"織り姫"にはなれないと気付くまでずっと…。
* * *
「いってきます…」
誰に声をかけるわけでは無い声でそう呟くと、市川奈(な)織(お)は音を立てないように静かにドアを閉めた。玄関を出ると、二メートル程の門までの距離を、人の歩幅に合わせて埋められている石を、とんとんとんと、慎重に進む。
この家に住んで幼い頃から数え切れないくらい通っているたった二メートルの距離。けれど、器用ではない奈織は、この石で作られた道が苦手だった。
小さな頃、数え切れないほど、誰も歩きづらいと思えない間隔に埋められているはずの石の道でつまずいて転んだり、数センチほどの高さから落ちて、怪我をしたりしていた。両親は、そんな不器用な奈織を見て、"どんくさい"とよく呆れながら笑らわれていた。けれども俊彦は、ほんの二メートルの距離を難儀して膝を打って泣いている弟を心配してくれた。そして、脅えて歩きたがらない奈織の手を引いて、『大丈夫だよ』と微笑んでくれる。そんな俊彦を思い出し、笑みをこぼしながら、小さく呟くようにもう一度「いってきます」と言って、軋む門を開閉した。
似たような家が建ち並ぶ新興住宅地。この界隈は、奈織が住んでいる所もそうだったけれど、ほとんどの家が小降りながら庭付き、二階や三階建てで、比較的新しめ、と言ってもここ十年くらいで建築された一軒家が並んでいる。築十数年になる奈織の家は、その中では少し古い方に入っていた。
生まれて間もない頃に引っ越してきたこの家。
奈織は近所の家のベランダに飾られた、七夕の笹飾りを塀越しに見つめると、知らず知らずに溜息を付いていた。
子供の頃のできるごとを夢で見たからなのか…、それとも今日が奈織にとって特別な日だからだろうか…。とても幸せなはずなのに、何故か寂しかった。
目覚めた瞬間、奈織は涙を流していた。その所為だろうか情緒不安定になっている、そんな気がした。
"七月七日…"。
そう呟いた瞬間、ポンと肩を叩かれ、慌てて奈織は振り向いた。
「何、焦ってるんだい? 奈織、途中まで一緒に行こう」
「あっ、お、お兄さん…」
いきなり目に飛び込んできた俊彦の姿に、奈織は少しだけ頬を赤らめながら頷いた
奈織の初恋は、兄である、俊彦だった。もちろんまだ恋愛だとか、男女の差などを理解する前の幼い頃ではあったけれど、それでも真剣にいつか俊彦のお嫁さんになりたいと信じていた。
忘れていたことを思い出し、奈織は切なくなるのを必死に押さえ笑みを浮かべる。
「これから、出勤?」
「ああ、今日は忙しいから、少し早めにこと務所へ行くんだ」
「大変だね…」
「まあな。でも好きで始めた仕ことだからな、文句は言えないよ。今日は来客もあるから、一日ずっと忙しいだろうな…」
苦笑しながらも凛々しさを感じさせるそんな俊彦の笑顔だった。
今日の俊彦の姿は、いつものラフな服装ではなく、ソフトではあるがスーツを着ている俊彦に奈織は、少しだけ頬を紅潮させ微笑む。
商社に勤めていていつも朝早く夜遅い父と、会社の婦人会などの奥様方のつきあいで忙しい母に変わって、俊彦はずっと奈織の世話や色々なことを気にかけてくれていた。
自分が男の子で、お嫁さんになれないと気付いた後でも、俊彦はずっと奈織のあこがれの存在だった。
いつ見ても格好いいと思わせる俊彦は、痩せていて、高校二年になっても身長が165cmの奈織と比べると、同じ両親から生まれた兄弟なの嘘ではないかと思える程だった。
奈織よりも十センチ以上高い身長と、整った体型。髪も柔らかすぎて染めてもいないのに色の薄い奈織の髪とは対照的で、真っ黒のストレート。その髪をショートにした髪型が凛々しさを感じさせた。
俊彦と比べられれば奈織の容姿は欠点だらけのものだった。低い身長もやせこけた体型も、幼く見える大きなドングリ型の目も、茶色っぽい腰のない髪も…。
広告デザイナーの所為もあって、いつもはポロシャツやソフトなワイシャツにチノパンと比較的ラフな姿をしているが、今日みたいにソフトではあるがスーツを着ていると、雰囲気は変わる。しかし、それでも似合っていて俊彦のためにデザインされているのかとすら思えるほどに…。
容姿だけではなく性格もそうだった。
気が弱く、いつも俊彦の後をついてまわっていた奈織とは、まったく正反対の性格で、子供の頃から美術が得意だった俊彦は、中、高の美術部を経て、美大に入った。そして中学から一緒だった友人の"中村 基"と共にデザイン会社を作り、小さいながらも広告のデザインを中心に広告全般の仕ことをしていた。
俊彦のやっている会社は、大きな会社のデザインと違って、それほど雑誌やテレビでは話題には上らない。それでもどこか大きな会社の下請けもしているらしく、奈織が通学で使う電車や駅で俊彦が作った物をしばしば見かけていた。
俊彦の作品を見かけたり、張られている場所を教えて貰うと、とても嬉しかった。
「で、今日は、奈織はどうするんだ?」
「え?」
俊彦に見とれていた奈織は、問いの意味が飲み込めずに、戸惑いながら首を小さく横に傾げた。何を質問されているのか判らず不安そうな表情をしている奈織に、俊彦は愛しいものを見る優しい表情を向ける。
「ほら、今日は奈織と俺の誕生日だろ? 何か予定はあるの?」
「あっ…」
そうだった…。
七月七日の今日は俊彦と、そして、奈織自身の誕生日だった。
いつも忙しく家にいることがない両親に変わって、よく俊彦と一緒に祝う誕生日だった。晴れの日にしか逢えない"織り姫と彦星"には申し訳なかったけれど、曇っていようが雨だろうが祝う二人の誕生日が大好きだった。
しかしデザインのこと務所を作ってからの俊彦は忙しくて、子供の頃のように一緒にはなかなか祝えず、わがままを言ってはいけないと思いつつ、少しだけ寂しかった。そして、ちょっとだけ誕生日が嫌いになっていた。
奈織はどうせ両親の帰りも、俊彦の帰りも遅いのなら一人で祝わなくてもいい、そんな投げやりな気分で呟く。
「あ…、そうだよね…。今日は七夕だもんね…」
無関心な奈織の態度を見て、誕生日を喜んでいた印象があった所為か、俊彦は眉音を寄せる。
自分の言葉に眉をひそめた俊彦に、"お兄さんは仕ことで大変なんだ。わがまま言っちゃいけない"と、自分に反省すると奈織は慌てていつもの笑顔を作る。
「あ、ごめんなさい…。えーと…、今日は六時間授業だけど…、その後、お友だちと逢う約束があるから…、でも多分七時までには帰れると思う…」
「そうか…、祝ってくれるお友だちがいるんだね。よかったね」
俊彦の優しい言葉が嬉しかった。けれど、何とも言えない気恥ずかしさに、奈織は思わず口を引き結んでしまった。頬を赤く染め困っている奈織の頭を、俊彦は子供を誉めるように軽く撫でる。
「あの…、お兄さんは…、やっぱりお仕こと?」
「え、ああ、ごめんな、せっかく二人の誕生日なんだけどね。今日絶対に入稿しなければいけないチラシとポスターがあるから…。帰りはクライアントの返答しだいなんだけど、きっと遅いと思うよ…」
「そうか…」
両親が家にいないのが当たり前の奈織にとって俊彦の存在は絶対だった。
溢れ出す寂しいと思える気持ちを必死に押さえて、俊彦に悟られないように奈織は、普段している表情をするように必死に心掛ける。
「奈織一人でお留守番できるかい?」
不安そうに表情を曇らせる奈織の頭に手を置きながら、俊彦は首を横に傾げた。
いつまで経っても子供扱いする俊彦に、奈織は子供のように口を尖らせる。
「や、やだな…。僕だってもう高校二年だよ!」
「そうだな…。悪かった、悪かった」
いくつになっても可愛らしい奈織の態度に、俊彦は微笑みながら勘弁してくれ、とジェスチャーするように両手を上げる。
「でも、帰る時間が判らないから、奈織は先にご飯を食べてしまうんだよ。今日も母さんは婦人会の用ことで出掛けるって言っていたから」
「うん、判った。でも、お兄さんもお仕こと、大変そうなんだね…」
「有り難う、奈織は優しい、いい子だね。でも、好きでやってる仕ことだからね、大変とは思っていないよ」
優しく微笑みながらも、自信ありげにそう言いきった俊彦の姿がとても格好よかった。自慢の兄に嬉しくなった奈織は、毎日逢えないわけではないのに、寂しいと思ってしまった自分に反省した。そして、できるだけ俊彦を励ますように笑顔を作る。
「そうなんだ…、でも、無理しないでね」
「大丈夫だよ。奈織がそうやっていつも心配しているから、無理はしないから」
俊彦の優しい言葉に、奈織はにっこりと微笑んだ。
「そうだ。お兄さんに誕生日プレゼント用意してあるんだよ。おこずかいを貯めてだから、そんなに良い物じゃないけれど…」
「奈織は学生なんだから、そんな気を使わなくていいだよ」
「でも、高等部に上がってバイトしているお友だちも何人もいるけど…」
寂しそうな表情をする奈織の頭を、俊彦はあやすようにそっと撫でる。
「そんなこと、奈織はしなくていいんだよ。それに奈織の学校はバイト禁止だろう?」
「う、うん…」
いつも自分を気づかっていてくれる俊彦に何かしたかった。けれど高校に上がったばかりでは、まして不器用で、バイトをする勇気もない奈織では何もできない。自分のこと実と思いの矛盾を噛み締めながら奈織は表情を曇らせた。
「でも、有り難う嬉しいよ、そう言ってくれるだけで…。俺も奈織に誕生日のプレゼント用意してあるんだ」
「え、本当?」
「楽しみにしていてくれよ。でも兄弟で同じ日が、家の親は、手抜きだよな…」
俊彦のふざけたもの言いに奈織は嬉しそうに微笑みながら呟く。
「でも…、七夕生まれって…、僕は、好きだな…」
「そうか?」
恥ずかしそうに呟く奈織を見て、眩しそうに目を細め、俊彦は頷いた。俊彦の視線に奈織は自分で口にしたことに照れながら、少しだけ照れを隠すように口を尖らせる。
「でも、"奈織"って名前は、好きじゃない…」
「そうなのか?」
「お兄さんの名前は、"彦星"から、"俊彦"ってすごく素敵だけど、やっぱり"奈織"って名前は…男なのに…、"織り姫"からとったって、いやだな…」
「そうなのかい?」
「お兄さんみたいに格好いい名前だったら…、僕も格好よくなれたかもしれないのに…」
「そんなことないよ。奈織に似合っていてとても素敵だよ。それに奈織はとても可愛いよ」
「可愛い?」
「そうだよ。奈織のぱっちりした目の形も、さらさらの茶色髪も、それに抱きやすい身体も…」
俊彦は満足げに笑顔で頷きながら、自分の腕の中にすっぽりと入る奈織を抱きしめた。
「それに、俺は好きだな…、"奈織"って名前…。もちろん奈織自身はもっと大好きだよ」
"好きだな"と言うと言葉と温もりが嬉しくもあり、それでも道ばたで抱きしめられ恥ずかしくもあり。奈織は頬を赤らめて俊彦の腕から逃れた。
俊彦は真っ赤になっている奈織を愛しげに目を細めて見つめ、そして自分の方へ引っ張り寄せると頬に優しく口付けた。
「お兄さん…」
俊彦の肉厚の薄く暖かい唇が大好きだった奈織は、耳まで真っ赤になりながら笑みを浮かべた。
「さ、のろのろと歩いていると、学校に遅刻するぞ」
優しく頭を撫でられ、嬉しそうに頷くと、奈織は少しだけ足を早めた。そして少し俊彦から離れた所で立ち止まり俊彦に手を振る。
「お兄さんも、いってらっしゃい」
笑顔で幸せそうに学校に向かう奈織を俊彦は微笑みながら軽く手を振り見送っていた。
* * *
そびえ建つビル群を囲むように、どこまでも晴れ渡った空の先には、入道雲が微かに見えている。まだ梅雨明け宣言はしていなかったけれど、七月に入って雨は一向に降っていなかった。今晩はきっと"彦星"と"織り姫"は、再会ができるだろう。
決して無理をさせないが塾に通わせないでも大学部や、有名一流大学に進ませる、そんな授業を六時間まで受けやっと放課後の時間を迎える。
奈織の学校は私立の幼稚園から大学まで一環教育をしている学校だった。小学校の時におっとりして周りのペースになかなかなじめない奈織は、俊彦に薦められてこの学校に入学した。様々なクラブや、校外活動でも名を馳せている学校は、のびのびと生徒の個性を大切にする校風になっていた。そのおかげで、別にクラブや校外活動をしているわけではなかったが、劣等感を与えず学業生活を送っていた。
硝子の先は、陽炎が揺らぎ真夏の温度を予想できる、そんな風景。
外の気温が予想できないくらいきつく冷房がかかった学校から少し離れたショッピングデパートの四階で、微かに見える空を見つめながら、奈織は小さく息を吐いた。
「ねえ~、これ、どう思う?」
奈織を呼びつけるように聞こえる、そんな言葉。
少し離れた所でアクセサリーを眺めていた田畑美樹が、少し長めにきれいに整えられ、ラメの入ったピンクのネイルが施された指先を振って、手招きをしている。
店にいる客の女子高生たちから浴びされるすごくいやな視線と、ざわめきに奈織は逃げ出したくなった。
しかし、美樹は呼んでもなかなか店から少し離れていた場所を動こうとしない奈織を見ると、咎めるようにきらきらのグロスを塗ったピンクの唇を尖らせている。
奈織は客も店員も女性ばかりで、自分とは関係のない商品が並んでいる店に、恥ずかしさを感じながらもゆっくりと美樹の元へ行った。
店に入ると、益々ざわめきや下卑た視線を受け、何か言われている気がする。多分自意識過剰ではないと感じられるのは、美樹の元へ行く途中見ず知らずの女の子に"よかったらお茶でも"それでなければ"今度つきあえ"だの"携帯のNo."だのと誘われることが多かった。
そうなると美樹はとても不機嫌な表情をして奈織を呼びつける。
小さく溜息を付きながら近寄ると美樹は、真っ直ぐにのばした黒髪ロングヘアを頭の高い部分で二つに結んでいる部分に鏡を見ながらヘアアクセサリーを添えている所だった。
中、高の女子高生ばかりの中に入ると、美樹は多分、美人の部類に入ると思う。美樹は、奈織よりも少しだけ低いくらいの身長だった。
"山手の女子校"と地元でも有名な女子校の建ち並ぶ中でも、本などでもいつも取り上げる有名デザイナーのデザインした制服が似合っていた。深緑地に白と黒の大きめのチェックのスカートに、丸襟にちょうちん袖の半袖ブラウス。胸には赤リボンが華やかにあしらわれていた。
高校を選択した理由が制服だと言っている美樹は、自分にどんなものが似合っているのかをよく知っているらしい。人から見られて、可愛いと言われることが嬉しいらしく、常に容姿を誉められるように考えて歩いているそんな堂々とした姿が、奈織にはとても羨ましかった。
「ねぇ、どう思う?」
まるでグラビアモデルのようにポーズしている美樹に、奈織は戸惑いながらそちらに近づく。するとビーズで作られたイチゴのヘアアクセサリーを自分の髪の毛を結いている部分に添えて、美樹は首を傾げていた。
嬉しそうに笑顔を見せる美樹に、何と言っていいのか戸惑いながらも奈織は微笑みを返す。
「と、とっても似合うと…、思うよ」
嘘ではなく、幸せそうにヘアアクセサリーを見ている姿は、とても可愛いと真剣に思い、奈織は頷いた。しかし、そんな姿が美樹にはどこか興味なさそうに見えるのか、奈織の態度を疑うようなそんな視線を向けて唇を少しだけ不満げに尖らせる。
「本当に? ねえ、真剣に見てる?」
「田畑さんは…、その…、可愛いから、そう言うおしゃれなのがとても似合うと思うよ」
"そう?"と見つめる美樹に、頷きながら奈織は微笑んだ。
不安そうな視線を送ったり、唇を尖らせたりころころ自分の感情で変わる美樹の表情。自分の思っていることを表情に出せない奈織にとって、美樹はすごく羨ましい存在だった。
「有り難う。でも、奈織の誕生日プレゼント探しに来てるのに、私につき合わせちゃってごめんね~。でも、奈織が悪いのよ、全然欲しいもの言わないから…」
拗ねた風に上目づかいに見つめる美樹に、そっと微笑んで奈織は小さく頭を横に数度振る。
「別に構わないよ。田畑さんがそれでいいなら…」
奈織の言葉に合点がいかない顔を一瞬だけしたが、すぐに猫がじゃれつくような瞳をして、美樹はにっこりと笑いながら首を傾げる。
「本当? ねぇ、じゃあさ、これ、奈織の誕生日の記念に買ってくれる?」
「え? いいよ、そんなに高い物でなければ…」
買い物につき合うようになってから、時々こうやってねだってくる美樹に最初は驚いた。けれど、クラスの友人の話を聞くと大体皆そうなのだと言っていた。それにこうやって慕ってくれるのは別にいやではなかった奈織は、笑顔で鞄から財布を取り出した。
田端美樹との出逢いは、今年四月に奈織が中等部から高等部へと移り、それから少しだけ環境に落ち着いた五月、校門のところにいた声をかけられたのがきっかけだった。
高等部に上がって通学の時に驚いたことは、校門の少し離れた所で奈織の学校の生徒を待っている近くの女子校生の姿だった。有名お嬢様学校を数校含んだ山手の女子校と言われる港を見下ろせる丘は時々テレビの取材が来るほど有名だった。
その近くにある奈織の学校は、"紳士たれ"と言う校訓で明治から続く由緒正しいキリスト教の男子校だった。制服も冬はワイシャツに黒のジャケット、グレーのタイとズボン。夏になった今は、ジャケット無しの半袖のワイシャツに、グレータイにグレーのズボンと英国紳士を思わせるそんな制服だった。
その上品な制服の男子校は、昔から周りの生徒の目を引いていたらしく、校門近くで常に女性がいるらしかった。
そんな話題の高等部と少し離れた所にあった中等部の学舎にも、手紙を携えた女子はいたらしい。けれど疎い奈織は中等部に通っていた三年間気付かなかった。
高等部の校舎は、少し離れた駅へ行く道が一本道になっている所為もあって、さすがに疎い奈織でも気が付かないわけはないくらいに、学校の生徒を待つ女子高生を見かけた。そして奈織自身も何度も声をかけられ、手紙を渡された。
中学に入ってから母親以外の女性を知らなかった奈織は、そんな積極的な女性たちに戸惑うだけだった。けれど五月を過ぎる頃には、友人たちはそんな女子高生がいる風景に慣れ、親しくつき合っているものも少なくはなかった。
そんなある日だった、数人の女生徒のリーダー的な雰囲気だった美樹に声をかけられたのは、『良かったら皆でお茶しない?』と…。
その日、奈織が一緒にいつも帰っている友人と、双方の友人混ぜて六人で放課後を過ごした。それから美樹から何度も買い物や喫茶に誘われて、それほど時間をおかずに『つき合って欲しい』と言われた。押しが強い美樹に流されるようにつき合いが始まった。
美樹は明るく皆から人気があるし、話しを聞いていて楽しい。けれど時々こんな風なつきあいで美樹は本当にいいのかな…、と不安になる時がある。多分それは美樹以前に奈織にはつきあう相手として、どうしていいのか判らないからだと思うからだった。
* * *
買い物を終え、その後比較的安めのケーキの美味しい店に入って話を聞いたりしていると、日はまだ傾く気配を見せなくても、それなりの時間になっていく。
気が付くと、街は会社帰りのサラリーマンやOLなどでごった返していた。
美樹の学校は、今日期末試験を終え、明日からはテスト休みに入るらしく共に遊びたいと言われた。けれど、二期制を取っている奈織の学校は、夏休みまで休む間もなく授業や補修がある。それを知っている美樹は残念そうにしていたが、それでもヴァカンスを謳歌するのだとはりきっていた。
そんな時間を過ごし帰りの電車のホームに立つと、べとべとと身体に絡み付くような熱気に包まれる。
例年梅雨が明けているか、明けていないか判らない鬱陶しい季節。しかし、今年は空梅雨でまだ七月になったばかりだと言うのに、八月前半を思わせる暑さだった。
ショッピングデパートがある駅から、汗、人混み、そして暑さと不快な気分を耐えて、すし詰めの電車に乗り、美樹の家がある住宅地の人通りがそれほど多くない、私鉄の各駅停車の駅で下車した。奈織の家はここから数駅行った急行も止まる駅だが、それでも一緒に放課後の過ごすようになってから、美樹に言われた。それから少し遠回りではあったけれど、美樹を送ってから帰ることにしていた。
改札を抜けると、美樹の住んでいる街は、思ったよりも帰宅を急いでいる人が多く見えてくる。奈織は、美樹に引っ張られるように、駅前ロータリーにある植え込みに腰掛けた。
「ねえ~ 似合う?」
嬉しそうに鞄からアップライトの鏡を出し、メイクを一通りを直した後、様々な角度から自分の髪をさんざん見たかと思ったら、今度は満面の笑み少し自慢げな表情で、奈織がプレゼントしたヘアアクセサリーを髪に付けて見せてくる。
自分を飾ることなどない奈織は、美樹につき合うようになって常に化粧やアクセサリー、周りの同世代の女子を意識している姿に驚いた。
ただ通り過ぎていく見知らぬ人や、自分と似たような姿をした女子高生に腹を立てたり、気に入ったものに感動したり、笑ったりしている姿に奈織は驚き、そして少し羨ましいと思えた。
今もすぐ横で嬉しそうに微笑んでいる美樹の表情が見えると、単純に喜んでくれて良かった、と感じ自然に笑みを浮かんできていた。
笑顔で頷く奈織に、美樹はクスリと声を笑った後、表情を変えないまま、そっと目を閉じキスを求めるように唇を尖らした。
何を求めているのか一瞬奈織には判らなかった。けれど、美樹の雰囲気から何となくだった。けれど行動の意味が伝わってくる。
キス…。
奈織に取って俊彦以外とする初めての口付けだった。
どうしていいか判らずに動けないまま戸惑う奈織に、美樹は薄く目を開けて小さく微笑む。それから、自分の腕を奈織の首にからげて引き寄せた後、唇に押しつけてくる。
唇が触れるだけの口付けだったけれど、俊彦の暖かくて、薄めの優しい唇とは違い、リップグロスの脂っこさだけが印象的に残るものだった。
突然の口付けに思考が止まり、どうしていいのか判らないまま座っている奈織に、美樹はにっこりと笑うと嬉しそうに立ち上がる。
美樹が立ち上がった瞬間、感じたことは、唇が重なったと言う感覚や性的な男性の本能のような感覚ではなかった。奈織を見下ろしている美樹の身長は自分とはまったく変わらず、反対に彼女はどんどん成長して行き大人になっている。そんな羨ましさだった。
「じゃ、帰るね。これ、有り難う、嬉しかったよ」
ヘアアクセサリーにそっと手を添え美樹は、奈織に手を振ると満面の笑みで去って行く。
一人取り残された奈織は、人通りがある場所でのファーストキスに戸惑い真っ赤な顔をしながら、必死に笑顔を浮かべながら美樹を見送った。そして、美樹が見えなくなった所で、奈織は無意識に溜息を付いた。
その瞬間、奈織の背後から見知った声が聞こえてくる。
「見たぞ~」
誰かと思い驚きに振り返ると、背後で何か言いたげな笑みを浮かべて手を振っている中村基が立っていた。
基は俊彦の高校時代からの友人の所為か、奈織が気負いもせず普通に話しができる数少ない人物だった。何度となく、家に遊びや泊まりに来ていて、奈織とも俊彦と共に何度も出掛けたりしていた。
俊彦と高校で美術部で知り合い、馬が合ったらしく、同じ美大を経て、今一緒にデザイン会社をやっている。
基の作品の見せて貰ったが、俊彦はどちらかと言うとでき上がったもの全部を見て、素敵とか、きれいと言う雰囲気がある。けれどそんな俊彦とはまったく違って基は、見た瞬間、目の前で何かが弾けるようなそんな不思議な感覚のあるものを作っていた。
そう言えば、俊彦が時々愚痴るように、クライアントの思いと重なると受けが良いが、拒絶される時はぼろぼろにされている…、そんなことを聞いた覚えがあった。
俊彦とまったく違うタイプ。容姿にしても身長は二人ともあまり変わらなかったが、なんでもそつなく品よく着こなす俊彦と真逆で、やんちゃできかん気が強かった街のガキ大将がそのまま大人になったような、そんなタイプだった。
今も体型がまったく判らないたっぷりした紺ジーンズに、ガーゼ地の和風プリントがされているシャツを着て、ナイキの赤のストライプが入ったビンテージスニーカー。髪型はショートで前髪だけ逆立てて、真っ赤な細い眼鏡をかけていた。すべてのコーディネートがおしゃれなのか、まったくそうでないのか人によって疑問を感じさせるように見えた。
基に美樹とのキスをしている所を見られ、奈織は恥ずかしさで顔がどんどん熱くなるのを感じた
「いいね~、性少年。青春って感じ?」
いやらしくて大げさな笑みと、それをジョーダンで笑い飛ばせるような態度の基に、眉音を寄せながら奈織はぼそりと反撃する。
「中村さん…、おやじくさい…」
「ひっどーい、ボクは、君のお兄さんより数ヵ月も若いんだよ! 奈織にそう言われると、俺傷ついちゃうな…」
益々大げさな身振りでそう拗ねると、基は更に派手な格好で泣いたふりをする。美樹とのことをどうこう言うつもりではないのは判る。基の配慮がはっきりと感じるおどけた態度に、奈織は吹き出しそうになるのを抑えた。その変わりにぼそりと、"でも、お兄さんはそんな言い方しない…"と呟いてみる。
自分のふざけた話に乗ってきた奈織の言葉に基はにっこりと笑った後、子供をあやすように頭を撫でる。
「そうだっけ? まあ、奈織の前ではそうだね」
自分の知らない俊彦の姿を知っている、そんな口調の基に奈織は少しだけ苛立ちを覚えた。
人の感情を理解することに鈍い奈織でも判る、基の含みのある口調。何年も親しい友人関係を続けている基と俊彦の間は、きっと奈織では判らないものもあるんだろうと自分を納得させる。しかし、本音は奈織では判らない俊彦の部分が寂しく、そんな基が羨ましかった。
奈織の俊彦へのコンプレックスは把握済みなのか、少しだけ真面目な表情でそっぽを向き、"まあ、俊ちゃんのことはどうでもいいけどさ…"呟く。それからまた奈織の正面に向き直り、再びいやらしさを感じる笑顔に戻す。
「それよりさ、さっきの彼女?」
「え…」
こう言う質問にはいつも困った。学校でも友人から訊かれたが、奈織にとって"彼女"と言う存在がどんなものなのか判らなかったからだ。話していて楽しいけれど、けれど、今美樹といる時の感情は恋愛としてつきあっている、そう言うものではない気がした。
奈織は恥じらいではなく、ただの戸惑いを現すように首を横に振る。
「照れなくてもいいよ。君くらいの頃は、俊も、俺も、何人も、彼女がいたもんさ~」
「なんですか? それって?」
ふざけてるように大げさな態度で、基は懐かしいものを思いだすように遠い目をする。基がどうだったかは奈織には判らなかったけれど、俊彦はやきもちを妬きたくなるほどもてる。
直接の姿を見たことはなかったけれど、それでも俊彦の元へ届けられるプレゼントや電話からそんな様子が見え隠れしていた。以前、学校で貰ったと誰かの手作りのお菓子を奈織にも分けてくれた思い出もあった。兄弟とはいえ、いつかは別々の暮らしをするとは判っていても、それでもいつも"俺は奈織だけだからな…"と微笑んでくれた俊彦の言葉を信じたかった。
俊彦のことはおいておいても、常にマイペース以外の人生を送っているように見える基に関しては、適当に恋愛をしているように感じていた。
「奈織だけの俊じゃなくて寂しい?」
「え?」
基に図星を指され、奈織は驚きに顔を上げた。目の前では別に言葉に意味を含ませている様子のない基の笑顔。基の良いようにもてあそばれている気がした奈織は、口を尖らす。
「そんな…、お兄さんはそういう所はきちんとしてるから…、中村さんと違って!」
必死に俊彦の弁護を、と言うよりも自分の思いを誤魔化そうとした。しかし目の前の男はしたり顔をしている。
「ふーん、信じちゃってんだね。お兄ちゃんを…」
何か含みのある言い方に聞こえるのは、気のせいだろうか? 心に浮かんだ不安に奈織は首を傾げる。
「え?」
奈織が露骨にいやな顔をしたように見えたらしく、軽く両手を振って基は言葉を取り消すように笑みを浮かべる。
「いーや、でもさ、そのくらい普通だろ?」
「…。判りませんよ。そんなの…」
「…」
「あ、あの…」
無言に耐えられないように、奈織が基をのぞき込んだ。とたんに基は、近づいてきた奈織の腕を勢いよく掴むと、歩き始める。
「ちょ、中村さん…」
「奈織、今日、誕生日だろ? 飯ごちそうしてやるよ」
「でも…」
「せっかくの誕生日なのに、俊は仕事で帰れないしさ。だからこれは絶好のチャンスってことで…」
「何がチャンスなんですか?」
戸惑って動けないまま立ちつくす奈織の唇をかすめるように、奪った後、基は上機嫌で腕を掴んだまま歩き出した。
* * *
時間が経って、陽が陰っても、それでもその日は蒸し暑い感じられる。
窓の外で帰りを急ぐ人々は皆不快そうに、汗を拭っている。
美樹とのキスを目撃され、抵抗する間もないほど強引に腕を引かれ、一番最初に奈織と基が向かったのは小さな街の印刷所だった。どうしていいのか判らずに戸惑う奈織に、基は印刷所の近くにあるコーヒー店を指さし、"すまん、ちょっと届け物してくるからあそこで待っていてくれ"と言うと印刷所の中に消えていった。
そのまま帰ってしまうこともできず、奈織は基が指さしたコーヒー店へ向かった。基は、小一時間、帰ってくる様子はなかった。
そう言えば、俊彦がどんな仕ことをしているかはよく聞いていた。けれど、どう言う風に仕ことをしているか、今まで奈織は一度も聞いたことがなかった。
俊彦もこうやって印刷所に、行ったりするのだろうか…。
奈織が見た所、俊彦と考え方が180度考え方もすることも違う基。どう言う風に仕ことをしているか、説明されても奈織では判らないのかも知れないけれど、それでも少しだけ興味がわいてきた。
家に帰ったら、俊彦に訊いてみような…、と。
「何? 勉強してるの?」
「え、あっ中村さん!」
グレープフルーツジュースを買い、丁度空いていた二人掛けの机に問題集を広げながら、ボーっと俊彦のことを考えていると頭の上から聞こえる声に奈織は驚いた。
別に問題に集中していたわけではなかったけれど、下を向いたまま基が近づいてきたことに気が付かなかった奈織は、急に声をかけられ思わず驚いてしまった。
製図を入れるような大きな筒になったケースをかけ、コーヒーが並々と注がれている陶器製の重そうなマグカップを持って、基は嬉しそう微笑んでいる。
「驚いた?」
「いえ…、あ、少しだけ…」
頬を赤らめ奈織は俯く。奈織の姿を見つめ、荷物を周りに引っかけないように注意を払いながら、基は目の前に座る。
「なんかさ、デートみたいだよね、こう言うの」
「そうですか?」
奈織は問題集を開いている自分と、ニコニコしながら目の前でコーヒーを飲んでいる基を見比べる。基は一口コーヒーを熱そうにすすると、首を傾げる。
「そうじゃない?」
「あ、あの…、すみません…。僕は…、そう言うの…、よく判らないんですが…」
逆に訊ねられ途方に暮れた奈織は、小さく首を数度横に振った。本当に判らないのだと表すように。
困惑している奈織の表情に、基は少しだけ驚く。
「なあ、"基"って呼んでみなよ、その方がデートっぽくない?」
「何言ってるんですか!」
真っ赤になりながら、否定する基は余裕たっぷりな態度で"かーわいい"と奈織を笑い飛ばす。
「でもさ、マジな話、奈織は、さっきの彼女とそんな待ち合わせとかしないの? 休みの日とか、今みたいな感じに?」
「え? あ、あぁ、そう言うことですね。そう言うのがデートですよ…ね」
本気で驚いている奈織に、基は思わず吹き出す。
「奈織ってほんと変わってるよな」
自分でも変なことを言ったのだと思った奈織は、頬を染めながら話題から逃げるよう視線を机に向ける。そして声をかけられる前に解いていた問題に、印を付けてから問題集を片づけた。
「あ、もしかして、今って、奈織の学校って、テスト中?」
「え?」
「ほら、この時期って、期末とかじゃないの?」
中学からずっと二期制の試験スケジュールに慣れてしまった奈織は、基の質問意図がすぐに理解できなかった。しかし、ほんの少し前に一緒だった美樹が、深い溜息を付きながら"今日まで期末だった"と嘆いていたのを思い出して、基が何を訊ねているのかがやっと判った。
「二期制なので…、試験は九月になってからなんです」
「奈織の学校、二期制なんだ! なんかかっこいいね、それって」
「そ、そうですか?」
不思議そうに首を傾げる奈織に、"さすが私立のおぼっちゃま学校だ!!"と何度も頷き感動しながら、基は何度も頷く。それから何かを思いついたのか、動きを止める。
「でもさ、ってことは試験休みとかもないの?」
学期が二つに別れているのと、それに合わせて試験が中間、期末共に二回ずつなだけでそれ以外はまったく変わりない。基の的はずれな質問に奈織はクスリと笑ってしまう。
「試験休みはありますよ。けれど、九月の期末が終わった後ですけどね」
「え? あ、そうだよね。ごめん、ごめん」
基は、自分がものすごい勘違いな発言をしたことに気が付き一瞬動きを止めた。それから一回発言を誤魔化すように咳き込む。
「ところでさ、彼女の学校、期末終わったの? あの制服って、山手の女子校だよな?」
「え? よく知ってますね…」
「そりゃあ、俺だってこの街で生まれ育った若者よ? そのくらい知らいでか」
訳の分からなことで胸を張って自慢している基に、奈織は思わず顔をひそめる。
「彼女…、田畑さんの学校は今日までが期末で、明日からテスト休みだって言ってましたよ」
「じゃあ、寂しいね」
「え? ええ…、そうですね…。そうか…」
気のない返事をしながら表情を曇らせる奈織を見つめながら、一瞬、眉をひそめた基は一気にコーヒーを飲み終えると立ち上がる。
「さ、飯、行こうか」
さっさと店の外に向かう基を、奈織は慌てて飲みかけの氷の溶けたグレープフルーツジュースを飲みほし、追い掛けた。
店を出るとすぐ近くに埃なのか泥なのかは判らないが、汚れて見える赤いスポーツカータイプの車が止まっていた。
先に店を出た基に手招きされるように慌てて近づくと、運転席から助手席のドアを開けられる。奈織は戸惑いながら基に流されるように車に乗り込んだ。それから車を発進させる。
エンジンがゆっくり動き出すと、それに合わせて奈織が普段まったく聴かないジャンルの洋曲が流れてくる。ゆっくりしたテンポに乗って、甘く切ない女性が囁くように唄う歌。
判る部分を訳すと女性シンガーは、自分ではどうすることもない相手への恋愛の思いを告げていた。
"片思いは悲しいけれど、あなたと共にいる時間が幸せなのよ"、と…。
* * *
「何、食べたい?」
「あ…、べ、別に…、何でも…」
窓の外で流れる見慣れない風景。それだけで奈織は、戸惑い以外感じられず、ましてどこで何を食べるなど浮かびようもなかった。
「奈織って何が好きなんだっけ?」
「え、特に好き嫌いはありません。でも、あまりこう言う風な外食はお兄さんが嫌いだからしないので、どうしていいのか判らなくて…」
「お兄さん…、ね…」
いつもふざけた話し方をしている基に、奈織はもしかして呆れられているのではないかと不安になった。
「あの…」
「いや…、もしかして、放課後とか喫茶店に入ったことないとか?」
「そ、それはありますよ。いくらなんでも…。後は、田畑さんが入りたいって言った店が多いかな? スパゲティとか…、パーラーとか…」
「ああ、さっきの彼女ね。そう言う風につきあってるの?」
「え?」
「彼女が行きたいってこと」
「ええ、だいたいは田畑さんが決めてそれに付いていく感じですよ。その方が田畑さんも楽しいみたいだし…」
基から向けられる質問の答を考え、奈織は初めて美樹と出掛ける店はすべて自分で考えていなかったと気付いた。自分の好きな物を絶対に手に入れる、そんな美樹の性格もあるだろうが、すべてに置いて率先して決めることができない自分を自覚してしまった。
「何か、その彼女って、奈織って彼氏がいるんだぞって、自慢したいだけなんじゃないの?」
言葉を失った奈織の気持ちを知ってか、知らずか、すました言い方で訊ねてくる。
「そんなこと…。自慢できる部分なんて、僕にはまったくありませんよ。弱虫で…、何もできないんだから、僕は…」
「そんなことあるさ、奈織は俊や俺が女だったら絶対に口説きたくなるくらい可愛いし、優しいし。まず、見た目が悪くないだろう? 目なんてぱっちりとしていてそれに二重だし。身長は高くないけど、でも、上中下の"上"入るよ」
「そんな…、格好の良さだったら…、あの…、中村さんや…、お兄さんとかの方がよっぽど…」
「俊? うーん、それはどうだろう…。でもさ、きっと奈織を自慢したいんだよ、田畑さんだっけ? 彼女」
前の車との車間距離を気にしながらも、はっきりと判るいやそうな基の顔は、美樹につき合ってくれと言われ、俊彦に相談したときの表情に似ている。あの時俊彦は口では"よかったな"と言いながらも、奈織が戸惑うくらいにとても怖い顔をしていた。
奈織は張りつめていいよるように感じる空気に、どうしていいか困り俯いた
自慢だの、そんなことではないと思いたかったし、そう考えることもいやだった。とても意地悪く見える基の言葉に、奈織は勇気を振り絞って、必死に反論の言葉を探す。
「あ、あの…、そ、そんなことないです。田畑さんは、少しだけ強引な所がありますけど、しっかりしていて、いつも僕を引っ張ってくれて…」
自分の持っている言葉をあるだけ探しても、なかなか言葉が出てこずに困っている、そう伝わったらしく、基は大きく溜息を付いた。
「判った、判った。おのろけなんだよね、所謂。ごちそうさん」
のろけなのだろうか? 好きとか嫌いで言うなら美樹は嫌いではない。
自分でもよく判らない感情を誤魔化すように、奈織は乾いた笑いをした。
「どうしたの?」
「え…」
「こんな話、いや? 別に奈織をからかってるって訳じゃないよ?」
「え、そんなことはないんですけど…」
言葉を詰まらせた奈織は、車の運転で周りを気にしながら真っ直ぐ前を向いている基を、本人に気付かれないようにのぞき見た。
「あの…、中村さんにお訊きしてどうなることないかも、知れないんですが…」
「何、何?」
「あの…、つきあうって実際どんなことなんでしょう?」
「は? そりゃあ女の子二人っきりになって、一緒に時間を過ごすことじゃない?」
奈織は顔を曇らせたまま小さく溜息を付く。
「やっぱりそうですよね?」
「あ、続き店に入ってからでいい?」
基は車を目の前に見えていた、ファミレスの駐車場に止める。
一階が駐車スペース、二階には一見何人席分の席があるのか判らない広さだった。
奈織と基が行くとエントランスは丁度客がおらず、待たずに中に入れた。
胸を強調する可愛らしい制服のウェイトレスに案内されて席に着くと、基は手拭きで顔や首を拭きながら、大きく息をはく。絶対に俊彦ならこんなことはしない、と思うと奈織は笑みをこぼした。にっこりと微笑んでいる奈織を不思議そうに見つめながら、手拭きをテーブルの上に置くと、基はメニューを手渡す。
「高級レストランでなくてすまないけど、好きなもの喰っていいよ! まあ、俺の奢りだから!」
「…」
ますますおやぢくさい基の言いように、笑うこともできず奈織は言葉を思わず失ってしまった。しかし奈織を混乱させている理由に気付かない基は、へらへらした笑顔を浮かべる。そして、取ろうとしない奈織にメニューを突き出す。
「どうしたの? もしかして、奈織は、おなかいっぱいかな? あ、それとも俊がいないと食ことはできない?」
「べ、別にそんなことないですよ!」
いきなり俊彦の名が会話に出て、奈織は驚いたように言葉を否定した。ムキになって反論する奈織に喜ぶように優しい微笑みを基は浮かべた。
「じゃ、美味しい物食べて、幸せな気分になろう?」
少しだけ自分を反省するように奈織は、小さく頷いてメニューを受け取った。それから真剣にメニューを眺めたが、なかなかオーダーを決められずに途方に暮れてしまった。
そんな奈織に気付き、基はクスリと笑った後"今日は誕生日のお祝いだからハンバーグにしよう、奈織もそれでいいね"と助け船を出してくれた。奈織は少しだけ頬を赤くしながら頷いた。
基はサラダ付きのハンバーグとエビフライが乗ったディッシュと、ご飯、それから奈織の紅茶と自分のコーヒー。最後にショートケーキを頼んだ。
笑顔でオーダーをすませると、表情をそのままウェイトレスが立ち去るのを確認してから口を開いた。
「さっき…」
「え?」
「さっき何か話途中だったよね?」
「ああ、もういいんです…」
「何か気になるな~、そう言う言い方」
「いいんです。ちょっとだけ…中村さんは、どうなのかって聞きたかっただけで…」
「何を?」
俯いて、奈織はコップをいじりながら言葉を探す。
車の中で言いかけた言葉…。自分でも何が言いたかったか判らなくなるような漠然としていて、質問の形にならない不安と疑問だった。
奈織は頭を整理するように、ゆっくりと考えながら基に相談しようとしていたものを形にする。
「あの…、さっき、田畑さんのこと彼女って言ってましたけど…、僕には判らないんです…。彼女とか、つきあうとか…ってどういうことなのか…」
真剣に悩んでいる奈織に、基はちゃかすこともできずに少し考えた後、首を傾げる。
「なあ、奈織はその田畑って女の子と、俊とどっちか好き?」
「え?」
突然会話に俊彦の名が出て、奈織は戸惑った。微かに背に汗がにじみ、冷房で寒いと感じるくらいに冷やされていく。
俊彦と美樹に順位を付けたことも無ければ、どちらなど、選んだことなどない。それよりも選びようなどなかった。
「あの…、そ、そんなこと、考えたことがないんですけど」
「じゃ、今考えてみて?」
そんな風に質問されても困る…、そう言ってしまいたかった。しかしそれを許さない、基の視線はそんな有無を言わさないものだった。
「田畑さんは…、とてもいい学友ですよ。一緒にいて楽しいし…。それと…、お、お兄さんは保護者だし…。一緒に生活していて絶対の存在だし…」
「保護者ねぇ~。でもさ、奈織と俊って、本当に仲いいよね?」
兄弟、それも父も母もいつも家にいない家庭ではありがちな、兄弟関係だと奈織は思えた。俊彦といつも一緒にいるのは当然だったし、離れる理由などない。だからなのか、基の疑問は奈織には理解できないものだった。
「そ、そうですか?」
「俊はきっと奈織のためだったら、きっと人生棒に振るのも平気なんだろうな…」
「そんな…ことないですよ…、きっと。お兄さんの人生は…、僕のものじゃないし…」
「はっきり否定できる?」
「え?」
「だから、俊が奈織から離れていくこと、想像できる?」
基の質問に、奈織は無意識に息を飲んだ。しかし心の中では俊彦を束縛してはいけない、それはずっと思っていた奈織は、基に笑顔で応える
「必死にお兄さんに近づきたいと思っても、やっぱりお兄さんのことだから、僕は判りません」
「奈織君はそうやって、他人ごとに全部しちゃうんだね? さっきの彼女の件もそうなんじゃない?」
「そんな…」
「君は、俊が奈織君に対してどう思っているか判ってる?」
「弟以外何があるんですか?」
「俊も可愛そうだね。奈織君が理解してくれなきゃ…。まあ兄弟だからしょうがないのかもしれないけどね…」
「中村さんは、何故でそんな含みのある言い方するんですか? 中村さんにお兄さんが何かいったんですか?」
真剣な眼差しで基を見つめる奈織。基は何故、怒らせるような発言を選んでいるのかが、奈織には理解できなかった。
普段優しくおっとりした奈織の瞳が鋭くなる。基はクスリと笑う。
「それに応える前にさ…、俺が質問してもいい?」
「どうぞ…」
今までふざけた話し方をしていた基の表情が真剣なものに変わり、奈織は覚悟を決めたように唾を飲み込んだ。
その瞬間、誰よりも明るい声でウェイトレスが、ハンバーグを運んでくる。
言葉が中断され、目の前には飲み物と食べ物がどんどん並んで行く。奈織は言葉を発することも動くこともできなくなり、ただ食卓が整えられるのを待った。
すべてを並べ終わるとウェイトレスは無表情で会釈し、立ち去る。
複雑な表情で目の前のごちそうを見つめる奈織。しかし基は奈織とは対照的にフォークとナイフを持ち幸せそうに食べ物を眺めている。
「あ、あの…」
どうしていいか判らずに助けを求めると、基はあつあつのハンバーグを子供の様に頬張りながらにっこりと微笑む。
「まず食おうよ、話はそれからってな。ほら奈織、にんじんさんですよ」
曇った表情をほぐすように、基は奈織の目の前にフォークに刺したにんじんを出して、嬉しそうにパクリと食べる。場を柔らかくしようとする基に、奈織は微笑むと、小さく"いただきます"と両手を合わせながら呟くとフォークとナイフを手にした。
それからしばらくの間、俊彦の話題を避け、奈織の学校のことや基が今やっている広告の聞き流しても問題のない話題を続けた。
そして、メインが一通り終わり、ケーキにかかった頃基がすーっと真面目な顔に変化する。
「さっきの話の続きしようか?」
「はい…」
知らず知らずに奈織の表情が、強張ってくる。基は奈織の緊張をほぐすようにできるだけ優しい顔をする。
「奈織はさ…、さっきの彼女とつきあっているかどうか判らないと言ったけど…さ。彼女をどう思っているの?」
「え? それは…、一緒にいて楽しいですよ。それにいつも自信満々で羨ましいですね」
「それだけ?」
「それ以上必要ですか?」
「まあ…、奈織は高校生だし、まっいいか…。じゃあさ、お兄さんと彼女比べたらどっちと一緒にいたい?」
「それは…、お兄さ…」
無意識に奈織は俊彦を選びそうになり、言葉を止める。それから自分の思いを否定するように頭を横に数度振る。
「いえ…、そんなの…、比べられません…。さっきと同じ応えですよ」
今まで俊彦以外の人間が自分の中の優先順位で上にいくなど奈織には考えられなかった。確かに昔から俊彦だけいれば、そう思っていた。
けれど、それを言ってから基の質問には、もう自分自身の答が出てしまっていることを後悔する。
心のどこかで今も、俊彦と…。
引きつっている顔がすべて嘘だと言っているようだった。
ショートケーキを見つめたまま動けないでいる奈織を見て、基はクスリと笑う。
「そっか…、もう奈織は答が出ているんだね」
「そんなことないです! お兄さんは格好よくて、あこがれで。ずっとお兄さんのお嫁さんになりたくて…、でも」
「でも?」
「でも、変ですよね。今じゃただのブラコンなだけかなって…」
奈織は大きく溜息を付いた。
すべて判っていることだった。自分が男で、兄弟では恋愛など成立しないこと…。そして、いつまでも俊彦は自分の中で一番の存在だと。
俯き思い詰めている奈織の頭を、子供を大人が慰めるように基は撫でる。
「中村さん…」
「なあ、奈織、一つ提案があるんだけどさ」
「?」
「俺とつきあってみない?」
「え…」
基の言っている言葉の意味が理解できず、奈織は顔を上げたまま目を見開いた。
「奈織に本当の恋愛教えて上げるからさ。まずは今週の土曜日、俺とデートしよう」
奈織は、唐突な基にどうしていのか困り、否定も肯定もできなかった。
「俊も奈織も、兄弟そろってお互いに依存症なんて、これから先、いいことないと思うよ」
「そ…、そんな…」
「俊もね、きっと関わっている人物の中で奈織君が一番大切なんだよ。奈織君と違って本人もそれは自覚しているみたいだしね」
「…」
「男同士とか、兄弟とかでどうかって思う以前に、俊とずっとつきあってきて、話を聞いていた俺の奈織への思いが恋愛なんだなって思えるくらいにね…」
「中村さん…」
澄ました顔をしてすごいことを言う、と頬を赤らめて奈織は戸惑いながら狼狽えた。しかし基はテーブルに肘を突き、目の前でにっこりと微笑んでいる。
「ミイラ取りがミイラってやつだね。ちょっと俊に対してはフェアじゃないけどさ…。男同士は普通じゃないかも知れないけど、奈織君、おつきあいから始めない?」
「でも…」
「奈織、今まで全部俊や周りに自分の人生のレールを決めて貰っていたんだろう?」
「え…」
「今行ってる私立のエスカレータ式の学校だって俊が決めたんだろう? 彼女とつきあうのも、きっと彼女が押し切ったんだろう?」
「それは…」
「じゃあ、取りあえず、今週の土曜日、映画見に行こう。飯、奢って上げるから。それで自分が誰が好きか考えるのもいいんじゃない…」
「そ、そんなこと…、急に言われても…」
返事を見つけられない奈織に、基はだめ押しとばかりに笑顔を向ける。
「奈織、逃げちゃだめだよ。俺は本気で奈織を口説いているんだ。確かに奈織と俊の関係って割って入れないかもしんないけどさ、でもさ」
「…」
「でも、俊が俺なら可愛い、可愛い奈織を紹介してもいいって思ったのは、運命だと思ってる。俺が奈織に惹かれていくためのね」
「中村さん」
「だから、まあ、土曜日俺とデートして、それでも俊がいいって思ったら、俊にそれを言えばいいじゃないか。あいつのことだから、奈織が自分だけを一生見てって願えばきっと心から愛してくれるよ、絶対に」
それ以上の反論のできない奈織。
顔では優しい笑顔を浮かべながら、半ば強引かと思えるように奈織に約束をさせた。奈織は自分がどうしていいのか判らなかった。
しかし、俊彦の奈織への話を聞いてしまった以上、家に帰っても今日のことを相談はできない、そう思った。
* * *
夜がこんなに明るいと、初めてその晩知った。
重い足取りで角を曲がれば家が見えてくる、そんな距離を歩いていた。
溜息を付いてから、俊彦に高等部へ進学祝いに買って貰った黒皮のベルトの腕時計を見ると、時刻はすでに十時近くになっていた。
自由教育と、希望で補習授業を行っている学校の所為か、塾にも習いことにも通っていない奈織にとって、十時と言うのはものすごく遅い時間に感じられた。
そう言えば、美樹と放課後逢って、そのまま帰るつもりだったから、遅くなると家の誰にも告げていなかった。
いつも忙しい両親は、きっと仕ことで帰っていないか、それでなければ高校生になったのだから、時々はそんな羽目の外し方を喜ばしいと言うだろう。けれど、もし俊彦が先に帰っていたら、この時間になっても帰宅していない奈織を心配しているだろう。
本当は早く帰った方がいいのだろう…、しかし小一時間前に基に言われた言葉が奈織の耳から離れず、足取りを重いものにしていた。
基が指摘したことも、俊彦が奈織を心配する気持ちも決して悪気があるわけではない。むしろ、基も俊彦も自分では何も決めることも、行動することもできない奈織を気にしてくれているのだ…。それが痛いほど判る、しかしだからよけいに奈織にはどうして良いのか判らない。
めいってくる思いに、奈織はもう一度溜息を付いた。
今晩は、俊彦に逢いたくない。
誰にも言わずに遅くなったから…、もちろんそれも悪いことだと思えたが、それよりももっと奈織を不安にさせられていた事柄だった。
朝、仕ことが忙しいと言っていたから、運が良ければまだ仕ことから帰っていないかもしれない。ささやかな期待をしながら、帰途に付こうとすると、家の前を落ち着かないそぶりで行ったり来たりしている俊彦の姿が目に飛び込んでくる。
足がすくむ。普通に振る舞わないと…、そう思えば思うほど俊彦に声をかけることも、そこから歩くことも奈織にはできなかった。
困惑する気持ちとは反対に、俊彦は奈織を見つける、少しだけ眉間に皺を寄せ、それから早足で近づいて来る。
そして奈織の前に立つと、どう俊彦と話したらいいか戸惑う姿に気付かずに、益々表情を険しくする。
「こんな時間まで何をしているんだ。心配するだろう?」
「ごめんなさい…。あ、あの…、誕生日…、祝って貰って、その…食ことをしていたんだ」
本気で怒っているそうはっきりと判る俊彦の表情。普段あまり奈織に対して感情を表さない俊彦のことだから、きっと基と一緒だったと言えば、お互いの性格をよく知っている同士だから、俊彦は奈織には怒らずに"そうか、良かったな。しかし家には連絡しないといけないよ"そんな言葉ですむのだろうと困惑している奈織にも思えた。
しかし、今の奈織には、俊彦とどう会話していいのかすら判らなかった。
ただおずおずして、何も言えない奈織の姿に、何か後ろめたいものがあるのではないかと感じた俊彦は声を荒立てる。
「こんなに遅くなくまでか? 家にも連絡できないような理由なのか?」
「ごめんな…、さい…」
「ごめんなさいじゃないだろう? 何時だか判っているのか? 今まであの田畑って娘と一緒だったか?」
俊彦の怒鳴り声と共に、耳に先ファミレスで基に言われた言葉が重なってくる。奈織が俊彦とこれからどう接していいのか不安を感じた言葉と…。
『俊も奈織も、兄弟そろってお互いに依存症なんて、これから先いいことないと思うよ』
そんな風に言われても…、今まで考えたことなかった…。
それ以上に今までの俊彦への思いを否定された気がした。奈織はやり場のない思いをぶつけるように、息を吐きながら呟く。
「ち、違うよ…」
「じゃあ何なんだ、別に奈織が彼女を作るのは、別に俺が文句を言うことじゃない! だが常識があるだろう?」
俊彦に突き放された気がした。奈織は俊彦なしでは生きていけない自身を自覚する。
「お、お兄さんは、遅くなるって、言ってたじゃないか…」
本当はそんなことを言うつもりなかった。家に門限があるわけではないけれど、それでも奈織自身が俊彦に心配をかけただろうし、まして黙って遅くなることはいけないことだと思えたからだった。しかし基から言われた言葉が何度も頭を往復し、それが奈織の心を意味もなく腹が立ってくる。
いつもは素直で奈織の反抗的な態度に驚いた俊彦は、苛立つ気持ちを抑え、できるだけ優しく微笑む。
「俺が遅いから、奈織も帰っていいのか? そうじゃないだろう?」
「…」
唇を強く噛みしめ、俊彦の視線から逃げるように奈織はそっぽを向いた。
奈織に何かあったのだろう、そう察した俊彦は奈織に近づくとそっと頭を撫でる。
「きつく言ってごめんな。でも、仕ことだからしょうがないだろう? これでも奈織と誕生日を祝いたくて、急いで帰ってきたんだよ…」
俊彦の表情から、自分がすごく勝手でわがままを言っているんだ、そんな雰囲気が感じられる。それでもどうしていいか判らない奈織は俊彦から目線を反らした。
「あの…、お…、お父さんと…、お母さんは?」
「父さんは今晩は会社に泊まりって言ってる。母さんは奥様連中と七夕の観劇だってさ。多分、終電までには帰って来るみたいだよ」
「そうなんだ…。子供の誕生日なのにね…」
苦しい物を吐き出すように、奈織は呟いた。両親がいないのはいつものことだと、子供の頃から諦めていたのか、そんなことを一度も聞いたことがなかった俊彦は、奈織の言葉に驚く。
「どうしたんだ、奈織。いつものことだろう、奈織だって判っているだろう?」
「そうだよね…。うん、判ってる…。お父さんも、お母さんも…、そしてお兄さんも仕ことが忙しいのは…」
「奈織、どうしたんだい今日は? いつもそんなこと言わないだろう?」
「…」
心の底で浮かんでは消える黒い感情が、奈織の表情を曇らせる。
「奈織!」
何を考えているのか理解できない態度に、俊彦は声を荒立たせると奈織の顎を掴み、自分真っ正面を見るようにさせた。
真っ直ぐな俊彦の視線に耐えられず、脅えたように視線を外す。
「わ、判ってる。お兄さんのお仕ことが大変なのも、父さんも母さんも忙しいのも…、ちょっとわがまま言ってみたかっただけ…。ごめんなさい…」
「そうか、奈織でもそんな時もあるよな。さ、中に入ろう」
俊彦は奈織を促すように門の中へと進める。狭い道、小さい頃はよく手を引いてくれた二メートルばかりの道。俊彦は奈織を慈しむようにそっと自分に引き寄せると、肩を優しく抱きしめてくれる。
じっとりと汗をかきそうな夜だと言うことを、忘れてしまいそうになるそんな俊彦の温もりのはずだった。
普段だったら物凄い安心感を与える俊彦の暖かさが、今日は緊張しているからか、背筋にゾックっとさせるそんな空気を感じさせる。
奈織は俊彦から逃れると、慌てて扉に向かいドアを開けると、部屋に電気を付ける。
「な、奈織?」
「あ、あの…、な、中村さんが誕生祝いに夕飯を奢って貰ったんだ…」
「中村に?」
「うん、誕生日だけど、お兄さんは忙しいんだからって…。中村さんに帰りにあって…」
基の名前が出た瞬間、俊彦の表情が曇る。基に言われた通りの反応をする俊彦の姿を見たくなかった奈織は慌てるように言葉を付け足す。
「もういい? 今日は色々とあって、疲れたから休みたいんだけど…」
「ケーキぐらいは食えるだろう? 美味しい紅茶を入れてやるから持っていくよ。奈織へのプレゼント一緒にね…」
俊彦の優しい言葉。その反対に奈織の耳元で、また基の言葉が聞こえてくる。
『奈織君は、本当に俊のこと信じちゃっているんだね~』
『それは…、あの…、兄弟ですから…』
奈織、複雑な表情を浮かべて、振り向いて俊彦見つめると小さく横に首を降る。
「ごめん、今は…、いらない…」
そう呟くとその場から逃げるように、走って階段を上がり、自分の部屋へたどり着くとドアを閉める。
曇る目の前の風景の先には、兄がかつて作った地元のスポーツクラブのポスターが見えてくる。
霞む先では、健康的な女性が笑顔で微笑んでいた。
それから数日間、奈織は俊彦とギクシャクした日を過ごす結果になった。結局、俊彦とのプレゼント交換はなされないまま、時間だけが過ぎていく。
そして、土曜日は奈織にとって案外早くやってきた。
* * *
「映画、面白くなかった?」
「え?」
「奈織、ずっとボーっとしていて…」
「ご、ごめんなさい…」
基が選んだ映画は、普段奈織では絶対に見ないだろう単館上映の南米で制作した映画だった。ベースはありがちなラブストーリーだったが、テンポのいいストーリー展開と、南米の音楽と踊り。そして決してきれいとは言い難い原色に近い色彩が混ざりあって不思議な空間に放り出された、そんな奇妙な感覚を感じさせるものだった。
映画を見終わり、映画館近くの喫茶店に入った。ビルの中の一階にある喫茶店は、三十シートくらいある中型店舗だった。
窓側の四人座りの席に案内され、奈織はホットティーを、基はコーヒーを注文した。
歩道沿いの大きな窓の外からは、晴れている所為か、汗をかきながら歩いているカップルや、そして私服の学生たちなど様々な人が通り過ぎていく。
しかし、基が楽しい話をしていると感覚では判っていても、何に対しても反応できない。
ぼーっと外を眺めている奈織を、基は少しだけ心配そうに姿を見つめていた。
「もしかして、俊ともめた?」
「え…。あ、そんなことないです、ご、ごめんなさい…」
俯く奈織に、基は頬杖を付き、微笑みながらまだ湯気が立つコーヒーに口を付けた。
「別に謝らなくてもいいけど、なんか、ショックだな…」
「え?」
「だって、せっかく奈織とのデートではりきって何観るか考えたのに…」
「え、あの…。映画…、楽しかったですよ…」
嘘だった。俊彦とのぎくしゃくした気持ちが先に立って、奈織はストーリーの半分も覚えていなかった。
「じゃ、どんな映画見たか覚えている?」
すべて見通しているそんな表情の基の視線に、やり場がなくなった奈織は、益々俯きティーカップの端を指で何度か往復させた。
「…。ごめんなさい…。やっぱりよく覚えていないです…」
「俊となんかあったの?」
「え? なんで…」
「君たちのことは、大体判るんだよ…」
「え!」
真剣に驚いている奈織に、基はクスリと笑う。
「なーんてね。会社での俊も、今の奈織みたいだったからさ…。心ここにあらずって感じ? ボーっとして。まあそれでもそつなく仕ことはしていたから、更に悔しいけどね…」
悔しそうに舌打ちする基の様子に、奈織は小さく笑みを浮かべた。
「そ…、そんな…」
「ちょっと妬けるな…。まるで二人とも両思いの恋煩いみたいでさ…」
「中村さん…」
一回だけ、正面から視線をはずすと、基は少し考えてから真っ直ぐに奈織を見つめる。
「ね、お兄さんのこと、忘れるいい方法があるんだけど…、試してみるかい?」
何ことかと奈織は、表情を硬くした。しかし、奈織が必死に基の考えていることを伺おうとしても、基の表情からは何も判らなかった。
そして、基は残っていたコーヒーを一気に飲みほすと、立ち上がった。
「行こう…。連れてって上げるよ」
奈織は基の顔を見上げるように見つめ、それを断ることはできなかった。
* * *
基に引っ張られるように来たのは、値段はそれほど高くない港に面して建っているシティーホテルだった。すでにホテルはチェックインできる時間になっていて、待ち時間もなく部屋に通された。
部屋に入るとそれほど大きくない部屋に押し込まれるように、セミダブルのベッドが二台並んでいて、空間が狭く感じる。
十階建ての七階の所為か、窓からは観光でも有名な港と、そして緑の多い公園が見渡せた。
奈織は部屋に入ると、これからここで起こるであろう事柄を考えないように、窓に近づいて外をぼんやりと見つめた。
その瞬間、基は後ろから、包むように奈織を抱きしめる。
「あっ…」
驚きに悲鳴を上げた奈織に優しくそっと微笑むと、基は癖のないうす茶色の髪をさらさらとすいた。そして、一回奈織を自分の腕から解放すると、窓側のベッドに腰掛ける。
「さ、こっちにおいで…」
戸惑う奈織は、声を出すことができなかった。しかし、基に腕を引っ張られ、そのまま流されるように奈織はベッドに倒れこんだ。
「あっ…」
「本当はこんな無理な方法、取りたくなかったんだけどね。今日ずっと奈織は俊のこと考えていただろう? 違う?」
ベッドに横たわった奈織の上に覆い被さる基は、急にベッドに横たわったことで乱れた茶色の髪を指で何度もすきながら訊ねた。
こうやってベッドに押さえつけられている恥ずかしさと、基の言葉を否定できない自分に対しての苛立ちなのか。どうしていいのか判らないまま、奈織は基の視線から逃げるようにそっぽを向いた。
「本当は奈織は、どう思っているの?」
脅えないように基は、奈織の両肩を掴む。それから一回触れるだけの口づけを奈織の唇にする。
「そ、そんなの…、わ…、判りません」
奈織は顔を赤く染めながら、それでもどうしていいのか戸惑っていた。
「そうやって逃げるのかい? 結論はすべて人任せにして…」
「そんなこと…」
「違うって言いきれる?」
「…、それは…」
「じゃあ、自分の本能を試してみない?」
そう言うと基は、奈織の返事を待たずに何が起こるか理解できないまま動けない身体を覆うシャツを解いた。それから快感を引き出すと言うよりも、自分という体温をしって貰うために、ゆっくりと肌に口づけを落とす。
そして、奈織は気が付くと太陽がまだ沈んでいない明るい部屋で、一糸纏わない姿になり、基の愛撫を受け入れていた。
肌を這う基の手と唇への戸惑い。
これから行われる行為への不安、それよりも、このまま流されれば、奈織自身は何かが変わるんだろうか…。
基は奈織の躯を愛撫しながら、自分も上半身を裸になった。それからまた奈織の滑らかで染み一つない肌の温もりを確認していく。
「あっ…」
基が奈織の胸にぽっちりと姿を現した飾りに唇を落とすと、吸いながら舌で転がした。奈織は驚きと背中に感じる初めての感覚に耐えられずに声を上げた。
何度か指と舌で先っぽのつんと尖った部分を転がした後、唇を離すと肌が朱色に染まっている奈織の頭を撫でる。
「大丈夫だよ、奈織。人の肌って暖かいだろう? だからこうやって温め合って、それからお互いに躯を繋げるんだよ」
「中村さん…」
「"基"って呼んでごらん、奈織」
「基…、さん…。僕、どうしていいか…」
「今は何もしなくていいよ。それよりも俺と愛し合う行為をしているってこと、忘れないで…」
そう一気に言うと、基はまだ淡い茂みに隠れていて存在を表していない奈織の陰茎を唇に含んだ。
「やっ…、そんな…」
初めて他人の口でされる行為。それよりも自分で信じられない快感に奈織は恐怖を覚えた。
自慰の経験はないわけではなかった。しかし、他人に、それも口で含まれ、戸惑いで奈織は思わず足をばたつかせた。
それでも止めようとはしない基。基の舌は奈織がどうすれば感じるのかを知っているように、蠢いている。
亀頭やくぼんだ部分を舐られ、奈織は目の前が真っ白になって行った。奈織の若い精は、舌と口の中で追い込まれるともろともなくなる。
背筋に驚く程の衝撃が走り、そして奈織は基の口蓋で頂点を迎えた。
基は奈織が放った物を嚥下していく。
奈織は肩で呼吸をしながら、必死に羞恥心と戦った。
呼吸が整うと恥ずかしいと言う思い…、それよりもこんなことをしていいのか、そんな罪悪感が溢れてくる
本当に基を好きなのだろうか。基が望むように、奈織は好きになれるんだろうか。
体温が下がっていくと同時に、奈織はどうしていいのか判らなくなった。それは今の行為への恐怖ではなく、基に本当に流されるように抱かれていいのかと言う不安だった。
そう考えると、耐えられなくなり奈織の瞳から、涙が溢れ出す。
「どうした、これ以上は、いや?」
どうしていいのか、混乱から泣きじゃくりながら、奈織必死に首を振った。
「嫌じゃないんだと思います…。きっと、でも…」
「でも?」
「こういう愛し合う行為は、こんな風に流されちゃいけない気がします…」
奈織の言葉に、瞬間驚き、そしてゆっくりと基は微笑む。
「成長だね、奈織…」
驚きに奈織は身体を起こした。
「え?」
基は身体を起こすと、ベッドの上で座っている奈織の頭を撫でると、基は優しく笑う。
「だってさ、今のは自分決めたことなんだろう? 奈織の将来が楽しみだよ」
「中村さん…」
「行こう? ここは、今まだ奈織には早すぎる場所だね」
まだ涙で頬を濡らしたまま、状況を把握できないでいる奈織の腕を基は掴むと、ベッドから立ち上がる。
「でもちょっとだけね」
そう呟いた後、基は優しく抱きしめ、奈織の額に唇を落とした。
「この先は、奈織が俺を選んでくれた後な…。これは願掛け…」
奈織は、顔を真っ赤にしながら、頷くだけだった。
* * *
「奈織って、好き嫌いないんだね驚いちゃった」
「僕も中村さんがセロリ嫌いだったってびっくりしました」
シティーホテルを結局泊まることなくチェックアウトした後、基は奈織を食事に誘った。それから別に送らなくても大丈夫だと言う奈織を無視し、家まで一緒に来た。
陽が陰り始めた頃、家に戻ると、門の前では俊彦が、怒りをはっきり現したすごい形相で立っていた。
そして奈織と基の姿を見るや駆け寄ってきて奈織の頬を張る。
「こんな時間まで何やっているんだ?」
いきなり俊彦にぶたれ、奈織は泣きそうになるのを必死に押さえる。
興奮してひどいことをしそうな俊彦から、奈織を引き離すように基は割って入った。
「映画を観に行って、お茶して、少しご休憩して、で、夕飯食べて帰ってきたんだよな、奈織」
俊彦の表情に狼狽えながらも、奈織は頷いた。
その瞬間、俊彦は、基の胸ぐらを掴んだ。
「貴様、奈織に何かしてないだろうな!」
真剣に怒る俊彦は、基に殴りかかった。
今度は二人をおさえるように、奈織は慌てて俊彦を止める。
「お兄さんっ止めて! 中村さんは僕が今まで考えていなかったこと、教えてくれたんだ…」
「奈織? しかし…」
奈織はいつもの微笑みを浮かべながら、俊彦を見つめる。
「ね、お兄さん、お願い、ここに屈んでくれる?」
今まで沈みがちだった奈織に何か吹っ切れた、そんな表情に、俊彦は毒気を抜かれ表情を柔らかくして屈む。
「有り難う」
奈織は屈託のない表情で笑みを浮かべたまま、俊彦の肩に腕を回した。そして俊彦の唇に、触れるだけの口付けをした。
「奈織!」
驚く俊彦に奈織はにっこりと笑う。
「お兄さん、僕もこの先自分がどうしたらいいか、考えてみるね。でも色々と判らないことがあったら教えて」
「奈織…」
「いつか、僕も兄さんみたいにやりたいものが見つけられるといいな…」
奈織は今までで最高の笑顔で俊彦と基を見つめた。
Fine
前夜…。
「奈織、そろそろ起きな…」
身体を揺すられ、ゆっくりと奈織は目を覚ました。
真っ白な光が目の中に、飛び込んでくる。まだぼんやりしている奈織を、優しい温もりが包んだ。
「ほら、そろそろ起きないと、今日は家に帰らなきゃいけないだろ?」
「あ…、基…」
はっきりしてくる視界の先にある基を、奈織は見つめながら、ベッドから起きあがった。
急に身体を動かした所為か、下半身には甘やかな痺れが伝わってきて夕べの出来事が思い出された。
「身体、大丈夫?」
基はいささかふらつく奈織を支えるように抱きしめながらそう尋ねる。
何も身に着けないままの奈織は、ジーンズに上半身は裸の基。奈織が休んでいる間に基は起きて、多分仕事をしていたのだろう。その証拠に、部屋に置かれたMACが立ち上がっていた。
昨日は昼過ぎにこの部屋へ来て、基に抱かれ、夕飯は宅配ピザ。セックスをしてほとんど何も身に着けない格好のまま食事をし、そしてまたセックスに溺れ、そのまま眠ってしまった。
直接肌に伝わる温もりから、夕べのことを思い出し、奈織は頬を赤らめた。身体にべたつきを感じないのは、きっと抱きしめ合ったまま眠ってしまった奈織の処理をしてくれたのだろう。
初めて基に抱かれたのが、奈織が高校の卒業式の翌日だから、関係を持って六年。つきあい始めてもう七年半になる。
今年で社会人二年目になる奈織だったが、身長は五センチしか伸びずに百七十センチに若干とどかないままで、銀杏のようなぱっちりとした二重の瞳と、染めていないのに茶色いサラサラの髪は相変わらず変わらなかった。高校生の頃はコンプレックスだった自分の容姿も、もう諦めたつもりだった。けれどもスーツを着ると高校生が制服を着ているようだと言われると、嫌な気分がした。
そんな奈織が選んだ職種は、常にスーツを着る仕事でなかったことが救いだった。別にコネがあったわけではないけれど、運良く有名広告代理店でコピーライターと言う名前の職業をしている。
広告の仕事への興味はやはり、兄である俊彦と、そして基の影響が大きいだろう。
初めてデートした後、俊彦は基に付き合いを認めるわけではないけれど、それでも大人の常識として、身体の関係は高校卒業まで持たないことを約束させた。
基はその俊彦との約束通り高校を卒業した翌日、自分の部屋に呼び、思いの丈を熱く奈織に語った。奈織は流されるようにではなく、自分の意志で基に身体を許した。
それから七年半、付いたり離れたりの関係が続け、奈織はその間、男女様々な恋愛をしていた。それでも振ったり、振られたりした後や、人寂しくなると基も元へ足が向いてしまう。基の方も当然奈織だけではなかったはずだが、そんなわがままを許し、自分の胸にすっぽりと納まる身体を慈しみ慰めてくれる。
最近ナーバスな奈織にとって都合のいい相手。それよりも最終的には戻る場所なのだと思えるようになった。
いつか、こんな日が来ると判っていたはずの、悪夢が明日、現実になる。そう考えると、寂しさに基の温もりに縋り付き、自分から唇を求めていく。なすがままに動けない基の口を開くと、奈織は舌を絡め混じり合う唾液を嚥下していく。
これ以上はいけない、自制を効かせた基は次への行為を求める奈織の躯を引き離す。
「奈織…、これ以上はダメだよ…」
「もっと基の温もりが欲しい…、ね、いいでしょう?」
上目づかいにねだる奈織に、基は頭を抱え溜息を付く。
「ほら、もうすぐ三時だよ。今晩は家に帰って、家族水入らず最後の食事だろう?」
「…」
少しだけ、いらいらしながら奈織は、基から離れ俯いた。
「ダメだろ。明日は俊の結婚式なんだから…、今晩くらい、あいつの側にいてやれよ」
そっぽを向いてしまう奈織に言い聞かすように、基は真っ直ぐ見つめた。
基が言うように、明日、俊彦は結婚する。
男同士…、それよりも兄弟だと判っている。基とつきあい始めた頃、何度も自分に言い聞かせた。それでもいつも一緒にいて、面倒を見てくれた俊彦は、奈織にとって初恋の人だった。その俊彦の結婚の知らせは、わがままを言うつもりはなくても、複雑な気分になっていた。
俊彦には幸せになって欲しいと思う反面、やり場のない思いに、ここ一カ月奈織は家には戻らずに基の部屋に入り浸っていた。
小さく溜息を付くと基は、離れようとしない奈織の肩を持った。
「奈織は俊が嫌いなのか? それともお姉さんができるのは嫌?」
唇を噛み締めるように首を振りながらも、奈織は視線を基に向ける。
「拗ねてもだめだよ…」
奈織は首を横に、いやいやをするように数度振る。
「もう少し…、もう少しだけでいいから…。お願い、一緒にいて…」
「奈織…」
離れようとしない奈織の頭を撫でると、基はわがままを許すように、そっとこめかみに口付ける。
「今日だけでいいのかい?」
「そんな…」
「奈織にとって、俺はやっぱり俊彦の変わりなのかな?」
肩を抱きしめながら訊ねる基に、奈織は驚いたように大きな瞳を大きく見開いた。そして、縋り付くように基の首に腕を回した。
「違う…。ずっと…、一緒にいて」
奈織は懇願するように、基をベッドに押し倒すと、今度はもっと性的な意味で深い口付けを求めてくる。
絡まり合う足と足。基は急くようにズボンと下着を脱ぐと、絡み合いようにベッドの上を二人で転がった。
「あっ…、基…」
首筋や鎖骨を愛撫しながら、基は大胆に自分に一糸纏わない足をからみつけてくる奈織に苦笑する。
「昔の奈織は、もっと慎む深かったよ…。いつからこんなわがままなお姫様になったんだろうね? 奈織は…」
尋ねながら、夕べ自分でも判らなくなるほど精を吐き出したはずだったけれど、それでもすでに屹立しかけている奈織の性器と袋を交互にやんわりと揉んでいく。
「ぁ…、基が…、こんな僕のほんとの姿を…、教えてくれたんだ…」
もっと、もっと基が欲しい。そう身体で伝えるように、奈織は自分から脚を、基自身を受け入れやすいように大きめにエムの字を描くような形に開いた。
まだ身に着けたままの基のズボンのボタンとファスナーを外すと、片足で一気に下着ごと下ろす。そしてうずく身体を擦り付ける。
「ねぇ…、基…、抱いて…」
潤んだ瞳で奈織に見つめられ、基はゴクリと唾を飲み込んだ。
「喜んで…」
そう呟いた後、基は唇を奈織の肌に落とす。
何年もの付き合いで奈織が判じる場所を熟知している基は、あえて快感をもたらす部分を外し、舌で舐め、指を這わせる。
「あん…、いや…。も、基…」
膨れ上がる奈織の欲望。奈織はもどかしそうに身をよじりながら、耐えられないと告げるように陰茎から涙を流している。
それを基は指先ですくい取ると、亀頭へ塗り込んでいく。
「いや…、そこじゃなくて…、基を頂戴…」
はち切れんばかりの股間の中心に、奈織は涙を流しながらいやいやと頭を左右にふる。
それでも二人が繋がるための部分に一向に触れない基。奈織はためらいもなく基自身の快感をもたらすように手で握った。
「あ、奈織…、だめだよ…」
奈織は四肢を振るわせながら快感の波に襲われ、言葉を詰まらせる基を追いつめていく。
「判ったよ、判ったから、少しだけ待つんだ…」
自制が効かなくなりつつあった基は、諦めるように奈織の後蕾を指でほぐしていった。
指先でもひくひくと震えていることが判る蕾を、何度か優しく撫でる。しかし欲張りな後ろの口から与えられる絶頂感を知っている奈織の躯は、すぐにそれでは物足りないと指に絡み付いてくる。
「じ…、焦らさないで…」
熱い息を吐きながら、物足りない行為に焦れる奈織は、自分の腰を振りなかなか中に入ろうとしない指に、普段は他人には触れられる事の無い部分を擦り付ける。
「本当に、欲張りだな…、奈織は…」
苦笑と共に奈織の息苦しそうに開かれた唇に、基は一回口づけをすると、後蕾を指二本で一気に貫く。
「っ…、ああ…」
夕べ何度も繋がった奈織の後蕾の先は、燃えたぎるほど熱い。基はその部分をぐるりと簡単にかき回せると指を抜いた。
それからこれ以上焦らさないように、奈織の両足を自分の肩の上に乗せてから、怒張した基自身で思いっきり貫いた。
「あっ…、ああ…」
待ち望んでいたものが自分の中へ一気に入り、奈織は思わず喘ぎ声を上げた。しかしすぐに奈織の官能を引き出すように、屹立したもので擦っていく。
夕べあれだけしていても、飽きることのない欲望に、すぐに基に満たされ甘い喘ぎ声を上げながら奈織は、快感に酔っていく。
基の動きに合わせて、腰を思わずはしたなく振ってしまう奈織。
胸の赤い実や、フルフルと震えている奈織の若茎に触れずに、基はただ自分の絶頂を目指していく。奈織も躯の中であばれまわる基を思いっきり味わい引き出された官能を素直に受け入れた。
「じゃ、僕…、帰るから…」
絶頂を迎えた後、ベッドで奈織の温もりを求めながら微睡んでいる基。奈織は怠そうにしている基を置いたまま、さっさとシャワーを浴びて、帰り支度を整えた。
ベッドで横たわったまま、心配そうに見つめる基に近づき額にキスをすると奈織は、微笑む。
「大丈夫だよ…」
「そうか…、じゃ明日な…」
奈織は微笑んだまま何も言わずに、基の元を後にした。
* * *
「お疲れ…」
「あ、基…」
奈織は、基の声に今まで見ていた幸せそうな風景から視線を外し、振り返った。
「たく、さんざ人を混乱させといて、一人で幸せそうな顔しているよな…」
モーニングに黄色の縁の眼鏡がとっても違和感を感じる服装の基は、せっかくセットしていた髪型を髪混ぜるようにかいた。
基の視線の先には、俊彦とそして今日から奈織のお姉さんになる人が、披露宴で色直しをした格好のまま、友人たちの祝福を受けていた。
最近話題のガーデン式の結婚披露宴。
緑豊かな庭では、華やかな服装をした女性たちやモーニング姿の男たちが集まっている。
親戚一同が集まり、奈織にも知らない人々へ挨拶し、朝から何も考えられない程に、慌ただしかったが、披露宴もやっと終わを告げた。
奈織は俊彦が買ってくれた黒のデザインスーツに、基に選んで貰ったピンで止めたクロスタイ姿だった。
晴れやかな昨日まであんなに不安だった気持ちが、今は庭を包んでいる晴れやかな空と同じで住んでいた。
奈織は基に近づくとにっこりと首を横に傾ける。
今日朝からずっと一緒だったが、他の人への挨拶に追われていた奈織は、やっと基と話すことができる。
「そうですか?」
「幸せそうに見えない?」
「そうですね…、幸せになって欲しいです…」
「お、大人じゃん…」
「僕ももう二十三ですよ。いつまでの、お兄さん、お兄さんの子供じゃないです…」
「そうだね、昨日も大人なこといっぱいしていたもんな…」
いくら俊彦の結婚前でナーバスになっていたとはいえ、昨日、一昨日のあまりに大胆過ぎる自分の行動を思い出し、奈織は頬を赤らめた。基は嬉しそうに笑みを浮かべたまま、奈織を自分の方へ引き寄せる。
服越しからも感じる基の体温に、奈織は安心感が溢れてきた。
「昨日…」
「昨日どうした?」
「昨日、基の部屋から帰った後、お兄さんと話したんだ…」
「俊と何を?」
奈織は唇を横に開いて笑みを浮かべる。
「奈織と俺のこれからの人生についてだ」
体温を確かめるように抱きしめ合っている奈織と基を引き裂くように、俊彦の苛立ちを隠せない声が聞こえる。
「お兄さん…」
「俊…。お前嫁さん、ほっぽって平気なのか?」
俊彦は咳払いを一回してから、それでも離れようとしない奈織の腕を引き寄せ基から引き剥がす。
「あっ…、何するんだよ!」
不満の声を漏らす基を一睨みすると、離すものかと言わんばかりに、今度は俊彦が奈織を抱きしめた。
「彼女は今、ご両親に挨拶している。それより、貴様、俺への嫌がらせか? 奈織の首に期すマークなんか付けて…」
「えっ…」
俊彦に言われて初めて気付いた奈織は、慌てて首を押さえる。
「はぁ~ん、気付いた? 奈織は俺のものだよ~って証拠」
どう考えても俊彦を挑発しているように聞こえる口調で、基はすました顔をする。
「奈織が誰を選ぼうと、俊ちゃんには関係ないだろう? まして今日からお前は既婚者だ。もう奈織よりも守らないといけない人間が?」
基の言葉が奈織に刺さってくる。表情が曇った奈織を慰めるように、俊彦は抱きしめる腕を強める。
俊彦の温もりに、奈織は兄弟二人きりで話せる最後の夜を思い出した。
夕べ奈織の部屋を久しぶりに訊ねた俊彦。俊彦はベッドの上に腰掛け、奈織も近くで話をしようと隣に座った。
『今日も基の頃へ行ったのかい?』
『え、う…、うん』
お互い大人になり、普段の生活では見えない部分があることも理解していた。けれども俊彦の言葉が自分の人には見せたくない所を盗み見られた気がして、奈織は戸惑いを感じた。
俊彦は困っている奈織を見えて、慈しむように目を細めた後、子供をなだめるように肩を抱きしめてぽんぽんと手で優しく叩く。
『奈織がそれでよければ、俺はそれ以上言えないな…』
『ごめん…』
『何で奈織が謝るのかい? 奈織は悪いことしていないだろう?』
『それは…、うん。そうだね…。僕はずっとお兄さんがいないと生きていけないと思った…』
『奈織…』
『でもね、今は違うと思う。父さんにも、母さんにも紹介できなし、本当に好きとか愛しているとか判らないけど…』
『けど?』
『僕は、基と離れられない…。それだけは自身がある…』
堂々とした奈織の表情に満足したように、俊彦は微笑んだ。
『そうか…、だけど忘れないでくれ…。俺は、ずっと奈織のお兄さんだからね…』
『うん』
奈織は肩にある俊彦の手に自分の手を添えると、温もりを求めるようにその方向へ首を傾けた。
「彼女には言ってある…」
基の言葉に挑発されるように、抱きしめる俊彦の手に力が入り、小刻みに震えているのが奈織にも判るほどだった。
あまりに突拍子な俊彦の発言に基は眉音を寄せる。
「はぁ? お前、何言ってるか、判ってるの?」
「判っているさ。俺は、奈織が大切だからな…」
「お兄さん!」
夕べ話したこととまったく違う俊彦の言葉に、驚くように奈織は表情を見つめた。
「お前ね…。まあ、奈織のことは俺に任せろって…」
「貴様が奈織のことを本当に支えられるのか?」
「当然だろう? 長さはお前には負けるかもしれないが、俺は、奈織に何年片思いしていると思っているんだ」
「基…」
いつもそんなことを口にしたことの無い基の言葉に、奈織は笑みを浮かべた。
基の硬い意志を確認すると、俊彦は奈織を抱きしめている腕を緩めて、背中をポンと押した。
「よかったな…、奈織、おめでとう。ただし、昨日みたいにこいつの部屋に入り浸るなんてだらしのないことをするな!」
「俊~、お前は姑か?」
「それに近いかもな。奈織は俺の可愛い可愛い弟だからな…」
「うん、きちんと自分のすることにけじめをつけるよ」
奈織は俊彦に笑みを浮かべた。すると基は真剣な表情をして俊彦に視線を向ける
「お兄さん、奈織を俺にください」
真面目な表情をする基に、俊彦は表情を曇らせ、自分の腕の中にいる奈織を見た。
「お兄さん…、ありがとう…。お兄さんも幸せになってね。基がいい加減なことしたらお兄さんのことに帰るから…」
別れるそんな気はまったくしなかったけれど、奈織は基を挑発するようににっこりと笑みを浮かべ俊彦の頬に口づけをする。
基はそんな奈織の姿を苦笑しながら見つめた。
けれど、奈織の心は基の元を離れないと決めていた。もちろんそんなこと悔しいから、基には言わないけれど…。
Fine…。
ある時、そんな働き者の娘、織り姫の元へ父親である神様は、牛飼いの"彦星"を連れてきました。二人は恋をし、来る日も来る日も一緒にいました。それこそ"織り姫"ははた織りを、"彦星"は牛飼いを忘れるくらいに…。
神様は仕ことを忘れた二人に腹を立て、天の川を隔てた先に離してしまいました。
けれど二人は離ればなれになった悲しさに耐えるように、また必死に仕ことました。そんな二人を神様は許し、毎年七月七日の晴れた日に二人が逢えるようにしてくれました。
二人は年に一度、七夕時に逢うために必死に仕ことをしました、とさ…。
めでたしめでたし。
七月七日と同じ日に生まれた兄弟は、兄の名を
"彦星"から一文字取って、"俊彦"。弟は"織り姫"から一文字取って、"奈織"と名付けられた。
八歳も年の違う兄弟の所為か、俊彦は両親よりも奈織の世話を色々とみてくれた。男らしく優しい兄を、奈織はこの世で一番大好きになっていった。
"織り姫と彦星の話"は、子供の頃よく俊彦が奈織にしてくれた話だった。
奈織が一人で寝付けない夜。
いつも仕ことでいつもいないお父さんや婦人会で出掛けることの多いお母さんの変わりに、俊彦が寝物語に七夕の神話を話してくれた。それから、話終わると、いつも優しく頭を撫でながら訊ねる。
『奈織もいつか"織り姫"のように、すべてを捨ててもいいくらいに好きになる人が、できるのだろうか?』
奈織はそう問いかけられると、『相手がお兄さんみたいな人だといいな…』、といつも真剣に思っていた。
その気持ちが俊彦にも伝わるのか、微笑んで優しく額や頬に口付けをしてくれた。
奈織の夢は、兄のお嫁さんだった。
"織り姫"にはなれないと気付くまでずっと…。
* * *
「いってきます…」
誰に声をかけるわけでは無い声でそう呟くと、市川奈(な)織(お)は音を立てないように静かにドアを閉めた。玄関を出ると、二メートル程の門までの距離を、人の歩幅に合わせて埋められている石を、とんとんとんと、慎重に進む。
この家に住んで幼い頃から数え切れないくらい通っているたった二メートルの距離。けれど、器用ではない奈織は、この石で作られた道が苦手だった。
小さな頃、数え切れないほど、誰も歩きづらいと思えない間隔に埋められているはずの石の道でつまずいて転んだり、数センチほどの高さから落ちて、怪我をしたりしていた。両親は、そんな不器用な奈織を見て、"どんくさい"とよく呆れながら笑らわれていた。けれども俊彦は、ほんの二メートルの距離を難儀して膝を打って泣いている弟を心配してくれた。そして、脅えて歩きたがらない奈織の手を引いて、『大丈夫だよ』と微笑んでくれる。そんな俊彦を思い出し、笑みをこぼしながら、小さく呟くようにもう一度「いってきます」と言って、軋む門を開閉した。
似たような家が建ち並ぶ新興住宅地。この界隈は、奈織が住んでいる所もそうだったけれど、ほとんどの家が小降りながら庭付き、二階や三階建てで、比較的新しめ、と言ってもここ十年くらいで建築された一軒家が並んでいる。築十数年になる奈織の家は、その中では少し古い方に入っていた。
生まれて間もない頃に引っ越してきたこの家。
奈織は近所の家のベランダに飾られた、七夕の笹飾りを塀越しに見つめると、知らず知らずに溜息を付いていた。
子供の頃のできるごとを夢で見たからなのか…、それとも今日が奈織にとって特別な日だからだろうか…。とても幸せなはずなのに、何故か寂しかった。
目覚めた瞬間、奈織は涙を流していた。その所為だろうか情緒不安定になっている、そんな気がした。
"七月七日…"。
そう呟いた瞬間、ポンと肩を叩かれ、慌てて奈織は振り向いた。
「何、焦ってるんだい? 奈織、途中まで一緒に行こう」
「あっ、お、お兄さん…」
いきなり目に飛び込んできた俊彦の姿に、奈織は少しだけ頬を赤らめながら頷いた
奈織の初恋は、兄である、俊彦だった。もちろんまだ恋愛だとか、男女の差などを理解する前の幼い頃ではあったけれど、それでも真剣にいつか俊彦のお嫁さんになりたいと信じていた。
忘れていたことを思い出し、奈織は切なくなるのを必死に押さえ笑みを浮かべる。
「これから、出勤?」
「ああ、今日は忙しいから、少し早めにこと務所へ行くんだ」
「大変だね…」
「まあな。でも好きで始めた仕ことだからな、文句は言えないよ。今日は来客もあるから、一日ずっと忙しいだろうな…」
苦笑しながらも凛々しさを感じさせるそんな俊彦の笑顔だった。
今日の俊彦の姿は、いつものラフな服装ではなく、ソフトではあるがスーツを着ている俊彦に奈織は、少しだけ頬を紅潮させ微笑む。
商社に勤めていていつも朝早く夜遅い父と、会社の婦人会などの奥様方のつきあいで忙しい母に変わって、俊彦はずっと奈織の世話や色々なことを気にかけてくれていた。
自分が男の子で、お嫁さんになれないと気付いた後でも、俊彦はずっと奈織のあこがれの存在だった。
いつ見ても格好いいと思わせる俊彦は、痩せていて、高校二年になっても身長が165cmの奈織と比べると、同じ両親から生まれた兄弟なの嘘ではないかと思える程だった。
奈織よりも十センチ以上高い身長と、整った体型。髪も柔らかすぎて染めてもいないのに色の薄い奈織の髪とは対照的で、真っ黒のストレート。その髪をショートにした髪型が凛々しさを感じさせた。
俊彦と比べられれば奈織の容姿は欠点だらけのものだった。低い身長もやせこけた体型も、幼く見える大きなドングリ型の目も、茶色っぽい腰のない髪も…。
広告デザイナーの所為もあって、いつもはポロシャツやソフトなワイシャツにチノパンと比較的ラフな姿をしているが、今日みたいにソフトではあるがスーツを着ていると、雰囲気は変わる。しかし、それでも似合っていて俊彦のためにデザインされているのかとすら思えるほどに…。
容姿だけではなく性格もそうだった。
気が弱く、いつも俊彦の後をついてまわっていた奈織とは、まったく正反対の性格で、子供の頃から美術が得意だった俊彦は、中、高の美術部を経て、美大に入った。そして中学から一緒だった友人の"中村 基"と共にデザイン会社を作り、小さいながらも広告のデザインを中心に広告全般の仕ことをしていた。
俊彦のやっている会社は、大きな会社のデザインと違って、それほど雑誌やテレビでは話題には上らない。それでもどこか大きな会社の下請けもしているらしく、奈織が通学で使う電車や駅で俊彦が作った物をしばしば見かけていた。
俊彦の作品を見かけたり、張られている場所を教えて貰うと、とても嬉しかった。
「で、今日は、奈織はどうするんだ?」
「え?」
俊彦に見とれていた奈織は、問いの意味が飲み込めずに、戸惑いながら首を小さく横に傾げた。何を質問されているのか判らず不安そうな表情をしている奈織に、俊彦は愛しいものを見る優しい表情を向ける。
「ほら、今日は奈織と俺の誕生日だろ? 何か予定はあるの?」
「あっ…」
そうだった…。
七月七日の今日は俊彦と、そして、奈織自身の誕生日だった。
いつも忙しく家にいることがない両親に変わって、よく俊彦と一緒に祝う誕生日だった。晴れの日にしか逢えない"織り姫と彦星"には申し訳なかったけれど、曇っていようが雨だろうが祝う二人の誕生日が大好きだった。
しかしデザインのこと務所を作ってからの俊彦は忙しくて、子供の頃のように一緒にはなかなか祝えず、わがままを言ってはいけないと思いつつ、少しだけ寂しかった。そして、ちょっとだけ誕生日が嫌いになっていた。
奈織はどうせ両親の帰りも、俊彦の帰りも遅いのなら一人で祝わなくてもいい、そんな投げやりな気分で呟く。
「あ…、そうだよね…。今日は七夕だもんね…」
無関心な奈織の態度を見て、誕生日を喜んでいた印象があった所為か、俊彦は眉音を寄せる。
自分の言葉に眉をひそめた俊彦に、"お兄さんは仕ことで大変なんだ。わがまま言っちゃいけない"と、自分に反省すると奈織は慌てていつもの笑顔を作る。
「あ、ごめんなさい…。えーと…、今日は六時間授業だけど…、その後、お友だちと逢う約束があるから…、でも多分七時までには帰れると思う…」
「そうか…、祝ってくれるお友だちがいるんだね。よかったね」
俊彦の優しい言葉が嬉しかった。けれど、何とも言えない気恥ずかしさに、奈織は思わず口を引き結んでしまった。頬を赤く染め困っている奈織の頭を、俊彦は子供を誉めるように軽く撫でる。
「あの…、お兄さんは…、やっぱりお仕こと?」
「え、ああ、ごめんな、せっかく二人の誕生日なんだけどね。今日絶対に入稿しなければいけないチラシとポスターがあるから…。帰りはクライアントの返答しだいなんだけど、きっと遅いと思うよ…」
「そうか…」
両親が家にいないのが当たり前の奈織にとって俊彦の存在は絶対だった。
溢れ出す寂しいと思える気持ちを必死に押さえて、俊彦に悟られないように奈織は、普段している表情をするように必死に心掛ける。
「奈織一人でお留守番できるかい?」
不安そうに表情を曇らせる奈織の頭に手を置きながら、俊彦は首を横に傾げた。
いつまで経っても子供扱いする俊彦に、奈織は子供のように口を尖らせる。
「や、やだな…。僕だってもう高校二年だよ!」
「そうだな…。悪かった、悪かった」
いくつになっても可愛らしい奈織の態度に、俊彦は微笑みながら勘弁してくれ、とジェスチャーするように両手を上げる。
「でも、帰る時間が判らないから、奈織は先にご飯を食べてしまうんだよ。今日も母さんは婦人会の用ことで出掛けるって言っていたから」
「うん、判った。でも、お兄さんもお仕こと、大変そうなんだね…」
「有り難う、奈織は優しい、いい子だね。でも、好きでやってる仕ことだからね、大変とは思っていないよ」
優しく微笑みながらも、自信ありげにそう言いきった俊彦の姿がとても格好よかった。自慢の兄に嬉しくなった奈織は、毎日逢えないわけではないのに、寂しいと思ってしまった自分に反省した。そして、できるだけ俊彦を励ますように笑顔を作る。
「そうなんだ…、でも、無理しないでね」
「大丈夫だよ。奈織がそうやっていつも心配しているから、無理はしないから」
俊彦の優しい言葉に、奈織はにっこりと微笑んだ。
「そうだ。お兄さんに誕生日プレゼント用意してあるんだよ。おこずかいを貯めてだから、そんなに良い物じゃないけれど…」
「奈織は学生なんだから、そんな気を使わなくていいだよ」
「でも、高等部に上がってバイトしているお友だちも何人もいるけど…」
寂しそうな表情をする奈織の頭を、俊彦はあやすようにそっと撫でる。
「そんなこと、奈織はしなくていいんだよ。それに奈織の学校はバイト禁止だろう?」
「う、うん…」
いつも自分を気づかっていてくれる俊彦に何かしたかった。けれど高校に上がったばかりでは、まして不器用で、バイトをする勇気もない奈織では何もできない。自分のこと実と思いの矛盾を噛み締めながら奈織は表情を曇らせた。
「でも、有り難う嬉しいよ、そう言ってくれるだけで…。俺も奈織に誕生日のプレゼント用意してあるんだ」
「え、本当?」
「楽しみにしていてくれよ。でも兄弟で同じ日が、家の親は、手抜きだよな…」
俊彦のふざけたもの言いに奈織は嬉しそうに微笑みながら呟く。
「でも…、七夕生まれって…、僕は、好きだな…」
「そうか?」
恥ずかしそうに呟く奈織を見て、眩しそうに目を細め、俊彦は頷いた。俊彦の視線に奈織は自分で口にしたことに照れながら、少しだけ照れを隠すように口を尖らせる。
「でも、"奈織"って名前は、好きじゃない…」
「そうなのか?」
「お兄さんの名前は、"彦星"から、"俊彦"ってすごく素敵だけど、やっぱり"奈織"って名前は…男なのに…、"織り姫"からとったって、いやだな…」
「そうなのかい?」
「お兄さんみたいに格好いい名前だったら…、僕も格好よくなれたかもしれないのに…」
「そんなことないよ。奈織に似合っていてとても素敵だよ。それに奈織はとても可愛いよ」
「可愛い?」
「そうだよ。奈織のぱっちりした目の形も、さらさらの茶色髪も、それに抱きやすい身体も…」
俊彦は満足げに笑顔で頷きながら、自分の腕の中にすっぽりと入る奈織を抱きしめた。
「それに、俺は好きだな…、"奈織"って名前…。もちろん奈織自身はもっと大好きだよ」
"好きだな"と言うと言葉と温もりが嬉しくもあり、それでも道ばたで抱きしめられ恥ずかしくもあり。奈織は頬を赤らめて俊彦の腕から逃れた。
俊彦は真っ赤になっている奈織を愛しげに目を細めて見つめ、そして自分の方へ引っ張り寄せると頬に優しく口付けた。
「お兄さん…」
俊彦の肉厚の薄く暖かい唇が大好きだった奈織は、耳まで真っ赤になりながら笑みを浮かべた。
「さ、のろのろと歩いていると、学校に遅刻するぞ」
優しく頭を撫でられ、嬉しそうに頷くと、奈織は少しだけ足を早めた。そして少し俊彦から離れた所で立ち止まり俊彦に手を振る。
「お兄さんも、いってらっしゃい」
笑顔で幸せそうに学校に向かう奈織を俊彦は微笑みながら軽く手を振り見送っていた。
* * *
そびえ建つビル群を囲むように、どこまでも晴れ渡った空の先には、入道雲が微かに見えている。まだ梅雨明け宣言はしていなかったけれど、七月に入って雨は一向に降っていなかった。今晩はきっと"彦星"と"織り姫"は、再会ができるだろう。
決して無理をさせないが塾に通わせないでも大学部や、有名一流大学に進ませる、そんな授業を六時間まで受けやっと放課後の時間を迎える。
奈織の学校は私立の幼稚園から大学まで一環教育をしている学校だった。小学校の時におっとりして周りのペースになかなかなじめない奈織は、俊彦に薦められてこの学校に入学した。様々なクラブや、校外活動でも名を馳せている学校は、のびのびと生徒の個性を大切にする校風になっていた。そのおかげで、別にクラブや校外活動をしているわけではなかったが、劣等感を与えず学業生活を送っていた。
硝子の先は、陽炎が揺らぎ真夏の温度を予想できる、そんな風景。
外の気温が予想できないくらいきつく冷房がかかった学校から少し離れたショッピングデパートの四階で、微かに見える空を見つめながら、奈織は小さく息を吐いた。
「ねえ~、これ、どう思う?」
奈織を呼びつけるように聞こえる、そんな言葉。
少し離れた所でアクセサリーを眺めていた田畑美樹が、少し長めにきれいに整えられ、ラメの入ったピンクのネイルが施された指先を振って、手招きをしている。
店にいる客の女子高生たちから浴びされるすごくいやな視線と、ざわめきに奈織は逃げ出したくなった。
しかし、美樹は呼んでもなかなか店から少し離れていた場所を動こうとしない奈織を見ると、咎めるようにきらきらのグロスを塗ったピンクの唇を尖らせている。
奈織は客も店員も女性ばかりで、自分とは関係のない商品が並んでいる店に、恥ずかしさを感じながらもゆっくりと美樹の元へ行った。
店に入ると、益々ざわめきや下卑た視線を受け、何か言われている気がする。多分自意識過剰ではないと感じられるのは、美樹の元へ行く途中見ず知らずの女の子に"よかったらお茶でも"それでなければ"今度つきあえ"だの"携帯のNo."だのと誘われることが多かった。
そうなると美樹はとても不機嫌な表情をして奈織を呼びつける。
小さく溜息を付きながら近寄ると美樹は、真っ直ぐにのばした黒髪ロングヘアを頭の高い部分で二つに結んでいる部分に鏡を見ながらヘアアクセサリーを添えている所だった。
中、高の女子高生ばかりの中に入ると、美樹は多分、美人の部類に入ると思う。美樹は、奈織よりも少しだけ低いくらいの身長だった。
"山手の女子校"と地元でも有名な女子校の建ち並ぶ中でも、本などでもいつも取り上げる有名デザイナーのデザインした制服が似合っていた。深緑地に白と黒の大きめのチェックのスカートに、丸襟にちょうちん袖の半袖ブラウス。胸には赤リボンが華やかにあしらわれていた。
高校を選択した理由が制服だと言っている美樹は、自分にどんなものが似合っているのかをよく知っているらしい。人から見られて、可愛いと言われることが嬉しいらしく、常に容姿を誉められるように考えて歩いているそんな堂々とした姿が、奈織にはとても羨ましかった。
「ねぇ、どう思う?」
まるでグラビアモデルのようにポーズしている美樹に、奈織は戸惑いながらそちらに近づく。するとビーズで作られたイチゴのヘアアクセサリーを自分の髪の毛を結いている部分に添えて、美樹は首を傾げていた。
嬉しそうに笑顔を見せる美樹に、何と言っていいのか戸惑いながらも奈織は微笑みを返す。
「と、とっても似合うと…、思うよ」
嘘ではなく、幸せそうにヘアアクセサリーを見ている姿は、とても可愛いと真剣に思い、奈織は頷いた。しかし、そんな姿が美樹にはどこか興味なさそうに見えるのか、奈織の態度を疑うようなそんな視線を向けて唇を少しだけ不満げに尖らせる。
「本当に? ねえ、真剣に見てる?」
「田畑さんは…、その…、可愛いから、そう言うおしゃれなのがとても似合うと思うよ」
"そう?"と見つめる美樹に、頷きながら奈織は微笑んだ。
不安そうな視線を送ったり、唇を尖らせたりころころ自分の感情で変わる美樹の表情。自分の思っていることを表情に出せない奈織にとって、美樹はすごく羨ましい存在だった。
「有り難う。でも、奈織の誕生日プレゼント探しに来てるのに、私につき合わせちゃってごめんね~。でも、奈織が悪いのよ、全然欲しいもの言わないから…」
拗ねた風に上目づかいに見つめる美樹に、そっと微笑んで奈織は小さく頭を横に数度振る。
「別に構わないよ。田畑さんがそれでいいなら…」
奈織の言葉に合点がいかない顔を一瞬だけしたが、すぐに猫がじゃれつくような瞳をして、美樹はにっこりと笑いながら首を傾げる。
「本当? ねぇ、じゃあさ、これ、奈織の誕生日の記念に買ってくれる?」
「え? いいよ、そんなに高い物でなければ…」
買い物につき合うようになってから、時々こうやってねだってくる美樹に最初は驚いた。けれど、クラスの友人の話を聞くと大体皆そうなのだと言っていた。それにこうやって慕ってくれるのは別にいやではなかった奈織は、笑顔で鞄から財布を取り出した。
田端美樹との出逢いは、今年四月に奈織が中等部から高等部へと移り、それから少しだけ環境に落ち着いた五月、校門のところにいた声をかけられたのがきっかけだった。
高等部に上がって通学の時に驚いたことは、校門の少し離れた所で奈織の学校の生徒を待っている近くの女子校生の姿だった。有名お嬢様学校を数校含んだ山手の女子校と言われる港を見下ろせる丘は時々テレビの取材が来るほど有名だった。
その近くにある奈織の学校は、"紳士たれ"と言う校訓で明治から続く由緒正しいキリスト教の男子校だった。制服も冬はワイシャツに黒のジャケット、グレーのタイとズボン。夏になった今は、ジャケット無しの半袖のワイシャツに、グレータイにグレーのズボンと英国紳士を思わせるそんな制服だった。
その上品な制服の男子校は、昔から周りの生徒の目を引いていたらしく、校門近くで常に女性がいるらしかった。
そんな話題の高等部と少し離れた所にあった中等部の学舎にも、手紙を携えた女子はいたらしい。けれど疎い奈織は中等部に通っていた三年間気付かなかった。
高等部の校舎は、少し離れた駅へ行く道が一本道になっている所為もあって、さすがに疎い奈織でも気が付かないわけはないくらいに、学校の生徒を待つ女子高生を見かけた。そして奈織自身も何度も声をかけられ、手紙を渡された。
中学に入ってから母親以外の女性を知らなかった奈織は、そんな積極的な女性たちに戸惑うだけだった。けれど五月を過ぎる頃には、友人たちはそんな女子高生がいる風景に慣れ、親しくつき合っているものも少なくはなかった。
そんなある日だった、数人の女生徒のリーダー的な雰囲気だった美樹に声をかけられたのは、『良かったら皆でお茶しない?』と…。
その日、奈織が一緒にいつも帰っている友人と、双方の友人混ぜて六人で放課後を過ごした。それから美樹から何度も買い物や喫茶に誘われて、それほど時間をおかずに『つき合って欲しい』と言われた。押しが強い美樹に流されるようにつき合いが始まった。
美樹は明るく皆から人気があるし、話しを聞いていて楽しい。けれど時々こんな風なつきあいで美樹は本当にいいのかな…、と不安になる時がある。多分それは美樹以前に奈織にはつきあう相手として、どうしていいのか判らないからだと思うからだった。
* * *
買い物を終え、その後比較的安めのケーキの美味しい店に入って話を聞いたりしていると、日はまだ傾く気配を見せなくても、それなりの時間になっていく。
気が付くと、街は会社帰りのサラリーマンやOLなどでごった返していた。
美樹の学校は、今日期末試験を終え、明日からはテスト休みに入るらしく共に遊びたいと言われた。けれど、二期制を取っている奈織の学校は、夏休みまで休む間もなく授業や補修がある。それを知っている美樹は残念そうにしていたが、それでもヴァカンスを謳歌するのだとはりきっていた。
そんな時間を過ごし帰りの電車のホームに立つと、べとべとと身体に絡み付くような熱気に包まれる。
例年梅雨が明けているか、明けていないか判らない鬱陶しい季節。しかし、今年は空梅雨でまだ七月になったばかりだと言うのに、八月前半を思わせる暑さだった。
ショッピングデパートがある駅から、汗、人混み、そして暑さと不快な気分を耐えて、すし詰めの電車に乗り、美樹の家がある住宅地の人通りがそれほど多くない、私鉄の各駅停車の駅で下車した。奈織の家はここから数駅行った急行も止まる駅だが、それでも一緒に放課後の過ごすようになってから、美樹に言われた。それから少し遠回りではあったけれど、美樹を送ってから帰ることにしていた。
改札を抜けると、美樹の住んでいる街は、思ったよりも帰宅を急いでいる人が多く見えてくる。奈織は、美樹に引っ張られるように、駅前ロータリーにある植え込みに腰掛けた。
「ねえ~ 似合う?」
嬉しそうに鞄からアップライトの鏡を出し、メイクを一通りを直した後、様々な角度から自分の髪をさんざん見たかと思ったら、今度は満面の笑み少し自慢げな表情で、奈織がプレゼントしたヘアアクセサリーを髪に付けて見せてくる。
自分を飾ることなどない奈織は、美樹につき合うようになって常に化粧やアクセサリー、周りの同世代の女子を意識している姿に驚いた。
ただ通り過ぎていく見知らぬ人や、自分と似たような姿をした女子高生に腹を立てたり、気に入ったものに感動したり、笑ったりしている姿に奈織は驚き、そして少し羨ましいと思えた。
今もすぐ横で嬉しそうに微笑んでいる美樹の表情が見えると、単純に喜んでくれて良かった、と感じ自然に笑みを浮かんできていた。
笑顔で頷く奈織に、美樹はクスリと声を笑った後、表情を変えないまま、そっと目を閉じキスを求めるように唇を尖らした。
何を求めているのか一瞬奈織には判らなかった。けれど、美樹の雰囲気から何となくだった。けれど行動の意味が伝わってくる。
キス…。
奈織に取って俊彦以外とする初めての口付けだった。
どうしていいか判らずに動けないまま戸惑う奈織に、美樹は薄く目を開けて小さく微笑む。それから、自分の腕を奈織の首にからげて引き寄せた後、唇に押しつけてくる。
唇が触れるだけの口付けだったけれど、俊彦の暖かくて、薄めの優しい唇とは違い、リップグロスの脂っこさだけが印象的に残るものだった。
突然の口付けに思考が止まり、どうしていいのか判らないまま座っている奈織に、美樹はにっこりと笑うと嬉しそうに立ち上がる。
美樹が立ち上がった瞬間、感じたことは、唇が重なったと言う感覚や性的な男性の本能のような感覚ではなかった。奈織を見下ろしている美樹の身長は自分とはまったく変わらず、反対に彼女はどんどん成長して行き大人になっている。そんな羨ましさだった。
「じゃ、帰るね。これ、有り難う、嬉しかったよ」
ヘアアクセサリーにそっと手を添え美樹は、奈織に手を振ると満面の笑みで去って行く。
一人取り残された奈織は、人通りがある場所でのファーストキスに戸惑い真っ赤な顔をしながら、必死に笑顔を浮かべながら美樹を見送った。そして、美樹が見えなくなった所で、奈織は無意識に溜息を付いた。
その瞬間、奈織の背後から見知った声が聞こえてくる。
「見たぞ~」
誰かと思い驚きに振り返ると、背後で何か言いたげな笑みを浮かべて手を振っている中村基が立っていた。
基は俊彦の高校時代からの友人の所為か、奈織が気負いもせず普通に話しができる数少ない人物だった。何度となく、家に遊びや泊まりに来ていて、奈織とも俊彦と共に何度も出掛けたりしていた。
俊彦と高校で美術部で知り合い、馬が合ったらしく、同じ美大を経て、今一緒にデザイン会社をやっている。
基の作品の見せて貰ったが、俊彦はどちらかと言うとでき上がったもの全部を見て、素敵とか、きれいと言う雰囲気がある。けれどそんな俊彦とはまったく違って基は、見た瞬間、目の前で何かが弾けるようなそんな不思議な感覚のあるものを作っていた。
そう言えば、俊彦が時々愚痴るように、クライアントの思いと重なると受けが良いが、拒絶される時はぼろぼろにされている…、そんなことを聞いた覚えがあった。
俊彦とまったく違うタイプ。容姿にしても身長は二人ともあまり変わらなかったが、なんでもそつなく品よく着こなす俊彦と真逆で、やんちゃできかん気が強かった街のガキ大将がそのまま大人になったような、そんなタイプだった。
今も体型がまったく判らないたっぷりした紺ジーンズに、ガーゼ地の和風プリントがされているシャツを着て、ナイキの赤のストライプが入ったビンテージスニーカー。髪型はショートで前髪だけ逆立てて、真っ赤な細い眼鏡をかけていた。すべてのコーディネートがおしゃれなのか、まったくそうでないのか人によって疑問を感じさせるように見えた。
基に美樹とのキスをしている所を見られ、奈織は恥ずかしさで顔がどんどん熱くなるのを感じた
「いいね~、性少年。青春って感じ?」
いやらしくて大げさな笑みと、それをジョーダンで笑い飛ばせるような態度の基に、眉音を寄せながら奈織はぼそりと反撃する。
「中村さん…、おやじくさい…」
「ひっどーい、ボクは、君のお兄さんより数ヵ月も若いんだよ! 奈織にそう言われると、俺傷ついちゃうな…」
益々大げさな身振りでそう拗ねると、基は更に派手な格好で泣いたふりをする。美樹とのことをどうこう言うつもりではないのは判る。基の配慮がはっきりと感じるおどけた態度に、奈織は吹き出しそうになるのを抑えた。その変わりにぼそりと、"でも、お兄さんはそんな言い方しない…"と呟いてみる。
自分のふざけた話に乗ってきた奈織の言葉に基はにっこりと笑った後、子供をあやすように頭を撫でる。
「そうだっけ? まあ、奈織の前ではそうだね」
自分の知らない俊彦の姿を知っている、そんな口調の基に奈織は少しだけ苛立ちを覚えた。
人の感情を理解することに鈍い奈織でも判る、基の含みのある口調。何年も親しい友人関係を続けている基と俊彦の間は、きっと奈織では判らないものもあるんだろうと自分を納得させる。しかし、本音は奈織では判らない俊彦の部分が寂しく、そんな基が羨ましかった。
奈織の俊彦へのコンプレックスは把握済みなのか、少しだけ真面目な表情でそっぽを向き、"まあ、俊ちゃんのことはどうでもいいけどさ…"呟く。それからまた奈織の正面に向き直り、再びいやらしさを感じる笑顔に戻す。
「それよりさ、さっきの彼女?」
「え…」
こう言う質問にはいつも困った。学校でも友人から訊かれたが、奈織にとって"彼女"と言う存在がどんなものなのか判らなかったからだ。話していて楽しいけれど、けれど、今美樹といる時の感情は恋愛としてつきあっている、そう言うものではない気がした。
奈織は恥じらいではなく、ただの戸惑いを現すように首を横に振る。
「照れなくてもいいよ。君くらいの頃は、俊も、俺も、何人も、彼女がいたもんさ~」
「なんですか? それって?」
ふざけてるように大げさな態度で、基は懐かしいものを思いだすように遠い目をする。基がどうだったかは奈織には判らなかったけれど、俊彦はやきもちを妬きたくなるほどもてる。
直接の姿を見たことはなかったけれど、それでも俊彦の元へ届けられるプレゼントや電話からそんな様子が見え隠れしていた。以前、学校で貰ったと誰かの手作りのお菓子を奈織にも分けてくれた思い出もあった。兄弟とはいえ、いつかは別々の暮らしをするとは判っていても、それでもいつも"俺は奈織だけだからな…"と微笑んでくれた俊彦の言葉を信じたかった。
俊彦のことはおいておいても、常にマイペース以外の人生を送っているように見える基に関しては、適当に恋愛をしているように感じていた。
「奈織だけの俊じゃなくて寂しい?」
「え?」
基に図星を指され、奈織は驚きに顔を上げた。目の前では別に言葉に意味を含ませている様子のない基の笑顔。基の良いようにもてあそばれている気がした奈織は、口を尖らす。
「そんな…、お兄さんはそういう所はきちんとしてるから…、中村さんと違って!」
必死に俊彦の弁護を、と言うよりも自分の思いを誤魔化そうとした。しかし目の前の男はしたり顔をしている。
「ふーん、信じちゃってんだね。お兄ちゃんを…」
何か含みのある言い方に聞こえるのは、気のせいだろうか? 心に浮かんだ不安に奈織は首を傾げる。
「え?」
奈織が露骨にいやな顔をしたように見えたらしく、軽く両手を振って基は言葉を取り消すように笑みを浮かべる。
「いーや、でもさ、そのくらい普通だろ?」
「…。判りませんよ。そんなの…」
「…」
「あ、あの…」
無言に耐えられないように、奈織が基をのぞき込んだ。とたんに基は、近づいてきた奈織の腕を勢いよく掴むと、歩き始める。
「ちょ、中村さん…」
「奈織、今日、誕生日だろ? 飯ごちそうしてやるよ」
「でも…」
「せっかくの誕生日なのに、俊は仕事で帰れないしさ。だからこれは絶好のチャンスってことで…」
「何がチャンスなんですか?」
戸惑って動けないまま立ちつくす奈織の唇をかすめるように、奪った後、基は上機嫌で腕を掴んだまま歩き出した。
* * *
時間が経って、陽が陰っても、それでもその日は蒸し暑い感じられる。
窓の外で帰りを急ぐ人々は皆不快そうに、汗を拭っている。
美樹とのキスを目撃され、抵抗する間もないほど強引に腕を引かれ、一番最初に奈織と基が向かったのは小さな街の印刷所だった。どうしていいのか判らずに戸惑う奈織に、基は印刷所の近くにあるコーヒー店を指さし、"すまん、ちょっと届け物してくるからあそこで待っていてくれ"と言うと印刷所の中に消えていった。
そのまま帰ってしまうこともできず、奈織は基が指さしたコーヒー店へ向かった。基は、小一時間、帰ってくる様子はなかった。
そう言えば、俊彦がどんな仕ことをしているかはよく聞いていた。けれど、どう言う風に仕ことをしているか、今まで奈織は一度も聞いたことがなかった。
俊彦もこうやって印刷所に、行ったりするのだろうか…。
奈織が見た所、俊彦と考え方が180度考え方もすることも違う基。どう言う風に仕ことをしているか、説明されても奈織では判らないのかも知れないけれど、それでも少しだけ興味がわいてきた。
家に帰ったら、俊彦に訊いてみような…、と。
「何? 勉強してるの?」
「え、あっ中村さん!」
グレープフルーツジュースを買い、丁度空いていた二人掛けの机に問題集を広げながら、ボーっと俊彦のことを考えていると頭の上から聞こえる声に奈織は驚いた。
別に問題に集中していたわけではなかったけれど、下を向いたまま基が近づいてきたことに気が付かなかった奈織は、急に声をかけられ思わず驚いてしまった。
製図を入れるような大きな筒になったケースをかけ、コーヒーが並々と注がれている陶器製の重そうなマグカップを持って、基は嬉しそう微笑んでいる。
「驚いた?」
「いえ…、あ、少しだけ…」
頬を赤らめ奈織は俯く。奈織の姿を見つめ、荷物を周りに引っかけないように注意を払いながら、基は目の前に座る。
「なんかさ、デートみたいだよね、こう言うの」
「そうですか?」
奈織は問題集を開いている自分と、ニコニコしながら目の前でコーヒーを飲んでいる基を見比べる。基は一口コーヒーを熱そうにすすると、首を傾げる。
「そうじゃない?」
「あ、あの…、すみません…。僕は…、そう言うの…、よく判らないんですが…」
逆に訊ねられ途方に暮れた奈織は、小さく首を数度横に振った。本当に判らないのだと表すように。
困惑している奈織の表情に、基は少しだけ驚く。
「なあ、"基"って呼んでみなよ、その方がデートっぽくない?」
「何言ってるんですか!」
真っ赤になりながら、否定する基は余裕たっぷりな態度で"かーわいい"と奈織を笑い飛ばす。
「でもさ、マジな話、奈織は、さっきの彼女とそんな待ち合わせとかしないの? 休みの日とか、今みたいな感じに?」
「え? あ、あぁ、そう言うことですね。そう言うのがデートですよ…ね」
本気で驚いている奈織に、基は思わず吹き出す。
「奈織ってほんと変わってるよな」
自分でも変なことを言ったのだと思った奈織は、頬を染めながら話題から逃げるよう視線を机に向ける。そして声をかけられる前に解いていた問題に、印を付けてから問題集を片づけた。
「あ、もしかして、今って、奈織の学校って、テスト中?」
「え?」
「ほら、この時期って、期末とかじゃないの?」
中学からずっと二期制の試験スケジュールに慣れてしまった奈織は、基の質問意図がすぐに理解できなかった。しかし、ほんの少し前に一緒だった美樹が、深い溜息を付きながら"今日まで期末だった"と嘆いていたのを思い出して、基が何を訊ねているのかがやっと判った。
「二期制なので…、試験は九月になってからなんです」
「奈織の学校、二期制なんだ! なんかかっこいいね、それって」
「そ、そうですか?」
不思議そうに首を傾げる奈織に、"さすが私立のおぼっちゃま学校だ!!"と何度も頷き感動しながら、基は何度も頷く。それから何かを思いついたのか、動きを止める。
「でもさ、ってことは試験休みとかもないの?」
学期が二つに別れているのと、それに合わせて試験が中間、期末共に二回ずつなだけでそれ以外はまったく変わりない。基の的はずれな質問に奈織はクスリと笑ってしまう。
「試験休みはありますよ。けれど、九月の期末が終わった後ですけどね」
「え? あ、そうだよね。ごめん、ごめん」
基は、自分がものすごい勘違いな発言をしたことに気が付き一瞬動きを止めた。それから一回発言を誤魔化すように咳き込む。
「ところでさ、彼女の学校、期末終わったの? あの制服って、山手の女子校だよな?」
「え? よく知ってますね…」
「そりゃあ、俺だってこの街で生まれ育った若者よ? そのくらい知らいでか」
訳の分からなことで胸を張って自慢している基に、奈織は思わず顔をひそめる。
「彼女…、田畑さんの学校は今日までが期末で、明日からテスト休みだって言ってましたよ」
「じゃあ、寂しいね」
「え? ええ…、そうですね…。そうか…」
気のない返事をしながら表情を曇らせる奈織を見つめながら、一瞬、眉をひそめた基は一気にコーヒーを飲み終えると立ち上がる。
「さ、飯、行こうか」
さっさと店の外に向かう基を、奈織は慌てて飲みかけの氷の溶けたグレープフルーツジュースを飲みほし、追い掛けた。
店を出るとすぐ近くに埃なのか泥なのかは判らないが、汚れて見える赤いスポーツカータイプの車が止まっていた。
先に店を出た基に手招きされるように慌てて近づくと、運転席から助手席のドアを開けられる。奈織は戸惑いながら基に流されるように車に乗り込んだ。それから車を発進させる。
エンジンがゆっくり動き出すと、それに合わせて奈織が普段まったく聴かないジャンルの洋曲が流れてくる。ゆっくりしたテンポに乗って、甘く切ない女性が囁くように唄う歌。
判る部分を訳すと女性シンガーは、自分ではどうすることもない相手への恋愛の思いを告げていた。
"片思いは悲しいけれど、あなたと共にいる時間が幸せなのよ"、と…。
* * *
「何、食べたい?」
「あ…、べ、別に…、何でも…」
窓の外で流れる見慣れない風景。それだけで奈織は、戸惑い以外感じられず、ましてどこで何を食べるなど浮かびようもなかった。
「奈織って何が好きなんだっけ?」
「え、特に好き嫌いはありません。でも、あまりこう言う風な外食はお兄さんが嫌いだからしないので、どうしていいのか判らなくて…」
「お兄さん…、ね…」
いつもふざけた話し方をしている基に、奈織はもしかして呆れられているのではないかと不安になった。
「あの…」
「いや…、もしかして、放課後とか喫茶店に入ったことないとか?」
「そ、それはありますよ。いくらなんでも…。後は、田畑さんが入りたいって言った店が多いかな? スパゲティとか…、パーラーとか…」
「ああ、さっきの彼女ね。そう言う風につきあってるの?」
「え?」
「彼女が行きたいってこと」
「ええ、だいたいは田畑さんが決めてそれに付いていく感じですよ。その方が田畑さんも楽しいみたいだし…」
基から向けられる質問の答を考え、奈織は初めて美樹と出掛ける店はすべて自分で考えていなかったと気付いた。自分の好きな物を絶対に手に入れる、そんな美樹の性格もあるだろうが、すべてに置いて率先して決めることができない自分を自覚してしまった。
「何か、その彼女って、奈織って彼氏がいるんだぞって、自慢したいだけなんじゃないの?」
言葉を失った奈織の気持ちを知ってか、知らずか、すました言い方で訊ねてくる。
「そんなこと…。自慢できる部分なんて、僕にはまったくありませんよ。弱虫で…、何もできないんだから、僕は…」
「そんなことあるさ、奈織は俊や俺が女だったら絶対に口説きたくなるくらい可愛いし、優しいし。まず、見た目が悪くないだろう? 目なんてぱっちりとしていてそれに二重だし。身長は高くないけど、でも、上中下の"上"入るよ」
「そんな…、格好の良さだったら…、あの…、中村さんや…、お兄さんとかの方がよっぽど…」
「俊? うーん、それはどうだろう…。でもさ、きっと奈織を自慢したいんだよ、田畑さんだっけ? 彼女」
前の車との車間距離を気にしながらも、はっきりと判るいやそうな基の顔は、美樹につき合ってくれと言われ、俊彦に相談したときの表情に似ている。あの時俊彦は口では"よかったな"と言いながらも、奈織が戸惑うくらいにとても怖い顔をしていた。
奈織は張りつめていいよるように感じる空気に、どうしていいか困り俯いた
自慢だの、そんなことではないと思いたかったし、そう考えることもいやだった。とても意地悪く見える基の言葉に、奈織は勇気を振り絞って、必死に反論の言葉を探す。
「あ、あの…、そ、そんなことないです。田畑さんは、少しだけ強引な所がありますけど、しっかりしていて、いつも僕を引っ張ってくれて…」
自分の持っている言葉をあるだけ探しても、なかなか言葉が出てこずに困っている、そう伝わったらしく、基は大きく溜息を付いた。
「判った、判った。おのろけなんだよね、所謂。ごちそうさん」
のろけなのだろうか? 好きとか嫌いで言うなら美樹は嫌いではない。
自分でもよく判らない感情を誤魔化すように、奈織は乾いた笑いをした。
「どうしたの?」
「え…」
「こんな話、いや? 別に奈織をからかってるって訳じゃないよ?」
「え、そんなことはないんですけど…」
言葉を詰まらせた奈織は、車の運転で周りを気にしながら真っ直ぐ前を向いている基を、本人に気付かれないようにのぞき見た。
「あの…、中村さんにお訊きしてどうなることないかも、知れないんですが…」
「何、何?」
「あの…、つきあうって実際どんなことなんでしょう?」
「は? そりゃあ女の子二人っきりになって、一緒に時間を過ごすことじゃない?」
奈織は顔を曇らせたまま小さく溜息を付く。
「やっぱりそうですよね?」
「あ、続き店に入ってからでいい?」
基は車を目の前に見えていた、ファミレスの駐車場に止める。
一階が駐車スペース、二階には一見何人席分の席があるのか判らない広さだった。
奈織と基が行くとエントランスは丁度客がおらず、待たずに中に入れた。
胸を強調する可愛らしい制服のウェイトレスに案内されて席に着くと、基は手拭きで顔や首を拭きながら、大きく息をはく。絶対に俊彦ならこんなことはしない、と思うと奈織は笑みをこぼした。にっこりと微笑んでいる奈織を不思議そうに見つめながら、手拭きをテーブルの上に置くと、基はメニューを手渡す。
「高級レストランでなくてすまないけど、好きなもの喰っていいよ! まあ、俺の奢りだから!」
「…」
ますますおやぢくさい基の言いように、笑うこともできず奈織は言葉を思わず失ってしまった。しかし奈織を混乱させている理由に気付かない基は、へらへらした笑顔を浮かべる。そして、取ろうとしない奈織にメニューを突き出す。
「どうしたの? もしかして、奈織は、おなかいっぱいかな? あ、それとも俊がいないと食ことはできない?」
「べ、別にそんなことないですよ!」
いきなり俊彦の名が会話に出て、奈織は驚いたように言葉を否定した。ムキになって反論する奈織に喜ぶように優しい微笑みを基は浮かべた。
「じゃ、美味しい物食べて、幸せな気分になろう?」
少しだけ自分を反省するように奈織は、小さく頷いてメニューを受け取った。それから真剣にメニューを眺めたが、なかなかオーダーを決められずに途方に暮れてしまった。
そんな奈織に気付き、基はクスリと笑った後"今日は誕生日のお祝いだからハンバーグにしよう、奈織もそれでいいね"と助け船を出してくれた。奈織は少しだけ頬を赤くしながら頷いた。
基はサラダ付きのハンバーグとエビフライが乗ったディッシュと、ご飯、それから奈織の紅茶と自分のコーヒー。最後にショートケーキを頼んだ。
笑顔でオーダーをすませると、表情をそのままウェイトレスが立ち去るのを確認してから口を開いた。
「さっき…」
「え?」
「さっき何か話途中だったよね?」
「ああ、もういいんです…」
「何か気になるな~、そう言う言い方」
「いいんです。ちょっとだけ…中村さんは、どうなのかって聞きたかっただけで…」
「何を?」
俯いて、奈織はコップをいじりながら言葉を探す。
車の中で言いかけた言葉…。自分でも何が言いたかったか判らなくなるような漠然としていて、質問の形にならない不安と疑問だった。
奈織は頭を整理するように、ゆっくりと考えながら基に相談しようとしていたものを形にする。
「あの…、さっき、田畑さんのこと彼女って言ってましたけど…、僕には判らないんです…。彼女とか、つきあうとか…ってどういうことなのか…」
真剣に悩んでいる奈織に、基はちゃかすこともできずに少し考えた後、首を傾げる。
「なあ、奈織はその田畑って女の子と、俊とどっちか好き?」
「え?」
突然会話に俊彦の名が出て、奈織は戸惑った。微かに背に汗がにじみ、冷房で寒いと感じるくらいに冷やされていく。
俊彦と美樹に順位を付けたことも無ければ、どちらなど、選んだことなどない。それよりも選びようなどなかった。
「あの…、そ、そんなこと、考えたことがないんですけど」
「じゃ、今考えてみて?」
そんな風に質問されても困る…、そう言ってしまいたかった。しかしそれを許さない、基の視線はそんな有無を言わさないものだった。
「田畑さんは…、とてもいい学友ですよ。一緒にいて楽しいし…。それと…、お、お兄さんは保護者だし…。一緒に生活していて絶対の存在だし…」
「保護者ねぇ~。でもさ、奈織と俊って、本当に仲いいよね?」
兄弟、それも父も母もいつも家にいない家庭ではありがちな、兄弟関係だと奈織は思えた。俊彦といつも一緒にいるのは当然だったし、離れる理由などない。だからなのか、基の疑問は奈織には理解できないものだった。
「そ、そうですか?」
「俊はきっと奈織のためだったら、きっと人生棒に振るのも平気なんだろうな…」
「そんな…ことないですよ…、きっと。お兄さんの人生は…、僕のものじゃないし…」
「はっきり否定できる?」
「え?」
「だから、俊が奈織から離れていくこと、想像できる?」
基の質問に、奈織は無意識に息を飲んだ。しかし心の中では俊彦を束縛してはいけない、それはずっと思っていた奈織は、基に笑顔で応える
「必死にお兄さんに近づきたいと思っても、やっぱりお兄さんのことだから、僕は判りません」
「奈織君はそうやって、他人ごとに全部しちゃうんだね? さっきの彼女の件もそうなんじゃない?」
「そんな…」
「君は、俊が奈織君に対してどう思っているか判ってる?」
「弟以外何があるんですか?」
「俊も可愛そうだね。奈織君が理解してくれなきゃ…。まあ兄弟だからしょうがないのかもしれないけどね…」
「中村さんは、何故でそんな含みのある言い方するんですか? 中村さんにお兄さんが何かいったんですか?」
真剣な眼差しで基を見つめる奈織。基は何故、怒らせるような発言を選んでいるのかが、奈織には理解できなかった。
普段優しくおっとりした奈織の瞳が鋭くなる。基はクスリと笑う。
「それに応える前にさ…、俺が質問してもいい?」
「どうぞ…」
今までふざけた話し方をしていた基の表情が真剣なものに変わり、奈織は覚悟を決めたように唾を飲み込んだ。
その瞬間、誰よりも明るい声でウェイトレスが、ハンバーグを運んでくる。
言葉が中断され、目の前には飲み物と食べ物がどんどん並んで行く。奈織は言葉を発することも動くこともできなくなり、ただ食卓が整えられるのを待った。
すべてを並べ終わるとウェイトレスは無表情で会釈し、立ち去る。
複雑な表情で目の前のごちそうを見つめる奈織。しかし基は奈織とは対照的にフォークとナイフを持ち幸せそうに食べ物を眺めている。
「あ、あの…」
どうしていいか判らずに助けを求めると、基はあつあつのハンバーグを子供の様に頬張りながらにっこりと微笑む。
「まず食おうよ、話はそれからってな。ほら奈織、にんじんさんですよ」
曇った表情をほぐすように、基は奈織の目の前にフォークに刺したにんじんを出して、嬉しそうにパクリと食べる。場を柔らかくしようとする基に、奈織は微笑むと、小さく"いただきます"と両手を合わせながら呟くとフォークとナイフを手にした。
それからしばらくの間、俊彦の話題を避け、奈織の学校のことや基が今やっている広告の聞き流しても問題のない話題を続けた。
そして、メインが一通り終わり、ケーキにかかった頃基がすーっと真面目な顔に変化する。
「さっきの話の続きしようか?」
「はい…」
知らず知らずに奈織の表情が、強張ってくる。基は奈織の緊張をほぐすようにできるだけ優しい顔をする。
「奈織はさ…、さっきの彼女とつきあっているかどうか判らないと言ったけど…さ。彼女をどう思っているの?」
「え? それは…、一緒にいて楽しいですよ。それにいつも自信満々で羨ましいですね」
「それだけ?」
「それ以上必要ですか?」
「まあ…、奈織は高校生だし、まっいいか…。じゃあさ、お兄さんと彼女比べたらどっちと一緒にいたい?」
「それは…、お兄さ…」
無意識に奈織は俊彦を選びそうになり、言葉を止める。それから自分の思いを否定するように頭を横に数度振る。
「いえ…、そんなの…、比べられません…。さっきと同じ応えですよ」
今まで俊彦以外の人間が自分の中の優先順位で上にいくなど奈織には考えられなかった。確かに昔から俊彦だけいれば、そう思っていた。
けれど、それを言ってから基の質問には、もう自分自身の答が出てしまっていることを後悔する。
心のどこかで今も、俊彦と…。
引きつっている顔がすべて嘘だと言っているようだった。
ショートケーキを見つめたまま動けないでいる奈織を見て、基はクスリと笑う。
「そっか…、もう奈織は答が出ているんだね」
「そんなことないです! お兄さんは格好よくて、あこがれで。ずっとお兄さんのお嫁さんになりたくて…、でも」
「でも?」
「でも、変ですよね。今じゃただのブラコンなだけかなって…」
奈織は大きく溜息を付いた。
すべて判っていることだった。自分が男で、兄弟では恋愛など成立しないこと…。そして、いつまでも俊彦は自分の中で一番の存在だと。
俯き思い詰めている奈織の頭を、子供を大人が慰めるように基は撫でる。
「中村さん…」
「なあ、奈織、一つ提案があるんだけどさ」
「?」
「俺とつきあってみない?」
「え…」
基の言っている言葉の意味が理解できず、奈織は顔を上げたまま目を見開いた。
「奈織に本当の恋愛教えて上げるからさ。まずは今週の土曜日、俺とデートしよう」
奈織は、唐突な基にどうしていのか困り、否定も肯定もできなかった。
「俊も奈織も、兄弟そろってお互いに依存症なんて、これから先、いいことないと思うよ」
「そ…、そんな…」
「俊もね、きっと関わっている人物の中で奈織君が一番大切なんだよ。奈織君と違って本人もそれは自覚しているみたいだしね」
「…」
「男同士とか、兄弟とかでどうかって思う以前に、俊とずっとつきあってきて、話を聞いていた俺の奈織への思いが恋愛なんだなって思えるくらいにね…」
「中村さん…」
澄ました顔をしてすごいことを言う、と頬を赤らめて奈織は戸惑いながら狼狽えた。しかし基はテーブルに肘を突き、目の前でにっこりと微笑んでいる。
「ミイラ取りがミイラってやつだね。ちょっと俊に対してはフェアじゃないけどさ…。男同士は普通じゃないかも知れないけど、奈織君、おつきあいから始めない?」
「でも…」
「奈織、今まで全部俊や周りに自分の人生のレールを決めて貰っていたんだろう?」
「え…」
「今行ってる私立のエスカレータ式の学校だって俊が決めたんだろう? 彼女とつきあうのも、きっと彼女が押し切ったんだろう?」
「それは…」
「じゃあ、取りあえず、今週の土曜日、映画見に行こう。飯、奢って上げるから。それで自分が誰が好きか考えるのもいいんじゃない…」
「そ、そんなこと…、急に言われても…」
返事を見つけられない奈織に、基はだめ押しとばかりに笑顔を向ける。
「奈織、逃げちゃだめだよ。俺は本気で奈織を口説いているんだ。確かに奈織と俊の関係って割って入れないかもしんないけどさ、でもさ」
「…」
「でも、俊が俺なら可愛い、可愛い奈織を紹介してもいいって思ったのは、運命だと思ってる。俺が奈織に惹かれていくためのね」
「中村さん」
「だから、まあ、土曜日俺とデートして、それでも俊がいいって思ったら、俊にそれを言えばいいじゃないか。あいつのことだから、奈織が自分だけを一生見てって願えばきっと心から愛してくれるよ、絶対に」
それ以上の反論のできない奈織。
顔では優しい笑顔を浮かべながら、半ば強引かと思えるように奈織に約束をさせた。奈織は自分がどうしていいのか判らなかった。
しかし、俊彦の奈織への話を聞いてしまった以上、家に帰っても今日のことを相談はできない、そう思った。
* * *
夜がこんなに明るいと、初めてその晩知った。
重い足取りで角を曲がれば家が見えてくる、そんな距離を歩いていた。
溜息を付いてから、俊彦に高等部へ進学祝いに買って貰った黒皮のベルトの腕時計を見ると、時刻はすでに十時近くになっていた。
自由教育と、希望で補習授業を行っている学校の所為か、塾にも習いことにも通っていない奈織にとって、十時と言うのはものすごく遅い時間に感じられた。
そう言えば、美樹と放課後逢って、そのまま帰るつもりだったから、遅くなると家の誰にも告げていなかった。
いつも忙しい両親は、きっと仕ことで帰っていないか、それでなければ高校生になったのだから、時々はそんな羽目の外し方を喜ばしいと言うだろう。けれど、もし俊彦が先に帰っていたら、この時間になっても帰宅していない奈織を心配しているだろう。
本当は早く帰った方がいいのだろう…、しかし小一時間前に基に言われた言葉が奈織の耳から離れず、足取りを重いものにしていた。
基が指摘したことも、俊彦が奈織を心配する気持ちも決して悪気があるわけではない。むしろ、基も俊彦も自分では何も決めることも、行動することもできない奈織を気にしてくれているのだ…。それが痛いほど判る、しかしだからよけいに奈織にはどうして良いのか判らない。
めいってくる思いに、奈織はもう一度溜息を付いた。
今晩は、俊彦に逢いたくない。
誰にも言わずに遅くなったから…、もちろんそれも悪いことだと思えたが、それよりももっと奈織を不安にさせられていた事柄だった。
朝、仕ことが忙しいと言っていたから、運が良ければまだ仕ことから帰っていないかもしれない。ささやかな期待をしながら、帰途に付こうとすると、家の前を落ち着かないそぶりで行ったり来たりしている俊彦の姿が目に飛び込んでくる。
足がすくむ。普通に振る舞わないと…、そう思えば思うほど俊彦に声をかけることも、そこから歩くことも奈織にはできなかった。
困惑する気持ちとは反対に、俊彦は奈織を見つける、少しだけ眉間に皺を寄せ、それから早足で近づいて来る。
そして奈織の前に立つと、どう俊彦と話したらいいか戸惑う姿に気付かずに、益々表情を険しくする。
「こんな時間まで何をしているんだ。心配するだろう?」
「ごめんなさい…。あ、あの…、誕生日…、祝って貰って、その…食ことをしていたんだ」
本気で怒っているそうはっきりと判る俊彦の表情。普段あまり奈織に対して感情を表さない俊彦のことだから、きっと基と一緒だったと言えば、お互いの性格をよく知っている同士だから、俊彦は奈織には怒らずに"そうか、良かったな。しかし家には連絡しないといけないよ"そんな言葉ですむのだろうと困惑している奈織にも思えた。
しかし、今の奈織には、俊彦とどう会話していいのかすら判らなかった。
ただおずおずして、何も言えない奈織の姿に、何か後ろめたいものがあるのではないかと感じた俊彦は声を荒立てる。
「こんなに遅くなくまでか? 家にも連絡できないような理由なのか?」
「ごめんな…、さい…」
「ごめんなさいじゃないだろう? 何時だか判っているのか? 今まであの田畑って娘と一緒だったか?」
俊彦の怒鳴り声と共に、耳に先ファミレスで基に言われた言葉が重なってくる。奈織が俊彦とこれからどう接していいのか不安を感じた言葉と…。
『俊も奈織も、兄弟そろってお互いに依存症なんて、これから先いいことないと思うよ』
そんな風に言われても…、今まで考えたことなかった…。
それ以上に今までの俊彦への思いを否定された気がした。奈織はやり場のない思いをぶつけるように、息を吐きながら呟く。
「ち、違うよ…」
「じゃあ何なんだ、別に奈織が彼女を作るのは、別に俺が文句を言うことじゃない! だが常識があるだろう?」
俊彦に突き放された気がした。奈織は俊彦なしでは生きていけない自身を自覚する。
「お、お兄さんは、遅くなるって、言ってたじゃないか…」
本当はそんなことを言うつもりなかった。家に門限があるわけではないけれど、それでも奈織自身が俊彦に心配をかけただろうし、まして黙って遅くなることはいけないことだと思えたからだった。しかし基から言われた言葉が何度も頭を往復し、それが奈織の心を意味もなく腹が立ってくる。
いつもは素直で奈織の反抗的な態度に驚いた俊彦は、苛立つ気持ちを抑え、できるだけ優しく微笑む。
「俺が遅いから、奈織も帰っていいのか? そうじゃないだろう?」
「…」
唇を強く噛みしめ、俊彦の視線から逃げるように奈織はそっぽを向いた。
奈織に何かあったのだろう、そう察した俊彦は奈織に近づくとそっと頭を撫でる。
「きつく言ってごめんな。でも、仕ことだからしょうがないだろう? これでも奈織と誕生日を祝いたくて、急いで帰ってきたんだよ…」
俊彦の表情から、自分がすごく勝手でわがままを言っているんだ、そんな雰囲気が感じられる。それでもどうしていいか判らない奈織は俊彦から目線を反らした。
「あの…、お…、お父さんと…、お母さんは?」
「父さんは今晩は会社に泊まりって言ってる。母さんは奥様連中と七夕の観劇だってさ。多分、終電までには帰って来るみたいだよ」
「そうなんだ…。子供の誕生日なのにね…」
苦しい物を吐き出すように、奈織は呟いた。両親がいないのはいつものことだと、子供の頃から諦めていたのか、そんなことを一度も聞いたことがなかった俊彦は、奈織の言葉に驚く。
「どうしたんだ、奈織。いつものことだろう、奈織だって判っているだろう?」
「そうだよね…。うん、判ってる…。お父さんも、お母さんも…、そしてお兄さんも仕ことが忙しいのは…」
「奈織、どうしたんだい今日は? いつもそんなこと言わないだろう?」
「…」
心の底で浮かんでは消える黒い感情が、奈織の表情を曇らせる。
「奈織!」
何を考えているのか理解できない態度に、俊彦は声を荒立たせると奈織の顎を掴み、自分真っ正面を見るようにさせた。
真っ直ぐな俊彦の視線に耐えられず、脅えたように視線を外す。
「わ、判ってる。お兄さんのお仕ことが大変なのも、父さんも母さんも忙しいのも…、ちょっとわがまま言ってみたかっただけ…。ごめんなさい…」
「そうか、奈織でもそんな時もあるよな。さ、中に入ろう」
俊彦は奈織を促すように門の中へと進める。狭い道、小さい頃はよく手を引いてくれた二メートルばかりの道。俊彦は奈織を慈しむようにそっと自分に引き寄せると、肩を優しく抱きしめてくれる。
じっとりと汗をかきそうな夜だと言うことを、忘れてしまいそうになるそんな俊彦の温もりのはずだった。
普段だったら物凄い安心感を与える俊彦の暖かさが、今日は緊張しているからか、背筋にゾックっとさせるそんな空気を感じさせる。
奈織は俊彦から逃れると、慌てて扉に向かいドアを開けると、部屋に電気を付ける。
「な、奈織?」
「あ、あの…、な、中村さんが誕生祝いに夕飯を奢って貰ったんだ…」
「中村に?」
「うん、誕生日だけど、お兄さんは忙しいんだからって…。中村さんに帰りにあって…」
基の名前が出た瞬間、俊彦の表情が曇る。基に言われた通りの反応をする俊彦の姿を見たくなかった奈織は慌てるように言葉を付け足す。
「もういい? 今日は色々とあって、疲れたから休みたいんだけど…」
「ケーキぐらいは食えるだろう? 美味しい紅茶を入れてやるから持っていくよ。奈織へのプレゼント一緒にね…」
俊彦の優しい言葉。その反対に奈織の耳元で、また基の言葉が聞こえてくる。
『奈織君は、本当に俊のこと信じちゃっているんだね~』
『それは…、あの…、兄弟ですから…』
奈織、複雑な表情を浮かべて、振り向いて俊彦見つめると小さく横に首を降る。
「ごめん、今は…、いらない…」
そう呟くとその場から逃げるように、走って階段を上がり、自分の部屋へたどり着くとドアを閉める。
曇る目の前の風景の先には、兄がかつて作った地元のスポーツクラブのポスターが見えてくる。
霞む先では、健康的な女性が笑顔で微笑んでいた。
それから数日間、奈織は俊彦とギクシャクした日を過ごす結果になった。結局、俊彦とのプレゼント交換はなされないまま、時間だけが過ぎていく。
そして、土曜日は奈織にとって案外早くやってきた。
* * *
「映画、面白くなかった?」
「え?」
「奈織、ずっとボーっとしていて…」
「ご、ごめんなさい…」
基が選んだ映画は、普段奈織では絶対に見ないだろう単館上映の南米で制作した映画だった。ベースはありがちなラブストーリーだったが、テンポのいいストーリー展開と、南米の音楽と踊り。そして決してきれいとは言い難い原色に近い色彩が混ざりあって不思議な空間に放り出された、そんな奇妙な感覚を感じさせるものだった。
映画を見終わり、映画館近くの喫茶店に入った。ビルの中の一階にある喫茶店は、三十シートくらいある中型店舗だった。
窓側の四人座りの席に案内され、奈織はホットティーを、基はコーヒーを注文した。
歩道沿いの大きな窓の外からは、晴れている所為か、汗をかきながら歩いているカップルや、そして私服の学生たちなど様々な人が通り過ぎていく。
しかし、基が楽しい話をしていると感覚では判っていても、何に対しても反応できない。
ぼーっと外を眺めている奈織を、基は少しだけ心配そうに姿を見つめていた。
「もしかして、俊ともめた?」
「え…。あ、そんなことないです、ご、ごめんなさい…」
俯く奈織に、基は頬杖を付き、微笑みながらまだ湯気が立つコーヒーに口を付けた。
「別に謝らなくてもいいけど、なんか、ショックだな…」
「え?」
「だって、せっかく奈織とのデートではりきって何観るか考えたのに…」
「え、あの…。映画…、楽しかったですよ…」
嘘だった。俊彦とのぎくしゃくした気持ちが先に立って、奈織はストーリーの半分も覚えていなかった。
「じゃ、どんな映画見たか覚えている?」
すべて見通しているそんな表情の基の視線に、やり場がなくなった奈織は、益々俯きティーカップの端を指で何度か往復させた。
「…。ごめんなさい…。やっぱりよく覚えていないです…」
「俊となんかあったの?」
「え? なんで…」
「君たちのことは、大体判るんだよ…」
「え!」
真剣に驚いている奈織に、基はクスリと笑う。
「なーんてね。会社での俊も、今の奈織みたいだったからさ…。心ここにあらずって感じ? ボーっとして。まあそれでもそつなく仕ことはしていたから、更に悔しいけどね…」
悔しそうに舌打ちする基の様子に、奈織は小さく笑みを浮かべた。
「そ…、そんな…」
「ちょっと妬けるな…。まるで二人とも両思いの恋煩いみたいでさ…」
「中村さん…」
一回だけ、正面から視線をはずすと、基は少し考えてから真っ直ぐに奈織を見つめる。
「ね、お兄さんのこと、忘れるいい方法があるんだけど…、試してみるかい?」
何ことかと奈織は、表情を硬くした。しかし、奈織が必死に基の考えていることを伺おうとしても、基の表情からは何も判らなかった。
そして、基は残っていたコーヒーを一気に飲みほすと、立ち上がった。
「行こう…。連れてって上げるよ」
奈織は基の顔を見上げるように見つめ、それを断ることはできなかった。
* * *
基に引っ張られるように来たのは、値段はそれほど高くない港に面して建っているシティーホテルだった。すでにホテルはチェックインできる時間になっていて、待ち時間もなく部屋に通された。
部屋に入るとそれほど大きくない部屋に押し込まれるように、セミダブルのベッドが二台並んでいて、空間が狭く感じる。
十階建ての七階の所為か、窓からは観光でも有名な港と、そして緑の多い公園が見渡せた。
奈織は部屋に入ると、これからここで起こるであろう事柄を考えないように、窓に近づいて外をぼんやりと見つめた。
その瞬間、基は後ろから、包むように奈織を抱きしめる。
「あっ…」
驚きに悲鳴を上げた奈織に優しくそっと微笑むと、基は癖のないうす茶色の髪をさらさらとすいた。そして、一回奈織を自分の腕から解放すると、窓側のベッドに腰掛ける。
「さ、こっちにおいで…」
戸惑う奈織は、声を出すことができなかった。しかし、基に腕を引っ張られ、そのまま流されるように奈織はベッドに倒れこんだ。
「あっ…」
「本当はこんな無理な方法、取りたくなかったんだけどね。今日ずっと奈織は俊のこと考えていただろう? 違う?」
ベッドに横たわった奈織の上に覆い被さる基は、急にベッドに横たわったことで乱れた茶色の髪を指で何度もすきながら訊ねた。
こうやってベッドに押さえつけられている恥ずかしさと、基の言葉を否定できない自分に対しての苛立ちなのか。どうしていいのか判らないまま、奈織は基の視線から逃げるようにそっぽを向いた。
「本当は奈織は、どう思っているの?」
脅えないように基は、奈織の両肩を掴む。それから一回触れるだけの口づけを奈織の唇にする。
「そ、そんなの…、わ…、判りません」
奈織は顔を赤く染めながら、それでもどうしていいのか戸惑っていた。
「そうやって逃げるのかい? 結論はすべて人任せにして…」
「そんなこと…」
「違うって言いきれる?」
「…、それは…」
「じゃあ、自分の本能を試してみない?」
そう言うと基は、奈織の返事を待たずに何が起こるか理解できないまま動けない身体を覆うシャツを解いた。それから快感を引き出すと言うよりも、自分という体温をしって貰うために、ゆっくりと肌に口づけを落とす。
そして、奈織は気が付くと太陽がまだ沈んでいない明るい部屋で、一糸纏わない姿になり、基の愛撫を受け入れていた。
肌を這う基の手と唇への戸惑い。
これから行われる行為への不安、それよりも、このまま流されれば、奈織自身は何かが変わるんだろうか…。
基は奈織の躯を愛撫しながら、自分も上半身を裸になった。それからまた奈織の滑らかで染み一つない肌の温もりを確認していく。
「あっ…」
基が奈織の胸にぽっちりと姿を現した飾りに唇を落とすと、吸いながら舌で転がした。奈織は驚きと背中に感じる初めての感覚に耐えられずに声を上げた。
何度か指と舌で先っぽのつんと尖った部分を転がした後、唇を離すと肌が朱色に染まっている奈織の頭を撫でる。
「大丈夫だよ、奈織。人の肌って暖かいだろう? だからこうやって温め合って、それからお互いに躯を繋げるんだよ」
「中村さん…」
「"基"って呼んでごらん、奈織」
「基…、さん…。僕、どうしていいか…」
「今は何もしなくていいよ。それよりも俺と愛し合う行為をしているってこと、忘れないで…」
そう一気に言うと、基はまだ淡い茂みに隠れていて存在を表していない奈織の陰茎を唇に含んだ。
「やっ…、そんな…」
初めて他人の口でされる行為。それよりも自分で信じられない快感に奈織は恐怖を覚えた。
自慰の経験はないわけではなかった。しかし、他人に、それも口で含まれ、戸惑いで奈織は思わず足をばたつかせた。
それでも止めようとはしない基。基の舌は奈織がどうすれば感じるのかを知っているように、蠢いている。
亀頭やくぼんだ部分を舐られ、奈織は目の前が真っ白になって行った。奈織の若い精は、舌と口の中で追い込まれるともろともなくなる。
背筋に驚く程の衝撃が走り、そして奈織は基の口蓋で頂点を迎えた。
基は奈織が放った物を嚥下していく。
奈織は肩で呼吸をしながら、必死に羞恥心と戦った。
呼吸が整うと恥ずかしいと言う思い…、それよりもこんなことをしていいのか、そんな罪悪感が溢れてくる
本当に基を好きなのだろうか。基が望むように、奈織は好きになれるんだろうか。
体温が下がっていくと同時に、奈織はどうしていいのか判らなくなった。それは今の行為への恐怖ではなく、基に本当に流されるように抱かれていいのかと言う不安だった。
そう考えると、耐えられなくなり奈織の瞳から、涙が溢れ出す。
「どうした、これ以上は、いや?」
どうしていいのか、混乱から泣きじゃくりながら、奈織必死に首を振った。
「嫌じゃないんだと思います…。きっと、でも…」
「でも?」
「こういう愛し合う行為は、こんな風に流されちゃいけない気がします…」
奈織の言葉に、瞬間驚き、そしてゆっくりと基は微笑む。
「成長だね、奈織…」
驚きに奈織は身体を起こした。
「え?」
基は身体を起こすと、ベッドの上で座っている奈織の頭を撫でると、基は優しく笑う。
「だってさ、今のは自分決めたことなんだろう? 奈織の将来が楽しみだよ」
「中村さん…」
「行こう? ここは、今まだ奈織には早すぎる場所だね」
まだ涙で頬を濡らしたまま、状況を把握できないでいる奈織の腕を基は掴むと、ベッドから立ち上がる。
「でもちょっとだけね」
そう呟いた後、基は優しく抱きしめ、奈織の額に唇を落とした。
「この先は、奈織が俺を選んでくれた後な…。これは願掛け…」
奈織は、顔を真っ赤にしながら、頷くだけだった。
* * *
「奈織って、好き嫌いないんだね驚いちゃった」
「僕も中村さんがセロリ嫌いだったってびっくりしました」
シティーホテルを結局泊まることなくチェックアウトした後、基は奈織を食事に誘った。それから別に送らなくても大丈夫だと言う奈織を無視し、家まで一緒に来た。
陽が陰り始めた頃、家に戻ると、門の前では俊彦が、怒りをはっきり現したすごい形相で立っていた。
そして奈織と基の姿を見るや駆け寄ってきて奈織の頬を張る。
「こんな時間まで何やっているんだ?」
いきなり俊彦にぶたれ、奈織は泣きそうになるのを必死に押さえる。
興奮してひどいことをしそうな俊彦から、奈織を引き離すように基は割って入った。
「映画を観に行って、お茶して、少しご休憩して、で、夕飯食べて帰ってきたんだよな、奈織」
俊彦の表情に狼狽えながらも、奈織は頷いた。
その瞬間、俊彦は、基の胸ぐらを掴んだ。
「貴様、奈織に何かしてないだろうな!」
真剣に怒る俊彦は、基に殴りかかった。
今度は二人をおさえるように、奈織は慌てて俊彦を止める。
「お兄さんっ止めて! 中村さんは僕が今まで考えていなかったこと、教えてくれたんだ…」
「奈織? しかし…」
奈織はいつもの微笑みを浮かべながら、俊彦を見つめる。
「ね、お兄さん、お願い、ここに屈んでくれる?」
今まで沈みがちだった奈織に何か吹っ切れた、そんな表情に、俊彦は毒気を抜かれ表情を柔らかくして屈む。
「有り難う」
奈織は屈託のない表情で笑みを浮かべたまま、俊彦の肩に腕を回した。そして俊彦の唇に、触れるだけの口付けをした。
「奈織!」
驚く俊彦に奈織はにっこりと笑う。
「お兄さん、僕もこの先自分がどうしたらいいか、考えてみるね。でも色々と判らないことがあったら教えて」
「奈織…」
「いつか、僕も兄さんみたいにやりたいものが見つけられるといいな…」
奈織は今までで最高の笑顔で俊彦と基を見つめた。
Fine
前夜…。
「奈織、そろそろ起きな…」
身体を揺すられ、ゆっくりと奈織は目を覚ました。
真っ白な光が目の中に、飛び込んでくる。まだぼんやりしている奈織を、優しい温もりが包んだ。
「ほら、そろそろ起きないと、今日は家に帰らなきゃいけないだろ?」
「あ…、基…」
はっきりしてくる視界の先にある基を、奈織は見つめながら、ベッドから起きあがった。
急に身体を動かした所為か、下半身には甘やかな痺れが伝わってきて夕べの出来事が思い出された。
「身体、大丈夫?」
基はいささかふらつく奈織を支えるように抱きしめながらそう尋ねる。
何も身に着けないままの奈織は、ジーンズに上半身は裸の基。奈織が休んでいる間に基は起きて、多分仕事をしていたのだろう。その証拠に、部屋に置かれたMACが立ち上がっていた。
昨日は昼過ぎにこの部屋へ来て、基に抱かれ、夕飯は宅配ピザ。セックスをしてほとんど何も身に着けない格好のまま食事をし、そしてまたセックスに溺れ、そのまま眠ってしまった。
直接肌に伝わる温もりから、夕べのことを思い出し、奈織は頬を赤らめた。身体にべたつきを感じないのは、きっと抱きしめ合ったまま眠ってしまった奈織の処理をしてくれたのだろう。
初めて基に抱かれたのが、奈織が高校の卒業式の翌日だから、関係を持って六年。つきあい始めてもう七年半になる。
今年で社会人二年目になる奈織だったが、身長は五センチしか伸びずに百七十センチに若干とどかないままで、銀杏のようなぱっちりとした二重の瞳と、染めていないのに茶色いサラサラの髪は相変わらず変わらなかった。高校生の頃はコンプレックスだった自分の容姿も、もう諦めたつもりだった。けれどもスーツを着ると高校生が制服を着ているようだと言われると、嫌な気分がした。
そんな奈織が選んだ職種は、常にスーツを着る仕事でなかったことが救いだった。別にコネがあったわけではないけれど、運良く有名広告代理店でコピーライターと言う名前の職業をしている。
広告の仕事への興味はやはり、兄である俊彦と、そして基の影響が大きいだろう。
初めてデートした後、俊彦は基に付き合いを認めるわけではないけれど、それでも大人の常識として、身体の関係は高校卒業まで持たないことを約束させた。
基はその俊彦との約束通り高校を卒業した翌日、自分の部屋に呼び、思いの丈を熱く奈織に語った。奈織は流されるようにではなく、自分の意志で基に身体を許した。
それから七年半、付いたり離れたりの関係が続け、奈織はその間、男女様々な恋愛をしていた。それでも振ったり、振られたりした後や、人寂しくなると基も元へ足が向いてしまう。基の方も当然奈織だけではなかったはずだが、そんなわがままを許し、自分の胸にすっぽりと納まる身体を慈しみ慰めてくれる。
最近ナーバスな奈織にとって都合のいい相手。それよりも最終的には戻る場所なのだと思えるようになった。
いつか、こんな日が来ると判っていたはずの、悪夢が明日、現実になる。そう考えると、寂しさに基の温もりに縋り付き、自分から唇を求めていく。なすがままに動けない基の口を開くと、奈織は舌を絡め混じり合う唾液を嚥下していく。
これ以上はいけない、自制を効かせた基は次への行為を求める奈織の躯を引き離す。
「奈織…、これ以上はダメだよ…」
「もっと基の温もりが欲しい…、ね、いいでしょう?」
上目づかいにねだる奈織に、基は頭を抱え溜息を付く。
「ほら、もうすぐ三時だよ。今晩は家に帰って、家族水入らず最後の食事だろう?」
「…」
少しだけ、いらいらしながら奈織は、基から離れ俯いた。
「ダメだろ。明日は俊の結婚式なんだから…、今晩くらい、あいつの側にいてやれよ」
そっぽを向いてしまう奈織に言い聞かすように、基は真っ直ぐ見つめた。
基が言うように、明日、俊彦は結婚する。
男同士…、それよりも兄弟だと判っている。基とつきあい始めた頃、何度も自分に言い聞かせた。それでもいつも一緒にいて、面倒を見てくれた俊彦は、奈織にとって初恋の人だった。その俊彦の結婚の知らせは、わがままを言うつもりはなくても、複雑な気分になっていた。
俊彦には幸せになって欲しいと思う反面、やり場のない思いに、ここ一カ月奈織は家には戻らずに基の部屋に入り浸っていた。
小さく溜息を付くと基は、離れようとしない奈織の肩を持った。
「奈織は俊が嫌いなのか? それともお姉さんができるのは嫌?」
唇を噛み締めるように首を振りながらも、奈織は視線を基に向ける。
「拗ねてもだめだよ…」
奈織は首を横に、いやいやをするように数度振る。
「もう少し…、もう少しだけでいいから…。お願い、一緒にいて…」
「奈織…」
離れようとしない奈織の頭を撫でると、基はわがままを許すように、そっとこめかみに口付ける。
「今日だけでいいのかい?」
「そんな…」
「奈織にとって、俺はやっぱり俊彦の変わりなのかな?」
肩を抱きしめながら訊ねる基に、奈織は驚いたように大きな瞳を大きく見開いた。そして、縋り付くように基の首に腕を回した。
「違う…。ずっと…、一緒にいて」
奈織は懇願するように、基をベッドに押し倒すと、今度はもっと性的な意味で深い口付けを求めてくる。
絡まり合う足と足。基は急くようにズボンと下着を脱ぐと、絡み合いようにベッドの上を二人で転がった。
「あっ…、基…」
首筋や鎖骨を愛撫しながら、基は大胆に自分に一糸纏わない足をからみつけてくる奈織に苦笑する。
「昔の奈織は、もっと慎む深かったよ…。いつからこんなわがままなお姫様になったんだろうね? 奈織は…」
尋ねながら、夕べ自分でも判らなくなるほど精を吐き出したはずだったけれど、それでもすでに屹立しかけている奈織の性器と袋を交互にやんわりと揉んでいく。
「ぁ…、基が…、こんな僕のほんとの姿を…、教えてくれたんだ…」
もっと、もっと基が欲しい。そう身体で伝えるように、奈織は自分から脚を、基自身を受け入れやすいように大きめにエムの字を描くような形に開いた。
まだ身に着けたままの基のズボンのボタンとファスナーを外すと、片足で一気に下着ごと下ろす。そしてうずく身体を擦り付ける。
「ねぇ…、基…、抱いて…」
潤んだ瞳で奈織に見つめられ、基はゴクリと唾を飲み込んだ。
「喜んで…」
そう呟いた後、基は唇を奈織の肌に落とす。
何年もの付き合いで奈織が判じる場所を熟知している基は、あえて快感をもたらす部分を外し、舌で舐め、指を這わせる。
「あん…、いや…。も、基…」
膨れ上がる奈織の欲望。奈織はもどかしそうに身をよじりながら、耐えられないと告げるように陰茎から涙を流している。
それを基は指先ですくい取ると、亀頭へ塗り込んでいく。
「いや…、そこじゃなくて…、基を頂戴…」
はち切れんばかりの股間の中心に、奈織は涙を流しながらいやいやと頭を左右にふる。
それでも二人が繋がるための部分に一向に触れない基。奈織はためらいもなく基自身の快感をもたらすように手で握った。
「あ、奈織…、だめだよ…」
奈織は四肢を振るわせながら快感の波に襲われ、言葉を詰まらせる基を追いつめていく。
「判ったよ、判ったから、少しだけ待つんだ…」
自制が効かなくなりつつあった基は、諦めるように奈織の後蕾を指でほぐしていった。
指先でもひくひくと震えていることが判る蕾を、何度か優しく撫でる。しかし欲張りな後ろの口から与えられる絶頂感を知っている奈織の躯は、すぐにそれでは物足りないと指に絡み付いてくる。
「じ…、焦らさないで…」
熱い息を吐きながら、物足りない行為に焦れる奈織は、自分の腰を振りなかなか中に入ろうとしない指に、普段は他人には触れられる事の無い部分を擦り付ける。
「本当に、欲張りだな…、奈織は…」
苦笑と共に奈織の息苦しそうに開かれた唇に、基は一回口づけをすると、後蕾を指二本で一気に貫く。
「っ…、ああ…」
夕べ何度も繋がった奈織の後蕾の先は、燃えたぎるほど熱い。基はその部分をぐるりと簡単にかき回せると指を抜いた。
それからこれ以上焦らさないように、奈織の両足を自分の肩の上に乗せてから、怒張した基自身で思いっきり貫いた。
「あっ…、ああ…」
待ち望んでいたものが自分の中へ一気に入り、奈織は思わず喘ぎ声を上げた。しかしすぐに奈織の官能を引き出すように、屹立したもので擦っていく。
夕べあれだけしていても、飽きることのない欲望に、すぐに基に満たされ甘い喘ぎ声を上げながら奈織は、快感に酔っていく。
基の動きに合わせて、腰を思わずはしたなく振ってしまう奈織。
胸の赤い実や、フルフルと震えている奈織の若茎に触れずに、基はただ自分の絶頂を目指していく。奈織も躯の中であばれまわる基を思いっきり味わい引き出された官能を素直に受け入れた。
「じゃ、僕…、帰るから…」
絶頂を迎えた後、ベッドで奈織の温もりを求めながら微睡んでいる基。奈織は怠そうにしている基を置いたまま、さっさとシャワーを浴びて、帰り支度を整えた。
ベッドで横たわったまま、心配そうに見つめる基に近づき額にキスをすると奈織は、微笑む。
「大丈夫だよ…」
「そうか…、じゃ明日な…」
奈織は微笑んだまま何も言わずに、基の元を後にした。
* * *
「お疲れ…」
「あ、基…」
奈織は、基の声に今まで見ていた幸せそうな風景から視線を外し、振り返った。
「たく、さんざ人を混乱させといて、一人で幸せそうな顔しているよな…」
モーニングに黄色の縁の眼鏡がとっても違和感を感じる服装の基は、せっかくセットしていた髪型を髪混ぜるようにかいた。
基の視線の先には、俊彦とそして今日から奈織のお姉さんになる人が、披露宴で色直しをした格好のまま、友人たちの祝福を受けていた。
最近話題のガーデン式の結婚披露宴。
緑豊かな庭では、華やかな服装をした女性たちやモーニング姿の男たちが集まっている。
親戚一同が集まり、奈織にも知らない人々へ挨拶し、朝から何も考えられない程に、慌ただしかったが、披露宴もやっと終わを告げた。
奈織は俊彦が買ってくれた黒のデザインスーツに、基に選んで貰ったピンで止めたクロスタイ姿だった。
晴れやかな昨日まであんなに不安だった気持ちが、今は庭を包んでいる晴れやかな空と同じで住んでいた。
奈織は基に近づくとにっこりと首を横に傾ける。
今日朝からずっと一緒だったが、他の人への挨拶に追われていた奈織は、やっと基と話すことができる。
「そうですか?」
「幸せそうに見えない?」
「そうですね…、幸せになって欲しいです…」
「お、大人じゃん…」
「僕ももう二十三ですよ。いつまでの、お兄さん、お兄さんの子供じゃないです…」
「そうだね、昨日も大人なこといっぱいしていたもんな…」
いくら俊彦の結婚前でナーバスになっていたとはいえ、昨日、一昨日のあまりに大胆過ぎる自分の行動を思い出し、奈織は頬を赤らめた。基は嬉しそうに笑みを浮かべたまま、奈織を自分の方へ引き寄せる。
服越しからも感じる基の体温に、奈織は安心感が溢れてきた。
「昨日…」
「昨日どうした?」
「昨日、基の部屋から帰った後、お兄さんと話したんだ…」
「俊と何を?」
奈織は唇を横に開いて笑みを浮かべる。
「奈織と俺のこれからの人生についてだ」
体温を確かめるように抱きしめ合っている奈織と基を引き裂くように、俊彦の苛立ちを隠せない声が聞こえる。
「お兄さん…」
「俊…。お前嫁さん、ほっぽって平気なのか?」
俊彦は咳払いを一回してから、それでも離れようとしない奈織の腕を引き寄せ基から引き剥がす。
「あっ…、何するんだよ!」
不満の声を漏らす基を一睨みすると、離すものかと言わんばかりに、今度は俊彦が奈織を抱きしめた。
「彼女は今、ご両親に挨拶している。それより、貴様、俺への嫌がらせか? 奈織の首に期すマークなんか付けて…」
「えっ…」
俊彦に言われて初めて気付いた奈織は、慌てて首を押さえる。
「はぁ~ん、気付いた? 奈織は俺のものだよ~って証拠」
どう考えても俊彦を挑発しているように聞こえる口調で、基はすました顔をする。
「奈織が誰を選ぼうと、俊ちゃんには関係ないだろう? まして今日からお前は既婚者だ。もう奈織よりも守らないといけない人間が?」
基の言葉が奈織に刺さってくる。表情が曇った奈織を慰めるように、俊彦は抱きしめる腕を強める。
俊彦の温もりに、奈織は兄弟二人きりで話せる最後の夜を思い出した。
夕べ奈織の部屋を久しぶりに訊ねた俊彦。俊彦はベッドの上に腰掛け、奈織も近くで話をしようと隣に座った。
『今日も基の頃へ行ったのかい?』
『え、う…、うん』
お互い大人になり、普段の生活では見えない部分があることも理解していた。けれども俊彦の言葉が自分の人には見せたくない所を盗み見られた気がして、奈織は戸惑いを感じた。
俊彦は困っている奈織を見えて、慈しむように目を細めた後、子供をなだめるように肩を抱きしめてぽんぽんと手で優しく叩く。
『奈織がそれでよければ、俺はそれ以上言えないな…』
『ごめん…』
『何で奈織が謝るのかい? 奈織は悪いことしていないだろう?』
『それは…、うん。そうだね…。僕はずっとお兄さんがいないと生きていけないと思った…』
『奈織…』
『でもね、今は違うと思う。父さんにも、母さんにも紹介できなし、本当に好きとか愛しているとか判らないけど…』
『けど?』
『僕は、基と離れられない…。それだけは自身がある…』
堂々とした奈織の表情に満足したように、俊彦は微笑んだ。
『そうか…、だけど忘れないでくれ…。俺は、ずっと奈織のお兄さんだからね…』
『うん』
奈織は肩にある俊彦の手に自分の手を添えると、温もりを求めるようにその方向へ首を傾けた。
「彼女には言ってある…」
基の言葉に挑発されるように、抱きしめる俊彦の手に力が入り、小刻みに震えているのが奈織にも判るほどだった。
あまりに突拍子な俊彦の発言に基は眉音を寄せる。
「はぁ? お前、何言ってるか、判ってるの?」
「判っているさ。俺は、奈織が大切だからな…」
「お兄さん!」
夕べ話したこととまったく違う俊彦の言葉に、驚くように奈織は表情を見つめた。
「お前ね…。まあ、奈織のことは俺に任せろって…」
「貴様が奈織のことを本当に支えられるのか?」
「当然だろう? 長さはお前には負けるかもしれないが、俺は、奈織に何年片思いしていると思っているんだ」
「基…」
いつもそんなことを口にしたことの無い基の言葉に、奈織は笑みを浮かべた。
基の硬い意志を確認すると、俊彦は奈織を抱きしめている腕を緩めて、背中をポンと押した。
「よかったな…、奈織、おめでとう。ただし、昨日みたいにこいつの部屋に入り浸るなんてだらしのないことをするな!」
「俊~、お前は姑か?」
「それに近いかもな。奈織は俺の可愛い可愛い弟だからな…」
「うん、きちんと自分のすることにけじめをつけるよ」
奈織は俊彦に笑みを浮かべた。すると基は真剣な表情をして俊彦に視線を向ける
「お兄さん、奈織を俺にください」
真面目な表情をする基に、俊彦は表情を曇らせ、自分の腕の中にいる奈織を見た。
「お兄さん…、ありがとう…。お兄さんも幸せになってね。基がいい加減なことしたらお兄さんのことに帰るから…」
別れるそんな気はまったくしなかったけれど、奈織は基を挑発するようににっこりと笑みを浮かべ俊彦の頬に口づけをする。
基はそんな奈織の姿を苦笑しながら見つめた。
けれど、奈織の心は基の元を離れないと決めていた。もちろんそんなこと悔しいから、基には言わないけれど…。
Fine…。
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