願わないと決めた

蛇ノ目るじん

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挿話・娼妓の献身

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 館主から、やんごとなき方だと直接告げられてはいた。
 珍しいとは思ったのだ、その内容がではなく、それを言ったときの館主の様子が。
 そういった仕事自体は、何度か受けたことがある。しかし依頼を伝える際、どこか皮肉めいた響きがある物言いなのが常だった。しかしその時には、そういった様子は一切見受けられなかったのだ。いや、相手が男だというのに抱かれる側ではなく抱く側に回るという要望も、珍しい部類ではあったが、館主の態度がそれ以上に稀というか、直球に言うなら初めてだった。
 そうして訪れた、やんごとなき方も、珍しい御仁だった。
 最初の晩、叩き飛ばされた腕はやはり、後で熱を持ったが、それが引くまで館主から閨事は免除された。そして、二度目を打診された時も受けた。
 再会した時、僅かに目を丸くしたのを、今でも何故だか覚えている。腕は、と問われて、軽口で応じながら腕を見せた記憶は新しい。閨に引き込んでもしばらく固かった動作に、愛嬌さえ覚えた。
 その時点で、もう印象は良かった。

 詳しい作法までは知らないが、所作一つ取っても洗練されているのは分かる。閨以外では大きすぎも小さすぎもしない声は訛りもなく、決して主張しているようでもないのに聞き落とすことがない。
 しなやかな体躯と肩に繋がる大きい手のひらは、明らかに剣を長く握ってきた者の硬さと厚さを備え、革と金属と、インクの匂いがする。優雅な所作とはそぐわないように思えるそれらの特徴はしかし、完全に調和して彼を成り立たせていた。杉を基本に、季節ごとに合わせを変えている香水も、その一助となっているのだろう。
 声高にひけらかすまでも無く、全身に支配者の気配を沁みつかせた彼は、どこまでも「上客」だった。
 まず、手付けを惜しまない。そして、室外でも室内でも態度は特に変わらない。強いて言うなら、最近室内の方では寛いだ様子を見せるようになった。後、少し物言いが柔らかくなる。
 面倒を見ているコーディ――見習いとして俺付きになっている少年とも、関係は良い。最近は菓子を手土産に持ってきさえする。一口大に切り分けられた飴、干果物などが入った焼き菓子、からっと塩味で炒ったものに砂糖の衣をまぶして冷ました豆類、素揚げのままだったり糖蜜が絡んでいたりする揚げ菓子――どれも手軽に食べられるような素朴なものだが、味はいつも間違いが無かった。……こういう生業をしていると嗜好品に類するものはあまり食べられないので、こちらにとっても魅力的な差し入れだ。そう、その菓子を三人で囲んで、軽く茶を飲んだりもするのだけれど、茶器のソーサーとカップが触れ合うとき、どんな時であれ全く音を立てさせない人間なんて初めてお目にかかった。その癖、閨の中では同業さながらの痴態と手管を見せてくる。それでいて、どれほど乱れていてもこちらから申し伝えた禁則事項は決して破らない。
 つまりは。こちらを決して持ち上げはしないけれど、一人の人間として尊重してくれるという意味で、上等な客だ。
 自分はちやほやされて特別喜ぶというたちでもないし、特に無茶を要求してくるわけでも無い楽な相手だ。なんとなし、僅かでもぞんざいな対応を避けたくなる、ある種の緊張感を伴うとはいえ。
 それで十分なのだ。なのに――。

 *

 部屋に戻って来たコーディが扉の近くで留まっているので、不思議に思って出向いてみれば、憤懣やるかたない、といった様子で扉の方を睨みつけているのとかち合った。
「どうしたの、そんなに毛を逆立てて」
 ばちん、と音がしそうな勢いで少年がこちらを向いて、かと思えば気まずそうに視線を逸らす。
「フレスノ、ちょっと外に出ない方が良い、かも」
「また何か言われたの?」
「おれ……僕じゃなくてその、エリスロ様の事を二階層の、人達が笑ってた」
 エリスロ――あの上客が名乗っている名前だ。彼には基本的に三階の、最上層の娼妓が割り当てられるのだが、確か一度だけ、二階層の誰だったかが相手をした記憶がある。
 三階層の男娼でも男を相手に抱くなど珍しいのに、二階層ともなればなおさらだろう、とは思うが。無意識の内に顰めそうになっていた顔を、意識して平常に保つ。
「コーディ。それは真似しちゃいけない、良い見本。私達はお客の前では疑似的な恋人で居なければならないし、そこから解放されたら気が抜けるものではある。ごく気心が知れた相手同士なら、多少は愚痴っても許されるだろう。お互い様だろうから。あるいは一人で、口に出して整理するのも良い。吐き出し口が全く無かったら潰れるから。ああ、何か趣味を持つのも良いね」
 一度言葉を切り、こっくりと肯いたのを確かめて、また口を開く。
「だけど、多数の人目が有り得るところでお客に限らず悪口だなんて、自分も同じ事をされて良いと舌で署名するようなもの。それは、いけない。何より、自分を落とす事になるんだ。いいね?」
 少年が、ゆっくりと目を瞬かせた。
「はい、フレスノ」
「うん。じゃあ、一休みする前に、今日は新しい帯の結び方でも教えようか」
 ゆっくりと踵を巡らせれば、着いてくる気配がある。見習いの部屋として使われている前間と本間を仕切っている衝立を越え、衣装棚へと足を進める。
「フレスノも、エリスロ様を抱いているの? あの方の時に僕を同席させないのは、娼妓として抱く側に回る方が少ないから?」
 背中に躊躇いがちに掛かった声に、少しだけ答えを躊躇った。
「抱いている。……その内、とは思っているよ。最初はほとんど無いだろうけど年を重ねたら、ご婦人を相手にする事も普通にあるだろうから」
 戸を開いて帯を幾つか吟味し、取り出す。羽織る衣は、白地に同色で刺繍が施された程度の、あまり主張の強くない物を選んだ。
「殿方で抱かれに来るというのはね、大体にして訳ありだ。……そら、その鏡に背中を向けて立って」
 言われた通りにした少年に衣を羽織らせ、首だけを振り返らせる。帯を選ばせ、動きが分かるようにゆっくりと手順を踏んで結んでは、解く。同じ物で、また別の結び方を見せる。それを繰り返す。

 ……言葉の端々から、弟が居てそちらが家督を継いだという程度は察していた。王が代替わりする際、世情はあれこれきな臭く、通常なら行われないような序列を飛ばしての家督継承はそこかしこで頻発していたから、その中のいずれかだろう。それにしても。
 口ぶりは穏やかだったから、きっとその弟との関係は悪くはないのだろう。しかし、所作の一つにまで修練の跡が滲んでみえるような、優秀な候補者だったのだろうと思わせるような、そんな人が家督を継げなかったのは、ここを訪れる理由が、きっと関わっている。
 お偉い人のお家状況など興味は無いが。それ以外を自分と比較したらキリがなかろうし、心も穏やかで済むとは限らないが。
 努力が報われない理不尽は生憎と、珍しくもないのは知ったうえで。それでもあの軌跡が浮かばれなかったのは、少し、気の毒だと思うし、此処にいる間くらいは安らげれば良いと、そう、願うのだ。優しくて、易しい客。そう区切った領域の境界を、自ら越えようとしている。

「フレスノ?」
「なあに? 気になるところでもあった?」
「いいえ。……僕、変な事、聞いた?」
 鏡越しに、視線は逸れている。どこか、後ろめたそうに。小さく笑って、頬を軽く抓んでから一撫でした。
「別に。じゃあ、最初に教えたやつから順番にやってごらん」
 思考を別の事に回していても、どんな結び方を教えたかは覚えている。途端に唸って帯を見やった見習いを見下ろして、今度こそそちらだけに注力する事にした。
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