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KOI-NOOR~ダイヤモンドの欠片

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The KOI-NOOR(男性を破滅させる石)
 原石は、八〇〇カラットはあったのではないかと言われています。
 一三〇四年には残念ながら、一八六カラットに姿を変え、インドのキルジ朝アラー・ウッディーンがマルワを征服した時の戦利品の一つだったそうです。
 時を経て、ムガール帝国隣国のゴルコンダの重臣であるミル・ジュムラがムガール帝国五代皇帝のシャー・ジャハンに献上されました。
 一七三九年、ムガール帝国の首都デリーで、ナディル・シャー率いるアフシャール朝(現在のイラン・アフガン)に攻め込まれました。
 この時のムガール皇帝モハメッド・シャーは、皇帝の称号を保証してもらう代わりに多くの財宝を差し出しました。しかしその中には〝バブールのダイヤモンド〟はありませんでした。
 モハメッド・シャーの愛人からモハメッドのターバンの中にこのダイヤモンドがあるという情報を手に入れたナディルは、宴会中にモハメッドに友情の証としてターバンを取り替えることを提案し、断ることも出来ず交換してしまいました。
 ナディルは部屋に戻ってからターバンの中にある「バーブルのダイヤモンド」を見つけ『コイノール(光の山) !!!!! 』と叫んだことからそれ以降は〝バーブルのダイヤモンド〟ではなく、〝コ・イ・ヌール ダイヤモンド(The KOI-NOOR)〟と呼ばれるようになりました。
 一八四九年、イギリスが全インドを征服し、一八五〇年七月三日にイギリスのビクトリア女王に献上されました。
 九三カラットのブリリアントカットにリカットされました。
 現在では王冠に姿を変えロンドン塔に展示されています。
 王冠自体にも二,八〇〇ものダイヤモンドがちりばめられています。



 
0.Opening...

 話は、有瀬伊吹が子供の頃から始まる。
 その頃の伊吹は、庭も家の中すらも迷子になりそうなほど大きく広い家に住んでいた。
 伊吹をずっと可愛がってくれていた祖父が亡くなり、学校にも上手く馴染めず友だちが一人もいなかった。
 祖父が生前は、様々なお客様が来ていつも賑わいでいた家。しかし祖父が亡くなると本当にピタリと訪れる者はいなくなったっていた。
 伊吹の父は仕事が忙しく家にまったく立ち寄らず、母は体が弱く寝たきりだった。
 お手伝いの女性が数人いた。けれど、彼女たちは仕事で忙しく当然遊び相手になどなってくれる訳の無い。
 伊吹は広い家で、いつも一人ぼっちだった。
 そんな、ある晴れた日の午後。
 いつもの様に部屋で一人本を読んでいた伊吹を、母が自分の部屋に招待してくれた。
 母は病気で布団から離れられず、一緒に遊ぶことの出来ない我が子を心配しいたらしかった。
「私が寝たきりで、貴方にはおもちゃも買ってあげることが出来ないから…」
 母は申し訳なさそうに、枕元に用意してあった奇麗な飾りが施された白いケースを伊吹に手渡した。
 きらきら七色に輝いて見えるケースに、伊吹は思いっきり目を開いて、見つめた。
「きれい…」
 小学校低学年、学校では前から数えた方が早い程、伸びていない身長の手には余るほどの大きさのケースだった。それでも驚くほどの美しいケースを伊吹は必死に持ちっていた。
 それこそ、自分の手から二度と離したくないそんな思いを、手にしている箱の光に負けないくらいきらきらと輝かせた目が伝えるように。
「奇麗でしょう? このケースは、貝殻を細工されたものなのよ…」
 母は不思議そうにケースを見つめる我が子に、優しくそっと微笑んだ。
「箱は真っ白に七色の輝きを持つ白蝶貝。細いプラチナで作られた花が一杯咲いているでしょう? 花びらは、コンクシェル…」
「コンクシェル…。この花びらと同じ色に奇麗な桃色のパールが取れる貝だよね?」
「よく知っているわね」
「うん、おじいさまに教えていただいたの!」
「もっと知ってるよ、花びらの中はパールだよね?」
「そうよ。よく覚えたわね…、偉いわ、伊吹。じゃあ、これは判るかしら…」
 不思議そうに眺めている伊吹に、母は優しく笑みながらゆっくりと蓋を開ける。
「わぁ~」
 思わず声が出てしまうほど、宝石箱の中はキラキラと輝いている。
 子供の手ではやっと持てるほどの大きさがある箱の中でひしめき合っているのは、色取
 ネックレスにブローチ、指輪にイヤリング、ブレスレットと様々な宝飾品が宝箱の様に煌めき合っている。
「すごい! 奇麗…」
 子供では精一杯の感嘆符。母は自分の息子の驚く顔に満足げに微笑んだ。
「これはね、お母様が貴方くらいの子供の時に、お母様のお母様…、貴方のお祖母様から貰った物なのよ」
「お祖母様?」
「そう、この宝石箱は代々このお家の女性たちに伝わる有瀬家の宝物なの…」
「この家の女性たち…、じゃあ僕は貰えないの?」
 自分が女では無い伊吹は、少しだけ寂しそうな表情をする。母はがっかりしている息子を慰めるように、優しくそっと頭を撫でると安心させるように笑みを浮かべる。
「伊吹、心配しないで。これは貴方にあげるために出したのよ」
「僕に?」
 目の玉がこぼれ落ちるのではないかと思えるくらいに見開き、首を傾げた。母は目を細めて、笑みを浮かべながら頷く。
 母は伊吹に微笑みながら、宝石箱の中の物を取り出していく。
「金剛石、紅玉、緑玉、碧玉、珊瑚に水晶…」
 ゆっくりと頷き母は、ケースの中から大きな赤くて透明な、大人の親指の爪くらいの大きさの石を取り出す。
「鳩の血のように真っ赤だ…。それにとってもキラキラして奇麗…。あっ…、これルビーって石だよね?」
 嬉しそうに笑みを浮かべる伊吹。
 母の持っている石を覗き込んで微笑んだ。
「ルビーなんて名前、よく知っているわね。伊吹は偉いわね…」
 伊吹を誉めるように、母は何度も優しく頭を撫でた。
「うん、おじい様に貰った図鑑に書いてあったんだ。透明の緑の石がエメラルドで、青がサファイヤだよね?」
 ふふふふ…、と母は嬉しそうに笑った。
「本当に偉いわね、伊吹は…。でもね、これは真っ赤だけれどルビーではないのよ…」
「えっ?」
 母は何度も伊吹を誉めるように頭を撫でながら、石を伊吹に渡す。
 四歳にしては小柄らな伊吹の小さな手で、持つのがやっとの石の大きさだった。
 ふっくらとした手のひらに病気で痩せた手を添えると、母は外から入ってきている暖かい光に透かした。
 母につられるようにして、不思議そうに首を傾げながら透明な赤い石を伊吹は覗き込む。
 光を受けるといっそうキラキラと虹のように輝く石に、伊吹は満面の笑みを浮かべる。
「奇麗でしょう、光が当たると七色に輝いているでしょう? これはね、ダイヤモンドなのよ…」
「ダイヤモンド? 嘘だ。だってダイヤモンドは透明なんだよね?」
 母はフフフッと笑みを浮かべた。
「伊吹ももう少し大きくなって勉強をいっぱいすると判るようになるわ。たくさんの色がある宝石もあるのよ」
「たくさんの色がある宝石?」
 光をたくさん受けて反射する赤色の大きなダイヤモンドを覗き込みながら、伊吹は首を傾げた。
「そうよ…。ピンクやオレンジ色のサファイヤとか、ダイヤモンドは水色、ピンク、黄色、黒、そして赤と本当に色々は色があるの…」
 母は言葉にあわせて順番に宝石箱から、いくつもの石を自分の掛けている布団の上に並べていく。横で伊吹はうん、うんと理解していく。
 そしていくつもの宝石が布団の上に並んだ瞬間、様々な宝石の光に伊吹は目を輝かせた。
「すごい!」
 伊吹は宝の隠し場所の書かれた地図を見つけた冒険家のように、順番に箱から取り出される宝石たちを見つめていった。
 真っ赤なダイヤモンドを大切に持ちながら…。
 伊吹が最初に見た石が気に入ったのだと判った母は、優しく微笑む。
「これは真っ赤なダイヤモンドなのよ…」
「そうね、真っ赤なダイヤモンドよ」
 石に負けないほどの大きな瞳を見開き、伊吹は満面の笑みを浮かべた。
「伊吹が良い子にしていてくれるから、この宝石箱だけじゃなく、お母様の持っている宝石は全部伊吹にあげるわ」
「えっ! でも、お母様は?」
「私はいいの。伊吹が大切に持っていてくれれば…」
 それから母が亡くなるまで数年、宝石箱と中に入っている宝石は伊吹の大切な宝物になっていた。
 しかし母が死去するとすぐに、宝石箱も宝石も父と新しく来た母に取り上げられてしまった。
 もう母が持っていたもう宝石とは再会出来ないと思っていた。
 行く宛もなく街を彷徨っていたあの雨の日。
 街の小さな宝石店で、母が大切にしていた指輪を見つけるまでは…。


*  *  *


 ここに一冊の写真集がある。
 タイトルは、『有瀬コレクション』。
 第一版の発刊は、一九七一年。
 再販を何度か繰り返し、手元にある本は、第五判、一九九〇年発行となっている。
 高度成長期と呼ばれている当時の宝石コレクションでは日本一。世界の王室や博物館に並ぶとも称された有瀬家の、女当主だけが持つことを許された貴重な品々を納めた写真集だった。
 フィルムに収められている宝石の数は、約五十点ほど。
 公家の血を引いている有瀬家ならではと言われるデザインは、ただ季節に合わせて造らせただけで無い。四季のイメージにプラスして、源氏物語や平家物語など古典文学の世界をイメージさせる日本的な物。まだ交流が盛んでなかった時代に、手に入れた舶来品すべてが本物と言われる様々な宝飾品たちがこの家に集まっていた。
 特に〝春の青龍〟と命名されているネックレスとイヤリングは、小さい部分でも二カラット以上ある空とも海ともとれるほど澄んでいるピンクとブルーのサファイヤをふんだんに使った、ドレスにも着物にも似合うデザインの物は、写真集の中でも特別扱いされていた。
 もちろんそれ以外にも、何十カラットの〝王女の涙〟と称される部ピジョンブラッドと呼ばれる、深みのあるビビッドレッドのルビーでも最上級の石を使ったティアラは、当時のコレクターが喉から手が出るほど欲しがる芸術品だった。
 他にも女の子が生まれた時に、おままごとの道具よりも先に渡すと言われている宝石箱は、見事な貝細工がなされていて、中には様々な一女性としての嗜みと言うような、宝飾品がしまわれていた。
 もちろん日本古来の装飾品として使われていた、翡翠、鼈甲、琥珀、蒔絵なども多く上げられ、美術品としても、歴史を知る上でも最高の品物が並べられている。
 有瀬家で所有している宝石は、買い付けた物、特注で造らせた物、送られた物までいれると五百とも千とも言われている。
 数だけではない、石の質も飾り付けも、下手な王室よりも上なのはあきらかだった。
 そう言う特別なものだからこそ、アンティーク、宝石のコレクターの中では、〝有瀬コレクション〟と称されただけで商品価値が跳ね上がると言われる。
 そもそも、有瀬家は、遡れば飛鳥王朝の蘇我氏まで遡る由緒正しい家柄だった。
 けれど、明治になり法律が制定され、平民となり、ほとんどの公家が貴族という称号を持ちながら没落して行く中で、有瀬家当主の実力が発揮された。
 当時の当主有瀬久直はいち早く貿易事業を展開し、明治、大正、昭和の時代を股に掛けて、海外との交流を深め様々な商品をこの国にもたらした。
 そして貿易事業が陰りを見せた瞬間に、今度は元々持っていた地面にビルヂングを建てた。今では少なくなったけれども、ほんの少し前までは街をいくつも所有していると言っても過言でないほど都市計画の繁栄に貢献していた。
 しかし現在、有瀬家の名を知る者も少なくなり、所有していた多くのビルヂングの名義は他人の名に変わった。
 コレクションも、今の有瀬の家には一個も残っていないと言われている。
 すべての宝石は、現在の当主が事業で作った負債処理のために売り払われた。そして当主の方は、負債をすべて返却し、今は海外で悠々自適な生活をしているらしかった。
 
 コレクターのステータスアイテムとなり、今でも〝有瀬コレクション〟をコレクションしている者は少なくなかった。
 それもデザインも石のクオリティも最上級な〝有瀬コレクション〟であれば、なお当然の話だった。
 一つ手に入れれば、もう一つ。
 新たに見つかったと知れば、更にもう一つ欲しくなる。
 まして本物の〝有瀬コレクション〟をI誰よりも一番知っていて、正統な継承者のみが持つと言われている、宝石箱の持ち主を手に入れた以上、欲望はどんどん益して行くのも当然だった。
 有瀬伊吹…。
 有瀬家の正当な血筋を持った、前女当主の忘れ形見。
 この切り札が、〝有瀬コレクション〟をこちらに導いてくれる。



 
1.JewelrySalon KOI-NOOR

 雨の銀座。
 凹凸のある石畳の道を有瀬伊吹は、水滴が服に跳ねないように注意しながら歩いて行く。
 〝銀座〟と聞くと頭の中に人がイメージするのは、多分二つのどちらかだろう。
 一つは、明るくて健康的な昼の顔。
 ショッピングデパートがいくつもあり、専門店やはたまたデザイナーズブランドなどの店でショッピング。くつろげて美味しくて素敵なお店が建ち並んでいるそんな雰囲気だろう。
 そしてもう一つは、色と艶に満ち溢れた夜の顔。
 今では大衆的な店も多くなり、一見さんお断りも減っては来ている。それでもビルの高層階には、高級を売りにしている店がいくつもある。当然そう言う店は、紹介者がいなければ立ち入ることも出来ない。まして、金額もそれなりに後宮だから、予算の無いものでは支払いも出来ない。けれども最上級のホステスがもてなしてくれる、そんなクラブが山ほどある。
 今は昼。
 暗くどんよりした空からは、しとしと聞こえてきそうなほどテンポで雨粒が落ちてきている。
 それでもメインストリートは、買い物や銀ブラを楽しむ人々で、はたまた観光客で活気に溢れている。
 銀座で地下鉄の駅を降りると向かう先は、華やかで活気あふれるメインストリートから少し離れた、少し汚れていて、繁華街とは少し違った新橋界隈に程近い道に入る。
 メインストリートではないと言っても、いくつも昔からある店屋に混ざって、最近は隠れ家的なおしゃれな喫茶店やレストラン、ブティックなどが日に日に増えている。
 毎日が変化をしている街並み。その所為もあってか、平日は昼間にも関わらず、買い物客や近くオフィス街で働いている人々でとても賑わいでいる。
 伊吹にとって銀座と言う街は、幼い頃によく自分を可愛がってくれた祖父が連れて来てくれたという楽しい思い出が山ほど詰まっている場所だった。
 大好きだった祖父が亡くなったのは、伊吹がまだ小学生の高学年に上がった頃。
 亡くなるまで祖父は、ずっと寝たきりだった母と、いつも仕事が忙しく家に帰って来ない父の代わりに、伊吹をとても可愛がってくれていた
 それこそ時間があけば、祖父のテリトリーとしている銀座界隈の歌舞伎、ミュージカルなどいくつもの芝居小屋や色々な所に連れて行ってくれた。
 そこで出逢った様々な人が、伊吹の遊び相手になってくれていた。
 伊吹の祖父は、日本がまだ第二次世界大戦後で混沌としている時代に、今までやっていた造船業の規模を縮小し、たくさんの土地を手に入れたらしかった。今でも都心一等地と呼ばれている場所にある、劇場や大きなビルは祖父が持っていたビルがいくつもある。
 それだけではない。まだ海外旅行が金持ちの道楽だった時代に、海外に音楽や踊りを観に行き、日本に根付く様にたくさんの資金を投じていた。
 祖父の道楽は舞台や踊りだけではない。
 美しいものをこよなく愛し、〝有瀬コレクション〟と呼ばれているらしい家にある宝石や美術品だけではなく、色々な場所に連れて行って山ほどの本物と最高級品と呼ばれる物の見極め方を伊吹に教えた。
 祖父の影響を受け、伊吹は音楽やお芝居、美術、それからきらきらと輝いた物が大好きだった。
 その頃、祖父の性格を反映する様に歩き回ると、迷子になりそうなほどの、大きな家に住んでいた。
 祖父の趣味で作られた、源氏物語をイメージさせるような、季節毎に分かれている庭。
 広い庭を囲むようにして、建てられている家屋は、平屋だけれども子供の伊吹では数えられないほどたくさん部屋があった。
 古い木造の家。
 近所の家よりも古ぼけていて背は低い。
 けれども、近所の公園よりも大きな伊吹の遊び場だった。
 その頃伊吹は、まだ小学校に上がったばかりの子供では理解出来なかった。
 けれど、祖父を尋ねてくる客から伊吹は、口々に祖父の偉大さや魅力を聞かされた。
 ずっと寝たきりの母と、仕事で帰りが遅い父の代わりに…。
 銀座は伊吹にとってとても大切な街だった。
 大好きな祖父の思い出と共に…。
 雨の銀座。
 あの頃の銀座は、今日みたいな雨の昼下がりは、メインストリートを一本でも横道にそれてしまうと、閑散としていた印象があった。
 しかし最近では大通り以外の店舗が様々な工夫をし始めて、テレビなどでも紹介されようになった所為もあって、新橋駅に程近い七丁目界隈でも人とすれ違うようになっている。
 銀座の道は、それこそ碁盤の目のように細かく、通りの名前で区切られている。
 大通り対して垂直に通っている花椿通りに目指している場所はある。
 銀座七丁目、ジュエリーサロン『KOI-NOOR』。
 コ・イ・ヌール。訳すと光の山。
 その昔、女性が持つと幸福になり、男性の手に渡ると不幸が訪れると言われていた大粒のダイヤモンドと同じ名前の店だった。
 オーナー兼店長は男性だから、何故この名前にしたのかその真意は疑問ではある。けれど、店長の人柄を考えると、『KOI-NOOR』と言う名もあり様な気になってくる。
 店のあるビルは、屋上からは蔦の葉が無数垂れていて、外壁は最近ではあまり見かけなくなった、七色に輝くようにコーティングがなされた茶色のタイルが一面張られている。
 メインストリートの方は、時代を反映するように頻繁にビルが建て替えられて、テナントの方もひっきりなしに変わっている。
 しかし一歩メインストリートから外れてしまえば、昭和という苦労を絵に描いたような時代を乗り越えて来たのだ、そんな風に通る人に伝えている古い様相がまだいくつも残っている。
 『KOI-NOOR』が入っているビルもその周りも、いかにも〝ビルヂング〟と言う言葉の持つ雰囲気が似合うに建物ばかりだった。
 おおざっぱな店長の性格もあって、『KOI-NOOR』は広告を打つことも無ければ、雑誌にも載らない。
 それでも定期的に客が来ている。
 伊吹はそんな店で販売員見習いをしている。
 店の常連は、銀座で働くホステスやお金をいかにも持っていそうなそのお客。もしくは銀ブラをしていて、たまたま店に入った客が多かった。
 けれども、実の所もっとも一番多いのは、店長の〝舘野柾親〟を指名してくる客だった。
 伊吹には宝石店のオーナー兼店長ということ以外は、よく判らない舘野。その舘野が、何処からか手に入れる最高品質の希少石を使った宝飾品やアンティークジュエリー。この奇跡と呼ばれる様な宝飾品を求めてくる客は、驚くほど本当に多い。
 店頭に普段並んでいる商品は、まったく特別な物などない。
 流行のデザインをなされた結婚、婚約指輪や少しお高いおしゃれなジュエリーばかりだった。
 もっともショーウィンドウの端っこには、盗難防止のレプリカの宝石に紛れるように本物が輝いている。
 ショーウィンドウの影でひっそりと輝いている宝石たちが、伊吹と舘野の関係を結ぶきっかけになった。
 他人が言う所の〝有瀬コレクション〟。
 元々は伊吹の家に代々伝わっていて、母が生前大切にしていた宝飾品の一つだった。
 自分の人生を振り返ってみると、舘野との出逢いはけっして伊吹にはいいものではなかった。
 けれど今はその舘野の店を手伝っていて、一緒に暮らしているのだから、そう考えると世の中それほど嫌なことばかりじゃないのだと納得させられてしまう。
 お母様が大切な宝石が飾られているショーウィンドウに写る伊吹の柔らかな笑みがこぼれる表情が、今の自分の幸福感を伝えているようだ。
 パワーストーン、力を与えてくれる石。
 テレビや雑誌でよく使われている言葉だけれど、実際に美しく磨かれた鉱石たちの前に立つと、自然に心の温かさや満ち足りた思いなど、本当に様々な力が貰える。
 伊吹は連日の雨降りに、ナーバスな気分になりそうな自分に元気を貰おうと、ショーウィンドウに飾られている宝石たちを見つめた。もっともショーウィンドウに展示されている宝石は、盗難防止用のイミテーションが中心で、実際の本物はほんの少しだけだった。
 けれども毎日の様に眺めている石たちは、イミテーション、本物と問わずに優しく語りかけてくれる。
 がんばれ、がんばれ、と…。
 石たちから送られてくる、曇天の心細さ吹き飛ばす力を貰うと、身体に溜まっている、空気をゆっくりと吐き出し全身に宝石の力を取り入れて行く。
 最後にもう一度ガラスに写った自身の姿を見る。自分が接客をするのに相応しい笑顔をしているかを確認してから、偵察するようにちらりと店の中を覗き見た。
 中では近くにあるクラブ、Club Magnificentでホステスをしている姫香。そして多分彼女の店の客だと思われる年輩の男性話をしている。
 お客様と向き合うようにカウンター越しに接客をしているのは、店長の館野だ。舘野の接客は、何となく傍目に見ると、どこか偉そうに感じる仕草をしている。
 それでも舘野の人徳なのか、客を不愉快にすることも無い。それどころか、逆に彼のファンを名乗る常連客はとても多い。
 本当に、格好いいよな…。
 客だけではなく、伊吹自身も舘野のファンの一人だ。
 今日の舘野の服装は、ダークブルーのパンツと共布を使って作ったベスト。
 ご町内の老舗のテーラーで仕立てた物だった。
 毎日顔を合わせている伊吹でも、見惚れてしまう。
 いつかあんな素敵な人間になれればいいな…。
 小さく呟いた後、唇の端に指を当てて、ガラスに映る自分の表情がにっこり見えるように笑みを作ると伊吹は、店のズボンに水が跳ねないように、慎重に店の裏口に向かった。
『まずは、慌てずに、急ぐと…』
 些細な事柄でも慌ててすぐに怪我をする伊吹に、いつも笑いながら舘野がいう言葉だった。
 本人は慌てているつもりはないけれども、子供の頃から人付き合いが苦手な伊吹は、なんにつけてもすぐに緊張して失敗をしてしまう。
 それを見かねて舘野は、ちょっとした魔法の呪文でも唱えるように、かけたてくれた言葉がそれだった。
 舘野さん…。
 窓ガラスに映る、頬を赤らめながら笑っている自分の表情。
 舘野のことを考えると自然に笑みがこぼれてしまう自分に、少しだけ反省しながら、伊吹はビルの二階にある自分の部屋に、慌てないように少しだけ急いで向かう。
 色々な事情を経て、伊吹は店の上にある住居で舘野と一緒に暮らしている。
 今通っている大学も、今まで通っていた高校もすべて舘野に出資して貰って…。
 建前上は、店の住み込みアルバイト。
 しかし本当は、寝室を共にする恋人…。
 伊吹の希望上は将来のパートナー。
 真意を問われるとお互いに将来を話し合っている訳ではない。それでも伊吹は出資して貰っているからなんて現金なものではなく、心から舘野の協力者になりたい、とそう思っている。
 そして毎日の様に大切に愛してくれる舘野も、伊吹と同じ用に大切に思ってくれているのだと感じている。
 何故なら、舘野は欲しい言葉を本当に、毎日の様に言ってくれるから…。
 ちょっとでも落ち込んでいると、『伊ぃ吹…、愛しているよ…、だからそんな暗い顔しないで…』と優しく囁いてくれるのが舘野の癖だった。
 わざと伊吹の名前を伸ばした言い方で…。
 目の前のベッドで何度も数え切れないほど、舘野に愛された。
 夕べも夕飯を終えて一緒に風呂に入り、舘野に優しく躯を洗ってくれている途中、伊吹自身は恥ずかしいように育ちもっと猛った激しい物をはしたないくらいに求めた。それだけでも自分が節操無しだと思うのに、風呂で貫かれただけでは足らずきちんと水気をふき取らないまま、ベッドで二度も舘野の熱く激しい楔を請い、とうとう気絶するように寝てしまった。
『舘野さん…、舘野さんもっと、もっと突いて…』
 自分から舘野に食らいついて離さないように、腰を振る伊吹。汗ばみながらも格好いい舘野は、伊吹に快感を与えようと何度も奥まで屹立を押し込んでくれる。
『気持ちいい? 伊ぃ吹…』
 すぐ耐えられなくなり、涙を流してまで魂の飛びそうな場所まで連れて行ってくれる立野を求める。
『あっ…、あん…、舘野さんをもっとください…』
 何度も快感に噎びながら、自分で言ったことに思い切り後悔しそうな驚くべき言葉を叫んでいた。
 両足を思い切り開き、舘野の背に絡ませ雄を受け入れる自分。
 それでも満たされるのは、きっと舘野が優しいからだ…。
 愛しい舘野を思い出し、伊吹は頬を赤く染めながら、今まで何度となく愛し合ったベッドの上に荷物を置いた。そしてはしたなく起き上がりかかっていた欲望から逃げる様に、急いで今まで着ていたカジュアルな服を脱いで行く。
 鏡に映る伊吹の素肌には、いくつもの舘野が愛してくれた証である薔薇色の痕が、胸、腹、そして足の付け根とくっきりと、いくつも残っている。
 ぱっと見た感じでは、服に隠れていて、気付かないそんな場所。
 けれども意識的に見られれば、確実に気付かれてしまう。そんなぎりぎりの場所にまで舘野の物である印が付いている。
 もちろん否や訳ではない。
 むしろ、こうやって舘野が自分のものである証を残してくれることが、嬉しいと思えるほどだった。
 伊吹はどんどん熱を含んで赤くなる顔を冷ますように、息を大きく吐くと、大学に行く時の気楽な服から、接客に相応しい上品なワイシャツに着替え、結び目が雑にならないように、少し緊張しながらネクタイを締め始める。
 余分な皺を許さないほど、きちんと仕立てられたワイシャツとスラックスは、舘野の着ているものと同じ町内の老舗のテーラーで作られたものだった。
 色もデザインもすべて、舘野が選んでくれた。
 デザインは奇抜なものではなく、どこにでもありがちなものだった。けれども皺の一本まで計算しつくされた縫製は、着ている伊吹ですら驚くほどに上品に見えるにも関わらず、本当に着やすい。
 きちんとした物を着ると、身体の中のスイッチが店に出るのだ、とう言うモードに切り替わる。切り替わった瞬間、今まで考えていた淫らなことも忘れて、お客様の前に出るという気持ちのいい緊張感が全身に溢れてくる。
 伊吹は一回大きく深呼吸してから、店になっている一階に降りて行く。
 それから階段の踊り場に置かれている姿見で服装の乱れを確認し、もう一度笑顔を作ってから、お客様に出す珈琲の用意を始める。
 舘野の拘りの一つは、お客さまに店で出す珈琲だった。
 もっとも、この拘りは舘野が珈琲好きというのもあるのだけれど。それでも淹れた珈琲を、お客様が美味しいと言って飲んでくれるのも、舘野が満足してくれるのも伊吹は嬉しかった。
 今日も舘野の拘り珈琲豆とカップを喜んで貰える様に用意する。
 時間がある時はサイフォンを使ったりもする。けれど、今のように店にお客様が来ていて急ぐかな? と思われる場合はドリップで淹れる様にしている。
 まずい珈琲は誰でもなく、舘野が嫌う。ちょっとでも手を抜けば、すぐに香りだけでばれてしまい、舘野は珈琲に一切手を付けてくれない。もちろん、伊吹は舘野が喜んでくれるようにと、今まで一度だって手を抜いた淹れ方をしたことはない。
『こうやって淹れると美味しくなるんだよ…』
 家を出て舘野と一緒に暮らし始めて、料理も掃除も家事一切やったことがなかった伊吹に一番初めに教えてくれたのが珈琲の淹れ方だった。
『僕は、まずい珈琲は嫌いだから、一緒に暮らして行くために、伊吹には美味しくて心のこもった珈琲を淹れられる様になって欲しいんだ』
 優しく抱き締めるようにいった舘野の言葉に、自分がここにいていいのだという理由を与えられたようで、その時伊吹はとても嬉しかったことを今でも覚えている。
 最初は何で自分はこんなに不器用なんだろうと反省するほど、美味しい珈琲が淹れられずに、舘野に飲まれない可哀想な液体を何度も作くって飲ませてしまった。
 舘野に喜んでもらえるように、と一生懸命なんて言葉は気恥ずかしいかもしれないけれど、本当にそんな思いで伊吹は珈琲を淹れた。
 それこそ豆の選定、お湯の温度、淹れ方と、一生懸命勉強して。少なくとも舘野が手をつけない物は、出したくなかった。
 その努力の甲斐があったのは、今では舘野が飲む珈琲のほとんどを淹れさせてもらっている。もちろん舘野が、時々本当に美味しい珈琲を淹れてくれることもあるけれど…。
 今日の豆は、同じ町内でメジャーでは無いけれども老舗で買った、すっきりした香りのするキリマンジャロのストレートを選んだ。
 淹れ方は、マニュアル通りが一番美味しい。
 沸騰したお湯を通して、まずフィルターの臭みを取る。
 舘野が好みの細挽きの豆を入れてから、八五度弱のお湯を豆が湿気るくらい入れて蒸らす。完全にお湯が消えるとコーヒー豆がきらきらと輝く。その後は丁寧に〝の〟字を書くようにカップに注ぐ三人分のお湯を入れる。
 これが舘野流。
 以前豆をいつも買っている店の店主に美味し淹れ方を聞いたことが以前あった。
 
『最終的にはどんな淹れ方をするよりも、美味しく飲んで欲しいという気持ちが重要』
 飲んでくれるお客様と、舘野さんが喜んでくれる様に…。
 伊吹は、珈琲店のオーナーから教わったコツを、一生懸命に実行して行く。
 淹れ立ての、珈琲のいい香り。
 最後の仕上げに、今日のお客様である、姫香のイメージに似合っているカップを、舘野のお気に入りのカップコレクションの中から用意する。
 藍色に近いブルーの上品で美しいバラが描かれている、大倉陶器のカップ。
 華やかなカップに注いで、溢さないように店に持って行く。
 今日も美味しいと言って貰えますように、品のあるカップに注がれた珈琲を見ながら、こっそりと魔法の呪文をかけて、店に通じる扉を開ける。
 一瞬の緊張。
 強張っている顔を緩めて、出来るだけ愛想のいい笑顔を作る。
「いらっしゃいませ、宜しければこちらをどうぞ…」
 いつまで経っても店に入る時に、伊吹は緊張してしまう癖がある。
 情けない自分に向けてせめてと心がけるのは、出来るだけさわやかに見える笑顔と努力することだった。
 努力の甲斐のない強張った顔で笑みを作りながら、お客様ともちろん舘野分も忘れずに珈琲を出していく。
 せめてと思う気持ちもあって、なるべく顔を見ないでサーブする。だからこそ、お客様と舘野の表情が少しだけ気になる。そうなると緊張は、知らず知らずに一番ピークに達していく。
 いつもの様に緊張しきっている伊吹を楽しんで笑みを浮かべている、舘野の声が頭の上から微かに声が聞こえてくる。
『必死にやっているのに、酷いじゃないですか~』
 恥ずかしい言う思いと同時に、心の中で思わず舘野への悪態が浮かんでしまう。しかし悪態が浮かぶ余裕が、伊吹の緊張をほぐしてくれる舘野のいつもの手だった。
 舘野のおかげで今まで全身を覆っていた緊張が解け、少しだけ気持ちに余裕を持ちながら珈琲を出し終えることが出来る。
 引きつった笑顔ではなく自然な笑みを浮かべながら伊吹が珈琲を出し終えて落ち着いた様子で頭を上げる。
 その先では満足そうな舘野の表情。
 それから自分向けて微笑んでる姫香の視線が待っている。
「伊吹ちゃん、大学もう終わったの?」
 少し甘い、それでも澄んで聞こえる姫香の声。
「はい、なのでこれから舘野さんのお手伝いをさせていただきます」
 少しだけ気取った笑顔を向けると、姫香は満足そうに頷く。
「やっぱりこの店はいいわね~。超ハンサムな舘野さんと、とっても可愛い伊吹ちゃんがいるだけで目が楽しいし、商品も二人が持つと何倍にもまして輝いて見えるし」
 にこにこ笑いながら姫香は、舘野と伊吹を交互に見つめる。
 可愛いと言われるのも、こうやってじっくりと見られるも伊吹はいつまで経っても恥ずかしさが消えなかった。
 手伝いを始めた時はよりは、少しだけ慌てないようになったけれど…。
「そんなに見つめないでくださいよ、伊吹が減ったらどうするんですか?」
 困って言葉がまったく出ない伊吹に変わって、笑いながら舘野が助け舟を出してくれる。
 伊吹とは反対に舘野はいつもマイペースだった。
「そうね、可愛い伊吹ちゃんが減ったら困るわね」
 クスクスクスと姫香も笑いながら、舘野に同意した。
 真っ赤になっている伊吹を見つめながら、舘野はたった今淹れたばかりの珈琲の香りを何度か楽しんだ後、ゆっくりと味わうように口に含んだ。
 そして伊吹にだけ判るような、満足そうな視線を送ってくれる。
 喜んでくれているんだ。
 舘野の表情から伺える、幸福感と満足だった。
 この店を手伝い初めて三年が経つ。けれど舘野と言う人物は、本当に謎が多かった。
 伊吹が来る前から、この店をやっているらしい。
 しかし常に自分のペースで接客というよりも、お客様が舘野の魅力に引き寄せられて店のドアをあけてしまう様な所があった。
 さっき淹れた珈琲も、客よりも先に自分で楽しんでいたり、客と伊吹のやり取りを喜んでいたりする姿も、この男の魅力に箔を添えている様に伊吹は思えた。
 まして舘野のそんなそぶりが、お客様に不快感を与えないから本当に不思議だった。
 おかしなもので舘野が珈琲の香りや味を楽しんでいると、どんなお客様でも自然とカップに手が伸びていく。
 カップを手にして中の珈琲を飲んだ客は、驚くくらいに皆満足げに楽しんでくれる。
 舘野とお客様の満足げな表情に安心しカウンターに入ると、珈琲を飲みながら伊吹に何か意味のありげな笑みと言葉を語りそうな視線を送る姫香の仕草に気付いた。
 何だろう? と若干の不安を感じながら、伊吹もにっこりと姫香の笑顔に微笑んで応える。
 姫香の連れの男性も同様で、こちらの視線はもっと不躾なものだった。珈琲を楽しんでいる笑みとは少し違い、全身を舐めるような視線は、まるで値踏みでもされているようなそんな不快な気分にさせられる。
 二人の視線から逃げるように、伊吹は隣に立っている舘野の方を見る。
 何かのキーワードでも表すように、意味ありげな笑みを舘野は一瞬浮かべた。しかしすぐにいつもの客に接する時の柔らかな笑顔に表情を変える。
「伊吹…、いや、有瀬くん、姫香さんも僕も君を待っていたんだ」
 〝僕を?〟 と確認するように、伊吹は自分の顎を人差し指でさして、首を横に傾げた。
「このネックレスを見てくれないか?」
 何事が起こっているのか、まったく理解出来ずに、伊吹は首を傾げながら舘野から奇麗な細工がなされているネックレスを受け取る。
 まるで舞台で女優たちがつけているような、ガラス球をいっぱいつけたようなネックレス。
 そのネックレスの最初の印象はそんな感じだった。
 ざっと見た限りで言うと細工された銀…。銀箔が貼られているか…。いやもしくは少しだけプラチナが混ざった鎖で止められた中央には、ニ~三…、いやニ.五カラットの傷がかなり入っている透明ダイヤ。中央の石を飾るようにその周りには〇.一カラット以下のくずダイヤ施されている。
 値段言うなら店頭で販売するなら十万~二十万程度が妥当だろうか。もちろん他に付加価値が点いていれば別だろうけど…。
「素敵なネックレスですね…。こちらがどうしたんですか?」
 舘野はにっこりと微笑んで伊吹を見つめる。
「有瀬君がそれに値段を付けるとしたら、いくらくらいだ?」
「えっ? 今ですか? あの…、きっちりとした値段で無くてもいいですか?」
 宝石の値段はどんな商品よりも化け物だ。
 どんな商品でも産地や流通方法や経路、扱う会社のブランドなどで価格が変わるのは当然の話だ。鮮度に拘らない消費だからこそ、送って来た時代や歴史なども商品の価格に影響を与える。
 それだけではない、石や金属の値段は、株の様にその時の時価で変動していく。
 透明なダイヤモンドなどは、特にそうだ。少し前までは、世界の市場を牛耳っていると言われる企業が、すべての流通から販売までの価格基準になっていた。しかし今では直接鉱山を持つ者が出来、そこから買い付けるようになり安価での取引も可能になった。
 おかげで宝石が手軽にはなったけれど、店の方としては、価格基準が本当に難しくなった。
 もし正確な価値を調べるなら、成分などもきちんと調べたい所だと思う。
 このネックレスは、偽物ではない。
 けれども本物と呼ぶにはいささか質がよくないのだと、見た瞬間に感じた。
 買い取るなら数万、売るなら十万が妥当…。
 姫香か…、その隣の男性はいったいいくらでこれを買ったのだろうか…。
 舘野ならきっとクールに買値を言うだろうな…。
 ネックレスを手に入れた姫香や隣に座る男性のことを考えると、どう言っていいのか伊吹は戸惑い目を泳がせた。
 舘野は不安げな視線にすぐに気付くと、一回クスクスクスと笑った後に『大丈夫だ』と告げるように、伊吹の肩に手を乗せる。
「そんなに緊張しなくてもいいんだよ、伊ぃ吹。別に君を試している訳じゃない。アバウトでいいんだから…。僕は君の天性の鑑定眼がいくらと付けるかが知りたいだけだから…」
 優しくて、暖かく感じる舘野の言葉に、伊吹の躯は不謹慎にも甘く痺れそうになる。
 こんな時に恥ずかしい…。
 熱くなる自分の躯を戒めるように小さく息を伊吹は吐くと、ネックレスに意識を集中させる。
「あの…、ブランドや何処で造られたという刻印とかの製品を証明するものは、ネックレスの何処にも書かれていないみたいなのですが…」
「そうだね」
 舘野はまた余裕を感じさせる笑みを浮かべる。伊吹は少しだけすねた様に、眉を寄せる。
「…、鑑別書、もしくは芸術性を証明している書類か何かはありませんか? 館野さん」
「それはひ・み・つ」
 本当に嬉しそうに舘野は、笑みを浮かべる。
 伊吹を困らせて楽しんでいるような舘野の姿は、どこかふざけているように見える。こんな時の多くが、だいたいどんな価値の物か判っているけれども自分では調べないで、伊吹に全部やらせようとしている場合が多かった。
 後でその理由を問いただそうとすると『伊吹の困った顔が見たかったから…』なんて言葉ではぐらかされてしまうのが関の山だろう。
 いつも見せる大人の余裕。わざと揶揄われているのだと判っていても、何も反論出来無いどころか、いつもしたがってしまう。
 
「では、何も鑑別書はないと言うことで、宝石だけの価格だけを鑑定させていただきます」
 伊吹は姫香と男に深く頭を下げると重さから順に、内包物、石のクオリティなどを順番に調べながらメモをしていく。
 ダイヤモンドの鑑定のポイントは、基本的には4Cと呼ばれる四つの項目になる。
 カラー、クオリティ、カットそしてカラット。カラーは色ダイヤと呼ばれるピンク、水色、黒、黄色などの石以外は、基本黄みがかっていない透明な色に価値があるとされている。クオリティは石の中の傷や内包物の量で、当然なければ無いに越したことはない。カットは、一般的に言われているブリリアントカット、五八面体のラウンドブリリアントカット評価。最後にカラットは石の重量を表す単位で、一カラットは〇.二グラムを表している。
 宝石を購入しますなどと言っている質屋などでは、〇.一カラット以下の石をメレダイヤモンドと呼んでどんなにクオリティが良くても評価はされない。
 かといって大きければいい訳でもない。大きければ、大きいほどに石の中に気泡などが入っていてクオリティが下がる物は大きくても価値が低い。
 作業をすればするほど、最初の予想がもっと正確に的中し伊吹の表情が引きつっていく。
 伊吹が顔を強張らせれば強張らせるほど、逆に舘野の表情は明るくなっている。
 どんなささやかなことでも娯楽にしてしまう舘野を、伊吹は時々恨めしく思う時がある。しかしそれも館野の魅力なのだと知っているから、自分はもっと情けない。伊吹は複雑な思いを感じながら、自分が見極めた石の価値を用意していたメモに書き終え、ゆっくりとペンを置いた。
「あの…、どう説明したらいいでしょうか?」
 伊吹は舘野と姫香を交互に、何か救いを求めるような戸惑いをはっきりと表す視線を向けていく。
 伊吹の不安そうな表情を受けて、今まで笑顔だった舘野の表情がきりりとしたクールなものに変わる。
「そうだな。まずは伊吹だったらそれを儲け無しでもいいから、いくらで売る?」
 舘野の『伊吹だったら…』というこの言葉が癖者なのだ。
 宝石や宝飾品を鑑定する目の確かさに気付かせてくれ、鑑定の真似事が出来るようにまで教えてくれたのは、誰でもない舘野だった。
 たまたま今日のように常連客から自分で買った指輪が、本物か見て欲しいと頼まれた時があった。
 舘野はその日も楽しげに、『ねぇ伊吹、これ儲け無しに売るとしたらいくらだと思う?』と微笑みながら尋ねてきた。
 今のように鑑定に必要な機材の使い方を知らなかった伊吹は、必死になって指輪が語る言葉を読み取って金額を考えた。
 子供の頃から祖父や母に教えられて、本物の宝石とつきあってきた所為なのだろうか。伊吹が見つめていると指輪の方から、自分から偽物だとか、価値は一万円以下だと告げて来るような気になれた。そして今の所、宝石が語りかけてくる言葉は、間違っていたことが一度もなかった。
 本当なのか、嘘なのか判らない。けれど、直感の様なものだった。
 心細げに『これ…、偽物ではないと思いますが、良い物とも言い難いのではないでしょうか?』と伊吹は不安げに思いを館野にそのままを伝えた。
 伊吹が不安たっぷりにいった言葉に、客の機嫌は非常に悪くなった。けれど舘野は反対に楽しそうに笑った。
 今でも何を考えているのか判らない時がある、舘野。
 その日も伊吹は不安げに舘野を見つめた。
 すると舘野は、笑いの所為で出た涙を拭きながら伊吹を誉めた。
『ごめん…、笑って。でも伊吹、君の目は最高だ! 世の中で宝石の鑑定が出来る人は何人もいるだろうけれど、君ほど優れた目を持つ物はいない』
 舘野は伊吹が見る前から、指輪が偽物だと判っていたらしかった。
 それ以来、ことある毎に伊吹に宝石や宝飾品の鑑定をさせるようになった。
 大丈夫、舘野が認めてくれた目だ。
 伊吹は一回、目を閉じ自分を落ち着かせてからメモを読み始める。
「まず、地金はプラチナの表示が違っていて表示よりも重いです。多分ですか別の金属が多く混ぜられていると思われます。それとメインの石を囲んだダイヤですが、これはメレダイヤ、〇.一カラット以下のダイヤですので、実際の価値よりはネックレスの装飾の価値なっていくと思われます」
「真ん中の石はどうなんだ! それは良い物だと言われたんだ!」
 耐えきれずに叫んだのは、姫香の連れの男性の方だった。
 男性の声に萎縮してしまった伊吹は、続きの言葉を飲み込んでしまった。
「ちょっと! あんたは黙っていて!」
 威勢のいい姫香の声に、男性はシュンとして静かになる。男性の様子を確認してから姫香は伊吹を怖がらせないように微笑む。
「ごめんね、伊吹ちゃん、そのネックレスこの男性からのプレゼントだから、ちょっとムキになっているのよ、こいつ。伊吹ちゃん、続きをお願い…」
 何を言われても動じない態度の姫香。対して男性の方は、姫香の様子を探りながら伊吹を睨んでいる。
 厳しい男性の瞳。
 男性がこのネックレスを姫香に買ったには、それなりに理由があるのだろう。
 鑑定の真似事を初めて、伊吹が一番感じたのは一般的に売られている宝石は鑑定しない方がいいと思われるものが、多いということだった。
「でも…」
 姫香からは、続きを求められている視線がこちらに向けられている。けれども一旦話が止まってしまうと、何処から話して、どう説明していったらいいものなのか伊吹は判らずに、ただ戸惑うしかなかった。
「じゃあ、伊吹、真ん中にはまっているダイヤは君の目で見てどう見える?」
「館野さん…」
 視線がどこに向けていいのか判らずに、困惑していた伊吹は、横から聞こえて来た優しい声に振り向いた。
 横からは、『大丈夫、伊吹が間違っていないから』そう言っている様に聞こえる、包容力のある舘野の微笑が感じられる。
 大丈夫…、館野さんがいるんだから…。
 伊吹は、背を押してくれている気がして、舘野に微笑を返すと、中央に飾られているダイヤから言葉を聞こうとゆっくりと見つめる。
 ダイヤは、すぐに自分が何物なのかを伊吹に告げ始める。
「まずカラーからいきます。わずかに黄みがかっていて透明とは言いがたいので、Gランク。クラリティ…、ダイヤの透明度は、肉眼では見つけにくいですが内包物がはっきりとありますのでSL2、カット…、あまり綺麗なカットではなくプロポーションもあまりよくありませんのでFかPです」
 緊張と集中力に置き換えるとうに一気に説明をすると、少しだけ落ち着いたように伊吹は大きく呼吸をした。
 いつものことだけれども、伊吹はこんな風にお客様の持ってきた製品の鑑定が大の苦手だった。
 伊吹は、ネックレスを見ているかの様に視線を向けながら、こっそりと姫香と男性の様子を伺った。
 無言のままの表情を真剣なものから変えない姫香と、苛立ち、不安などをひっくるめた複雑な表情をしている連れの男。伊吹は二人をちらりと見た後、助けを求めるように舘野に視線を移した。
 
「あの…、申し上げ難いんですが…、あまり高価なものではない、ということになると…、思われますが」
 伊吹が申し訳なさそうに、肩を落として最後の言葉を継げると、姫香は何かが踏ん切れたようにすっきりとした笑顔を見せる。
「ほらね~、見た目にだまされた安い物って絶対にそういう結果になるのよ。あんたもこれで判ったでしょう?」
 不機嫌に伊吹を睨みながら、眉間には深々と皺を寄せている男性の方を見つめ、わざと呆れたそぶりを見せるようなオーバーアクションをして姫香大きく息を吐いた。もっとも派手なパーフォーマンスをしている姫香の表情は、ぱっと目には冷たい様に感じる素振りを見せても、どこか隣に座る男性を気づかって優しさが感じられえる様に伊吹には見えた。
 姫香さんってちょっと舘野さんに似ているかも…。
 自分のことでも、他人のことでも、マイナスな出来事が起こっても、すべてを娯楽だと感じ楽しんでしまう、そんなタイプ。
 舘野や姫香の様にネガティブになりがちなエピソードを、プラスの方向に持っていってポジティブに変えてしまう。気が小さくてすぐに悪い方向に考えてしまう、伊吹には二人のようなたくましさがうらやましい。
 きっと自分では、一生出来ない思考だな…。
 今の状況を楽しそうにニヤニヤした笑みを浮かべている姫香と舘野を交互に見比べて、伊吹はちょっとだけ呆れながら小さく息を吐いた。
 可愛そうなのは、一人取り残されたように見える、うなだれている姫香の連れの男性。
 最強の笑みを浮かべると、姫香はカウンターに肘を付くと男性の方を向く。
「さー、これで決まりね。あんたは約束、守ってよ!」
 姫香は落ち込んで声が出せない男性に、嬉々とした笑みを浮かべながら追い討ちをかけていく。
「しかし…」
 困って、助けを求めるように、男性は伊吹に視線を送ってくる。
 
「あの…、ちょっとよろしいですか?」
「どうした? 伊吹」
 肘を曲げた形で小さく手を挙げながら首を傾げている伊吹に、姫香と男性のやり取りをずっと傍観していた舘野が応える。
「すみません…。あのですね…、よかったらなんですけども、今回の事情を伺ってもいいでしょうか?」
 一斉に自分に向けられる視線に、的を外したことを言っているのではないかと不安になり、恥ずかしくなった伊吹は声のボリュームを少しずつ抑えていく。
 けれど空気の読めない発言に、今にも喧嘩でも始めそうな勢いだった姫香の気持ちがそげたらしく、息を一回吐くと伊吹の方に向き直った。それから伊吹を脅えさせないように、にっこりと優しそうな微笑を向けた。
「ごめんね~、伊吹ちゃん。実は来月の頭にうちの店でちょっとした催しがあるのよね。で、その時に付けるネックレスが欲しいって言ったら、この男がそれを持ってきた訳。そんな鑑定書もない偽物を…」
 恐縮して詫びてくる姫香に、何も気にしていないと告げるように、伊吹は頭を何度か横に振った。
「そんな言い方しないでください、姫香さん。確かに鑑定書は有りませんが、これは偽物ではありません」
「そうなの?」
「はい…。ただ、あの…多分なんですが、思っていたよりも石や金属のクオリティが良い物ではなかっただけなんだと思うんです」
「伊吹ちゃん…」
「あの…、こんな言い方していいのか判りませんけれど、素敵なネックレスですから、姫香さんが大切にして上げて欲しいんです」
 頬を真っ赤にしながら伊吹は、結論を姫香に告げた。姫香は一瞬だけ伊吹の言葉に感心したように、唇を尖らせて目をぱっちりと開いた後、にっこりと微笑んだ。
「伊吹君は本当に優しいわね~。でもね、これはそんな趣味で付けるために使う物じゃないのよ」
 自分に向けていた笑顔を消し去り、硬くした姫香の表情に伊吹はことがただネックレスの価値だけではないのだと感じられた。
「あの…、どう言うことなのか伺ってもいいでしょうか?」
 恐る恐る尋ねる伊吹に、姫香はまた表情を優しい物に戻して笑みを浮かべる。
「ハハハ、ごめんね。実はうちの店でちょっとした催しが今度あるのよね。で、その時に付けるネックレスを探していたんだけどさっ…」
 姫香の視線がまた隣の席に向けられ、伊吹は原因が男性なのだと判った。
「それであの…、このネックレスを?」
「そう…。普段の店とかならば、これでもまあ悪くはないか、って感じで使えるのよ。でもね、今回の催しはダメ」
「何で、ですか?」
「今回はそれなりに地位も名誉もある人たちばかりが集まる、宝飾品のオークションだから…」
「宝飾品のオークションですか…」
「そう、舘野ちゃんでも簡単に手に入れられないようなすごい物が出るの…、アンティークから幻のコレクションって言われる有瀬コレクションまで」
 有瀬コレクション…、それってお母様の…。
 まさかここで聞くとは思わなかった言葉に、伊吹は唾を飲み込み、背後に立っていた舘野からも一瞬緊張した空気が感じられた。
 さらりと口から出た言葉の雰囲気から、姫香が有瀬コレクションこそ、伊吹が探している母親の形見だと知らないらしい。それでも感の良い姫香は、表情の変わった伊吹に首を傾げる。
「どうしたの?」
「いえ、ごめんなさい。あまりに大規模そうなオークションと聞いて少し驚いてしまいました」
 少し不自然かなと思いつつ、伊吹は笑顔で自分の引きつった表情を誤魔化した。姫香は少しだけ不振そうに首を傾げるが、何かを詮索するつもりは無いらしく息を小さく吐いた後、話を続ける。
「でね、自分で言うのも何だけど、私も店ではナンバースリーって地位があるわけなんだよね。二人だから言うけど、こいつにネックレス売ったのって美鈴がらみっぽいのよ…」
「ナンバーツーの?」
 意味が判らない伊吹のためにか、舘野は眉を軽く寄せて姫香に尋ねた。姫香は少しだけ引き締まった顔をして、無言で頷く。
「多分ね…。あの女の客にさ、貿易会社の社長がいるんだけど、そいつが宝石類、かなり詳しいらしいのよ。もちろん裏がとれている話じゃないんだけどね…。だからよけいに、負けられない。私を慕ってくれる若い娘たちもいるからよけいに…」
 決意をするような姫香の言葉に、伊吹は彼女を励ましたいと思いながらも上手い言葉思いつかない。
「た…、大変ですね…」
 それでも何とか思いついて口にした言葉を、姫香は判ってくれたらしく、伊吹の頭を優しく撫でる。
「そう、大変なのよ、だからがんばらないとね…」
「姫香さん…
「他の女の子たちも、皆良い客を付けようと恥をかかないような格好をしてくるから、絶対に負けられない。なのに、こいつがうちの女の子に騙されて私のためにって、こんなの百万も出して買わされて…」
 悔しそうにというよりも呆れているように、姫香は男性を見た。姫香の攻めるような視線に、男性は小さくなるように背を丸めた。
 悪態を一通り付くと何かが吹っ切れたらしく、姫香は男性に対して優しい視線を送る。
「で~、ここからが本題。舘野ちゃんに相談なんだなぁ~」
 にっこり、そんな擬音がはっきりと聞こえてきそうな姫香の微笑み。伊吹が盗み見る様にして背後にいる舘野を見つめると、少しだけ表情が引きつった笑みを浮かべている。
「何ですか?」
 ここからが狐と狸の化かし合いならぬ、大人の駆け引きなのだ。舘野が仕掛けるようすらっとぼけた笑みを浮かべると、姫香は少し大げさに困った表情をする。
 微かに背筋に伝わる緊張感のある空気に、伊吹の表情が引きつっていく。
 姫香はフフフッと微かに声を上げて、何か企んでいる様に見える笑みを浮かべた。
「舘野ちゃんだって判っているでしょう? この男じゃあの女に騙されて買わされてしまうのが限界なの。だからね~、代わりになりそうな物、売ってとは言わない、貸してくんない?」
「代わりですか?」
「そう、舘野ちゃんマジックで、えいやーって」
「僕のメリットは、何ですか? 無償では出来ないでしょう?」
 舘野は姫香を値踏みでもするように、カウンター越しに見えるウェストの辺りから、頭の先までを舐めるように見る。
 姫香はもう一度、フフフッと声を上げて笑う。
「そうね、舘野ちゃんもコレクターだから、オークションに参加出来る様にしてあげるわ」
「オークションにですか?」
 尋ねる舘野に、姫香は立ち上がると、耳打ちをする。
「行きたいでしょう? オークション…、ねえ舘野ちゃん…、これに貴方が探しているあのコレクションの流れ品が出展されるらしいしね~」
 一瞬だけびっくりした顔をする舘野。
 姫香は舘野が絶対にそれでうんと言う自信を匂わせるように、笑みを浮かべる。
 舘野の驚く顔に満足した後、姫香は席に付いてニヤニヤと笑っている。
 少しだけ何かを考えているように、舘野の口から言葉が出なくなった瞬間、姫香はスッと立ち上がった。
「ま、考えておいて…。これ、オークションのカタログだから…、今日は失礼するけどね、連絡を待っているわ」
 姫香は持っていたポーチから、DMに似た業務用の封筒を取り出して、机の上に置く。
「では、考えさせていただきます」
 自信満々の姫香の態度。対して舘野も負けていないとばかりに、にっこりと普段、お客様を送り出す笑みを浮かべて姫香を見送る様に頭を下げた。
「よろしく~、さ、帰ろう?」
 ドアにさっさと向かう姫香を追うようにして、男性が立ち上がった。その瞬間男性は何かを思い出したように伊吹を見つめた。
「あ、君、名前、なんて言うんだ?」
 すぐに自分のことだと判らなかった伊吹は、男性が顔を向けている方向で、気づき首を傾げた。
「僕? えっ…あっ、伊吹…、有瀬伊吹と申しますが…、何か?」
 男性は一瞬何か合点がいったように鼻から息を吐きながら、唇だけ上げた。その後、すぐに自分の行動を否定するように頭を横に数度降った。
「すまん、いや、知り合いに似ていた物だから、勘違いだったよ…」
「はあ…。あっ、ありがとうございました」
 伊吹は不思議そうに扉に向かう男性に頭を下げる。するとすぐに背後から舘野の声が聞こえて来る。
「またのお越しをお待ちしております…」
 姫香と男性が店の外に出て、扉がカウベルを鳴らしながら閉まる。
 舘野はすぐに頭を切り替えた化のように、カウンターに寄りかかりながら、飲みかけの冷めた珈琲を口にしている。
「あの…、どうするんですか?」
「さあ、どうするかな? まあ面白い物があるから、後は姫香さん次第だな…」
「でもどうしてあの男のプレゼントに姫香さんは拘ったんでしょうか? 姫香さんほどの人なら、もっと別のお客さんからもっとすごい物買って貰えるでしょうに…」
「あいつは姫香の本命なんだよ。だからやつが買ってくれる物が欲しかったらしい…」
「それでも…、でも残念でしたね…」
「何がだ?」
「結果、使えない物買わされて…、あれだって買おうとしたらそれなりの値段するでしょうに…」
「あ、あれ? まあ、あれはそんなに問題にはならないだろうさ。普段は十分使える物だし…。高いレッスン料になっただろうけど…。それより、そうだな…、あいつが出てくるならやっかいだ…」
「舘野さん…?」
 渋い顔をしている舘野。
 舘野が言う、あいつ…? それは、話に出ていた貿易会社社長のことだろうか…。伊吹は心配になり、舘野を見つめた。
 伊吹の不安げな表情に気付き、舘野は伊吹の顎を自分に引き寄せ、優しくキスをする。
 店でする事ではないのは判っている。けれど、唇から伝わる体温に伊吹の不安が消えている。
 軽いフレンチキッス。唇を解放すると舘野は、悪戯っ子が何か思いついたようなそんな子供っぽい笑みを浮かべる。
「今日は店、閉めよう、伊吹…」
「えっ? もうですか?」
 気まぐれで舘野は、店の開、閉店時間もかなり区々(まちまち)だった。
 舘野はにっこり微笑むと、今日はもう締めようと言って、自分の飲みかけのカップを持ってさっさと二階に上がってしまう。
 時計はまだ十七時を回ったばかり。
 これから会社帰りの人々で賑わう時間。
 いつもことに呆れながら、伊吹は「Close、御用の方は電話ください。電話番号03-XXXX-XXXX」の看板を出しカップを片付けてから二階に上がる。




2.Private

 伊吹が舘野と暮らし始めて、三年がすでに経過していた。
 毎日顔を合わせていても、それでも舘野という人物が伊吹にはよく判らない。
 家出同然で店に現れた伊吹に、舘野は住む場所を与えてくれた。生活が出来るように、店の手伝いと舘野のお世話をすると言う仕事を与えてくれた。それから舘野の共に生活出来るように、父を説得してくれて高校、大学と学費を出してくれた。
 普通の家庭でも、高校や大学学費だけでも小さな金額ではないのは伊吹でも判る。
 けれども、舘野が真剣に店をやっているようには、まったく見えない。
 今日のようにいきなり店を閉めようと言い出すのは、今に始まったことではない。開いていたとしても、伊吹に店番を頼んでふらりと何処かに行って、夜まで帰って来ないことも多かった。
 舘野が店をやる気があって開業しているのか、時々真剣に疑問に思ってしまうくらいに本当に気まぐれに見える。
 ではまったくやる気が無いのかというとそれも違う。常連客のリクエストに応えて、びっくりするほど手に入れにくい、希少石と呼ばれる石を使った宝飾品を用意したり、歴史あるアンティークジュエリーを店に並べたりと店の手伝いをしていても驚かされる事がある。
「たぶん、舘野さんのことだから姫香さんのネックレス…。きっと驚く様な素敵な物を用意するんだろうな…」
 三年も一緒に暮らしていて伊吹が判ることと言えば、舘野が考えそうな内容がほんの少しだけ予測出来る程度だった。
 舘野が今までどんな人生を送っていて、どうして宝石店をしているのか伊吹は知らない。
 何度も舘野のことを訊きたいと思うことはあった。しかし伊吹には、聞く勇気が無かった。
 ただ『舘野さんって何をやっているんですか? 店にいないときとか…』と訊けばいいだけのことなのに…。
 舘野は教えてくれか、いつもの様にはぐらかすか…。
 多分、真剣に聞けばきちんと教えてくれるだろう。それでも勇気がないのだ。もし舘野があえて話さなかったことに立ち入ってしまったらと、そう考えると伊吹には訊くことが出来なかった。
 伊吹は手早く店を閉めて、カップを丁寧に洗い終えてから、舘野が待つ住居になっている二階に上がる。とたん、舘野は待っていたかと言う様に、伊吹をいきなり抱き締めた。
「たっ、舘野さん!」
 舘野の行動に、びっくりして戸惑う伊吹。
 いきなり抱き締められて驚いた伊吹は、一瞬舘野から離れようと躯をねじった。けれど舘野の方は、伊吹を抱き締める腕をいっこうに緩めてはくれない。それどころか、先ほどよりももっと強く、それこそ体力的には舘野に勝てないと判っている非力な伊吹では、振りほどけない力で抱き締めてくる。
 こうなってしまうと、舘野の温もりが大好きな伊吹には絶対に逆らえない。
 なされるがまま、舘野が自分を求めてくる腕に、躰を預けていく。
「伊ぃ吹…、僕以外の男に気を許しちゃだめだよっていつも言っているよね?」
 耳元に囁きながら、伊吹の反論を許さず、唇を塞ぐと自分を主張するかのように、舘野は何度もキスを落としていく。舘野でいつもいっぱいな伊吹は、言葉の意味が判らずびっくりして振り返ろうとする。
「何を言っているんですか…、僕は舘野さんだけ…、あっ…」
 伊吹の反論を阻むようなキス。
「姫香の連れの男に、君は気を許していただろう…?」
「そっ、そんな…、違い…ま…す…、あっ…んっ」
 舘野は伊吹の躯を反転させて、正面から自分の腕にすっぽりと納めて抱きしてから、反論しようとした唇を塞いだ。
 舘野は時々、子供の様に我が儘になる。
 別に伊吹が何かをした覚えがない。どうやら舘野は、姫香の連れの男性との最後の会話に嫉妬したらしかった。
 自分よりも十歳以上も年上の男性が、可愛いと思える瞬間だった。
 唇を何度も繰り返して舐められ、少しだけ間を開けるとすぐに中に入ってくる舘野の舌。
 舘野の温度を感じさせる舌は、まるで動物が自分のテリトリーをマーキングするように伊吹の歯の一本一本を舐め回していく。
 そして舌を絡め取ると、どちらの唾液か判らなくなるほどに絡ませる。
 どんどん温度を上昇させる伊吹の躯。
 早く服を脱ぎ、もっと感じたい場所に熱い楔を打って欲しいと感じてしまう。
 伊吹の頭に浮かぶのは、ただただ淫らな思いばかりだった。
 まだ銀座は、買い物客で賑わっているそんな時刻。しかし伊吹の下半身はすでにもう耐えきれずいる。舘野の躯に自分でも恥ずかしい思いがはっきりと現れている部分を、強請る様に擦り付ける。
 もっと触って、そしてそれ以上のことをして欲しいと。
「舘野さん…だけが、好きなんです…、他の人なんていい…」
 躯が熱つ過ぎて、自分ではどうしていいのか判らない。
 泣きそうになる思いを詰まらせながら、言葉をやっとの思いで口にする伊吹に、舘野は唇を解放すると、耳元に息を入れるようにそっと囁く。
「伊ぃ吹…、愛しているよ。さ、ベッドに行こう…」
 館野の熱い息。
 背筋に一瞬、落雷を受けたように走った期待と緊張。言葉に伊吹は頷くと、まるで糸で操られているマリオネットの様に舘野に導かれて、ベッドまで力強い腕に支えられながら歩いて行く。
 導かれた先には、伊吹が普段眠り、何度も何度もそれこそ数えられないくらいに愛し合ったそれほど広くない伊吹が使っている部屋。大人二人で使うのには手狭な空間には不似合いな、舘野が用意してくれたクィーンサイズのベッドがある。
 部屋にあるものはベッドだけではない、洋服から家具、他にも細かい小物まで、部屋に日用品はすべて舘野の趣味で用意された物だった。
 一緒に住み始めた時に、舘野は『これは私の拘りだから我慢して』と笑って言った。有瀬の家にいた時は、お手伝いや母にすべて任せていた伊吹にとって苦痛ではなかった。むしろ何年も時間を経て、自分が舘野の色に染まっていくようで嬉しかった。
 もっとも、舘野の趣味はとても上品で、家具も服もそれなりに名前のあるメーカーで統一されていて、一つとして使いにくい物はなかった。
 いつもの様に伊吹はベッドに先に行って腰掛けている舘野に導かれるようにして、服を順に脱ぎ、目の前に跪いて縋るようにキスをする。
 舘野は伊吹の両脇に腕を入れてベッドの上に乗せると、先ほど口の中でしたマーキングを今度は全身に施す様に、何度も啄むようなキスを落とした。
 伊吹の躯にたくさん付いている、毎日のように愛されている痕。そしてたった今付けられたばかりの鬱血した色。
 人前では脱げなくなるほど無数付けられた薔薇色の痕が、伊吹の躯は自分の物だと誇示しているようだった。
「ぁ…ん…。舘野さん…」
 もっと感じる部分に触れて欲しい…。舘野の雄で自分を貫いて欲しい…。
 まだ服も脱がずに躯を愛撫している舘野のあまりのもどかしさに、伊吹は思わず甘える声を漏らして懇願した。
 はしたなく伊吹の先端からは、甘い先走りの蜜が漏れ始めている。
 それでも舘野の服を汚してはいけないと、必死にこらえるように足を閉じる。
 躯の奥から突き上げてくる欲望と理性との狭間で伊吹は、狂いそうな思いに躯を震わせた。
「抱き締めてください…、舘野さん…」
 伊吹は突き上げる衝動に懇願した。おかしくなりそうな衝動に涙を流している伊吹とは反対に、舘野は落ち着いた表情で余裕のある笑みを浮かべる。
「普通に、ぎゅっと抱き締めるだけでいいの? 伊吹?」
 愛撫を止めて、舘野はわざと伊吹を焦らす様に上から見下ろした。
 羞恥心と欲望。
 伊吹は唇をぎゅっと噛み締めながら、頭を左右に何度も振る。
「嫌…、舘野さんの全部が欲しい…」
 話し終わる前に、すでに泣いていたのかもしてない。
 しゃくり上げている伊吹の頭を、舘野は何度か慰めるようにポンポンと撫でた後、手早くネクタイを外し、シャツを脱ぎ、スラックスと一緒に下着を脱いだ。
「ごめんね、伊吹。君が可愛すぎるからつい君をいじめてしまうね…」
「舘野さん…」
「もう泣かないで、さ、君が気持ちよくなるように愛して上げるよ…」
 涙で濡れた瞳に舘野はキスを落とすと、甘い蜜で濡れている伊吹の先端を優しく握りしめた。
「あっ…、んっ…」
 途端に伊吹は耐えられないように、熱い息を吐いた。
 気持ちがいい…。舘野は、いつもふざけていて、つかみ所がない部分が多いけれども、ベッドの中では伊吹をいつも優しく包むように抱き締めてくれる。
 それは初めて抱き締められた日からずっと、だった。
「伊ぃ吹…、気持ちがいいかい?」
「舘野さん…、はい…、とても…、でも…」
 やわやわと力加減を少しずつかけて握られる屹立。先ほどの曖昧な愛撫とは違って、直接的な官能だった。しかし情けないことに躯が性に敏感になるともっとはしたない場所が、疼いてくる。
 それは伊吹がいつも舘野と躯を繋げる部分だった。
 自分で知らず知らずにはしたなく揺れる腰。
 舘野は自分の躯をずらして、今まで握っていた伊吹の象徴に、チュッと音を立ててキスをした。それから一気に伊吹の両足を自分の肩の上に乗せた。
「あっ…」
 びっくりして伊吹が息を思いっきり吸っているのを気にせず、舘野は今まで隠れて見えなかった小さな蕾を見つけると戸惑いもなく舌でその窄まった部分をなぞる。
「た…、舘野さん…」
 いつも舘野は、伊吹が負担にならないように、舌でたっぷりと唾液を練り混み、堅さの取れない部分を和らげてはくれる。
 しかし何度しても、普段欲望を受け入れる場所に使っていない場所を舌で舐められるのは、伊吹にとって羞恥心が捨て切れなかった。
「館野さん…、いっや…」
 震えながら伊吹は両足を舘野の肩でばたつかせた。けれどがっしりと舘野に支えられた両足は、伊吹のささやかな抵抗ではまったくびくともしない。それどころか館野は、養分をたっぷり与えて綺麗な花を育てるために、伊吹のまだ固い蕾を丸めた舌を入れて唾液で濡らし、開花の準備をしていく。
「あっん…、あ…んっ」
 くすぐったい、切ない、もどかしい。もっと別の強い力で突いて欲しい。
 全身を包む甘くて鈍い感覚から逃れようと伊吹は、頭を左右に振りながら目をきつく閉じ、シーツを悶える様に握りしめた。
「もう…、館野さんを…、ください…」
 熱い息を吐きながら、震える声での懇願。
「伊ぃ吹、もう少し待って…、出ないと君を傷つけてしまうから…」
 館野は満たされない快感に涙を流している伊吹を慰めるように、懇願の甘い蜜を流している屹立にチュっと音を立ててキスした。
 それから先ほどから館野がたっぷりと唾液で濡らし、七部咲きになりかけている蕾に、それほどごつくはない、しかし男だと言うことをはっきりと判る太さの指を入れて拡げていく。
 最初は一本だった指が二本、三本と増えると花は開花の瞬間を待つように、自分からひくひくと震えてくる。
 甘い圧迫感。伊吹はきつく目を閉じ、舘野しか与えられない最高の快楽が来る瞬間を待ち望んでいた。
「舘野さん…、もうダメ…。お願いです、入れてください」
 これ以上待たされるので有れば、自分から舘野を迎えても良い。
 耐えることの出来ない欲望を求める懇願。
 舘野はクスリと笑った後、上半身をずらしてから伊吹の唇に自分のそれを重ねた。そして伊吹が舘野の舌を求めている瞬間に、すでに猛って甘い蜜で濡れている屹立で一気に貫いた。
 一瞬だけ驚くように、快感の涙で濡れている伊吹の瞳が大きく開かれる。
 望んでいた物とはいえ、自分を貫く一瞬だけは躯に緊張感が走り全身が硬くなる。しかしすぐに受け入れた部分は甘美な痺れを感じられ、もっと奥まで伊吹のすべてを舘野に暴いて欲しくなる。
「た…てのさぁんっ…」
 身を捩りもっと官能を貪れる様に、伊吹は汗ばんでいる舘野の背中に腕を回した。
 大きな背中。脂肪など付いていない。それどころか、綺麗に筋肉が付いて、見ているだけではなく、こうやっと何度触れても本当に格好いい舘野の躯は、伊吹のあこがれだった。
 触れるだけで焦がれる思い。
 伊吹は自分から、ゆっくり腰を左右に振った。
 途端に舘野自身が力を大きく持つのが感じられる。
「うっん…」
 耳元で聞こえる舘野の呻き声。
「伊ぃ吹、いつからそんなはしたなくなったんだい…」
 非難しているわけではない、優しい声と一緒に額や頬、そして唇にキスを落とした後、舘野は伊吹の両足を抱え直すと硬く力強い屹立をより官能の高みに打ち込み始める。
「あっ…ん…、ぁ…」
 一瞬の強い圧迫感。内蔵をすべて押し込まれるような苦しい圧迫感の次には、ずっと待ち焦がれていた物が逃げていくような空虚が伊吹の狭い筒で感じられる。しかしすぐに舘野の硬く大きな性の象徴を離すまいと収縮する花弁に、熱く燃えるような甘い痺れが感じられる。
「伊ぃ吹…、気持ちいい??」
 舘野の問いに、伊吹は目をきつく閉じウンウンと頷いた。今までさんざんもったい付けられた興奮を一気に溢れ出すように、はしたなく涎を垂らしている伊吹自身は、高みに向かって力を恥ずかしいくらいに蓄えていく。
「舘野さん、舘野さん…、いいっ、もっと、もっとください…」
 背に指の後を付けていることにも気付かないほど、熱に浮かされている伊吹は舘野に縋り付く。
「うっ…、んっ…、伊ぃ吹気持ちいいよ…。僕の可愛い伊ぃ吹。もっと締め付けてくれ」
 無意識の締め付けに舘野は高みを目指して、伊吹の狭い腸に快感のすべてを打ち付ける。
「伊ぃ吹…」
「舘野…さん…、あっ…ん…」
 熱い呼吸と一緒に舘野は、伊吹に搾り取られるように精を吐き出した。そして伊吹も舘野の甘すぎるほどの蜜を受け、最高の頂に到着する。


* * *


 そもそも舘野との出逢うきっかけは、伊吹にとってあまり良いものとは言いがたかった。
 大好きだった祖父が一年前に死去し、それを追うようにして一ヵ月も経たずに母が亡くなった。
 そんな頃、伊吹の身辺も家の中も少しずつ変わり始めた。
 庭の花が悲しく散り始めた頃、父に頼まれて母が持っていた宝石の鑑定に来たのが、館野だった。
 元々祖父とは折り合いが悪く、まったく家に帰って来なかった父。
 母を家柄でしか見ていなかった父は、祖父が亡くなると同時に、病弱だった母がいるのにもかかわらず、愛人だった女性とその子供を連れて家に戻って来た。
 父が愛人を連れて帰って来た理由は、伊吹やほとんど布団から起き上がれないようになっていた母に逢いに、では当然ない。
 目的は自分の事業を拡大するための資金を、取りに来ただけに過ぎなかった。
 
 伊吹には理解出来なかったけれど、元々ビジネスで結ばれた父と母。それでも新婚当初は、皆が羨むほどに上手く行っていたらしい。けれど野心家の父には目の上のたんこぶになる祖父が邪魔だったのか、仕事の方針のずれが生じたのがきっかけにすべてが壊れていった
 そんな父と母の馴れ初めはこうだ。
 祖父の会社が道楽で立ち上げたアリセコンツェルンの社員として入社して来た父は、様々なプロジェクトを成功し、世界で名立たる企業と提携を結び祖父を驚かせた。祖父に気に入られた父は、母と結婚をし、アリセコンツェルンの社長となった。
 そして祖父が手がける仕事のほとんどを引き継ぐようになった頃から父は、家にまったく帰って来なくなっていた。
 伊吹は真剣に、父は仕事で忙しいのだと信じていた。
 けれど、家の使用人は父が財産目当てで母と結婚しているのだと皆口々に言っていた。
 母は祖父が亡くなったショックで、今まで以上に床を離れられなくなっていた。
 今まで毎日のように何人も来ていた客が来なくなり、使用人が減り、せいぜい家で話すのは食事や生活の世話は家政婦くらいだった。
 その日学校を終えて、いつものように母を見舞った後部屋にいると、突然父から居間に来るように呼び出された。
 母を母とも思っていない父。
 父が帰ってから半年が過ぎたけれども、まだ母の四十九日は終わっていない。
 伊吹にはまだ気持ちの整理が全然着かない時期。しかし家はもう伊吹の物では無い。そんな不思議な場所になっていた。
 父は愛人とその子供はまるで昔からここに住んでいた家の様にここで生活をしている。一人ぼっちになった伊吹が家で話すのは、お手伝いだけ。行き場のない生活を毎日送るようになっていた。
 そんな父が自分を呼んでいる。
 今までの記憶の中で父に呼び出されるのは、初めてだった。
 驚き。どんな風に接していいのかがまったく判らないという戸惑いの中で、伊吹は障子を開けて居間に入った。
 今まで祖父がよく座っていた場所に、胡坐をかいて座る父。そして右脇には若い上品なスーツ姿の男が座っていた。
 それが舘野との出逢いだった。
「そんな所で立っていないで、早くこちらに来なさい…」
 父に窘められ、伊吹は小さくうなづいた後、中に入って障子を閉めた。伊吹は父と舘野に挟まれる位置に座った。
 きつく厳しい視線で見つめる父。舘野の方は感情がまったく伺えないくらいに冷たく感じる表情に伊吹は身を竦ませる。
「あ、あの…」
 伊吹は、困ったように泣きそうな声を出した。途端に父は不機嫌そうに咳払いをする。
「これを見なさい」
「はい…」
 首を軽く動かした父。視線の先にあるものを伊吹は見つめ、驚いたように父を見つめた。
「あの…、これは、お母様の宝石箱ですよね。何でここに…」
 お膳の上にはあるのは紛れもなく、母が大切にしていた宝石箱が置かれていた。
 子供の頃、ずっと伊吹が遊んでいた宝石箱。母がおもちゃを一緒に買いに行けない我が子の遊び道具として、くれたものだった。けれど祖父が亡くなり益々臥せがちになり、伊吹が元気付けるために一度戻してそれ以来見かけていなかった。
 子供の頃の夢がいっぱい詰まった宝石箱を久しぶりに見て、涙が出そうになるくらい懐かしさが溢れてくる。
 しかし懐かしいはずが、何か違和感がある。違和感の理由を、伊吹はすぐに気が付いた。
 これはお母様の宝石箱じゃない…。
 見た目はとっても似ている。しかし箱を飾っていた貝や中央にあった宝石は、本物とは似ても似つかないプラスチックに変わっていた。
「あの…、これ…」
 自分の目を疑う宝石箱の姿に、伊吹は思わず声を上げた。しかし父は問いに応えずに、どちらかと言うと疑っているのではと感じるような、眉を潜めると厳しい視線を伊吹に向けながら、一回大きな咳払いをする。
「お前に聞きたいことがある」
「はい…」
 家に戻ってきてからの父は、伊吹や母を疎ましく思っているのか、何度も殴られた記憶しかなかった。
 背筋に寒気を感じる視線を向けながら、父のきつい表情を伊吹はただ見つめるしか出来なかった。
「本物は何処にやった?」
「えっ…」
 ビックリした。父の言葉の意味が理解出来ずに伊吹は、ただ口を開いたまま動くのを忘れてしまった。
「しらばくれてもだめだ、この人がどんな人だか判るか?」
 益々厳しい視線を向けてくる父。父は伊吹が本物を隠し、しらばくれている…。そしてその証拠すら握っている様なそんな薄ら寒さを感じる表情だった。
 悲しい…。ずっと家にいなかったとはいえ、伊吹の父親だ。何故自分を疑い、厳しい視線を向けてくるのか、伊吹には理解出来ない。
「いえ…」
 今にも泣きたくなるような、伊吹の表情。殴られたくはないと思うけれども、避けることも父に反論することも出来ない伊吹は、頬を張られるのを待つ覚悟で、怖々と首を横に振った。父はしてやったりと言う表情をして、舘野を紹介するように手の先を向ける。
「この人は、宝石の鑑定をしてくれる方だよ…」
「宝石の鑑定…」
 伊吹の視線が自然と舘野に向かう。舘野はにっこりと伊吹に微笑んだ。
 すっきりとした笑顔。父の厳しい表情とは反対に、こんな紹介のされ方でなければきっと親しくなりたいと願う様なそんな雰囲気をもっている男だった。
「初めまして、宝石の鑑定をしています、舘野柾親と申します」
 背筋をぴっと伸ばして、まだ高校一年の伊吹には大人の男、そんな印象が浮かんでくる。
 舘野のどうどうとした姿に、格好いいと本気で感じてしまった。頬を赤くしながら伊吹は、慌てて舘野の頭を下げる。
 今までの張りつめた雰囲気から、少しだけ和んだ空気が感じられる。
 しかし父は伊吹の思いを壊すように、大きく咳払いをする。
「で、伊吹。本物は何処に隠した。箱だけだはない、中身も全部イミテーションにすり替えただろう!!」
「イミテーション…? ですか?」
「何をとぼけているんだ! ああそうだ! お前が紗江子と一緒になって隠した、本物の宝石箱は何処だと聞いているんだ!!」
 声を荒立てる父に、伊吹は身体をビクッと振るわせた。
「何が…、ですか?」
 やましい訳では無かった。それでも父の問い詰める視線に言葉が伊吹の言葉は、震えていた。
 父は、フフフと笑いを浮かべた後、箱の中に入っていた三個の色石を机に転がした。
「これは…」
 いずれも何かの加工が施されていない裸石、ルースでその中には、伊吹が一番気に入っていた赤いダイヤモンドも入っていた。
 赤い、赤いダイヤモンド…。
 いずれの石も伊吹から離れた後、随分手荒に扱われたのか、石の光方が鈍くなっていた。
 まるで偽物みたいな、今まで散々眺めた石とは違う輝きだった。
「まだしらばくれるつもりか…、伊吹、本物の石を何処に隠したんだ!」
 父の言葉の意味していることは、伊吹にも見た瞬間すぐに判った。
目の前の石が本物ではない…。
 鑑定眼があるわけではなかったけれど、それでも今まで大切にしていた石の違いははっきりと判った。
 本物は何処にいったんだ…。
 何も判らずにただ石を見つめている伊吹に苛立ち、父は焦がれるように立ち上がると、伊吹の頬を張った。
 部屋にはパシーンと言う音が響き渡る。
「伊吹! 隠していてもすぐに判るんだ! どこにあるのか素直に言いなさい!」
 痛いというよりも苦しいと言う思いが先に溢れてくる。
 母の宝石のことも、父が言っていることもまったく何のことなのか、伊吹には理解出来なかったからだ。
 何かに縋るように舘野を見つめた。
 舘野は眉を寄せたまま、小さく息を吐いた。
「有瀬さん落ち着いてください」
「しかし」
「そんなに怒ったのでは彼も何も話が出来ないでしょう。ねぇ君は、本物の石を持っているの?」
 優しい舘野の言葉に、涙が流れるのを唇を噛み締めて必死にこらえながら、伊吹は首を横に何度も振った。
 途端に父は、また頬を叩くポーズをしながら伊吹を睨む。
「嘘を言うんじゃない。紗江子はもう死んでいるんだ。お前以外誰がそんなことをすると言うんだ!」
 厳しい姿に、言葉を失って唇を噛み締めながら俯く伊吹。舘野は呆れたように、息を吐きながら席を立つ。
「有瀬さん、申し訳有りませんが本日はこれで失礼します」
「しかし…」
 必死に父は、舘野を止めようとする。しかし苛立つように父を舘野は見つめた。
「この状況では鑑定も出来そうにありません。もう少しお二人で話し合うべきではないでしょうか?」
 きつい舘野の言葉に、父は般若の様な表情で伊吹を睨み付けている。
 今度は先ほどよりも力の入った様子で、もう一度伊吹の頬を打とうする。
 脅えながら父を止めることが出来ない伊吹は、きつく目を閉じた。
 しかし次の瞬間、頬に痛みは感じられなかった。
 安心感と不安。恐る恐るゆっくりと目を開けると、舘野がすかさず父の腕を止めてくれている風景があった。
「有瀬さん私は、彼は本物の石を持っていないと思いますよ…」
「何故そんなことが判るんだ!」
「あくまでも勘ですよ。まったく、君も言いたいことがあるんなら、きちんと言いなさい」
 二人に視線を向けられて、伊吹は詰まっていた息を吐くと首を何度か横に振った。
「僕は…、知りません…。お祖父様が亡くなる前に…、お母様に宝石箱を返したんです…」
 伊吹の耳に、微かに父の舌打ちが聞こえてくる。父は大きく溜息を付いた後、舘野に笑顔を向ける。
「こんな子供の言うことは信じられませんが、お手数をお掛けしました。本物が見つかり次第また連絡させていただきます」
 父は追い出すように早口で言うとお手伝いを呼ぶと、早々に舘野を部屋から追い出した。
 逃げ出したかった…。
 本気でそう思えるほどに、父の形相はとても恐ろしいものだった。
 父は呆れるような息を一回吐くと、立ち上がり伊吹を見つめる。
「本当に持っていないのか?」
 涙混じりに頷いた伊吹。小さく息を吐く音が聞こえる。
「まったく…、紗江子といい、お前といい。金ばかり掛かって、本当に何の役にも立たない…」
「…」
 眉を深く寄せていた父。しかし次の瞬間に、父は何かひらめいた様に伊吹に笑みを向けてくる。
「そう言えば、お前を欲しいと言っていた男が何人かいたな…」
「?」
 意味が判らず、伊吹は眉を寄せる。父は思いついた内容に、一人満足そうに頷く。
「じいさんも紗江子もいなくなった今、お前がここにいる理由もなくなる」
「そんな…」
「私の取引先にお前を受け入れてもいいと言う男が何人かいる。お前はそいつら誰かの所に養子へ行けばいい…」
「えっ…、何を言って」
「お前だって、高校や大学だって出たいだろう? ならば今からその金を出してくれる男の元に行って働けばいい…」
「働く?」
「ああ、お前だって今まで通り苦労せずに楽に生活したいだろう?」
「お父様?」
「だがお前は仕事など出来ないだろう? だからいい方法がある。女みたいに夜でも世話をすれば、あいつらのことだ、喜んでお前を今まで通りの金の掛かる学校に行かせてくれるだろうさ…」
「どう…、言うことでしょうか…」
 具体的な説明をせずに、父はただ不気味にフフフフフッと笑みを浮かべる。
「まあ、そいつらの所に行ってみればいい」
「お父様…」
「そうすればこの家も問題なく治まるというものだ。お前みたいな厄介者がここにいれば、これから事業を展開していくのに、色々と支障がでるだろうかなら…」
「そんな…」
 戸惑いに声を上げた伊吹の首を、父は掴むと机の上に擦り付ける。
「私の折角手に入れた地位を、お前なんかに邪魔されたくないんだ…」
「お…、お父様…」
 苦しい息を吐く伊吹。父はフンと鼻で息を吐いた後手を外した。
「お前には文句は言わせない。今週中にはお前の行き先を決めるオークションを行う。いいパトロンを見つけられる様に、お前も準備をして置くんだな…」
 苛立ちを隠さない様に、父は音を立てて障子を開けて閉じる。
 一人取り残された伊吹は、目の前にある偽物の石が入った宝石箱を抱き締めた。
 それから二日後。
 父は自分の言ったことを実行するように、伊吹のパトロンになるであろう男を連れてきた。
 男は舐めるように見つめた後、伊吹に裸になるように命じた。
 父にも今目の前にいる男にも刃向かえない伊吹は、恥ずかしさと悔しさに包まれながら、その日初めて自分の裸を他人の前にさらした。
 初めて母以外の他人に触れられた性器。男はもっと奥にある恥ずかしい部分を暴かれる。
 羞恥心。恥ずかしいと言う気持ちよりも先に、何をどう考えていいか、どう感じでいいのか、泣いていいのか、それとも叫んでいいのかすらまったく判らない。
 父のなすことに何も言えないまま、伊吹は自分がこれからどんなことになるのかをはっきりと思い知らされた。
 伊吹にとって最悪の日は、その日一日では終わらなかった。
 翌日も、翌々日も次々に父に案内されて、違う男が伊吹を値踏みするように家に訪れて来る。
 皆最初の男と同様に、伊吹を脱がせて、性器、そして後蕾をどんなものか確かめていく。酷い男になると後蕾に指を挿入したり、口で男の性器を奉仕するまねなどさせたりと、今までの伊吹の人生でまったく予想出来ないことを次々にさせていく。
 これが伊吹を競り落とすために父が仕組んだオークションなのだと、すぐに判った。
 オークションが始まってからは、やくざまがいの怖そうな男の監視がついているから、逃げることも拒むことも許されなかった。少しでも抵抗しよう、逃げようとすれば、監視の男たちが伊吹に暴力を振るわれる。
 監視の男たちから受ける制裁は、酷い物だった。殴られ、そしてオークションに来る男たちより酷い性的な嫌がらせと、商品価値を落とさないようにと見た目に目立つことはなかった。
 思い出すだけで、鳥肌が立つようなことを何度も伊吹はされた。
 唯一の救いは、一週間も経たずに、伊吹の行き先が決まったことだった。
 いったい父の懐にいくら入ったのかどんな経緯で決定したのかなどすべて、伊吹にはまったく判らない。
 しかしオークションで自分を手に入れた男の元に行けばどんな目に合うのか、それだけは伊吹にも想像が付いた。
 考えるだけでも恐ろしい…。
 運良くオークションで決まった男の元行く日に、ほんの少しだけ監視の目が緩んだ。その瞬間に、伊吹は自分の運命に耐えきれずに逃げ出した。
 偽物の宝石箱とお母様の形見の何処までも澄んでいて、無色透明な大きなダイヤモンドを使ったブローチだけを持って…。
 それは、霧の様な小雨が振る雨の日だった。
 身よりもなく、知り合いもいない街を一人さまよった。
 気が付くと、お祖父様がよく連れて来てくれた銀座の街にたどり着いていた。
 とてもよく知っているはずの街が、まるで全然見知らぬ場所の様に色あせて感じられる。
 どんどん冷えていく身体。
 お祖父様のお母様もいない街。
 何もかも、自分すら無くなってしまえばきっと楽になれる。
 何処をどう歩いているのか、まったく自分でも判らなかった。
 そんな時だった、舘野が経営している宝石店にたどり着いたのは…。
 銀座のメインストリートから少し新橋側に入った、細い道沿いにあるそれほど大きくない宝石店。
 ショーウィンドウに飾られている、たくさんのイミテーションに混じって、派手ではない、けれども上品なデザインがなされたネックレスとセットになっているイヤリングが飾られていた。
 アンティークっぽいデザインだけれども、とても見慣れたデザインだった。
 そこに飾られている宝石は、お母様が持っていた物に本当にとても似ているものだった。
 使われている石も、最上級の最高クオリティのダイヤモンド。色は透明な物に混ざって、桜の花が咲いているようなピンクを所々あしらえている。
「お、お母様…」
 そうだ…、このネックレスは母のアルバムで見たことがある。元気だった母がネックレスと同じような桜をイメージさせるドレスを着ている時に付けていたものだ…。
 寒さに少しずつ意識が遠くなっていく。
 お母様…。
 薄らぐ意識の中で微かに耳に届いたのは、母の声でも祖父の声でもなかった。
 柔らかくて、暖かさを感じる男の声だった。
 気が付いた時一番最初に感じたのは、暖かいということだった。
「あの…」
 どこだか判らない、場所。
 伊吹はゆっくり身体を起こすと、男がベッドの横で椅子に座って居眠っていた。
 その男は、父が以前鑑定家として連れて来た館野だとすぐに判った
 容姿だけではなく、助けられたからと言うのでもなく、あの時の魅力ある姿がとても印象的だったからだ。
 暖かい部屋。天使の木漏れ日が、柔らかな日差しが館野を優しく包んでいる。今まで凍えていた伊吹の心にも、暖まる光が届いてくるように幸せな気分になった。
 館野が目覚めるまで、伊吹はずっと輝きに包まれている人物を眺めていた。満たされる思いがどんどん募ってくる。
 しばらくしてから目覚めた館野は、自分のことをずっと見つめていた伊吹にびっくりした。
 自然に笑みのこぼれる空間。気恥ずかしさに笑みを浮かべた館野。そして館野の微笑みにつられる様にして笑った伊吹。
 館野は何があったかなどにはまったく触れずに、凍えていた伊吹を温めてくれる。
「どうする? 家まで送ろうか?」
 家。戻ればどんな結末が待っているのか判っている。
 恐い…。表情から笑みが消え、反対に血の気がどんどん引いていくのが伊吹自身でも判った。
 寒気が全身を襲い逃げ出したい思いで、抱き締めるように腕を両腕で掴んでいると、館野はそっと抱き締めてくれる。
「大丈夫だよ。それよりもそんな顔していると、悪い男に目を付けられちゃうぞ…」
 最初何のことなのか判らずに、伊吹は首を傾げた。しかし次の瞬間、館野は伊吹を温めるように包むように抱き締め、唇にそっとキスをする。
 今まで父が連れてきた男たちとはまったく違う、優しくて暖かいキス。
 最初は触れるだけだったけれども、館野は一回唇を離すと唾液で輝いている伊吹の唇を指で何度かなぞった。
「抵抗しないと、もっと悪い男になっちゃうよ…」
 自分でも理解出来なかったけれど舘野にならば、抱かれてもいいそんな気がした。
「判りません…、でも貴方なら…」
「余計煽ってどうするんだい…。本当にダメだと思ったら暴れるんだよ、そうしたらそこで止めるから…、えっと…、有瀬…何君だっけ…」
「伊吹です…、貴方は館野さん…、でしたよね」
「ああ、舘野柾親です。よろしく、伊ぃ吹…」
 舘野に導かれるようにして重ねたキス。
 先ほどの唇だけを寄せるものとは違って、未発達な官能を引き出すために、その奥にどんどん進んでいくそんな口付けだった。
 熱くなる躯。体温が今まで自分でもあまり触れなかった、性の象徴に集中していく。
 舘野の大きな手のひらに、まだ小さい伊吹の性器が包まれていく。
 口からは、自分でも信じられない程の甘えた声が止まらない。
 はしたなく揺れる腰。優しく唇にキスをくれた後、舘野の舌が普段は両足の間に隠れている小さくて狭い蕾を潤していく。
 小さな窄まりを舌で伸ばし、中に唾液を注いでいく。
 くすぐったい、恥ずかしい、けれど何かもどかしい感覚だった。
 初めて感じる鈍い甘さに、伊吹の腰は自分からもっとはっきりと形付いた官能を望むように揺れていく。
「館野…さん」
 泣きたい思いを必死に耐え、伊吹は懇願した。
 館野は一回唇を離すと、クスリと笑い今度は指を唾液で柔らかくなった部分をなぞり拡げていく。
 痛かった。けれど、今まで知らなかった甘い痺れが身体に伝わってくる。
 もうどうなってもいい! 伊吹が覚悟を決めた瞬間に、舘野の楔は伊吹を貫いていく。
 苦痛を漏らす伊吹。しかし舘野は出来るだけ、伊吹を気持ちよくしたいと、優しく伊吹を包んでいく。
 痛みは耐えられないことじゃない。
 舘野の優しさが伊吹の中に溢れてくる。
 初めて、母の葬式以来、伊吹は思いっきり涙を流した。
 舘野の腕の中で大切な宝石たちの様に…。
 翌朝、伊吹は舘野の部屋で目覚めた。久しぶりにゆっくりと休んだ気がした。
 一足先に目覚めて品のいいスーツ姿の舘野は、伊吹をお手製の朝食に招待してくれた。
 クロワッサンにスタッフドエッグ。サラダにそしてちょっと酸っぱいオレンジジュース。
 明るい食卓。
 人と一緒に朝食を摂った経験の無い伊吹にとっては、まして夕べのことが数多に過ぎれば余計、気恥ずかしい食事だった。
 生まれて始めての楽しい食事を終え、舘野は珈琲を淹れてくれると、今まで笑顔だった舘野の表情が真剣な物に変わった。
「ね、伊吹、よかったら住み込みでこの店のアルバイトしない?」
「えっ?」
「驚いた? まずいのかな? 伊吹は高校生くらいだったよね?」
「ええ、今年高等部に上がったばかりです」
「そうか、じゃもし嫌じゃなかったら高校の費用も出すよ…」
「えっ!?」
 あまりに驚く申し出に、伊吹は思いっきりむせた。
 しかし館野は素晴らしく晴れ晴れしい顔をして、テーブルに肘を付き、微笑んでいる。
「そんなにビックリしたらこっちが驚くよ、いやさ、実は一目惚れってやつかもしれない…」
「えっ? あの…」
「何か君との再会に運命感じちゃったんだよね。だからさ、もしでいいんだけどさ、僕と一緒に住んでみない? 高校の費用はそうだね、出世払いでいいかな。あ、それとも実は君にお願いもあるんだよ」
「お願いですか?」
「うん、実は僕さ、〝有瀬コレクション〟のファンなんだけどさ、やっぱり本物みたいじゃない? その時伊吹がいてくれたら心強いかな~って思ったんだよね
「館野さん…」
 嫌な言い方ではなかった。むしろ伊吹に対してとても気を使ってくれているような、そんな言葉だった。
 伊吹はあまりに嬉しい言葉に、自分でも知らず知らずに涙を流していた。
 流した涙が自分の凍っていた自分の心を、溶かして行くようだった。
 その日以来、伊吹は舘野の店でアルバイトをしながら学校に通っている。
 学校は伊吹の希望で都立に、そして今は国大で鉱石の研究をしながら店を手伝っている。
 家を飛び出し、たまたま銀座の宝石店で母がしていた指輪が導かなかったら、今の伊吹は無かっただろう。



 
4.Develop Into a New Story


「お早う、伊ぃ吹…」
 甘い舘野の声に、伊吹はゆっくりと目を醒ました。
「舘野さん…、お早うございます」
 すでにきちんとスーツに着替え、いつもの格好を舘野はしていた。
 反対に伊吹はまだ甘い夕べの時間からなかなか戻れないのを表すように、寝ぼけ眼にまだ何も身に付けていないままベッドで微睡んでいた。
 ましては慌てて起き上がろうとしたけれど、躰が思うように力が入らずに、バランスを崩してベッドに逆戻りをしてしまった。
 伊吹は我を忘れて館野に縋った昨夜の自分の醜態を思い出し、顔を真っ赤にした。
「朝からそんな可愛い顔をしちゃだめだよ、伊ぃ吹…」
 小さく溜息を付いた後、ベッドの脇に座り館野は伊吹の耳元にキスを落とす。『また抱き締めたくなっちゃうじゃないか…』
 館野の囁きに、伊吹は益々顔を赤らめた。
 フフフッ、と笑った後、館野は立ち上がった。
「そろそろ学校に行く支度をしないと行けない時間だと思ってね、起こしに来た」
 『今日の予定を聞く前に君は寝ちゃったからね…』と言葉を添えた後、館野はウィンクをした。
 昨日店を閉めて抱き締められた後、途中簡単な夕食を食べたけれど、ずっと館野は伊吹を抱き締めてくれた。
 館野は強引な所もあるけれども、いつも無理強いなどせず伊吹をとても大切に抱き締めてくれる。伊吹が傷付かないように、挿入すら時間をたっぷりかけて柔らかくしてくれる。
 今も、二人が吐き出した精でべたべたしていた躰が嘘だった様にすっきりとしている。
 少し意地悪でもあるけれど、舘野は何処までも伊吹を甘やかせくれる。
「伊吹…、大丈夫? 無理しないで」
 まだ緩慢な動きで、上半身を動かすと伊吹は微笑みながら頷いた。
「じゃあ、先にこのファックスを見てくれる?」
 まだ居眠りをしている脳みそに注ぎ込むように大きく空気を吸い、躯に溜まっていた息を吐いた後、伊吹は舘野からファックスを受け取る。ページは五頁に渡るファックスだった。
 送信先は館野。しかし送信元は有限会社藤倉貿易の藤倉と書かれている。
 藤倉貿易の藤倉…。共に伊吹の知らない名前だった。
「あの…、これって、昨日姫香さんが言っていたやつですか?」
「そうだね、二枚目を見て」
 首を傾げながら伊吹がファックスを捲った。
「これって…」
 びっくりしたまま、館野を見つめる伊吹。真剣な表情をして館野は頷いた。
 白黒の写りが悪い紙には、間違えなく伊吹の母の形見の画像が事実を証明している。はっきりとはしないけれど、母が持っていた赤いダイヤモンド…、〝王女の涙〟が中央にはめられているティアラだった。
「お母様の…、宝石…」
 胸が詰まる思い。
 母の宝石のことになると、伊吹は何とも言えない思いに包まれる。手に入れたい。貯金はある。しかしそれは館野が自分のために小遣いとして用意してくれているお金だった。
「どうする?」
 少しだけ意地悪に感じる問いを館野はする。自分自身で手に入れることが出来ない伊吹は、困った表情をしながら口をきゅっと引き結んだ。
「伊ぃ吹、君に協力して欲しいことがあるんだけど、いいかな?」
 目の前でにこにこ何か言いたげに笑っている館野。伊吹は館野のいきなりの言葉に、ビックリした顔をして首を傾げた。
「実はさ、ちょっと良い石が手に入ったんで昨日の姫香さんの依頼、受けようと思うんだ」
「えっ…、それって」
 ビックリして俯いていた顔を上げた伊吹に、館野はまるで面白そうないたずらを思いついた時の子供の様な笑みを浮かべる。
「僕もちょっとオークションに興味があるもんだからね、伊吹には姫香さんのネックレス作るのを手伝って欲しいんだ」
 にっこりと笑っている館野。何処までが本音なのか判らない言葉だけれど、館野の態度の中に、伊吹への優しさが感じられた。


* * *


 件のオークションは、銀座の中でも五本の指に数えられる〝Club Magnificent〟で行われる。
 オークションは当然、通常の店にも誰かの紹介が無ければ入れない。有名人や著名人などが多く集まり、客の格も最上級だった。
 今回のオークションの内容は、ルースと呼ばれる石だけを扱った物から、アンティークと言われる歴史の有る宝飾品。また最近の有名デザイナーの物など、様々な宝飾品が用意されている。
 その中でも一番の注目は、有瀬コレクションからの出典だった。商品は〝王女の涙〟と言われる真っ赤なダイヤモンドが中央にはめられたティアラで、予想落札予想価格は十億と言われていた。
 伊吹は館野が用意してくれた、すっきりして若々しく清潔さが感じられる、紺系のスーツを着て、舘野はすっきりとしていて品よく見えるタキシードが本当にとてもよく似合っている。
 どんな人が来るのかまったく検討のつかないオークション。子供の頃は祖父にそれこそ総理官邸なども連れて行ってもらい楽しんだものだった。しかし華やかな世界よりも、遊んでくれる大人たちに興味を持っていただけだった。
 華々しい世界から離れて今の生活を送っていると、著名人が集まるどころか、銀座で五本の指に入る店と言うだけで緊張してしまう。
 伊吹の不安を判ってくれているらしく、館野はそれこそ淑女をエスコートするように親切に〝Club Magnificent〟まで連れていってくれる。
 店がある界隈は、少し昔を知っている物ならば、平日、それも夕方から夜間の銀座と言えば、お抱え運転手のいる高級車が何台も停車している風景が日常だった。けれど、現在は駐車に関する規制も厳しくなり、また昔とは客の層も変わり車が何台も停車している風景は、懐かしい銀座のとして映像などでしかもう見れなくなっていた。
 〝Club Magnificent〟もかつては、道にびっしりと停めていた車の乗客が何人も通っていた。
 場所はメインストリートから新橋側に一本ずれた、大きなビルディングが建ち並ぶ中の一つにある。
 一見それほど有名なクラブが入っているビルには見えないけれど、エレベータで最上階に上がると、それこそ日常とはまったくかけ離れた、ゴージャスな世界が広がっている。
 華やかでシャンデリア、上品な美術品、ここに足を運ぶ者を心から裕福な気分にさせる、そんな空間を用意しているのが〝Club Magnificent〟だった。
「どうした? もしかして緊張している?」
 館野の問いに、伊吹は表情を強張らせたまま頷いた。
 あまりの華やかさに店の入り口だけで圧倒され、一歩も動けない伊吹。館野はクスリと笑った後に耳元に囁く。
「こんなの張りぼてだよ、君が以前住んでいた家の方が、何十倍も価値も品もそして優美さを持っている。だから緊張することはないんだよ…」
 館野は、優しく背中をポンと押してくれた。
 ジャケットを着ているから感じられるはずはない、館野の体温が背中に触れた部分から伝わってくる。
 暖かい、嬉しい、愛おしい、けれど少しだけ切ない。
 館野が一緒だったら大丈夫だ…、触れている館野の手が伊吹を元気づけている。
 伊吹は少しだけ振り向き館野に微笑むと、店の奥に進んでいく。
 店の中は不思議な空間だった。
 普段を知らない伊吹には、はっきりとしたことが言えるわけではなかったけれどよくテレビで見たりするクラブの雰囲気とは違っている。
 紫、ピンクなどの幕が張られ、照明はステージに使う部分は明るいけれど、それ以外は色を落としてあり、所々にキャンドルが用意されている。どちらかと言うと、ちょっとした中世の秘密クラブに紛れ込んでしまったような、そんな雰囲気をかもし出していた。
「あら、館野さん…、館野さんもいらしていたんですね、こんばんは」
 予想のつかなかった装飾に圧倒されていた伊吹は、背後から聞こえてきた声に、驚きながら振り向いた。
 にっこりと微笑んで薄い黄色のドレスに身を包んで、華やかで大きい純度の高いイエローダイヤを中心に、最高クオリティの透明ダイヤをふんだんに使ったネックレスを付けている女性。
 澄んだ声。けれどもどこかきつさを感じる自分をアピールすることが得意そうなそんな声。容姿も声と同じで、一見誰かを立てているような品のある雰囲気を持っている。けれどまたどこかに、自己主張が得意そうな気配を常に持っている感じのある女性だった。
 ネックレス、高そう…。
 カット、カラット、クオリティ、カラー。どれを取っても最高級。ましてデザインも付けているこの華やかな人に合っている。
 この人が姫香さんのライバルの人かな…。
「こんばんは。こちらのおぼっちゃんは、どなた?」
 クスクスクス、そんな擬音が聞こえてきそうな笑顔の女性。伊吹は館野の様子を伺う様に、ちらりと横を見る。
 館野は仕事の時に客に対するときと同じ、涼やかな笑みを浮かべている。
「これは、美鈴さん、今日は一段と美しいですね。特にそのイエローダイヤは本当に似合っている」
「有り難う、鑑定眼の優れている館野さんに誉めていただいて、とても嬉しいわ」
 クスクスクス。美鈴はまた笑みを浮かべる。微笑んでいると言うよりも館野に喧嘩を売っている、そんな風に感じる嫌な笑い方だった。
「ねえ、それよりも館野さん。姫香さんが付けているネックレス、貴方が用意したんですって?」
「そうですね、彼女、知り合いが悪い業者に変なネックレスを掴まされて困っていたものですから、まあ、こちらとしては、常連のお客様の力になりたくて…」
 館野も負けないくらいに、白々しささえ感じる笑みを浮かべる。
「あら、それはお気の毒ね。でも今日付けているネックレスよりも、よかったんじゃないかしら?」
「何故ですか?」
「あら、だって、ちらっと付けている所を見たけれど、それほど価値があるものには見えなかったは…。今流行っているブラックダイヤモンドを使っているのは、すごいかも知れないけれど、色の薄いルビーなんて…」
 美鈴は勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、舘野を見つめた。
 舘野が姫香に用意したネックレスは、確かに見た目、派手ではなかった。
 使っている石はそれほど大振りな物は使っていない。デザインは黒と薄い赤を引き立たせた造りになっているけれども、それで評価されようとは考えていない物だ。まして見た目それほど派手さの無いブラックダイヤモンドと、黒い石に包まれて中央に使われている多き目とは言い難い薄い赤さを持つ石は、確かに美鈴の言うように価値のある物には見えない。
 しかし今回の姫香のネックレスには、見た目の派手さなど計算に入れていない。
 宝石のオークションに来る、判る客だけが判ればいいものだった。
 舘野はにっこりと美鈴に笑みを浮かべる。
「確かに貴方がしているキラキラしている物とはまったく違いますよ。でも、あれは貴方が姫香さんのお知り合いに売った物よりも何十倍も価値がある」
「何を言いたいの? 貴方は!」
「やあ、美鈴さん…」
 美鈴の雰囲気が荒立った瞬間、割ってはいるように舘野よりも少し低い雰囲気がある男の声がする。
 舘野と同世代? いや男の方が少し年上にも感じる。軟らかく包み込むような優しい雰囲気のある舘野とは違って、男には立っているだけでどこか自信にあふれている様な関係を持つ人間すべてを自分に惹き付けて取り込むようなそんな力強さが感じられる。
 もちろんそれは男の持つ雰囲気だけで、舘野とは違ったデザインのタキシードに身を包んでいる。
上品と言うよりもおしゃれな雰囲気のあるタキシードを着ている男は、体型も整った格好の良さは、ずば抜けている。身長は舘野よりも少し高いくらだけれど、何よりも細いスタイリッシュな眼鏡と、目の下にある涙ぼくろがとても印象的な男だった。
「これは、もしかして接客中でしたか…。お邪魔してしまいましたか?」
 ハハハと乾いた笑いをしているけれども、楽しんで笑みを浮かべている訳ではない。むしろ、わざと美鈴と館野の間に入ったと思われる、そんな様子だった。
「いいえ、この人との話は、もうすみましたから…。それよりも藤倉さん、このネックレスはとても評判がいいんですよ」
 館野に対する態度とは百八十度違った、甘えているような猫なで声を出す美鈴。
 藤倉…、ネックレス…。
 もしかしてこの人が店にオークションのファックスを送ってきた人…。
 でも館野の知り合いと言う訳ではなさそうな雰囲気。
「美鈴さんに気に入っていただけて何よりです。それよりも…」
 接客慣れしている男の笑顔。男は笑顔のまま、向き直るとこちらを見て微かに頭を下げる。
「初めまして、で、よろしいんでしょうか? 貴方が館野さんですよね。横にいるのは有瀬…、伊吹君。お二人のお噂はかねがね…」
 まるで全身を嘗め回されて価値を探している、そんな気味の悪い視線を向けられ、伊吹は後ずさり舘野の影に隠れた。
「僕の噂ですか? いや~恥ずかしいな~。あの~どちら様でしょうか?」
 困っている伊吹にクスリと笑ったと、舘野は藤倉とは対照的な、のんきな声を出した。
「これは、これは申し送れました。私、こう言うものです」
 舘野とは違った、都会的でスタイリッシュな雰囲気のする藤倉は、ポケットから細かい細工がなされた小さなケースを出し、名刺を二枚取り出して渡す。
 有限会社藤倉貿易の代表取締役、藤倉久道。
 表情は笑顔だけれども何となく、目線は鋭く感じられ何か内に野望を秘めているように伊吹には見える。
 油断が出来ない相手。
 他人を緊張させる雰囲気を纏っている藤倉とは反対に、館野はのんきにジャケットの内ポケットから年代物の皮で出来た名刺入れを取り出した。
「藤倉…、藤倉久道さんですか…。あっ、私はこう言う者です」
 スマートな名刺の渡し方をした藤倉とは対照的に、館野の方は不器用にあまり名刺交換をなれていないと、はっきり判る手際の悪さで名刺を渡した。
「タテノコーポレーションの舘野さんですよね? お父様には何度かお会いしたことがあります」
 館野の名刺は店の名前で作られている。
 タテノコーポレーション? 伊吹には聞いたことのあまりない名前だった。
「ははは、私は家を出て、好き勝手に宝石屋をやっているので…」
「はははっ、そうですか…。確かに館野さんの用意した宝石は評判がいいですね。姫香さんが付けているネックレスは本当に驚きました。あそこまで大きくて赤に近いダイヤなど本当に最近では手に入らない…」
「そんな…。いや藤倉さんなら簡単に手に 入れられるんじゃないですか?」
 館野はまたハハハと、まるで相打ちでも打つっているような笑みを浮かべた。館野の笑顔に合わせて藤倉も笑みを浮かべる。
 まるで腹の探り合いをしているような笑い。伊吹は口を挟むことも出来ず、ただ二人のやり取りを黙って見ていた。
 静かにしている伊吹に気付いた藤倉は、フフッという不気味な笑みを浮かべた後、館野にスーッと近づいた。
「彼がエスコートしている姫君をかけたオークションに参加したのは、君だけ横からかっさらったと噂ですよ…」
 不気味な笑みを浮かべながら藤倉は、舘野に囁くように言った。
 彼の姫君? オークション? 何のことなんだろう…。
「伊ぃ吹、悪いが姫香さんの様子を見てきてくれる?」
「はい…」
 疎外感。
 渋々伊吹は姫香の元に向かった。
 姫香はすでに何人かの客をエスコートしていた。
 色っぽいけれども下品に見えない赤いドレスを着ている姫香の胸元には舘野が用意したネックレスが輝いていた。
 確かにピンクに近い赤の石を中心に黒い石が囲んでいるデザインは、見た目には地味だとも思える。しかし一つも物怖じしていない姫香の姿が、ネックレスを満足して付けているのだと言うことを伝えている。
 姫香は自分を見ている伊吹に気付き、客ににっこりと挨拶をした後こちらに近づいてくる。
「こんばんは姫香さん。あのドレスもネックレスもとっても似合っていますよ」
「ありがとう、伊吹ちゃん。これも舘野ちゃんと伊吹ちゃんのおかげだわ」
 満足げににっこりと微笑む姫香に、伊吹も嬉しい気分になる。
「よかった。一番は姫香さんに似合って、喜んで貰えることですから。どうですか? 評判」
 伊吹の問いに、姫香は一瞬動きを止める。まさか皆美鈴の様に見た目だけであまり良い評価をしないんだろうか…。
 不安を感じている伊吹に、姫香は不安を消すように、最高に美しく見える笑顔を見せた。
「心配しないで、さっきもお客様に驚かれたのは、こんなに真っ赤なダイヤを見たことがないって…」
「よかったですね…」
「うん、本当に伊吹ちゃんと館野ちゃんのおかげよ。色々な人に売って欲しいって言われたのは、有り難う、伊吹ちゃん」
 いつも奇麗な姫香は、いつも以上の最高の笑顔を伊吹に見せた。
 そしてハッと何かに気付いた様に、自分の腕にはめていた腕時計を一別する。
「さっ、そろそろオークションが始まる時間よ。行きましょう? 館野ちゃんは?」
「先に行っていてくれって…。なので…」
「そう、じゃ、中に入りましょう」
 伊吹は姫香に導かれるように奥に用意されたオークション会場に向かった。


* * *


 オークション会場になっている場所は、普段は店では普段決まったお客しか入れないレセプションルームだった。
 黒と白のモノトーンで統一されている部屋。
 最初に店に入った時とは較べ物にならないほどの、装飾は芸術品を知らない伊吹でも高価なものだと感じられた。
 姫香にホステスをしてもらってレセプションルームに入った伊吹は、出来るだけ他の客の迷惑にならない、すみっこに座りドリンクを貰うと姫香と別れた。
 姫香はとても忙しそうで、客が次から次へと声をかける。
 そしてネックレスの評判も、軍配が姫香に上がっているのだと伊吹にも納得が出来た。
 本当に色々な人からネックレスの声をかけられている。
 ちょっと可哀想だけれど、伊吹は、姫香と離れた所に立っていた美鈴が悔しがっている姿も見てしまったから…。
 館野が用意して、自分が鑑定したネックレスの評判がいいのは、伊吹にとっても鼻が高くなる話だった。
 館野を待たずして、オークションの始まるコールが聞こえてくる。
 今回のエントリーしている商品は、合わせて十五。
 ほとんどが伊吹の目から見ても、良い商品だと思える。けれど、その中に本の少しだけ偽物に程近い石で作られた宝飾品が混ざっていて、まして本当に驚くような金額で取引されていた伊吹はびっくりした。
 順番に商品がオークションにかけられる。
 等々待ちに待っていたラストの商品、お母様が持っていたティアラが登場した。
 客全員が待っていたことを表すように、室内にざわめきが聞こえる。
 感性と溜息。
 しかし伊吹は気付いてしまい、大きく脱力する溜息を吐く。
「ティアラだけは、本物だよね?」
 背後から聞こえる館野の声に、伊吹は唇を噛み締めながら頷いた。
「真ん中に使われている石、姫香のネックレスなんて較べ物にならないくらいに真っ赤なダイヤモンドは偽物か…」
「ええ…」
「まあ、色ダイヤの中では赤が一番稀少とされる石だしね」
 色ダイヤと呼ばれる色の付いた、ダイヤモンドの希少性で言うと一番は赤だった。それについでピンク・ブルーオレンジ・グリーン・イエロー・ブラック・ブラウンなどの色がある。
 その希少性故などと考えたくなかった伊吹は、がっかりしならが、頭を左右に振った。
「そうですね…。でもいいんです…、一目見れたし…」
 実際、お金のない伊吹には、ここでオークションに参加し、落札する金額を払うことなど出来ない。
「ねっ、伊ぃ吹…、それでも欲しいだろ?」
「館野さん…」
 頷いたとしても、お金などない。諦めている伊吹は、館野の質問に応えることが出来なかった。
 応えない伊吹に館野は、いつもの様に頭を何度か撫でるとにっこり微笑む。
「それでも欲しいだろ?」
「…、欲しいです…」
「じゃあ決まりだ…」
 そう言うとにっこりと微笑み、現在三千万まで上がっていたオークションに参加する。
「五千万…」
 舘野の一声に競り合っていて、男たちの声がピタリと止まる。
 そして次に場内のざわめき。
 藤倉は笑みを浮かべて手を上げる。
「五千五百万」
 更に場内のざわめき。伊吹は少し離れた所では、美鈴に寄り添われてにやりと笑っている藤倉を見た。
「六千万」
 館野が金額をコールすると、藤倉がそれよりも上の金額を言う。
「七千万」
 まるで追いかけっこの様だった。しかし二人は、伊吹が驚くような金額を簡単に口にする。
 そして館野がにっこり伊吹に微笑んだ後、手を挙げる。
「一億」
 藤倉溜息をついてオークションを降りる。
「これでティアラは伊吹のものだよ」
「た…、舘野さん…、でも…」
「伊吹が喜んでくれれば、こんなの安いものだよ」
 びっくりする金額だった。
 オークションが終了したことや暗くなっていた室内の照明が点き、明るくなったのにも気が付かないくらいに、驚いていた。
 館野はスッーと立ち上がると、伊吹ににっこり微笑む。
「支払い、してくるよ」
 どういう表情をしていいのか判らないまま、館野を送り出す伊吹。
 少し離れた所で、カードで支払いをしている舘野の姿が見える。
 代金を支払うと館野は、受け取ったティアラの状態をあらためる。
 伊吹に笑みを浮かべている館野。
 館野と少し離れた所から、きつい厳しい視線を伊吹は感じた。
 伊吹の目線の先には、藤倉の姿がある。
 藤倉は不適な笑みを浮かべながら、伊吹に会釈をする。
 伊吹は戸惑いながらも藤倉に頭を下げる。



 
5.Ending

「伊ぃ吹、がっかりしたかい?」
 汗で湿気ている髪の毛を撫でながら舘野は、自分の腕の中であまりに強すぎる快感から帰ってこられずに、ぼんやりとしている伊吹に尋ねた。
 期待と緊張がピークに達していたオークションが終わり、何か気が抜けてぼんやりしてしまっていた伊吹を、家に着くと館野は優しく抱き締めてくれた。
 途端、何かが弾けたように伊吹は、館野に縋り付いてきた。そうなってしまえば結論は見えている。
 何度も吐精したか判らなくなるほど、二人は愛し合っていた。
 伊吹自身が舘野を求めることは、それほどない。
 むしろいつもは伊吹が求めているように舘野がし向けていると言った方がいいだろう。
 しかし今日の伊吹は自分から求めるように、舘野の分身を躊躇無く口で含み育て、上に跨ぎ快楽を貪り、最終的に激しい官能に負けるように意識を手放した。
 自分でも驚くほど起伏の激しいセックスは、心地よい疲れと甘い痺れを躯に残してくれる。
 伊吹は舘野に預けながら、まだ微かにぼやけた頭を、左右に何度か振った。
 母の持っていた宝石の情報に踊らされることなど、本当によくあることだった。
 今までも館野の協力もあって何度も母親の形見の宝石が見つかった、という情報を聞く度に探しに行く。けれども結果は、ただ踊らされるだけで帰って来ることばかりだった。
 期待しては、落とされ、また期待しては、落とされてばかりの情報に、もう慣れっこになってもいいのだろうとは思う。それでもやはり母親の形見の品が見つかったと聞くと、逢いに行かずにはいられなかった。
 気だるさの残る躰で伊吹は、舘野の温もりを求める様にしがみ付いた。
 舘野は伊吹を慰めるように優しくキスを唇に落とすと、包み込むように抱き締めていた腕を少しだけ強める。
「また次があるよ、ね、伊ぃ吹…。今回は中央の宝石〝王女の涙〟はだめだったけれど、まあティアラだけでも見つかったんだ、よしとしよう? ね、伊ぃ吹」
 何処にも出口のない伊吹の不安を打ち消すように、舘野は優しく頭を撫でてくれながら微笑んだ。
 普段はあまりこんなに優しい笑顔を見せない舘野が、ベッドだけ見せる顔だった。伊吹だけが知っている、優しい笑顔だった。
 舘野が愛を確かめる行為の後に、時々見せるこの表情に包まれる瞬間が伊吹はとても好きだった。
 滅多に見ない表情だからこそ、自分にだけに見せて貰えていることが嬉しくなる。優しくてナチュラルな館野の表情を見ているだけで、嬉しくて伊吹には満たされた思いが溢れてくる。
 しかし舘野には申し訳ないけれども、宝石に関しての不安が残るのも、事実だった。
 無くなった宝石など、こちらの希望している形できちんと見つけられるものではない。
 宝石は特に石は、サイズもカットもいくらでも変えることが出来る。歴史上、石のサイズで有名な宝石だって、細かく分けられ現在ではもう見ることが出来なくなったものは数知れない。
 だから石を探すと言うことは、本当に奇跡を祈るようなものなのだ。
 せめて母が持っていた宝石たちが、出来るだけそのままで残っている様にと。
 ティアラの中央に入っていた真っ赤なダイヤモンドだって、いつか戻ってくることもあるだろうと。
 判っていても、寂しいのが本音だった。
 ダメだ…、ネガティブに考えちゃ…。
 きっとクラブやオークション、それにティアラの件など、慣れない場所や体験に疲れているんだ…。
 それでもという期待を忘れられない自分。情けないと感じながら、耐えられない不安から逃れるように、伊吹は館野にギュッとしがみ付いた。
 そんな伊吹を気づかってか、舘野は伊吹の頭をぽんぽんと優しく叩くと、ベッドから起き上がり部屋の椅子にかけていたガウンを羽織ると、手早く珈琲を落としていく。
 部屋に立ちこめる苦みのある珈琲の香り。珈琲が落とし終わると、秘蔵しているオール・ダージュクラスのブランデーを少しだけ入れた珈琲を淹れてくれる。
「それを飲めば気分も楽になるよ」
 優しい館野の微笑み。微笑み、頷いてから伊吹はゆっくりと館野が淹れてくれた珈琲をすすった。
 ブランデーの苦みがかった珈琲は、舘野の魔法にかけられている様に、躯が恥ずかしいくらい、どんどん熱くなって行き、もっとはしたない部分が疼いてくる。
 伊吹は上昇していく体温と、奥から突き上げてくる何とも言えない思いに耐えきれず、館野の温かくてがっしりとした腕にしがみ付いた。
「館野さん、ごめんなさい…、少しだけ甘えさせてください」
 支えられた腕から伝わる、館野の体温がとても気持ちよかった。
 伊吹は館野に縋り付くように、自分の体重を預けていく。
 途端に今まで我慢していた何かが言いしれぬものが自分の中で弾ける様に、館野を求めてしまう。
 館野は子供をあやすように、優しく体温で包むように抱き締めてくれ、そっと口付けをする。
 机の上に置いてあったティアラを、伊吹の頭に落とさないように乗せた。
「あっ…」
 驚いている伊吹にチュッと音を立ててキスをする館野。
「これでベールがあれば可愛い花嫁さんみたいだね…」
「そんな…」
 頬を赤らめる伊吹は、もっと館野の温もりを欲しがるに、目を閉じキスを求める。
「欲張りなお姫様だね…」
 揶揄う様な館野の言葉。
 触れるのは、伊吹の唇と館野の唇。
 恥ずかしいくらいに、欲張りになる自分がいる。
「我が儘ですよね…」
 恥じらう様に、館野から顔を背けた伊吹は呟いた。
「何がだい? 伊ぃ吹」
「だって、また館野さんに抱き締めて貰いたくなって…」
 自分がここまで大胆に館野を求められるとは、伊吹は思ってもみなかった。口から出た言葉に、伊吹は自分でも驚き、そして呆れてしまった。
 まったく何処まで、館野さんを好きになれば、すむんだろう…。
 所在がなさそうに俯いたまま、顔を上に上げられない伊吹を館野はギュッと抱き締めた。
「そんなことで恥ずかしがらないで、そんなこといったら伊吹にいつでも不埒なことばかり考えている僕の方が恥ずかしくなるよ」
「館野さん…」
「さっ、顔を上げて…」
 館野に促されるように、伊吹が顔を上げると暖かくて心地よい唇が降りてくる。
 触れるだけの口付けを何度も繰り返し、すぐにそれだけでは耐えられずにどちらの唾液だか判らなくなどほど、舌を絡め合う。お互いの口蓋を舐め合い、すぐにそれだけでは物足りないほど激しいものに変わっていく
 長い口付けが終えると、混ざり合った唾液が唇を伝っているのすら気にならなくなり、伊吹は自分から羞恥を忘れたように、大胆に舘野の前で服を脱いでいく。
 早く触れて、温めて、躯の奥にぽっかり空いてくる隙間を館野で埋めて欲しい。
 強く抱き締めて、一杯になるくらいに心も体も、埋め尽くして何もかも館野さん色に染めて欲しい。
 底知れない欲望は、まだ直接触れてもいないのに、伊吹自身はもう自己主張を始めた。
「んっ…ん、舘野さん…、好き…」
 伊吹は自分から館野に縋り付き、二人はベッドに転がるように倒れ込むと、何度も何度も繰り返し啄むように口付けをしていく。
 まるで熱病にかかったかの様に…。
 強請るような甘えた口調の伊吹を、館野は優しく包み込むように抱き締めると、少しずつ着ていた物を床に落としながら足を絡めていった。
「館野さん…」
 縋り付くように肩に手を回している伊吹に、舘野は熱くなっている体温を高めるように、躯を擦り付ける。
 お互いの屹立は、すでに甘い蜜を流し始めている。
「ごめんね、今晩は伊吹に辛い思いをさせるかも…」
 熱い息を吐きながら、館野は愛しい伊吹の全身に唇を落とした。そして躯を反転させると後ろから、まろやかな双丘の影に隠れている蕾を舐め上げる。
「あ…ん…、館野さん」
 もどかしげに揺れる伊吹の腰。しかし館野は両手で桃尻を支えると、手早く唾液を擦り付けて指で躯を繋げられるように、拡げていく。
 益々身悶える伊吹。舘野は背中に乗った形で、後ろを向いて唇を求めている伊吹とキスをする。
 そして一度柔らかくなっている蕾を館野はすぐに満たしてくれる。
 圧迫感と追って感じる甘い痺れ。
 舘野の優しさと心に満たされる思い。
 いつも何を考えているのか判らない舘野が、本当に伊吹を愛してくれているのだと実感できる瞬間だった。
 後ろから館野に顎を持たれ、キスをする。
 長い、長い口付け。
 まるで未来を誓い合う様なそんな口付けだった。


* * *


 頭にはティアラをつけたまま、伊吹は安心したように眠りに付いた。
 舘野は伊吹が飲みかけにしていた珈琲を一啜りすると笑みを浮かべる。
「これで、コレクションが一つ増えた…」
 微笑む舘野の笑顔は、不気味なほどに満足げに見える。
 舘野はティアラを手に取ると、じっくりと細工を確認する。
「この細工、ティアラ中央の王女の涙が無いのは惜しいが、それでも最高の芸術品だ。さすが、有瀬コレクションだ…」
 細く美しいプラチナで細工されたティアラを、舘野は何度も何度も頷きながら眺めた後、汗を軽くかいている伊吹の額にキスを落とす。
 有瀬コレクション。
 宝飾品やアンティークを扱うものだったら一回は聞いたことがある、そのくらいに有名な名前だった。
 明治時代に貿易商として名前をはせていた家で、代々家の女主人は今ではアンティークとしても宝飾品としても創造が出来ないほどの価値のあるものを受け継いでいた。
 もっとも伊吹の父、雄一に経営が変わり今は有瀬家には一つも残っていない。
 伊吹が持っている宝石箱のレプリカに入らない大き目の宝飾品が人手に渡ったのは、立野も把握している。
 それは今回    みたいな機会があれば、手に入れることは出来るだろう。
 しかし宝飾品の所有者であった伊吹の母、紗江子は、本物の宝石箱とその中身を息子に託送と何処かに隠したらしかった。
 キーワードは伊吹。舘野が喉から手が出るくらいに欲しいのは、宝石箱なのだ。
「それにしても、今日は嫌な奴にあった…」
 藤倉久道。
 挨拶をされた時にはわざと知らないふりをしていたけれど、舘野は藤倉を知っていた。
 名刺では藤倉貿易、代表取締役と言う肩書きだけれど、実際は同業者だった。
 自分の宝石採掘場を持ち、研磨技師やデザイナーを抱えている。藤倉貿易の名で普段宝石店で置かれている小さな物から、億の付くようなもの、アンティークまで扱っている。
 客はすべて金持ちばかりと、店をやってはいるけれどもそこで稼ごうとは思っていない舘野と至ること所が重なっている。
 藤倉の実家は、都心の多くの土地を持ちいくつものビルディングを経営、運営しているフジクラビルヂング。流通を生業にしているタテノコーポレーションとグループ規模は同等、業種が違えども企業規模を比べれば似たような大きさだった。
 奴は伊吹をかけたオークションに、参加していた…。
 伊吹をかけたオークションは伊吹の知らない所で、二重に行われていた。
 性的な値踏みをしていたのは、どちらかと言うとバイヤーではない。バイヤーは、仕掛け人に伊吹が何処まで従順かを見ながら、値段を出していく。
 伊吹が自分の所に着たのは、偶然だった。
 しかしあの時、チャンスが自分の所に飛んできたと館野は思った。
 だから何の躊躇いもなくオークションで伊吹が売れた金額よりも多い額を払ったし、今も伊吹が生活に必要な金額一切を払っている。
 それもお釣りがくると感じられるのは、昔から欲しくてもなかなか手に入れられなかった〝有瀬コレクション〟を探す鍵に、伊吹がなっているからだった。
 まして藤倉は〝有瀬コレクション〟のコレクターとしても有名だった。
 今日手に入れた、ティアラは裏に何かある…。
 舘野は小さく溜息を付くと、疲れて休んでいる伊吹の髪の毛に唇を落とした。
 今日の一億なんて本当に些細な金額だ。
 伊吹を手に入れていれば、多少のお金を使っても本物の〝有瀬コレクション〟が向こうからやってくる。
 舘野は安心したように寝息をついている伊吹の髪をそっと撫でる。
「もっとコレクションを探しておくれ、そして宝石箱を手に入れておくれ。僕の愛しい伊吹…」
 舘野はティアラを手に、何も身に付けないままの格好で自分の部屋に戻った。
 ベッドの上では何も知らない伊吹が、安心したように眠りの中にいた。



 
6.Restart

 その晩、伊吹は夢を見た。
 母が亡くなる直前の、セピア色に染まった記憶。
 痩せて細くなり、骨と血管が浮き出た母の白い腕にしっかりと手を握られる。
 よく知っている母の手のはず。けれどまるで幽霊に掴まれている様に、ひどくごつごつしていて骨張っていて、背筋がぞくりとしそうなほど冷たくて…。
 こんなに痩せそぼった母の姿は、祖父が亡くなって様態が悪くなった辺りの姿だった。
 胸が苦しくなる様な、そんな腕だった。
 母はそのか細い腕で伊吹をしっかりとぎゅっと抱き締めて、泣いている。
「ごめんね…、貴方を一人にして…。ごめんね…」
 場所は母の部屋。もう大学生のはずの自分が、障子にはめられたガラス越しには、小学生か中学年に見える。
「お母様…、僕は大丈夫だよ…」
 母を必死に励まそうと、骨を皮で包んでいるだけではないかと思われる本当に細くなってしまった腕を伊吹は掴んだ。
「私の持っている宝石たちは全部貴方の物よ、雄一さんが…、貴方のお父様がいくら持っていこうとしても奪えない所に隠してあるの…」
「えっ…?」
「貴方が成人したら、あの宝石箱も…、有瀬が代々継いでいる宝石類もすべて貴方の元に戻ってくる」
「お母様?」
 母は握っている手の上に、反対手を乗せて自分の方に伊吹を引き寄せた。
「だから…、それまでは辛いこともあるかもしれない…、けれど耐えてちょうだい…」
「お母様…」
 少しずつ母の姿が薄れていく。伊吹は母が消えないように、必死な思いで縋り付いた。
「お願いね…。雄一さんから、有瀬の宝物を狙っている人たちから有瀬の宝物を守ってね」
 儚く消えていく母の姿。
「伊吹…、伊吹。有瀬の宝を欲しがっている悪い人に騙されちゃだめよ…」
 はっきりと見えていたはずが、どんどん色あせて部屋も何もかもが黒い闇に包まれていく。
 ただ一人、闇の中で取り残されている伊吹。
 伊吹は止まらないほどの涙を流しながら、目の前から、自分の記憶から薄れ行く姿を、景色を追った。
 追って追って追ったけれども、もう何も見えなくなっていた。
 しかしこれは、夢。
 伊吹の耳には母の『有瀬の宝物を守ってね』という言葉だけがいつまでもこだましていた。


*  *  *


 真夜中、『JewelrySalon KOI-NOOR』の店にあるFAXが静かに動き出す。
 機械から吐き出される用紙。

舘野 柾親様
販売キャンペーンのお知らせ
拝啓
時下、益々ご清栄のことと、お喜び申しあげます。
先日は弊社製品をご購入いただき、厚くお礼申しあげます。
さて、先日お買い上げいただいたティアラの中央部分に以前使用されておりました十五カラットの赤いダイヤ〝王女の涙〟発見されましたのでご報告いたします。
つきましては日ごろお引き立ていただいているお客様のみ特別オークションを催したいと考えております。
オークションにご参加いただける方のみ、お手数ではありますが参加申込票をFAXいだだければと思います。
FAXをいただいた方には、参加費用、オークション日時、場所をこちらからご連絡させ
まずは用件のみ。

お問い合わせ:有限会社藤倉貿易
       代表取締役 藤倉久道
       FAX番号:03-XXXX-XXXX



Fine…。
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