俺とあいつの、近くて遠い距離

ちとせ。

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本編

第一話 その距離、およそ八十センチ

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「あいつ、また女変えてやがる。ちぇっ、なんであいつばっかモテんだよ」

大学の学食でうどんを啜りながら聖夜せいやがぼやいた。あいつが誰かなんて聞かなくてもわかる。聖夜の目線の先を辿ってみれば、案の定、けいがいた。

「そりゃあ顔はいいかもしんねえけど、超俺様な性格してんじゃん、あいつ。女にもすげえ冷てえしさ。それなのに『慶くんのクールなとこが堪らないのぉ』とか言っちゃって。女ってほんと見る目ねえよなー」

聖夜のぼやきを聞きながら、俺はかつて親友だった男の姿を盗み見た。

慶はそこらの俳優やモデルなんて目じゃないくらい格好いい。その少し厚めの唇を片端だけあげて笑うのも、長めの前髪を無造作にかきあげる仕草も、以前と何も変わらないのに。俺と慶の間にある、距離だけが変わってしまった。

大学付属の中学で同じクラスになって以来、俺と慶と聖夜の三人はいつも一緒だった。高三の、あの夏の日までは。

夏休みが明けてから急に慶を避け始めた俺に、聖夜は何も聞かなかった。何も聞かず、何も言わず、何の詮索もせずに、ただ俺のそばにいてくれた。やたらと勘のいい聖夜のことだから、俺が慶に抱いていた想いに気づいていたのかもしれない。それとも聖夜と慶の間で何か話があったのかもしれない。俺も聖夜に何も聞かなかったから、本当のところはわからない。

聖夜の言ったとおり、慶は一人になっても大丈夫だった。厳密に言えば、慶の隣から俺がいなくなっただけで、慶は一人になったわけではなかった。慶のそばにべったりだった俺という存在がいなくなって、慶の周りには男女を問わず人が群がるようになった。聖夜も慶との友達付き合いをやめたわけではなく、俺のいないところでは二人で会って親しくしているようだった。

俺は、いてもいなくても同じ。否むしろ、慶にとって俺なんていないほうがいいのだと思い知って、もうすぐ一年。俺たちはスカレーター式に同じ大学に進学し、もうすぐ夏休みを迎えようとしていた。

大学でも慶はひと際目立つ存在だった。慶の周りには自然に人が集まる。男も、女も、慶の気を引こうと躍起になる。高校の頃と違うのは、慶に群がる女たちの中に一晩だけの関係でも構わないと公言して憚らない肉食系の女が増えたことだろうか。

慶の隣にはいつも違う女がいる。今度の女はスッキリした顔立ちのモデル並みにスタイルのいい女だ。前の女はふわふわした雰囲気の可愛い系の女だった。慶の女の好みは俺にはよくわからない。わかるのは、慶は女にあまり執着しないってこと。黙っていても女が寄ってくるせいかもしれない。聖夜のことばを借りるなら、慶は女に対して『冷たい』のだ。付き合い始めても変わらない慶の『クールな』態度に、大抵の女は慶に未練を残しつつも去って行く。そして慶はフリーになるとすぐにまた新しい彼女を作る、別れる、を短いスパンで繰り返す。

慶の女遍歴は、ずっと慶のそばにいたからよく知っている。女に執着しないとはいえ、慶は女が好きなのだ。当たり前だ。慶はゲイではないのだから。それはいいのだ。俺は間違っても女にはなれないし、俺がそういう意味で慶の隣にいることは叶わないのだとわかっているから。

俺の心が痛むのは、慶の隣にいる男 ――― とおるの存在。

大学からの外部入学生で、慶と二人で並んでいても遜色ない整った容姿と快活な性格をした享は、それまで空白だった慶の親友という座を射止めた。

親友としてあいつの隣にいるのは俺だった。俺のはずだったんだ。
あの夏の日の、あのキスさえなければ。

いや、本当にそうだろうか?
あのことがなくても、慶は享を選んでいたかもしれない。
何の取り得もない、おまけにゲイの俺なんかより、享を。

俺の視線に念が篭っていたせいだろうか。慶の隣にいた享がふとこちらを振り返った。視界に俺をとらえた享が勝ち誇ったようにくすりと笑う。

俺は咄嗟に享から目を逸らした。目の前ではちょうど聖夜がため息を吐いたところだった。

「俺だって顔は悪くねえと思うんだけどなー」

悪くないどころか、聖夜の顔は怖いくらいに整っている。かなりのイケメンだ。ただ、やんちゃで一本気な性格がその表情にあらわれているというか、とにかく目つきが鋭くて近寄りがたいオーラを醸し出しているのだ。女が寄りつかないのはそのせいだろう。

「聖夜はかっこいいよ。それに優しいし。俺が女だったら惚れてる」
「修二が女だったら、か。それって、男としては惚れらんないってこと?」

意味ありげに片眉を上げ、聖夜がにやりと笑った。

大学に入ってすぐ、聖夜には俺がゲイだということは知られていた。俺の意思とは関係なくバレてしまったのだ。そのときの聖夜の反応は『んなの知ってたよ』でも『え、マジかよ』でもなく、『ふうん。それがどうかした? 修二は修二だろ』だった。家族にも誰にも言えずに抱えていた重すぎる秘密を、ありのままの俺を、聖夜はいとも簡単に受け入れてくれた。俺という存在がこの世にいてもいいのだと、赦された気がした。生きていくのが楽になった。だから聖夜にはいくら感謝してもし足りない。照れくさくて、面と向かって言ったことはいけれど。

「いいのかよ? 俺が男として聖夜に惚れても?」
「うーん、俺、修二だったらいける気がする」
「へえ。なんだったら試してみる?」

聖夜の頬に手を添えてゆっくりと顔を近づける。唇が触れ合う直前で聖夜を見上げると、聖夜はにやりと笑ったまま俺を見つめ返していた。キスする、振り。いつもの冗談。というよりも、どちらが先に音を上げるかという遊びだったりする。

「おい、聖夜!」

唇が触れ合いそうなまま笑いを堪えて睨み合う俺と聖夜の意地の張り合いに決着をつけたのは、慶が聖夜を呼ぶ声だった。

途端にどくんと心臓が跳ねる。

内心の動揺を悟られないように、俺はさりげなく視線を逸らした。落とした目線の先には聖夜の足と、その一歩隣に慶の足。最近の慶のお気に入りらしい派手な色のスニーカーをじっと見つめながら、俺と慶との距離を考える。

その距離、およそ八十センチ。

あの夏の日以来、慶がこれ以上俺に近付くことはない。

日本の成人男性の腕の長さは平均七十二.七センチだそうだ。身長も平均以下の俺は腕の長さも平均を少し下回る七十一センチしかない。つまり何が言いたいのかといえば、俺はどんなに手を伸ばしても慶に触れることはできない、ということ。

近いようで遠い ――― それが俺と慶との間にある距離なのだ。

「慶、おめえは全く……。なんだっつーの」

頭の上で、聖夜の迷惑そうな声が聞こえる。

「いいから。ちょ、来いよ」

これは慶の声。

やばい、どきどきする。
声を聞いただけでどきどきするとか。乙女か、俺は。

自分自身に苦笑していると、聖夜がちっと舌打ちするのが聞こえた。

「わりぃ、修二。ちょ、行ってくっから」

下から顔を覗き込むようにして聖夜に声を掛けられ、俺は俯いたまま「ああ」と返した。

「いい加減うぜえんだよ、おめえはよー」

慶にぶつぶつ文句を言う聖夜の声が遠ざかる。念のために五秒余計に数えてからそろりと顔を上げると、慶と聖夜の二人は隣のテーブルに座り、肩を寄せ合って何やら深刻な様子で話し始めていた。

こうやって慶が聖夜に声を掛けることはよくあることで、ほんのひと言二言ことばを交わすだけのときもあれば、ずっと話し込むときもある。いずれにせよ俺は用なしだから、少し早いけれど次の教室に移動しようと踵を返したときだった。

「おわっ!」

ちょうど俺の真後ろに立っていたらしい享とぶつかって、体勢を崩した。享が咄嗟に体を支えてくれなかったら倒れていただろう。

「ごめんね。大丈夫?」
「や、俺こそわりぃ。さんきゅ」

礼を言って享の腕の中から抜け出そうとしたのに、享はそれを赦さなかった。俺を腕の中に囲ったまま、享は何が楽しいのか満面の笑みで俺を見下ろしている。俺は訳がわからなくて、俺より頭半分くらい上にある享の顔を見上げた。

「修二って、ほんと色白いよね」

……は?

「シミもないし、すべすべだし。ちょっと触ってもいい?」

はあああ?!!!

意味わかんねえし。
てか修二ってなんだよ。呼びつけかよ。

いやそれよりも、享が俺の名前を知ってたこと自体が驚きだ。

「そういう無防備な顔も可愛いね」

ポカンと口を開けたままの間抜けな俺の顔を見下ろして、享がくすりと笑った。

こいつっ!!!

やっとわかった。享は俺に喧嘩を売っているのだ。俺は無言のまま享を睨みつけた。 

「へえ。そんな目もするんだ。いいね、そっちのが。虐め甲斐があって、さ」

享は笑顔を収めて真顔になると、その整った顔をゆっくりと近づけてくる。

次は何を言われるのだろうと思って身構えていたのだ。どうやって言い返そうか、それとも無視を決め込むべきか、考えていたのだ。だから避けられなかった。夢にも思わなかった。こんな公衆の面前で、まさか享に……

チュッ

キスされるなんて。
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