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Where do it?

第三話「飴と鞭」

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正直、お手上げ状態だ。

相思相愛の彼女がいて受験も上手くいっていて、犯人に恋人を殺す理由はないように思える。本当に犯人なのかも疑わしくなる。

雲隠さんが言っていたように、僕の前に聳え立つ壁は分厚く高く扉なんて無いかのようだ。

「…被害者はDVを受けていたとか」

「ふふん、被害者に暴行の跡はなかったよ。

やっぱり、君も加害者と被害者のことを誤解している」

雲隠さんの前を素通りして、洗面所に入る。

床に脱ぎ捨てられたシャツとパンツ、下着を拾い上げてネットに分けて前回の洗濯物と一緒に洗濯機を回した。

使用済みタオルは避けておき、次回まとめて洗濯する。

真新しいドラム式洗濯乾燥機は消音機能や省エネ機能、洗濯槽の黒カビ対策機能がついているが、使われた形跡はほとんどない。

背後には髪が自然乾燥するのを待つ雲隠さんがいて、僕の仕事を監視していた。

洞察力に優れた彼女の目から見て僕が洗剤を入れたり風呂場の水切りをしたりする様子が楽しいとは思えない。

推理に夢中で仕事をさぼっていないか見張っているのかもしれない。

「さぁ、頭を働かせて柔らかくしたまえ。

まさか、この程度で完璧犯罪だなんて言わないでくれよ」

どうやら、逆だったようだ。

彼女は、僕が仕事にかまけて推理が疎かになっていないかを見張っていた。

慣れた作業なので会話をしていても身体は勝手に動くが、加害者と被害者のことを誤解しているとはどういうことだろう。

同い年で浪人生と大学生のカップル、それも二人して学力が高くて頻繁に遊びに行っている。なんて羨ましい。

僕も恋人ができて二人でテーマパークに行くようになったら、彼らの気持ちがわかるだろうか。ここから一番近い遊園地でも二時間はかかるけど、彼らと同じように一日かけて遊べばそれも関係ない。

いや、このバイトを始めてから土曜日も出張があるからそれも難しいか。休日は時給が1.25倍に上るので、遊びのために貴重な給金を無駄にはできない。

待てよ、お金?

「あの、彼氏が浪人している間のお金って誰が出していたんですか?」

「親御さんが負担していたよ、加害者のね。

実家は関東圏ではなかったそうだから、都内にマンションを借りて住まわせていたらしい」

「それは、豪勢な」

恐らくその人よりも絢爛な生活をしている雲隠さんに言うのは憚られたけれど、彼女の場合は働いて得た生活であり、犯人の場合は親からもらったものだ。

てっきり経済的に困窮して彼女と無理心中をしたのではないかと考えたのだが、マンションの一室を借りられる財力がバックにあるとなると寧ろお金には余裕がありそうだ。

「家族仲は良かったんですか?」

「親御さんのことかい?

地元の名士で多忙ではあったが、定期的に学校行事に参加しているよ。

一人っ子だったので可愛がられたようだ。

あぁ、この場合は期待していたとも言うが」

「じゃあ、親に交際を反対されているというわけではないんですね」

「どうしてそう思うんだい?」

「どうしてって…仲が良いなら反対されずに応援されるんじゃ」

「そんなことはないだろ、地元の名士で一人っ子と来たら親は高校のクラスメートよりも同じ名士の人間とゴールインして欲しいかもしれないだろう?

そして実際そうだった」

「実際そうだったって、ことは」

シャンプーやリンスを移動して零れた液体を落としていき、洗面台と同じ要領で鏡を磨く。

雲隠さんは僕がしゃがみ込んで排水溝を開けてフィルターを交換しているのを見て、「うへぇ」と声を上げた。

決して綺麗な場所ではないが、「あなたの身体から出た汚れですよ」と突っ込みたくなる。

普段は風呂から上がってすぐに仕事部屋に籠ってしまうので、どれだけ汚れているのか知らなかったのだろう。

それも多忙では致し方ないか、それに依頼人が家事に抵抗があるからこそ僕の仕事は存在するのだ。

どうしたって、家事は仕事や勉学よりも優先順位が低くなりがちだし。

「話を戻そう。二人は、交際を反対されていたんだ」

「それじゃあ、それが理由で…いや、なら両親を殺害するはず…?

えっと、心中に失敗してとか」   

「違うな、本人も否定している。

そもそも、心中するならもっと楽で苦しまない方法はいくらでもある。

さらに被害者が首を絞められたときに、激しく抵抗した跡も残っていた」

「…うへぇ」

掃除用具を元に戻すと、洗濯機が洗濯を終わらせたことを知らせる。

風呂場に物干し棹をかけて、ハンガーに吊るした洗濯物をかけていく。

高層マンションというのは素晴らしい眺望を得る代わりに常に高層の風に晒されるので、洗濯物は室内で乾かさなければいけない。

乾燥機にかけられるものは引き続き乾燥工程に入れることもあるが、依頼人の中には触覚に敏感な人もいる。中には衣類は全ておしゃれ着洗いで乾燥機にもかけて欲しくないという要望が入る場合もある。

「ギブアップです、今日もありがとうございました」

「時間切れか、仕方がないな」

一礼してエプロンと三角巾を取ると、畳んでリュックに戻す。

雲隠さんは開いたリュックの口から本屋の袋が見えると、満足げに頷いた。

もしかして、これを確かめるためにずっと僕の周りをついて回っていたのだろうか。

リュックを背負って玄関で携帯用の靴ベラを使って革靴を履くと、僅かに土がパラパラと落ちた。

次回はゴミ捨てと掃き掃除をしようと考えていると、珍しく雲隠さんが見送りに来た。

「ところで少年、君はいつも仕事終わりの食事はどうしているんだ?」

「食事ですか、恥ずかしながら適当にコンビニで買って家で食べることが多いです」

「なぜ?作れるだろう」

「作れはしますけど、食材を買ったり作ったりしていたら寝る時間が遅くなってしまうので」

「はははっ、君ほどの腕があっても人間は同じことを考えるんだね」

「同じこと?」

「犯人は身の回りの家事を全て恋人にしてもらっていたそうだよ。

飲み会を早く切り上げて帰宅した後には加害者の夕食を作ったり掃除をして貰っていて、受験勉強に打ち込めるように手伝って貰っていたそうだ」

犯人は親元を離れて生活していたのだから、住居があって金もあっても家事は自分で行わなければいけない。

家事代行業者を頼むという手もあるが、そこまで親も過保護ではなかったのだろう。それに、被害者が家事をしてくれていたなら無理に自分でする必要も親に頼む必要もない。

あぁ、だから彼女は僕にこの話をしたのだと気づいた。

ハウスキーパーを名乗る僕が犯人も誰かに家事を委託している発想をするのか、あるいはしないのか興味があったのだろう。与えられた情報の中だけで推理をしていたから、その外側にあるヒントに気付かなかった。

「答えは次回までに考えておいてくれ」

「まだ続くんですね…」

「ノリが悪いな、ではヒントをあげよう。

キリスト教では人間が罪を犯す根源には七つの欲望があるとされている。

虚栄あるいは尊大、貪欲、法外かつ不義なる色欲、暴食および酩酊、憤り、嫉妬、怠惰だ。

これは重大犯罪者の逮捕を至上命題にしている友人に言わせても概ね正しいそうだが、一つだけ追加すべき項目があるそうだ」

「それは何ですか?」

「無知さ。

カッとなって突き落としたがまさか死ぬとは思わなかった、酸性の洗剤と塩素系漂白剤を混ぜたがまさか塩素ガスが発生するとは知らなかった、山で取れたキノコを配ったがまさか毒だとは考えもしなかった。

とかく人間は自分が無知であると知らないし、認められない生き物なのだよ」

「首を絞めたけど、死ぬとは思わなかったことですか?

二人は頭が良かったんですよね」

「面白いことを言うね、勉強にコンプレックスでもあるのかい?

学力の方は知らないが、少なくとも君の方が犯人より多くのモノを知っている。

断言しよう。君は、絶対に同じ理由で人を殺したりしないだろうな」

「それじゃあ、余計僕にはわからないじゃないですか」

「何だ、やる気が出ないかい?

じゃあ、こうしようか。飴と鞭を与えるから、それで頑張り給え」

僕の諦めかけたような言動に、雲隠さんは気分を害したようだ。

仕事は完遂しているというのに、我儘な人だ。

「飴と…鞭?」

「もし次の仕事が終わるまでに正解できたら、私が知る中で最も美味い高級焼肉店で食事を奢るよ。

銀座にある店でね、最高ランクの鹿児島の黒毛和牛を食べさせてあげよう」

「く、黒毛和牛…っ?!

あ、でももしわからなかったら?」

上がり框から降りて下駄を履いた雲隠さんは、僕の代わりに二重ロックを開錠する。

一歩引いて彼女の顔を見上げると、ペンより重いものを持ったことがなさそうな指が僕の背中を指した。

「君が今日買った新刊、それは上下巻で構成されている。

本当は一冊にしたかったのだが、編集者がごねてうるさかったので仕方なく分けた。

上巻は今日発売で、下巻は来月に発売予定だ。

これだけのハイペースで公刊できるのは一重に私の速筆さと出版社の金欲しさから来ているのだが、とにかく原稿は既に完成している。

おや、その顔は私が言わんとしていることがわかるようだね」

「ま、まさか…」

「繰り返すが、次回の仕事が終わるまでだ。

それまでにわからなければ、私はこの謎と共に下巻で明かすはずだった犯人の名前も一緒に伝えよう。」

「そんなの、絶対にダメです!」

作者によるネタバレ、それもHowもWhenもWhereもWhyすら飛ばしてWhoの犯人だけ告げられる。

そんなの、間違いなく最恐最悪の妨害行為だ。

ネットやテレビ、友人から何気なく中盤の展開やどんでん返しの有無、登場人物の人柄を語られるのとは次元が違う。

ミステリーに限らず物語ではしばしば犯人の動機や犯行方法が完全に語られず、様々な解釈が存在するように終結する。

雲隠先生の作品もまた大筋のミステリー要素以外は明言せずに、数多の伏線でもって考察の余地を残すことが多い。考察というより、議論と言ったほうが正しいかもしれない。

考えたら、誰かに語られずにはいられない。正しいかどうかを確かめずにはいられない。

だからこそ、僕は誰にも邪魔にされずに本を読み切るために発売日に本屋に駆け込んだ。

けれど、作者には議論など必要ない。彼女がそうだと言ったらファンが何を言っても、いくら反論を述べても、小説を執筆した彼女の意見が正しい。

「じゃあ、頑張りたまえ。私の鞭が振るわれる前にね。」

コンビニに寄って買ったおにぎりを頬張りながら、耐えきれずに封を切った。

家に帰ってゆっくり読書をするはずが、まさか作者に急かされながら読み進めることになるとは。もしかしたら上巻だけ読んで下巻の謎が解けるかもと思ったが、僕の頭では今まで通り犯人が誰かはわからずじまいだった。

そしてこれだけされても尚、雲隠日景の作品は

「面白かった…!」

先生の上手いところは、僕が仮にネタバレをされても周囲に吹聴できないところだ。

ハウスキーパーは、仕事で知り得た情報全てに守秘義務がある。相手が同じ会社の同僚であろうが家族であろうが、家主の情報は自分のプライベートよりも口外してはいけない。

僕らは依頼人に快適さを提供している。その信用によって、依頼人の家に入る許可と仕事を得ているのだ。

仮に目の前の金庫の鍵が開いていて中に大金が入っていても何事もなかったかのように掃除を続け、依頼人以外の同居人がいても同等に扱い、誰に何を聞かれても見ざる聞かざる言わざるを徹底する。

依頼人のプライバシーを侵害する言動は、決して許されない。

だから依頼人が自宅で未発表の作品の情報を述べても僕は抵抗できないし、嫌なら全力で謎を解く必要がある。

それに飴と鞭とは言っても、避けようと思えば鞭を避けて飴だけ貰うことが可能なのだ。

うまく行けば最高級黒毛和牛、失敗したら次回作のネタバレ。

全く、ミステリーの神様は人をやる気にさせるのが上手い。
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