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一章 ロリコン、金髪、時々ヤンデレ

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 6月15日、少し雨が降っていた。


 昨日の昼は長袖だと少し熱いと感じるほどの気温だったのだが、今日は長袖でも少し心許ない。まるで空がグズグズと泣いているようだった。

 私は、小教室が集まる棟、本校舎よりはずっと低い屋上にいた。待っている人物はまだ現れず、立ち尽くす。右手に持ったペットボトル、そこに入った飲みかけの水が心なしか揺れている。

 私は人と話すのが苦手だ。友だちも作るのも決して上手くはない。この大学で友達と言える人物なんて本当のところ、いるか分からない。何故だろうか、そのことが必死に頭の中で巡っていた。曇天の空が落ちてくるくらい近くにある気がする。


 会話が得意でなくなったのは何時からか。それは間違いなく、高校の時だ。人と話すことが怖くなった。敬語しか使えなくなった。壁を作って話せば、安心できるようになってしまった。そして、最悪の事態を避けるために、常に最悪の事態を考えるようになった。人と話すことが怖くなった、あの出来事、あんな出来事がもう起こらないように。

 そして、最悪の出来事なんてものが、常に傍にあることを知った。最悪の事態を想定して動けば、須らく最悪の事態と相対した。

 何事もないのが一番、とは誰が言った言葉なのだろう。それは間違いないと私は自信を持って答えることが出来る。そのことを座右の銘としてきた私の人生など、中身のない会話などはたから見ればつまらないのだろう。それをきっと、御剣さんは言ったんだと思う。それを見通したラフィーさんは、私を弱者だと決めつけた。そして、そんな私を見てきた高校の担任は思ったのだろう、私に波乱万丈をと。だから、高校の担任は苦手だった。どうして波風立たない人生がダメなのか。どうして何事もない、無風の状態ではいられないのか。


 その時、水を踏む音が聞こえた。

 どうして。

 どうして、最悪の事態を妄想で終わらせてくれないのか。
 後で私が赤面して、部屋の中で悶えて、そんな黒歴史にしてくれないのか。昨日から散々動いた私がこんな形で報われる必要なんてないのに。世界は何故、最悪の事態に対してだけは優しいのだろうか。


 顔を上げる。それでも仕方がないのだ。こんなところに放りこまれた弱者は、あくまでも自分の命を守るために。咬まなければいけないのだ。


「待っていましたよ、堂島 美音さん。飛び降りるならここしかありませんよね」

 強者を。


 私の姿を見たピンク色の髪をした女性は、無言だった。何を言うのでもなく、立ち尽くす。なので、先手を打った。


「どのような対応をしてもらっても構いません。知らないふりをする、悲鳴を上げる、一旦距離を置く、どのようにでも」

 それを聞いた彼女は、しばし考えているかのようだった。私がどこまで気づいているのか、それが分からないならそうするしかない。だから、彼女の次の言葉も容易に推測出来た。


「何言ってるか、わかんない」

 その発言しかなかった。私は人と話すことは得意ではない。発言の意図が分からないとよく言われる。その通り、別に意図なんて何一つないのだから。

「そうですよね、もっと端的に話すべきでした。ここ二日ほど、私の家に訪れていたのは貴方ですよね?」
「・・・」
「沈黙ですか。分かりました、続けます。始めに思ったのが、貴方のピンク色の髪と訪れてきた女性の髪の色でした。どっちもわかりやすい色でした。結び付かないように変装してたんですよね? あの不自然なほど漆黒色のかつらで」
「わたし、アンタのことなんて知らない」
「ええ、そうでしょうね。恐らく、碌に知らないから、こーくんなんて呼び方になったんだと思います。私の名前の一部は確かに‘こう‘とも読めますから」
「何の話をしてるのさっきから」
「凄い特徴的な声ですね。他の女性と比べてもちょっと高いのではないですか?」
「っ、それがなんだっていうの」
「いえ、別に意図なんてありません」

 私の言葉を聞く彼女は、苦虫で咬んだかのように顔をしかめた。


「貴方が訪ねてくる理由が最初は全く分からなかった。正直に言うと、宗教の勧誘かと始めは思ったくらいです。でもそうではなかった。貴方にとっては、私の家を訪ねたということ、その事実だけが必要だった。それを第三者に知ってもらうために、わざと警察を呼ばれるような真似だってした」
「さっきから一体なにいってんの? 自意識過剰もそこまでにしてくれる? 私がアンタみたいな男の家に行った? ありえないわよそんなの。なに? こう言いたいの? 私がアンタを好きだって?」
「いえ、その逆です。恐らく貴方は、私を殺したいほど嫌いなはずだ。理由は検討もつきませんが、そう考えたほうが、今貴方がこの場所にいることが説明できる」

 雨脚が強まった気がした。それは沈黙が場を包んだせいで、雨の音を拾えるようになったからか、それとも単に本降りになってきたか判別は出来なかった。


「6月6日、私は電車で痴漢にあっている人をたまたま助けたんです。特に何をしたというわけでもないのですが、結果的にそうなりました。貴方はそれと同じ日付けでブログを書いてます。内容も全く同じと言ってもいい」
「気持ちわるっ! 何それが自分だって言いたいの? 私は」
「言うわけありません、私が助けたのは、御剣さんという小学生です」

 ことはここに帰結する。何気なく乗った電車で痴漢されていたのは、年端もいかない少女だった。名前は御剣。食堂であった男性と同じ苗字だった。彼はこの時の礼を言いにきたらしい。何度も被害に遭って、真剣に悩んでいたとは助けた際、本人の口から直接聞いた。そんな大それたことをした覚えもなければ、まして、事なかれ主義の私だ。碌に少女と会話もせずに、その場を離れたことは記憶に新しい。


「でも、同じ車両にいたんですよね、堂島さんは。みて、ブログに書いた」
「何言ってんの!? 私が痴漢されたのは本当! 助けられたのも本当! 何を根拠に」
「ブログの文章です。本当に助けられた人ならあのような書き方はしないはずです」
「なにが言いたいの!?」
「普通書きません、助けた方に迷惑かかります、わざわざ、鷹閃大ということまでブログに書いて、特定されるような内容は」
「っ!!」
「いえ、むしろ特定して欲しかったんですよ、貴方は。そうじゃないと意味がない、特定させて、その人物を社会的に殺したかった」

 ここまで話して、対話して、彼女がどういう人物か分かった気がする。小柄で、シルクのような肌に、きめ細かい顔立ち。プライドは高い、だが、それに見合う努力を行ってると私には感じられた。


「ですが、特定に至ったところで、結局その人物には一切の非がありません。当然です、助けた人物も違い、まして、その人物は客観的にみれば、道徳的に正しい行いをしている。これでは特定されたところで意味はありません」

 もう、彼女から言葉はなかった。実際、こんな推測意味はない。近頃、私の身に起こった出来事と、彼女のブログから読み取れる出来事を、一緒くたにし、最悪の形で紐解いただけ。だから、この場に彼女が現れなければ、この話は私の痛い妄想話で終わっていた。私の話を聞いた彼女が、私を罵倒しながらここから立ち去ってくれれば、私の痛い独り言で終わっていた。むしろ、そうあって欲しいと渇望するのは愚かなことだろうか。

 思考を無理やり働かせた。間違っている要素を探した、否定出来る要素を探した。だが、その全てを彼女の瞳が否定する、他者を憎む、憎悪の目が否定する。


「だから、ことにしたんです。好きでもない相手を好きだと偽り、そう見えるように仕向けました。そうすることで、アイドルの貴方が好きな相手として、その人物には視線が集まるように画策をしたんです。後は、その人物に非があればいい。例えば、貴方を無碍に扱い、苦しめた、こんな程度もよかったんだと思います。そうすれば、その人物は社会的に殺せます。いえ、私を殺すことが出来ます」

 その為に、彼女はブログに書き起こした。わざと私の家の前で騒ぎを起こし、警察を介入させた。

 だから、もう、後は火種をくべるだけだった。

 少し彼女は、嗤った。弱者をみて、嗤った。


「・・・そっか、お見通しか。それじゃ、この後何やるかもわかってるんだ」
「えぇ、だからここで待ってました」

 だから、この場所だった。この場所で待っていた。


「そっかぁ、ふふふふふふ」

 彼女の笑い声は、曇天を貫き穿つような高音だった。その瞳は、声は、もう勝利を確信していた。


「だったらご愁傷様だクソ野郎ぉおお!! おめぇはもうどう足掻いても終わりなんだよお! 本来だったらここで飛び降りて、脚の骨くらい折ってやろうって思ってたのによぉ!」

 けったいな話であるが、もし手を汚さず、他人を陥れたいと人が思考した場合、どうするか。その人物を痛めつけるより、自分を痛めつけ他人にみてもらうこと、その責を問うことに直結し易い。自傷行為は様々あるが、大学に行ってわざわざ行う自傷行為は限られる。その中でも、飛び降りるっていう行為は一つの表現行為という言葉をどこかで聞いたことがある。死ぬ気がない人物が飛び降りるにはこの場所しかない。本校舎の屋上より、ずっと低いここの屋上しか。 


「そうすりゃ、後は偽善者面したネットの馬鹿どもが私のケガの原因を勝手に調べて勝手に盛り上がる! そん時、お前の名前が挙がるように仕向けた! 止めるか!? 飛び降りを止めてみるか!? そうすりゃ暴行されたって喚くだけだけどなぁ! 詰んでんだよ! お前はもう詰んでんだよぉおおおおおおおお!」

 耳障りな声だった。曇天が空を覆っている静かな空では、きっと彼女のような声は、強烈で苛烈だ。弱者の私には止めるなんておこがましいことだろう。だが、前を向いて、強者の息の根を止めて、弱者は生きなければならない。


「ここで待ってたのは聞きたいことが二つあったからです。本当に普通の女子大生に戻りたいのですか? そして、何故私をそこまで嫌うのですか? 貴方とはまるで面識がなかったはずです」
「ナゼ・・・? ナゼェ・・・?!」

 今までの女性にしても甲高い声は完璧になりをひそめていた。変わりに滲み出ていたのは、獣が唸るような低い声だった。


「お前が居るから私は苦しんだ!! 平凡なお前が!どこまでも平凡なお前が!! この大学に居るから!! 私は努力した!!この大学に入るために毎日毎日毎日毎日毎日、笑顔を繕ってゴミみたいな奴らに馬鹿みたいに媚を売った!! 何度も思った! この大学を辞めて! アイドルも辞めて! イケメンに優しく抱かれたいって何度も何度も考えてゲロ吐いた!! ふざけるなよ!!そんなこと出来るか!!この大学が私の全ての生き様だ!! そんな大学にお前みたいな平凡な奴が居るんじゃねぇよ!! 才能があって!そこから全てを犠牲にしてようやく居ていい大学なんだよ!!だからの言う通りにお前をこの大学から消し去るって決めた!!私が!!お前を!!ぶっ殺す!!」
「なるほどです」

 そこまで聞いて、結局、聞くに堪えなかった。


「その眼だよ!! つまんねぇもの見る目をしやがってぇええええ!! つまんねぇのはてめぇのほうだろうがぁああああああ!!」
「それには全面的に同意します」

 そんな事は言われずとも知っている。でも、いや、だからこそ


「そんなつまらない男に執着するのは、やっぱりつまらないと思います」


 一歩、歩みを進める。

「どこで私のことを知ったのかは知りません」

 また、足を踏み出す。


「貴方の言う通り、私は正直、この大学を羨望して、血を流すような努力をした訳ではありません」

 パシャっと屋上にできた水を踏む音が、二か所から聞こえた。一方は私が進む音、一方は彼女が下がる音。


「才能が欠片もないのは間違いありません。必死に勉強しても、ここの大学の講義の内容を半分も理解出来ません」

 進む、下がる。


「プライドとか、そういった物も持ち合わせてはいないと思います」

 ガシャンと音が鳴った、彼女の背中が緑色のフェンスにぶつかっていた。


「そんな男の為に、そこのフェンス越えられますか?」


 静寂だった。
 彼女の方は見ずに私は携帯を操作する。もう、全部終わった。雨が少しだけ止んだ気がした。背を向けて、階段へと歩みを進める。


「あぁ、言い忘れてました。飛び降りても無意味ですよ。忠告だけはしておきます」

 きっと、彼女はこの大学に相応しい人物だ。努力を怠らず、芸能に明るい。才能だってあるんだろう。一方、私はどうだ。この大学に居ていい器だろうか。大した学もなければ、家が資産家ではないし、日本語すら拙いし、フランス語だって出来やしない。顔が良い訳でもなければ、努力をしてきたとも言い難い。そのことを分かっていて、それでも大学を辞めるなんて大それた決断が出来ない小心者。誰かが退学に向けて手伝いをしてくれても、それに気づいてしまえば、何もせずにいられない卑怯者。


「それでも飛び降りたければ、ご自由に」


 階段を一歩踏み出す。次の段に足が落ちる前に、鈍くて大きな音が曇天に木霊した。

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