失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第14章 想像できない未来に向けて

271:明るい未来を目前にして

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 ガリエルと中原を隔てるハーデンブルグの重厚な街壁の上で、多くの兵士達が身を乗り出し、食い入るように地上を見つめていた。彼らの視線の先には一昨年突如現れた巨大な「皿」が鎮座し、空に向かって虚無の咢を広げている。

 その「皿」の中心で、複数の人影が蠢いていた。遠目に見える人影は大きく二分され、一つは太陽の光を浴びて金属質に瞬き、もう一つは茶色一色に覆われている。特に茶色は服のように体の一部ではなく、その人物の全身を覆い尽くしていた。

 街壁の上の兵士達は、その、銀と茶色が蠢くさまを、飽きもせず目を凝らして追い続けていた。それは、彼らにとって初めて見る光景だった。銀と茶が争うわけでもなく、赤い血が舞うわけでもなく、ただ隣に居て、ジョッキを傾けている。確かに何処かぎこちない所はある。特に銀色の群れは、その傾向が顕著だ。だが二色の群れは互いに相手を排他する事なくその存在を受け入れ、地面に座り込んで、時折リュートの音と太鼓に似た雄叫びが流れる中で、思い思いに飲み食いを続けていた。

 中央街門の真上で兵士達に混ざり、その光景を見ている一人の男が、目を釘付けにしたまま口を開いた。

「…まるで夢のようだ…」
「ええ」

 心ここにあらずといったマティアスの呟きに、ニコラウスが応える。マティアスの独語が続く。

「我々は、不倶戴天の敵同士だった。互いの存在を認めず、女子供に至るまで一頭残らずことごとく殺すべき相手と教えられ、それを疑う事なく、実践してきた。それは、私だけではない。父上も、祖父も、当家に属する者は勿論、この中原という世界が歴史に登場して以降、そこに生きる者全てがそう教えられ、そう信じ、殺し続けてきたのだ」
「はい」

 そう呟いたマティアスの、縁石を掴む指に力が入り、震えている。

「…それを、あの方は、たった一人で、たった一日で、くつがえした。彼らは不倶戴天の敵ではないと、決して相容れない存在ではないと、一瞬で証明してみせた。これまで血みどろの争いを繰り広げてきた自分達の行為が馬鹿らしく思えるほど、『母親』が、あっさりと証明してみせた…」
「はい」

 そのまま二人は黙って地上を眺めていたが、やがてマティアスが縁石の上に両腕を置き、その上に頭を乗せてうつ伏すような態勢で、ボヤキを入れる。

「…乳離れは、とうの昔に済ませたつもりだったんだがな…」
「たまにはアデーレ様に甘えたら如何です?」
「いいよ、もう。そっちは」

 ニコラウスの茶化しに、マティアスは縁石に頭を乗せて人影を見つめたまま、身じろぎで答える。

 そうして二人は街壁に居並ぶ兵士達とともに、眼下で繰り広げられる宴をじっと眺めていた。



 ***

 宴は、そう長くは続かなかった。2時間ほどが経過し、美香が周囲を見渡して目ぼしい食べ物と飲み物が空になったのを認めると、静かに宣言する。

「…今日は、こんな所かな」

 美香の呟きを聞いた騎士達が顔を赤くしたまま襟を正し、その空気を察したのか、ハヌマーン達も居住まいを正す。騎士とハヌマーン、双方の視線を一身に受け、美香は木箱から腰を上げると薄っすらと頬を赤くしたまま、ハヌマーンに向かって微笑んだ。

「じゃあ、みんな、今日は来てくれてありがとう。また来年、ゴマちゃんにもよろしくね?」
「◇〇&& ▽\%%□# ++%〇 *□ @$$\ サーリア〇$!」

 美香の言葉を受け、頭部に傷のある、供回りのハヌマーンが頷きを繰り返し、身振り手振りで何かを伝えようとする。やがて、ハヌマーンの両掌が上を向き、何かを押し戴くような態勢で頭を下げるのを認めた美香は、快く応じた。

「あ、うん、ちょっと待ってね」

 すかさずレティシアが小物入れから小刀と細い紐を取り出し、美香に差し出す。美香は小刀を受け取ると、己の左の首筋に添え、左耳の後ろから生える一房の髪を摘まんで切り払った。

「…はい、どうぞ」
「□×○○$% サーリア〇$!」

 紐に結わえられた黒い一房を受け取ったハヌマーンは、両手で房を掲げ、繰り返し頭を下げる。美香はもう一度頷き、目の前で跪く供回りのハヌマーンに右手を差し出した。

「それじゃ、またね。気を付けて帰ってね」

 供回りのハヌマーンは美香の右手を恭しく押し戴くと、その手の甲に顔を寄せてそっと歯を立てる。そして、背後に並ぶハヌマーン達とともに立ち上がると、美香に笑みを浮かべ、大きく頷いた。

「□$$×△ **〇□&▽$ サーリア〇$ □〇\\% ▽*」
「うん、バイバイ。またね」

 供回りのハヌマーンは、去り際にもう一度美香に頷くと、踵を返し、西へと歩いて行く。美香は、ハヌマーン達が「皿」の縁を乗り越え、その姿が隠れるまで、彼らの背中に向かって手を振り続けていた。



「…」

 ハヌマーンの背中が見えなくなると、美香は手を下ろし、暫くの間、誰も居なくなった「皿」の縁を眺める。やがて彼女は振り返ると、傍らに佇むオズワルドの名を呼んだ。

「…オズワルドさん」
「どうした?ミカ」

 美香は、オズワルドの目を真っすぐに見て、口を開く。



「――― 今後、私の髪は、全てハーデンブルグに保管しておいて下さい」



「…仰せのままに、陛下」
「「「はっ!」」」

 美香の真剣な眼差しを受け、オズワルドは言葉を改め、右拳を左胸に当てて一礼する。その言葉を聞いた騎士達も姿勢を正し、厳粛な面持ちで一礼した。



 こうして、歴史に名高い「交髪こうはつの宴」が、繰り返されるようになる。

 毎年ロザリアの第2月10日、ハーデンブルグに決まってハヌマーンが現れ、人族と酒を酌み交わすと、そのままガリエルの地へと戻って行く。そのハヌマーンの中に再びゴマちゃんが姿を現す事はなく、やがてハヌマーンから手渡される毛の房も純白から茶色へと変化したが、ハヌマーンは必ず紐に結わえた一房の毛を携え、去り際に人族へと手渡した。それに対し人族も、最初の頃は美香が直接自らの髪を切り取ってハヌマーンへと手渡し、やがて美香が宴に参加しなくなった後は、宴に参加した人族が紐に結わえた艶やかな黒髪の房をハヌマーンへと手渡した。

 そうして両種族の間で行われる宴は代々受け継がれ、この宴が続く限り、ついにただの一度も、ハヌマーンが中原へと攻め入る事はなかったのである。



「「「万歳!万歳!」」」
「「「聖母ミカ様、地母神様、万歳!」」」

 美香が中央街門を抜けて街中へと戻って来ると、周囲はおろか、街壁の上からも割れんばかりの歓喜の声が降り注いだ。人々は飛び上がって喜び、そこかしこで花びらが舞う。あちらこちらで酒が振る舞われ、感謝祭の如きどんちゃん騒ぎが始まる中、街壁から駆け下りてきたマティアス、そしてアデーレとヘルムートが美香の前に跪いた。

「陛下。この度の陛下のご偉業、此処ハーデンブルグに住む者は勿論、中原に生きる全ての者が、終生忘れることはございません。我々人族は悠久とも言える長い間、ハヌマーンと剣を交えて参りました。彼らとは、いずれかの血が枯れるまで決して安らぐ日が来る事はないと信じ、苦しみと悲しみを胸に、歯を食いしばって生きてきたのです。
 ですが、陛下は今日、それが誤りであったと、身をもって証明して下さいました。我々は血を見なくとも、血を流さなくとも、生きていく事ができる。彼らといがみ合う必要もなく、憎悪や悲しみを胸に抱く事もなく、毎日を送ることができる。それを証明して下さいました。我々ハーデンブルグの民にとって、これ以上の祝福は他にございません!このマティアス・フォン・ディークマイアー、北辺の民を代表し、心より感謝申し上げます!」

 美香に対してこうべを垂れたまま、声を震わせるマティアスの背後で、騎士達も一斉に跪き、首を垂れた。

 美香は目の前に広がる多彩な頭髪を見渡し、口を開く。

「…マティアス様、皆様、頭をお上げ下さい」
「「「はっ!」」」

 跪いたまま一斉に顔を上げたマティアス達に、美香は笑みを浮かべ、静かに答える。

「今日という日は、全ての終わりではなく、ささやかな第一歩です。これから私達は彼らと、地道に辛抱強く、対話を続けていかなければなりません。それには、此処ハーデンブルグの皆様のお力添えが不可欠です。どうかご自身の子のため孫のため、私に力をお貸し下さい」
「はっ!子々孫々に至るまで、必ずや!」

 宙を舞う花吹雪と絶え間なく湧き上がる歓声の中で、マティアスと騎士達が再び勢い良く首を垂れた。



 こうしてロザリアの第2月13日、3日間にも渡るお祭り騒ぎを経て、美香達はハーデンブルグを出立し、ヴェルツブルグへの帰途に就いた。美香は再び馬車の中から手を振り、沿道に並ぶ市民達の歓声に笑顔で応えながら、1ヶ月をかけてラディナ湖東岸を貫く北街道を南下する。

 足掛け3ヶ月に渡る美香の巡幸は成功裏に終わり、ヴェルツブルグへと帰着した美香を人々は歓呼の声を上げて迎え入れた。そして翌ロザリアの第4月、素質の無い新たな世界に向けて足を踏み出そうとした美香達を ―――



 ――― 何の前触れもなく、突如、絶望が襲い掛かった。



 ***

「…嘘でしょ?あなた、嘘だと言って?」

 アデーレはその場に立ち尽くし、蒼白な顔で声を震わせて縋るように尋ねる。一縷の望みを託した問いは、夫の苦渋に満ちた言葉に遮られ、無残にも打ち砕かれた。



「――― カラディナ、セント=ヌーヴェルの両教会がミカを魔族と断定し、聖王国に対する『東滅とうめつ』が宣言された」
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