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第15章 巡り廻って
273:一縷の望み
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ロザリアの第3月13日。カラディナ北部要衝の都市ラ・セリエは、「東滅」の檄に沸いていた。
人々は、長く連絡の途絶えていた隣国の「実情」に衝撃を受け、中原三大国の筆頭とも言えるエーデルシュタインを襲った不幸を嘆き、人々の心を踏みにじり死と悲痛を撒き散らした「コジョウ・ミカ」に怒り、誅伐を求めた。人々は次々に東滅軍への参加を表明し、兵士やハンターは勿論、一般市民であっても腕の立つ者であれば義勇兵へと組み入れられ、そうではない者も自らの蓄えや農産物から幾ばくかの物資を捻出し、軍へと寄贈していった。
その様な活況に溢れる、まるで感謝祭にも似た些か浮ついた空気の漂う街の中を、二人の男女が歩いていた。途中、健康美に溢れる若い女が横を向き、日を追うごとに精悍さを増す男の横顔を見ながら尋ねる。
「ねぇ、アイン。何で教会が、わざわざあんたを名指しで呼び出して来るわけ?」
女に問い掛けられた男は、前を向いたまま顎に手を当て、口を酸っぱそうに歪めながら答えた。
「わからんけど…あの人絡みかなぁ、やっぱ…」
「ふーん、良かったわねぇ、美人なお姉様に気に入られて」
「お、俺は別にそんな事、思ってないから!」
恋人の声の抑揚にアインは慌てて弁解するが、ミリーは反対側を向いたまま顔を合わせようとしない。そのまま何の反応も示さなくなったミリーに、アインは不貞腐れた表情を浮かべると、二人は並んで教会へと歩いて行った。
二人はやがて、街の一角にある、壮麗な建物の中へと入って行く。アインは、入口の近くで清掃をしていた一人の修道女に声を掛けた。
「すいませーん。俺はアインと言う者ですが、教会からこちらに来て欲しいと言われて…」
「あ!アイン様でいらっしゃいますね!?少々お待ち下さい!」
修道女は勢い良く顔を上げ、アインの顔を見て笑顔を見せると、二人をその場に待たせて教会の奥へと小走りで駆け込む。残された二人は、修道女の消えた奥の扉を眺めながら呟いた。
「…何?アレ…」
「さぁ…」
そのまま数分の間棒立ちしていた二人だったが、奥の扉が開いて再び修道女が戻って来る。彼女は些か乱れた息を整えながら、弾むような声で二人を誘った。
「お待たせいたしました、アイン様!これより、奥へとご案内させていただきます!」
***
アインとミリーは、先導する修道女を追って、教会の奥へと歩いて行く。途中、すれ違う修道女達が皆通路を空け、畏まったお辞儀を繰り返すたびに、最後尾を歩くミリーの口先がどんどん窄まっていく。
三人はやがて突き当りにある荘重な扉の前に立つと、修道女が扉をノックし、声を上げた。
「失礼します。アイン様をお連れいたしました」
「どうぞ、お入り下さい」
中から艶のある美しい声色で応えがあり、修道女が扉を開ける。部屋に入った二人は、視界に飛び込んできた光景に目を奪われ、思わずその場に立ち尽くした。
部屋の中は質の良い調度品が上品に配置され、部屋全体が一つの芸術作品のように、綺麗に纏まっていた。過度な華やかさはなく、全ての家具が調和したかのようにその空間に馴染み、人工物に囲まれていながら、まるで緑豊かな湖畔に居るような落ち着いた雰囲気を醸し出している。本来であれば一介のハンター如きが入室できるはずもない貴賓室を目の当たりにして、二人が立ち尽くしていると、部屋の中央に佇む一人の女性が親愛に満ちた笑顔を浮かべ、アインに語り掛けた。
「アイン様、ようこそおいで下さいました。どうぞ、お座り下さい」
ミリーは女性の姿を目にすると、思わず口を窄め、内心で毒づいた。
何、このオバさん。無理しちゃってさ。
ミリーの悪態が僻みとしか思えないほど、女性は輝いていた。
長く美しい髪は、後頭部で結い上げてもなお肩まで緩やかなウェーブを描き、まるでベールのように背後を飾り立てる。白を基調とした祭服は彼女のアレンジによってドレスのように変貌し、淑やかさを保ちながら、均整の取れた彼女の姿態を際立たせていた。40代とは思えないきめ細やかな肌には染み一つ無く、その美貌は刃物を思わせる鋭さを漂わせていたが、その刃物に不釣り合いな頬の赤みと潤んだ目、歓びを抑えきれない微笑みが、常日頃の彼女であれば決して見せない、隙のある蠱惑的な魅力を引き出している。
いわば倦怠期を迎えた夫や、成人を迎えた息子が夢見る、理想の40代の妻や母の姿が、現れていた。
「…アイン様?」
「…あ、いや、すみません。それでは失礼します」
アインは女性の姿を見てしばし動きを止めていたが、女性が小首を傾げると慌てて言い繕い、指し示されたソファに腰を下ろす。そのアインの挙動を見た女性は、嬉しそうに頷くと身を翻し、背後に置かれたティーポットに手を伸ばした。
「少しお待ちになられて?お口に合うと、嬉しいのですけれど…」
「あ、いえ、お構いなく…ぁ痛ってぇ」
二人に背を向け、琥珀色の液体を注ぐジャクリーヌの無防備な後姿に見惚れていたアインだったが、その脇腹にミリーの肘が突き刺さる。ジャクリーヌはティーカップに流れ込む滝から目を離さないまま、鼻唄を堪えるような笑みを浮かべ、しなやかな仕草で二人の前にティーカップを並べる。そしてミリーの前に数切れの焼き菓子を載せた小皿を差し出し、微笑んだ。
「ミリーさん、だったかしら?よろしければ、こちらもどうぞ」
「…あ、ありがとうございます、猊下」
ジャクリーヌから示された予想外の好意にミリーは慌てながら応じ、興味本位で焼き菓子に手を伸ばす。焼き菓子は口の中で軽やかに割れ、控えめな甘みが口内に広がった。
「…美味しい…」
「良かったわ、ミリーさん。遠慮なく召し上がれ」
初めて食べるクッキーの美味しさにミリーは目を瞠り、頬を綻ばせる。一方のアインは上品すぎる紅茶の味が分からず、口をつけた状態で目を白黒させていたが、やがてカップをテーブルに置くと、口を開いた。
「猊下、先日はすみませんでした。まさか枢機卿ほどの高位の方とは、思わなかったもので…」
「いえ、お気になさらないで下さい、アイン様。あの緊急時でございましたから」
無作法に頭を下げるアインに、ジャクリーヌは笑顔で答える。そして彼女は身を乗り出すと、豊かな胸に手を添え、下から覗き込むような格好でアインを見上げ、訴えた。
「それとアイン様、そのような堅苦しい敬称で呼ばないで下さい。どうか私の事は遠慮なく、ジャクリーヌと」
「あ、えっと、じゃぁ、ジャクリーヌさん…」
途端、アインの隣でクッキーを噛み砕く音が鳴り響き、アインの背筋が凍る。一方のジャクリーヌは、名前の後ろに敬称を付けたアインの目を見つめたまま、拗ねた表情を浮かべた。アインは、ジャクリーヌの百面相に内心で狼狽えながら、話題を転じる。
「と、ところで、ジャクリーヌさん、今日俺を呼んだのは、一体どういう事で…?」
「ええ…」
アインの話題転換に、ジャクリーヌは表情を改める。彼女は身を起こしてソファに座り直すと、自分の膝の上に置いた手を見つめながら、沈痛な面持ちで願いを口にした。
「此度の『東滅』の役において、是非ともアイン様に助けて欲しい事があるのです…」
「…え?わざわざ、俺に?」
「はい…」
思いもよらない言葉に、アインは自分の顔を指差しながら、目を瞬かせる。ジャクリーヌは膝の上の手を見つめながら頷き、俯いたまま言葉を続けた。
「アイン様もご存じの通り、エーデルシュタインを乗っ取ったコジョウ・ミカは、退廃と死の権化とも言うべき、邪悪な存在です。千年にも及ぶ由緒ある王家を失った彼の地では人々は絶望に塗れ、今もなお、あの女の快楽と非道のために、多くの民が血を流しています。
このままでは彼の地はおろか、三大国の一角を喪った中原は、ガリエルとの戦いに敗れ、滅亡してしまいます。事態が手遅れにならないためにも、一刻も早く東滅の軍を興し、あの女の軛からエーデルシュタインを解放しなければ、なりません」
「ええ、ジャクリーヌさんの言う通りです」
ジャクリーヌの言葉を聞いたアインは心底同意し、相槌を打つ。
教会とカラディナ政府から伝わってくる「コジョウ・ミカ」は、同じ人族とは思えないほど、醜悪だった。外見は純真無垢な少女の姿をしていながらその全身は血と精に塗れ、淫らな姿を無数の人々の前で臆面もなく曝け出し、誰彼構わず男達の精を求める。それどころか、ハヌマーンを引き入れるために、あのおぞましい魔物とさえまぐわっていると言うのだ。
その様な醜悪な者が、魔族以外の何者だと言うのだろうか。今もなお、その圧政の下で人々が苦しみ続けていると聞き、憤りを感じているアインの耳に、ジャクリーヌの沈痛な声が響く。
「…ですが、あの女は、凶悪極まりない『ロザリアの槍』の使い手。あの魔法の前では、如何な大軍を率いようとも、全くの無意味。風に舞う木の葉のように、蹴散らされる事でしょう」
「…」
ジャクリーヌの言葉が、アインの胸に突き刺さる。アインは胸の痛みに顔を顰めながら、年初の出来事を思い出す。
それは、決して忘れることのできない悪夢。自分達の頭上を飛び越え、嘲りと共に連合軍の戦意を根こそぎ刈り取った、絶対的な恐怖。「東滅」の成功は、「ロザリアの槍」への備えに係っていると言っても、過言ではない。
…だが、アレに備える方法など、あり得るのか?
腕を組んで難しい表情を浮かべ、脳内を空転させるアイン。だがそこに、抑えきれない感情の籠ったジャクリーヌの声が聞こえてきた。
「――― ですが、アイン様。あなたなら、倒せます」
「…え?」
「ちょ、ちょっと、ジャクリーヌ様!?」
ジャクリーヌの言葉に、アインの脳内で繰り広げられていたサーキットが玉突き事故を起こし、ミリーが思わず腰を浮かす。顔を上げたアインの前で、ジャクリーヌが頬を染め、恋焦がれた男に思いの丈を伝える少女のように、訴えかけてくる。
「アイン様、あなたは、敵中を一陣の風のように駆け抜け、局地的ではありますが何人にも防ぎようのない破壊力をお持ちです。私達が囮となり、活路を見い出します。東滅に参加する兵士達は勿論、カラディナ、セント=ヌーヴェル、南部小国家群、そしてロザリア教会。全てがあなたのために囮となり、あの女を誘き出しましょう。そこにあなたが単身『疾風』で斬り込み、『雷を司る者』で覆滅する。中原を救うには、それしか方法がありません」
「そんなっ!?ジャクリーヌ様、無茶です!」
「…」
突拍子もない話に、ミリーが思わず立ち上がって声を荒げる。だがジャクリーヌはミリーの否定に構わず、胸元で両手を組み、一心不乱でアインの顔を見つめていた。ジャクリーヌの視線の先で、アインは両腕を組み、しかめ面でテーブルの隅の模様を眺めている。
やがて、アインが顔を上げ、ジャクリーヌの目を見て重々しく口を開く。
「…ジャクリーヌさん、本当に、それしか方法がないんですか?」
「ございません」
「…この戦いに勝たねば、中原が滅びると?」
「その通りです」
「…わかりました」
「アイン!?」
アインの返事を聞き、ミリーが悲鳴を上げる。アインは顔を上げ、悲痛な表情を浮かべる恋人に向かって、宥めるように、諭すように、語り掛けた。
「ミリー、やるかやらないか、じゃないんだ。誰かがやらなければ、ならないんだ。俺は、自分がやらなければならない事を放り投げるほど、無責任な男じゃない」
「…で、でも、でもっ!」
「大丈夫だ、ミリー。俺は必ず帰って来る。きっとコジョウ・ミカを打ち倒し、無事な姿で君の許に戻って来る。そう言って、今まで俺が帰って来なかった事があるか?」
「…バカ」
アインの隣で仁王立ちし、拳を握りしめたまま戦慄いていたミリーだったが、男の頑なな言葉の前に力なく俯いてしまう。その顔は薄っすらと赤味が射し、小さく震えていた。アインは俯いたまま震える恋人の姿を穏やかな表情で眺めていたが、その右手が掴まれ、滑らかな心地良い肌の温もりに覆われる。
「アイン様!」
「ジャクリーヌさん?」
アインが手を取られた方向を見ると、ジャクリーヌが喜色を露わにして、身を乗り出していた。彼女は、アインの右手を両手で掴んで豊かな胸元に引き寄せ、まるで初恋を実らせた少女の様に、その顔は歓喜に溢れている。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
「ジャ、ジャクリーヌさん、落ち着いて!?」
ジャクリーヌがアインの右手を掴んだままソファの上で子供の様にはしゃぎ、波打つ胸の感触がアインの指先に伝わる。ジャクリーヌはアインの挙動不審の理由に思い至ると、頬を染めつつ微笑み、そのまま自分の両手を豊かな胸に押し当てた。アインの右手が、ジャクリーヌの胸の狭間に沈み込む。
「ジャ、ジャクリーヌさん!?」
「ちょっと、ジャクリーヌ様!」
「アイン様」
自分の首筋に降り注ぐ氷点下の息吹にアインが狼狽えていると、突如ジャクリーヌの声に緊張が走る。彼女は、張り詰めた空気の中で動きを止めた二人の前で、アインの右手を胸の谷間に沈めたまま、彼の目を見て高らかに宣言した。
「――― アイン様、ロザリア教会は、あなた様に『勇者』の称号を授けます。ロザリア様の正義は、常にあなた様の許に」
人々は、長く連絡の途絶えていた隣国の「実情」に衝撃を受け、中原三大国の筆頭とも言えるエーデルシュタインを襲った不幸を嘆き、人々の心を踏みにじり死と悲痛を撒き散らした「コジョウ・ミカ」に怒り、誅伐を求めた。人々は次々に東滅軍への参加を表明し、兵士やハンターは勿論、一般市民であっても腕の立つ者であれば義勇兵へと組み入れられ、そうではない者も自らの蓄えや農産物から幾ばくかの物資を捻出し、軍へと寄贈していった。
その様な活況に溢れる、まるで感謝祭にも似た些か浮ついた空気の漂う街の中を、二人の男女が歩いていた。途中、健康美に溢れる若い女が横を向き、日を追うごとに精悍さを増す男の横顔を見ながら尋ねる。
「ねぇ、アイン。何で教会が、わざわざあんたを名指しで呼び出して来るわけ?」
女に問い掛けられた男は、前を向いたまま顎に手を当て、口を酸っぱそうに歪めながら答えた。
「わからんけど…あの人絡みかなぁ、やっぱ…」
「ふーん、良かったわねぇ、美人なお姉様に気に入られて」
「お、俺は別にそんな事、思ってないから!」
恋人の声の抑揚にアインは慌てて弁解するが、ミリーは反対側を向いたまま顔を合わせようとしない。そのまま何の反応も示さなくなったミリーに、アインは不貞腐れた表情を浮かべると、二人は並んで教会へと歩いて行った。
二人はやがて、街の一角にある、壮麗な建物の中へと入って行く。アインは、入口の近くで清掃をしていた一人の修道女に声を掛けた。
「すいませーん。俺はアインと言う者ですが、教会からこちらに来て欲しいと言われて…」
「あ!アイン様でいらっしゃいますね!?少々お待ち下さい!」
修道女は勢い良く顔を上げ、アインの顔を見て笑顔を見せると、二人をその場に待たせて教会の奥へと小走りで駆け込む。残された二人は、修道女の消えた奥の扉を眺めながら呟いた。
「…何?アレ…」
「さぁ…」
そのまま数分の間棒立ちしていた二人だったが、奥の扉が開いて再び修道女が戻って来る。彼女は些か乱れた息を整えながら、弾むような声で二人を誘った。
「お待たせいたしました、アイン様!これより、奥へとご案内させていただきます!」
***
アインとミリーは、先導する修道女を追って、教会の奥へと歩いて行く。途中、すれ違う修道女達が皆通路を空け、畏まったお辞儀を繰り返すたびに、最後尾を歩くミリーの口先がどんどん窄まっていく。
三人はやがて突き当りにある荘重な扉の前に立つと、修道女が扉をノックし、声を上げた。
「失礼します。アイン様をお連れいたしました」
「どうぞ、お入り下さい」
中から艶のある美しい声色で応えがあり、修道女が扉を開ける。部屋に入った二人は、視界に飛び込んできた光景に目を奪われ、思わずその場に立ち尽くした。
部屋の中は質の良い調度品が上品に配置され、部屋全体が一つの芸術作品のように、綺麗に纏まっていた。過度な華やかさはなく、全ての家具が調和したかのようにその空間に馴染み、人工物に囲まれていながら、まるで緑豊かな湖畔に居るような落ち着いた雰囲気を醸し出している。本来であれば一介のハンター如きが入室できるはずもない貴賓室を目の当たりにして、二人が立ち尽くしていると、部屋の中央に佇む一人の女性が親愛に満ちた笑顔を浮かべ、アインに語り掛けた。
「アイン様、ようこそおいで下さいました。どうぞ、お座り下さい」
ミリーは女性の姿を目にすると、思わず口を窄め、内心で毒づいた。
何、このオバさん。無理しちゃってさ。
ミリーの悪態が僻みとしか思えないほど、女性は輝いていた。
長く美しい髪は、後頭部で結い上げてもなお肩まで緩やかなウェーブを描き、まるでベールのように背後を飾り立てる。白を基調とした祭服は彼女のアレンジによってドレスのように変貌し、淑やかさを保ちながら、均整の取れた彼女の姿態を際立たせていた。40代とは思えないきめ細やかな肌には染み一つ無く、その美貌は刃物を思わせる鋭さを漂わせていたが、その刃物に不釣り合いな頬の赤みと潤んだ目、歓びを抑えきれない微笑みが、常日頃の彼女であれば決して見せない、隙のある蠱惑的な魅力を引き出している。
いわば倦怠期を迎えた夫や、成人を迎えた息子が夢見る、理想の40代の妻や母の姿が、現れていた。
「…アイン様?」
「…あ、いや、すみません。それでは失礼します」
アインは女性の姿を見てしばし動きを止めていたが、女性が小首を傾げると慌てて言い繕い、指し示されたソファに腰を下ろす。そのアインの挙動を見た女性は、嬉しそうに頷くと身を翻し、背後に置かれたティーポットに手を伸ばした。
「少しお待ちになられて?お口に合うと、嬉しいのですけれど…」
「あ、いえ、お構いなく…ぁ痛ってぇ」
二人に背を向け、琥珀色の液体を注ぐジャクリーヌの無防備な後姿に見惚れていたアインだったが、その脇腹にミリーの肘が突き刺さる。ジャクリーヌはティーカップに流れ込む滝から目を離さないまま、鼻唄を堪えるような笑みを浮かべ、しなやかな仕草で二人の前にティーカップを並べる。そしてミリーの前に数切れの焼き菓子を載せた小皿を差し出し、微笑んだ。
「ミリーさん、だったかしら?よろしければ、こちらもどうぞ」
「…あ、ありがとうございます、猊下」
ジャクリーヌから示された予想外の好意にミリーは慌てながら応じ、興味本位で焼き菓子に手を伸ばす。焼き菓子は口の中で軽やかに割れ、控えめな甘みが口内に広がった。
「…美味しい…」
「良かったわ、ミリーさん。遠慮なく召し上がれ」
初めて食べるクッキーの美味しさにミリーは目を瞠り、頬を綻ばせる。一方のアインは上品すぎる紅茶の味が分からず、口をつけた状態で目を白黒させていたが、やがてカップをテーブルに置くと、口を開いた。
「猊下、先日はすみませんでした。まさか枢機卿ほどの高位の方とは、思わなかったもので…」
「いえ、お気になさらないで下さい、アイン様。あの緊急時でございましたから」
無作法に頭を下げるアインに、ジャクリーヌは笑顔で答える。そして彼女は身を乗り出すと、豊かな胸に手を添え、下から覗き込むような格好でアインを見上げ、訴えた。
「それとアイン様、そのような堅苦しい敬称で呼ばないで下さい。どうか私の事は遠慮なく、ジャクリーヌと」
「あ、えっと、じゃぁ、ジャクリーヌさん…」
途端、アインの隣でクッキーを噛み砕く音が鳴り響き、アインの背筋が凍る。一方のジャクリーヌは、名前の後ろに敬称を付けたアインの目を見つめたまま、拗ねた表情を浮かべた。アインは、ジャクリーヌの百面相に内心で狼狽えながら、話題を転じる。
「と、ところで、ジャクリーヌさん、今日俺を呼んだのは、一体どういう事で…?」
「ええ…」
アインの話題転換に、ジャクリーヌは表情を改める。彼女は身を起こしてソファに座り直すと、自分の膝の上に置いた手を見つめながら、沈痛な面持ちで願いを口にした。
「此度の『東滅』の役において、是非ともアイン様に助けて欲しい事があるのです…」
「…え?わざわざ、俺に?」
「はい…」
思いもよらない言葉に、アインは自分の顔を指差しながら、目を瞬かせる。ジャクリーヌは膝の上の手を見つめながら頷き、俯いたまま言葉を続けた。
「アイン様もご存じの通り、エーデルシュタインを乗っ取ったコジョウ・ミカは、退廃と死の権化とも言うべき、邪悪な存在です。千年にも及ぶ由緒ある王家を失った彼の地では人々は絶望に塗れ、今もなお、あの女の快楽と非道のために、多くの民が血を流しています。
このままでは彼の地はおろか、三大国の一角を喪った中原は、ガリエルとの戦いに敗れ、滅亡してしまいます。事態が手遅れにならないためにも、一刻も早く東滅の軍を興し、あの女の軛からエーデルシュタインを解放しなければ、なりません」
「ええ、ジャクリーヌさんの言う通りです」
ジャクリーヌの言葉を聞いたアインは心底同意し、相槌を打つ。
教会とカラディナ政府から伝わってくる「コジョウ・ミカ」は、同じ人族とは思えないほど、醜悪だった。外見は純真無垢な少女の姿をしていながらその全身は血と精に塗れ、淫らな姿を無数の人々の前で臆面もなく曝け出し、誰彼構わず男達の精を求める。それどころか、ハヌマーンを引き入れるために、あのおぞましい魔物とさえまぐわっていると言うのだ。
その様な醜悪な者が、魔族以外の何者だと言うのだろうか。今もなお、その圧政の下で人々が苦しみ続けていると聞き、憤りを感じているアインの耳に、ジャクリーヌの沈痛な声が響く。
「…ですが、あの女は、凶悪極まりない『ロザリアの槍』の使い手。あの魔法の前では、如何な大軍を率いようとも、全くの無意味。風に舞う木の葉のように、蹴散らされる事でしょう」
「…」
ジャクリーヌの言葉が、アインの胸に突き刺さる。アインは胸の痛みに顔を顰めながら、年初の出来事を思い出す。
それは、決して忘れることのできない悪夢。自分達の頭上を飛び越え、嘲りと共に連合軍の戦意を根こそぎ刈り取った、絶対的な恐怖。「東滅」の成功は、「ロザリアの槍」への備えに係っていると言っても、過言ではない。
…だが、アレに備える方法など、あり得るのか?
腕を組んで難しい表情を浮かべ、脳内を空転させるアイン。だがそこに、抑えきれない感情の籠ったジャクリーヌの声が聞こえてきた。
「――― ですが、アイン様。あなたなら、倒せます」
「…え?」
「ちょ、ちょっと、ジャクリーヌ様!?」
ジャクリーヌの言葉に、アインの脳内で繰り広げられていたサーキットが玉突き事故を起こし、ミリーが思わず腰を浮かす。顔を上げたアインの前で、ジャクリーヌが頬を染め、恋焦がれた男に思いの丈を伝える少女のように、訴えかけてくる。
「アイン様、あなたは、敵中を一陣の風のように駆け抜け、局地的ではありますが何人にも防ぎようのない破壊力をお持ちです。私達が囮となり、活路を見い出します。東滅に参加する兵士達は勿論、カラディナ、セント=ヌーヴェル、南部小国家群、そしてロザリア教会。全てがあなたのために囮となり、あの女を誘き出しましょう。そこにあなたが単身『疾風』で斬り込み、『雷を司る者』で覆滅する。中原を救うには、それしか方法がありません」
「そんなっ!?ジャクリーヌ様、無茶です!」
「…」
突拍子もない話に、ミリーが思わず立ち上がって声を荒げる。だがジャクリーヌはミリーの否定に構わず、胸元で両手を組み、一心不乱でアインの顔を見つめていた。ジャクリーヌの視線の先で、アインは両腕を組み、しかめ面でテーブルの隅の模様を眺めている。
やがて、アインが顔を上げ、ジャクリーヌの目を見て重々しく口を開く。
「…ジャクリーヌさん、本当に、それしか方法がないんですか?」
「ございません」
「…この戦いに勝たねば、中原が滅びると?」
「その通りです」
「…わかりました」
「アイン!?」
アインの返事を聞き、ミリーが悲鳴を上げる。アインは顔を上げ、悲痛な表情を浮かべる恋人に向かって、宥めるように、諭すように、語り掛けた。
「ミリー、やるかやらないか、じゃないんだ。誰かがやらなければ、ならないんだ。俺は、自分がやらなければならない事を放り投げるほど、無責任な男じゃない」
「…で、でも、でもっ!」
「大丈夫だ、ミリー。俺は必ず帰って来る。きっとコジョウ・ミカを打ち倒し、無事な姿で君の許に戻って来る。そう言って、今まで俺が帰って来なかった事があるか?」
「…バカ」
アインの隣で仁王立ちし、拳を握りしめたまま戦慄いていたミリーだったが、男の頑なな言葉の前に力なく俯いてしまう。その顔は薄っすらと赤味が射し、小さく震えていた。アインは俯いたまま震える恋人の姿を穏やかな表情で眺めていたが、その右手が掴まれ、滑らかな心地良い肌の温もりに覆われる。
「アイン様!」
「ジャクリーヌさん?」
アインが手を取られた方向を見ると、ジャクリーヌが喜色を露わにして、身を乗り出していた。彼女は、アインの右手を両手で掴んで豊かな胸元に引き寄せ、まるで初恋を実らせた少女の様に、その顔は歓喜に溢れている。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
「ジャ、ジャクリーヌさん、落ち着いて!?」
ジャクリーヌがアインの右手を掴んだままソファの上で子供の様にはしゃぎ、波打つ胸の感触がアインの指先に伝わる。ジャクリーヌはアインの挙動不審の理由に思い至ると、頬を染めつつ微笑み、そのまま自分の両手を豊かな胸に押し当てた。アインの右手が、ジャクリーヌの胸の狭間に沈み込む。
「ジャ、ジャクリーヌさん!?」
「ちょっと、ジャクリーヌ様!」
「アイン様」
自分の首筋に降り注ぐ氷点下の息吹にアインが狼狽えていると、突如ジャクリーヌの声に緊張が走る。彼女は、張り詰めた空気の中で動きを止めた二人の前で、アインの右手を胸の谷間に沈めたまま、彼の目を見て高らかに宣言した。
「――― アイン様、ロザリア教会は、あなた様に『勇者』の称号を授けます。ロザリア様の正義は、常にあなた様の許に」
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