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第9話 眠れる集落
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ゲルダの家の寝台に横になって、どのくらい経っただろう。目を閉じても暗闇が落ち着かない。瞼の裏に像が浮かぶ。ドルクの背中。崩れた壁の下の子供。四歳の目。——おれが見たわけではない。ドルクの声で聞いただけだ。だがその目がおれを見ている。瞼を閉じるたびに。
遺物の暖房がオレンジ色に光っている。天井の木目がその光に浮き上がって、ゆっくりと呼吸するように明滅していた。いや、明滅しているのではない。おれの呼吸が揺れているだけだ。
身体を起こした。
寝台の端に足を下ろす。板床が軋んだ。隣の部屋からゲルダの寝息が聞こえる。規則正しく、深い。
——あと何時間だ。
四十八時間。ドルクから聞いたのは今朝だった。いや、昨日の朝か。もう日付が変わっている。時間は減っている。この暗闇の中でも、確実に。
旅装を羽織った。荷袋の底に手を入れ、紋章の感触を確かめた。冷たい金属。まだそこにある。おれは何を確かめているのか。
戸を開けた。
外は静かだった。
ラステンの夜。虫の声が低く鳴っている。途切れず、重なり合って、一枚の布のように空気を覆っている。樹海からの風が頬に触れた。冷たくはない。秋の終わりの、湿った温もりを含んだ風だった。木の葉と土と、かすかに甘い腐葉《ふよう》の匂い。
集落は眠っていた。
道に人はいない。畑の向こうの樹海が黒い壁のように夜空を区切っている。星が出ていた。多い。騎士団の本拠では、魔石の灯りが夜空を薄めてしまう。ここでは星が近い。
歩き出した。
目的はなかった。ただ、寝台の上で目を閉じていることに耐えられなかった。身体を動かせば何かが変わるわけではない。四十八時間は減り続ける。だが横になっていると、天井の暗闇が思考を際限なく深いほうへ引き込んでいく。歩いているほうがましだった。
最初の角を曲がると、窓に灯りが見えた。
遺物の灯り。蜂蜜色の、揺れない光。窓の隙間から漏れている。あの家は——農夫の家だ。初日に水をくれた男の。まだ起きているのか。いや、灯りをつけたまま眠る家もあるのだろう。灯油を節約する必要がない。遺物の灯りは燃料を使わない。
次の家にも灯りがあった。その隣にも。道に沿って、窓がいくつも淡く光っていた。眠っている家も、起きている家も、同じ色の光を窓ににじませている。
犬が一匹、道の真ん中に寝そべっていた。
おれの足音に顔を上げた。長い鼻面《はなづら》がこちらを向く。暗闇の中で目だけが光を反射していた。おれを見て、一度鼻を鳴らして——吠えなかった。尾を一つ振って、顎を前足の上に戻した。
吠える必要のない夜を、何年も重ねてきた犬だ。——この犬は知らない。おれが何者か。おれが何のためにここにいるか。
犬の横を通り過ぎた。
集会所が見えた。
月明かりの中に、四角い影が沈んでいる。壁の石は青白く、屋根の木組みが夜空に線を引いていた。窓は閉じている。灯りはない。
だが——窓に近づくと、中がかすかに見えた。月の光が反対側の窓から差し込んでいて、教室の内部を薄く照らしている。
椅子が並んでいた。
レンネが並べた椅子だ。子供の体格に合わせて、高さの違うものが席ごとに配られている。昨日——いや、もう一昨日か——おれが見たときと同じ配置。明日の授業のために。
石板が壁に立てかけてあった。
月明かりでは文字は読めない。だがおれは知っている。あそこに何が書いてあるか。算術の問題だ。リンゴが三つと二つで、いくつ。羊が五匹いて、二匹が帰ると、何匹。レンネの丁寧な字で。子供が読みやすいように、大きく、はっきりと。
ミーネが家で問題を考えてくるって言ってたんですよ。
レンネの声が耳の奥で響いた。
おれは窓枠に手をかけたまま、動けなかった。
明日、この教室に子供たちが来る。椅子に座り、石板を見て、「できた!」と顔を輝かせる。ミーネが自分で作った問題をレンネに見せる。レンネが「すごいね」と言う。虫の声が遠くで鳴る。遺物の灯りが窓から漏れる。夜学が終わって、「またあしたねー」と子供たちが走っていく。
それが——明日の予定だ。レンネにとっても、子供たちにとっても。
だがおれたちの予定は違う。
窓から手を離した。掌《てのひら》に石壁の冷たさと、乾いた粉筆《ふんぴつ》の感触が残っていた。石板を拭いたときの粉が壁にまで届いていたのだ。レンネが毎日ここで書いて、消して、書いて。その営みの粉が、壁に積もっている。
歩いた。
集会所を離れ、東の通りに出た。ゲルダの家の前を通り過ぎる。自分の宿のはずなのに、今は入れなかった。中に入れば暖房のオレンジ色の光が待っている。ゲルダの寝息が聞こえる。それが温かくて、おれにはつらかった。
井戸のそばを通った。昨日ゲルダの水を汲んだ井戸だ。縄が巻き取られて、石の縁に月光が白く乗っている。
道の先に、薪小屋があった。おれが三十本以上の薪を割った場所だ。軒下に薪が積まれている。一本ずつ、丁寧に。あの老人が毎年やってきたように。
おれが割った薪が、あそこにある。
その薪は使われるのだろうか。冬が来て、暖炉にくべられて、誰かの身体を温めるのだろうか。
——やめろ。考えるな。
だが足は止まらない。歩くたびに、集落が語りかけてくる。灯りが。犬が。椅子が。薪が。井戸が。一つ一つが声を持っている。声のない声だ。おれだけに聞こえている。おれがここに来て、この人たちと過ごして、手伝って、話して——おれだけが知っている声。
集落の南端まで来た。
畑が終わり、緩い斜面が樹海へと続いている。風が強くなった。樹海の木々が揺れる音が低く響いていた。葉擦《はず》れの音が重なって、遠い波のように聞こえる。
振り返った。
ラステンが見えた。
小さな集落だった。三十軒ほどの家が、丘の裾に寄り添うように建っている。そのいくつもの窓に、蜂蜜色の灯りが点《とも》っている。谷底に沈んだ熾火《おきび》の群れのようだった。消えかけているのではない。だが誰かが手をかざさなければ、この温もりは風に攫《さら》われる。
星座には名前がある。星の一つ一つには名前がない。だがこの灯りの一つ一つには名前がある。あの灯りの下にはゲルダがいる。あの灯りの下には薪割りの老人がいる。あの灯りの傍には犬が丸くなっている。
百二十人。
数字が頭の中で鳴った。百二十人。ハルスの査定書に記された数字。処理対象。
だがおれの目に映っているのは数字ではなかった。灯りだった。名前だった。手の温もりだった。
おれは斜面の草の上に座った。
風が吹いていた。樹海の匂いが濃い。土と苔《こけ》と、落ち葉の発酵した甘さ。虫の声が足元から湧いてくるように鳴っている。草が冷たくて、座った場所から夜露が旅装に染みた。
空を見上げた。星が多い。月は西に傾いている。夜の後半だ。時間が過ぎている。
——神罰を防ぐために、百二十人を殺す。
教義だ。
おれは八歳からそれを学んだ。禁忌に触れた者を処理しなければ、神の怒りが世界に降る。遺跡の遺物を使うことは禁忌だ。なぜなら、それは人の手に負えない力だからだ。制御できない力は世界を歪《ゆが》め、歪みが閾値を超えれば、神罰が来る。
だから処理する。百二十人を殺す。数千人を守るために。世界を守るために。
十二年間、おれはそれを信じてきた。疑ったことはなかった。
だが——今夜は信じられない。
レンネの算術の問題が、おれの頭の中にある。リンゴが三つと二つで、いくつ。五つだ。答えは五つ。子供でもわかる。わかるから嬉しいのだ。わかることが嬉しいという、その小さな喜びのために、レンネは毎晩石板に問題を書く。粉筆が壁に積もるほど。
それが大事だと思う。
薪割りの老人の手が、おれの掌の中にある。関節が腫れて、斧をまっすぐに振り下ろせない手。その手が遺物の暖房にかざされて、オレンジの光の中で少しだけ楽になる。温もりが——痛みを和らげる。
それが大事だと思う。
ゲルダの寝息。水甕を抱えて歩く小さな背中。「昔はね、息子がやってくれたんだけど」。犬が尾を振ること。子供が「またあしたねー」と叫んで走ること。窓に灯りがあること。
大事だ。大事だと——おれは思う。
だが教義も正しい。禁忌を放置すれば神罰が来る。百二十人を見逃せば、数千人が死ぬ。それは嘘ではない。ヨルンの言う通りだ。大神官様はおれたちより遠くを見ておられる。
二つの真実がある。
百二十人を殺さなければ、世界は危うい。——それは真実だ。
百二十人の一人一人に、名前があり、手があり、温もりがあり、明日がある。——それも真実だ。
おれの信仰は、この二つを同時に抱くことを求めている。正しいことをせよ。百二十人を処理し、数千人を守れ。そして——その百二十人が人間であることを忘れるな。忘れずに、殺せ。
できるのか。
ドルクにはできなかった。あの目をもう一度見ることに耐えられなかった。だから七年間、嘘をついた。
ドルクは言った。それはもう、おれの問いじゃない。
おれの問いだ。
草の上に両手をついた。夜露で指が冷たい。虫の声が鳴り続けている。途切れない。この虫たちは何も知らない。処理のことも、教義のことも、四十八時間のことも。ただ鳴いている。秋の終わりの夜に、命のあるかぎり。
——おれの信仰は、二つの真実を同時に抱えられるか。
考えた。
立ち上がることもできずに、草の上に座ったまま、考えた。
百二十人と数千人。どちらが多い。数千人だ。算術だ。子供でもわかる。ミーネでもわかる。
だがミーネに聞いてみろ。リンゴが三つと二つで五つだと答えた、あの子に。「おまえの村の人を全部殺せば、遠くの街の人が助かる。どちらが多い?」と。ミーネは何と答える。
——答えない。答えられない。算術で解ける問いではないからだ。
数の大小で命を量ることは、正しい。おれの中の訓練された部分はそう言う。だがそれは、名前のない命を数えているから言えることだ。名前を知った瞬間——手の温もりを知った瞬間——算術は壊れる。
ならば名前を知るな。温もりに触れるな。処理対象を人間として見るな。——それが、おれが十二年間かけて身につけるべきだった正しさか。
風が吹いた。樹海が鳴った。遠い波のような音が、ラステンの上を渡っていった。窓の灯りが一つ、また消えた。誰かが眠りについた。おれが座っている間にも、時間は過ぎている。
信仰が二つの真実を同時に抱えられないなら。
おれの信仰は——足りない。
その言葉が、胸の底に落ちた。
足りない。百二十人の命と数千人の命を天秤にかけて、重いほうを選ぶだけの信仰。レンネの算術の問題の前で、ゲルダの小さな背中の前で——足りない。
足りないのだとしたら。足りない信仰に従って百二十人を殺すのか。それとも、足りないと知った上で——別の何かを選ぶのか。
足りないが——ここにいる。この集落の一日を知っている。名前を知っている。手の温もりを知っている。それがおれの全てだ。
ドルクの声が、風の中で蘇った。「おまえの手はまだ——何も持っていない」。あの夜、おれの眠りを見守っていた男の声。あの男は七年間、足りない信仰で四百人を拾い上げた。おれは——。
長い沈黙があった。虫の声だけが鳴っていた。風が止んで、樹海が静まって、ラステンの灯りがじっと光っていた。おれは草の上に座って、何も考えられなくなっていた。思考が止まったのではない。思考の果てに辿り着いたのだ。考えて、考えて、考え尽くして——その先にあったのは、静寂だった。
立ち上がった。
膝に夜露が染みていた。旅装の裾が湿って重い。身体が冷えている。どれだけの時間座っていたのか、わからなかった。月はさらに西に傾いていた。空の東端が——まだ暗いが、星の密度がわずかに薄くなっている。夜明けが近い。
集落に戻った。
道を歩いた。さっきと同じ道だ。犬はまだ同じ場所にいた。おれの足音に顔を上げ、また顎を前足に戻した。二度目だからか、尾も振らなかった。当然のように。おれがここにいることが、当然であるかのように。
集会所の前を通った。窓は閉じている。月明かりが石壁を照らしている。中に椅子がある。石板がある。算術の問題がある。明日——今日——子供たちが来る。
足が止まった。
集会所の脇に、何かが落ちていた。
屈んで拾い上げた。小さかった。掌に乗る大きさ。金属の欠片《かけら》だ。滑らかな表面。角が欠けている。——遺物の灯りの一部だった。割れたのか、壊れたのか。灯りの筒の端が欠け落ちたものだろう。光らない。ただの古い金属の破片だ。
だが手の中にあると、ほんのかすかに温かい気がした。
気のせいかもしれない。おれの手が冷えていて、金属のほうが相対的に温かいだけかもしれない。だが——おれはその欠片を握った。角のない、滑らかな感触が掌に馴染《なじ》んだ。
これが禁忌だ。この欠片が。この温もりが。この灯りが。子供たちの夜学を照らし、老人の手を温め、窓に蜂蜜色の光をにじませる——この全てが。
おれは欠片を旅装のポケットに入れた。
なぜそうしたのか、わからなかった。わからなかったが、手が迷わなかった。
ゲルダの家に戻った。
戸を開けると、暖房のオレンジ色の光が出迎えた。隣の部屋でゲルダが寝息を立てている。変わっていない。おれが出ていったことにも気づいていない。
寝台に座った。
荷袋から紋章を取り出した。掌の上に乗せる。金属の冷たさ。剣と盾の紋様が暖房の光に染まってオレンジに光っている。
もう片方の手をポケットに入れた。遺物の欠片に触れた。
右手に紋章。左手に欠片。
どちらも金属だ。どちらも冷たい。だが紋章は鋭く、欠片は滑らかだった。紋章は角があり、掌に食い込む。欠片は角がなく、手に馴染む。
長い時間、そうしていた。
やがて——紋章を荷袋に戻した。欠片はポケットに残した。
それが決断だったのかどうか、おれにはわからなかった。叫びはなかった。涙もなかった。天啓《てんけい》もなかった。ただ——右手を先に開いて、左手はそのままだった。それだけだ。
窓の外が、うっすらと白み始めていた。
東の空の端に、夜明けの最初の兆《きざ》しがあった。まだ暗い。まだ星が見える。だが闇の質が変わっている。
ラステンの灯りが、一つ、また一つと消えていく。夜明けが近づくと、人々は灯りを消して朝を迎える。
虫の声が薄れていた。夜の虫が鳴りやみ、まだ朝の鳥は歌わない。その狭間の静寂。世界が息を止めている時間。
おれは寝台の上で、目を開けたまま、夜明けを待っていた。
何をするか。頭の中に、言葉はまだなかった。計画もなかった。ただ——一つだけ、確かなことがあった。
おれはこの集落を処理できない。
足りない信仰で、それでも選ぶ。
窓の外が白んでいく。ゲルダの寝息が続いている。暖房のオレンジの光が、夜明けの白さの中に溶けていく。
おれは立ち上がった。
遺物の暖房がオレンジ色に光っている。天井の木目がその光に浮き上がって、ゆっくりと呼吸するように明滅していた。いや、明滅しているのではない。おれの呼吸が揺れているだけだ。
身体を起こした。
寝台の端に足を下ろす。板床が軋んだ。隣の部屋からゲルダの寝息が聞こえる。規則正しく、深い。
——あと何時間だ。
四十八時間。ドルクから聞いたのは今朝だった。いや、昨日の朝か。もう日付が変わっている。時間は減っている。この暗闇の中でも、確実に。
旅装を羽織った。荷袋の底に手を入れ、紋章の感触を確かめた。冷たい金属。まだそこにある。おれは何を確かめているのか。
戸を開けた。
外は静かだった。
ラステンの夜。虫の声が低く鳴っている。途切れず、重なり合って、一枚の布のように空気を覆っている。樹海からの風が頬に触れた。冷たくはない。秋の終わりの、湿った温もりを含んだ風だった。木の葉と土と、かすかに甘い腐葉《ふよう》の匂い。
集落は眠っていた。
道に人はいない。畑の向こうの樹海が黒い壁のように夜空を区切っている。星が出ていた。多い。騎士団の本拠では、魔石の灯りが夜空を薄めてしまう。ここでは星が近い。
歩き出した。
目的はなかった。ただ、寝台の上で目を閉じていることに耐えられなかった。身体を動かせば何かが変わるわけではない。四十八時間は減り続ける。だが横になっていると、天井の暗闇が思考を際限なく深いほうへ引き込んでいく。歩いているほうがましだった。
最初の角を曲がると、窓に灯りが見えた。
遺物の灯り。蜂蜜色の、揺れない光。窓の隙間から漏れている。あの家は——農夫の家だ。初日に水をくれた男の。まだ起きているのか。いや、灯りをつけたまま眠る家もあるのだろう。灯油を節約する必要がない。遺物の灯りは燃料を使わない。
次の家にも灯りがあった。その隣にも。道に沿って、窓がいくつも淡く光っていた。眠っている家も、起きている家も、同じ色の光を窓ににじませている。
犬が一匹、道の真ん中に寝そべっていた。
おれの足音に顔を上げた。長い鼻面《はなづら》がこちらを向く。暗闇の中で目だけが光を反射していた。おれを見て、一度鼻を鳴らして——吠えなかった。尾を一つ振って、顎を前足の上に戻した。
吠える必要のない夜を、何年も重ねてきた犬だ。——この犬は知らない。おれが何者か。おれが何のためにここにいるか。
犬の横を通り過ぎた。
集会所が見えた。
月明かりの中に、四角い影が沈んでいる。壁の石は青白く、屋根の木組みが夜空に線を引いていた。窓は閉じている。灯りはない。
だが——窓に近づくと、中がかすかに見えた。月の光が反対側の窓から差し込んでいて、教室の内部を薄く照らしている。
椅子が並んでいた。
レンネが並べた椅子だ。子供の体格に合わせて、高さの違うものが席ごとに配られている。昨日——いや、もう一昨日か——おれが見たときと同じ配置。明日の授業のために。
石板が壁に立てかけてあった。
月明かりでは文字は読めない。だがおれは知っている。あそこに何が書いてあるか。算術の問題だ。リンゴが三つと二つで、いくつ。羊が五匹いて、二匹が帰ると、何匹。レンネの丁寧な字で。子供が読みやすいように、大きく、はっきりと。
ミーネが家で問題を考えてくるって言ってたんですよ。
レンネの声が耳の奥で響いた。
おれは窓枠に手をかけたまま、動けなかった。
明日、この教室に子供たちが来る。椅子に座り、石板を見て、「できた!」と顔を輝かせる。ミーネが自分で作った問題をレンネに見せる。レンネが「すごいね」と言う。虫の声が遠くで鳴る。遺物の灯りが窓から漏れる。夜学が終わって、「またあしたねー」と子供たちが走っていく。
それが——明日の予定だ。レンネにとっても、子供たちにとっても。
だがおれたちの予定は違う。
窓から手を離した。掌《てのひら》に石壁の冷たさと、乾いた粉筆《ふんぴつ》の感触が残っていた。石板を拭いたときの粉が壁にまで届いていたのだ。レンネが毎日ここで書いて、消して、書いて。その営みの粉が、壁に積もっている。
歩いた。
集会所を離れ、東の通りに出た。ゲルダの家の前を通り過ぎる。自分の宿のはずなのに、今は入れなかった。中に入れば暖房のオレンジ色の光が待っている。ゲルダの寝息が聞こえる。それが温かくて、おれにはつらかった。
井戸のそばを通った。昨日ゲルダの水を汲んだ井戸だ。縄が巻き取られて、石の縁に月光が白く乗っている。
道の先に、薪小屋があった。おれが三十本以上の薪を割った場所だ。軒下に薪が積まれている。一本ずつ、丁寧に。あの老人が毎年やってきたように。
おれが割った薪が、あそこにある。
その薪は使われるのだろうか。冬が来て、暖炉にくべられて、誰かの身体を温めるのだろうか。
——やめろ。考えるな。
だが足は止まらない。歩くたびに、集落が語りかけてくる。灯りが。犬が。椅子が。薪が。井戸が。一つ一つが声を持っている。声のない声だ。おれだけに聞こえている。おれがここに来て、この人たちと過ごして、手伝って、話して——おれだけが知っている声。
集落の南端まで来た。
畑が終わり、緩い斜面が樹海へと続いている。風が強くなった。樹海の木々が揺れる音が低く響いていた。葉擦《はず》れの音が重なって、遠い波のように聞こえる。
振り返った。
ラステンが見えた。
小さな集落だった。三十軒ほどの家が、丘の裾に寄り添うように建っている。そのいくつもの窓に、蜂蜜色の灯りが点《とも》っている。谷底に沈んだ熾火《おきび》の群れのようだった。消えかけているのではない。だが誰かが手をかざさなければ、この温もりは風に攫《さら》われる。
星座には名前がある。星の一つ一つには名前がない。だがこの灯りの一つ一つには名前がある。あの灯りの下にはゲルダがいる。あの灯りの下には薪割りの老人がいる。あの灯りの傍には犬が丸くなっている。
百二十人。
数字が頭の中で鳴った。百二十人。ハルスの査定書に記された数字。処理対象。
だがおれの目に映っているのは数字ではなかった。灯りだった。名前だった。手の温もりだった。
おれは斜面の草の上に座った。
風が吹いていた。樹海の匂いが濃い。土と苔《こけ》と、落ち葉の発酵した甘さ。虫の声が足元から湧いてくるように鳴っている。草が冷たくて、座った場所から夜露が旅装に染みた。
空を見上げた。星が多い。月は西に傾いている。夜の後半だ。時間が過ぎている。
——神罰を防ぐために、百二十人を殺す。
教義だ。
おれは八歳からそれを学んだ。禁忌に触れた者を処理しなければ、神の怒りが世界に降る。遺跡の遺物を使うことは禁忌だ。なぜなら、それは人の手に負えない力だからだ。制御できない力は世界を歪《ゆが》め、歪みが閾値を超えれば、神罰が来る。
だから処理する。百二十人を殺す。数千人を守るために。世界を守るために。
十二年間、おれはそれを信じてきた。疑ったことはなかった。
だが——今夜は信じられない。
レンネの算術の問題が、おれの頭の中にある。リンゴが三つと二つで、いくつ。五つだ。答えは五つ。子供でもわかる。わかるから嬉しいのだ。わかることが嬉しいという、その小さな喜びのために、レンネは毎晩石板に問題を書く。粉筆が壁に積もるほど。
それが大事だと思う。
薪割りの老人の手が、おれの掌の中にある。関節が腫れて、斧をまっすぐに振り下ろせない手。その手が遺物の暖房にかざされて、オレンジの光の中で少しだけ楽になる。温もりが——痛みを和らげる。
それが大事だと思う。
ゲルダの寝息。水甕を抱えて歩く小さな背中。「昔はね、息子がやってくれたんだけど」。犬が尾を振ること。子供が「またあしたねー」と叫んで走ること。窓に灯りがあること。
大事だ。大事だと——おれは思う。
だが教義も正しい。禁忌を放置すれば神罰が来る。百二十人を見逃せば、数千人が死ぬ。それは嘘ではない。ヨルンの言う通りだ。大神官様はおれたちより遠くを見ておられる。
二つの真実がある。
百二十人を殺さなければ、世界は危うい。——それは真実だ。
百二十人の一人一人に、名前があり、手があり、温もりがあり、明日がある。——それも真実だ。
おれの信仰は、この二つを同時に抱くことを求めている。正しいことをせよ。百二十人を処理し、数千人を守れ。そして——その百二十人が人間であることを忘れるな。忘れずに、殺せ。
できるのか。
ドルクにはできなかった。あの目をもう一度見ることに耐えられなかった。だから七年間、嘘をついた。
ドルクは言った。それはもう、おれの問いじゃない。
おれの問いだ。
草の上に両手をついた。夜露で指が冷たい。虫の声が鳴り続けている。途切れない。この虫たちは何も知らない。処理のことも、教義のことも、四十八時間のことも。ただ鳴いている。秋の終わりの夜に、命のあるかぎり。
——おれの信仰は、二つの真実を同時に抱えられるか。
考えた。
立ち上がることもできずに、草の上に座ったまま、考えた。
百二十人と数千人。どちらが多い。数千人だ。算術だ。子供でもわかる。ミーネでもわかる。
だがミーネに聞いてみろ。リンゴが三つと二つで五つだと答えた、あの子に。「おまえの村の人を全部殺せば、遠くの街の人が助かる。どちらが多い?」と。ミーネは何と答える。
——答えない。答えられない。算術で解ける問いではないからだ。
数の大小で命を量ることは、正しい。おれの中の訓練された部分はそう言う。だがそれは、名前のない命を数えているから言えることだ。名前を知った瞬間——手の温もりを知った瞬間——算術は壊れる。
ならば名前を知るな。温もりに触れるな。処理対象を人間として見るな。——それが、おれが十二年間かけて身につけるべきだった正しさか。
風が吹いた。樹海が鳴った。遠い波のような音が、ラステンの上を渡っていった。窓の灯りが一つ、また消えた。誰かが眠りについた。おれが座っている間にも、時間は過ぎている。
信仰が二つの真実を同時に抱えられないなら。
おれの信仰は——足りない。
その言葉が、胸の底に落ちた。
足りない。百二十人の命と数千人の命を天秤にかけて、重いほうを選ぶだけの信仰。レンネの算術の問題の前で、ゲルダの小さな背中の前で——足りない。
足りないのだとしたら。足りない信仰に従って百二十人を殺すのか。それとも、足りないと知った上で——別の何かを選ぶのか。
足りないが——ここにいる。この集落の一日を知っている。名前を知っている。手の温もりを知っている。それがおれの全てだ。
ドルクの声が、風の中で蘇った。「おまえの手はまだ——何も持っていない」。あの夜、おれの眠りを見守っていた男の声。あの男は七年間、足りない信仰で四百人を拾い上げた。おれは——。
長い沈黙があった。虫の声だけが鳴っていた。風が止んで、樹海が静まって、ラステンの灯りがじっと光っていた。おれは草の上に座って、何も考えられなくなっていた。思考が止まったのではない。思考の果てに辿り着いたのだ。考えて、考えて、考え尽くして——その先にあったのは、静寂だった。
立ち上がった。
膝に夜露が染みていた。旅装の裾が湿って重い。身体が冷えている。どれだけの時間座っていたのか、わからなかった。月はさらに西に傾いていた。空の東端が——まだ暗いが、星の密度がわずかに薄くなっている。夜明けが近い。
集落に戻った。
道を歩いた。さっきと同じ道だ。犬はまだ同じ場所にいた。おれの足音に顔を上げ、また顎を前足に戻した。二度目だからか、尾も振らなかった。当然のように。おれがここにいることが、当然であるかのように。
集会所の前を通った。窓は閉じている。月明かりが石壁を照らしている。中に椅子がある。石板がある。算術の問題がある。明日——今日——子供たちが来る。
足が止まった。
集会所の脇に、何かが落ちていた。
屈んで拾い上げた。小さかった。掌に乗る大きさ。金属の欠片《かけら》だ。滑らかな表面。角が欠けている。——遺物の灯りの一部だった。割れたのか、壊れたのか。灯りの筒の端が欠け落ちたものだろう。光らない。ただの古い金属の破片だ。
だが手の中にあると、ほんのかすかに温かい気がした。
気のせいかもしれない。おれの手が冷えていて、金属のほうが相対的に温かいだけかもしれない。だが——おれはその欠片を握った。角のない、滑らかな感触が掌に馴染《なじ》んだ。
これが禁忌だ。この欠片が。この温もりが。この灯りが。子供たちの夜学を照らし、老人の手を温め、窓に蜂蜜色の光をにじませる——この全てが。
おれは欠片を旅装のポケットに入れた。
なぜそうしたのか、わからなかった。わからなかったが、手が迷わなかった。
ゲルダの家に戻った。
戸を開けると、暖房のオレンジ色の光が出迎えた。隣の部屋でゲルダが寝息を立てている。変わっていない。おれが出ていったことにも気づいていない。
寝台に座った。
荷袋から紋章を取り出した。掌の上に乗せる。金属の冷たさ。剣と盾の紋様が暖房の光に染まってオレンジに光っている。
もう片方の手をポケットに入れた。遺物の欠片に触れた。
右手に紋章。左手に欠片。
どちらも金属だ。どちらも冷たい。だが紋章は鋭く、欠片は滑らかだった。紋章は角があり、掌に食い込む。欠片は角がなく、手に馴染む。
長い時間、そうしていた。
やがて——紋章を荷袋に戻した。欠片はポケットに残した。
それが決断だったのかどうか、おれにはわからなかった。叫びはなかった。涙もなかった。天啓《てんけい》もなかった。ただ——右手を先に開いて、左手はそのままだった。それだけだ。
窓の外が、うっすらと白み始めていた。
東の空の端に、夜明けの最初の兆《きざ》しがあった。まだ暗い。まだ星が見える。だが闇の質が変わっている。
ラステンの灯りが、一つ、また一つと消えていく。夜明けが近づくと、人々は灯りを消して朝を迎える。
虫の声が薄れていた。夜の虫が鳴りやみ、まだ朝の鳥は歌わない。その狭間の静寂。世界が息を止めている時間。
おれは寝台の上で、目を開けたまま、夜明けを待っていた。
何をするか。頭の中に、言葉はまだなかった。計画もなかった。ただ——一つだけ、確かなことがあった。
おれはこの集落を処理できない。
足りない信仰で、それでも選ぶ。
窓の外が白んでいく。ゲルダの寝息が続いている。暖房のオレンジの光が、夜明けの白さの中に溶けていく。
おれは立ち上がった。
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