失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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最終章 愛しています。

最終話:愛しています。

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「…え?コレットさん、あなたも生きてたんですか?」

 カラディナ視察団の一員としてモノの森を訪れたフルールは、出迎えに来たエルフ達の中にコレットの姿を認め、目を瞬かせる。それに対し、コレットは傍らにリアナを纏わりつかせたまま頭を掻き、まるで友人を自宅に招き入れるようなラフな態度で答えた。

「何だい、フルール。アンタも来たのかい?」
「私も手に職が無くなってしまいますから…。それよりコレットさん、あなた、こんな所で何をしているんですか?」
「居候だよ。色々としがらみができちまってさ。此処に骨を埋めようかなって」
「柵だなんて言葉を濁さなくても、私との運命の出会いと、はっきり言って下されば好いのに、お姉様!」
「…」

 コレットの台詞を聞いたリアナが腕にしがみ付き、嬉しそうな表情で豊かな胸に頬ずりをする。頬を染めそっぽを向くコレットにリアナが思う存分甘える姿を見て、フルールは羨ましそうに指を咥えていたが、やがて周囲を見渡しながら尋ねた。

「コレットさんも生きてるって事は…、ジルさんも無事だったりします?」
「…いや。アイツは西誅のさなかに死んだよ。生き残ったのは、私だけだ」
「そうですか…」

 コレットの答えを聞き、フルールの声が一瞬沈む。だが彼女はすぐに気分を変え、期待を籠めて質問を重ねた。

「シモンさんも、此処に住んでらっしゃるんですか?」
「いや、アイツは隣の森だ。ただ、西誅軍の侵攻をまともに受けたから、視察団の逗留は受け入れていないけどね。…逢いたいのなら、アンタだけ連れて行こうか?」

 コレットが気を利かせて提案するが、フルールは寂しそうに首を振る。

「…いえ、遠慮しときます。私はあの時、シモンさんを見捨てて逃げちゃいましたから…今更会いに行ける資格なんて、ありません」
「そう…」
「それより!シモンさん、もうすぐじゃなかったでしたっけ!?」
「ああ、もう臨月に入っているよ。今月中には生まれるんじゃないかな?」
「いいなぁ、シモンさんの赤ちゃんかぁ…きっと凄い美人に育つんだろうなぁ…」

 フルールが沈んだ表情を一転させ、胸元で手を組み、上を向いて目を輝かせる。その姿を眺めていたコレットが逆に渋い表情を浮かべ、頭を掻いてボヤいた。

「私も子供が欲しくって、頑張っているんだけどさぁ…できないんだよねぇ。やっぱりエルフが相手だと、体が合わないのかねぇ…」

 そう残念そうに呟くコレットの姿に、フルールが手を組んだまま胡乱気な目を向け、呆れた声で指摘する。

「体の合う合わない以前に、同性相手では土台無理な話だと思うのですが…」
「それでも涙ぐましい努力を重ねるお姉様が、いじらしいんじゃないですか!大丈夫ですよ、お姉様!二人の愛があれば、きっと奇跡は起きます!」
「…」

 うっかり固有名詞を付け忘れたために、二人にとんでもない誤解を与えた事を知ったコレットの顔がみるみる赤くなり、嬉しそうに頬ずりを繰り返すリアナをしがみ付かせたまま、硬直した。



 ***

 モノの森から徒歩で5日の距離にある、ティグリの森。その族長であるグラシアノの家から少し離れたところに、1軒の真新しい家が建てられていた。

 新しい家は周りの家に比べると些か大きいものの、造りは素朴で華美の欠片もない。中原の街で言えば、ちょっと商売で一山当てて奮発した庶民と、大差ないだろう。だがティグリ族はおろか、大草原に暮らすエルフ達にとって、その真新しい家の主人は今や特別な存在となっていた。

 その家の扉を開け、二人の女性が中へと入って来た。ティグリの森で一二を争う美貌の持ち主である母娘は、勝手知ったる家の中を歩き、奥の寝室の扉を開ける。そして椅子に腰を下ろしている隻腕の男の姿を認めると、娘が胸に抱えていた木のボウルを掲げ、笑顔を浮かべた。

「トウヤさん、シモンさん、ただいま。お母さんの所から、出来立てのヨーグルトを貰って来たよ!」
「お、セレーネ、ありがとう。…ナディアさん、いつもいただいてばかりで、すみません」

 柊也は椅子から立ち上がってセレーネに労りの声を掛けた後、左手で後頭部を擦りながら、続けて入って来たナディアに向かって恐縮した風に頭を下げる。ナディアは、自分達の崇拝するサーリア様を統べる至高の御方とは思えない平身低頭ぶりに、溢れ出る笑顔に親しみを籠めた。

「お気になさらないで下さい、トウヤ様。もうすぐ御子がお生まれになられるのですから、シモン様には沢山栄養をつけていただかないと」

 そしてナディアは柊也に焼き立ての薄いパンを渡しながら、籐で作られた安楽椅子に身を横たえる獣人の女に優しい声を掛けた。

「シモン様、お加減はいかがですか?」



 ティグリの森へと戻って来て以降、この9ヶ月の間にシモンは大きな変貌を遂げていた。

 以前のシモンは鋭い美貌に目にした物を焼き尽くすような苛烈な眼光が加わり、周囲に酷寒の氷剣を思わせる近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。だがこの9ヶ月の間にその酷寒の雰囲気は鳴りを潜め、代わりにナディアに似た慈しみと柔らかさを湛えるようになっていた。彼女はゆったりとした服に身を包み、大きく張り出した腹部に手を当てて内側に潜む我が子を撫でるように擦りながら、ナディアに満ち溢れた笑顔を向ける。

「お蔭様で何ら憂いる事もなく、安心してその日を迎えられます、ナディア殿。この子本当にやんちゃで、一日も早く出て来たくて、このところずっと暴れているんです」

 口調にも変化が見られ、言葉遣いに女性らしさが加わっている。シモンが自らのお腹を優しく撫でる姿を見てナディアは昔を懐かしむように微笑むと、柊也へと目を転じて、釘を刺した。

「トウヤ様、シモン様の言いなりになって、生肉とか食べさせていませんよね?」
「ええ、ちゃんと火を通した肉しか出していません」

 柊也とナディアの会話を聞き、シモンが身を横たえたまま剥れ顔を向ける。

「少しくらい出してくれたって、好いのに…」
「いけません、シモン様。悪いものに当たって、御子様に影響が出たら後悔しますよ?もう少しだけ我慢なさって下さい」

 ナディアが人差し指を立て、駄々をこねる娘を叱り付けるように、苦言を呈する。シモンがナディアの小言を聞き、こそばゆそうに身じろぎをする傍らで、セレーネが木のボウルと鞄を抱え、身を翻した。

「じゃぁ、お母さん。私、お昼ご飯の準備をしてくるね」
「あ、セレーネ。私も手伝うよ」
「え?シモンさん、好いよ!お姉ちゃんが全部やるから、ゆっくりしてて!」

 シモンが柊也の手を借り、煩わしそうに身を起こす姿を見て、セレーネは慌てて手を振り、押し留めようとする。シモンはやっとの事で立ち上がって大きく息を吐くと、両手で大きな腹を抱えながら感謝の笑みを浮かべた。

「ありがとう、お姉ちゃん。でも、少しくらい体を動かした方が、この子のためにも好いんだ」
「もう…、シモンさん、少しでも違和感があったら、すぐに言って下さいね?」
「うん、ありがとう」

 セレーネは頬を染めて可愛らしく口を窄め、シモンを労わりながら部屋を出ていく。二人の後ろ姿を眺めていたナディアに、柊也が声を掛けた。

「そう言えば、グラシアノ殿はどうされてます?」

 柊也の質問を受け、ナディアは失笑を堪えるような表情を浮かべる。

「あの人が、一番落ち着きがありませんわ。今日も、いつ御子がお生まれになられてもお祝いできるよう、若い衆を集めに駆けずり回っています。陣痛が始まっても、実際に生まれるのは丸一日先ですのにね」

 そう答えるナディアの耳に、セレーネの切羽詰まった声が台所から流れ込む。

「シ、シモンさん、大丈夫ですか!?お腹痛いの!?陣痛、始まっちゃった!?」
「シモン、大丈夫か!?」
「シモン様!」

 柊也とナディアは慌てて部屋を飛び出し、台所へと向かった。



 ***

 その夜、いつもは夜行性の鳥や虫の鳴き声以外に全てが寝静まるはずのティグリの森は、喧騒に溢れていた。

 一回り大きい真新しい家の周辺一帯には篝火が幾つも焚かれ、グラシアノを先頭に大勢のエルフが家を取り囲み、固唾を呑んで見守っている。家の中では複数の女性達がナディアの指示に従い、慌ただしく動き回っていた。

「ララ!外の男達に湯を沸かさせてあるから、そこの盥一杯に汲んできて!アンナは清潔な布を持ってきて!」
「「はい!」」

 ナディアの言葉に従い、セレーネの幼馴染達が家を飛び出していく。二人の背中を見送ったナディアは、荒い息を上げるシモンの前で屈んで中を覗き込んだ後、シモンの額に玉のように浮かぶ汗を拭いながら、優しく声を掛けた。

「シモン様、もう十分に開いています。あと、もうひと踏ん張りです。頑張って下さい」
「んーーーーーーーーーーーーーーっ!…ふぅ…ふぅ…んーーーーーーーーーーーーっ!」

 シモンはナディアの言葉に気づかず、目を固く瞑り、口に咥えた布に歯を立てながら、いきみを繰り返す。シモンの右手はセレーネの手を、左手は柊也の手を掴んで離さず、彼女の呻き声に連動して固く握りしめられた。

「シモン!頑張れ、頑張れ!」
「シモンさん、頑張って!」

 柊也とセレーネは、時折獣人の膂力に握りつぶされる手の痛みに顔を顰めながらもシモンの手を掴んで離さず、必死に声掛けを続ける。部屋の中に血と羊水の臭いが充満する中、柊也は日頃の沈着さをかなぐり捨て、何一つ役に立たず、ただひたすら声を掛け続ける。

「頑張れ!頑張れ!」



 自分に、父親になる資格はあるのか?

 ハインリヒを先頭に数百人のハンターを直接この手に掛け、5万もの西誅軍に生き地獄を見せ、そして、2万もの東滅軍に対し躊躇いもなく「槍」を放ち、物言わぬ肉片へと変えた自分に、父親になる資格はあるのか?



 ――― その様な葛藤は、彼の頭の中に何一つ浮かんでいない。彼はただ、かつて自分の目の前で痙攣しながら死んでいった愛犬の姿を重ね合わせ、目に涙を浮かべながら願い続ける。

「頑張れ、シモン!頼む!頼むから…!」



 …やがて空が白ばみ、森を構成する大木の幹に沿って白い縞模様が浮かび上がる頃。



「おぎゃぁ!おぎゃぁ!おぎゃぁ!」



「…あ…」

 何処からともなく聞こえてくる赤ん坊の泣き声と共に、彼の手を握る獣人の握力が緩む。彼が呆然としたまま顔を上げると、銀色に輝く女が目を瞑り、滝のような汗を流しながら深呼吸を繰り返している。

「…はぁ…はぁ…はぁ…」

 ナディアが赤子を産湯に浸ける水音が聞こえる。赤子のけたたましい泣き声が、部屋の中を行き交う。その声を耳にして、銀の女が目を閉じ深呼吸を繰り返しながら、身を震わせた。

「…やったよ…やったよぉ…」
「…シ、シモン…」



「…パパ、泣いているの?」



「…え?」

 気がつくと、女が穏やかな表情を浮かべ、彼を見つめていた。彼は目を見開いて穏やかな女の顔を見つめていたが、やがて我に返り、慌てて目元を左袖で拭う。

「…す、すまん」
「パパ…」

 子供のように顔を隠す彼の姿に、女は穏やかな眼差しを向けている。その二人の許にナディアが赤子を抱えて近づき、微笑んだ。



「シモン様、おめでとうございます。元気で立派な、男の子です」



「私の…赤ちゃん…」

 女が身を横たえたままゆっくりと手を伸ばし、ナディアから赤子を受け取る。布に包まれた赤子は、一泣きして疲れたのだろうか、静かに寝息を立てている。その体には母親と同じ、側頭部から伸びる三角形の耳と仙骨から伸びる長い尾が備わり、――― 黒く輝いていた。

「トウヤ様、万歳!シモン様、御子様、万歳!」
「「「万歳!万歳!万歳!」」」

 家の外で湧き上がる、グラシアノの掛け声と男達の唱和が、部屋の中へと流れ込む。だが、柊也はその喧騒にも気づかず、目の前に横たえる母親と、自分と同じ黒い髪を持つ赤子を呆然と眺めている。

「…パパ」

 女の声が、彼をこの世に引き戻した。焦点の合った彼の視線の先で、彼女が赤子を抱えたまま、彼に眩い笑顔を向けている。



 ――― そこには、彼が初めて見る太陽が浮かんでいた。



 全てを焼き尽くす真夏の太陽でも、時折陽が翳り雨の降る、秋の太陽でもない。



 ――― 全てが光り輝き、歓びと、幸せと、将来に対する全幅の信頼に満たされた春の太陽が燦々と輝き、彼に向けて万感の笑顔を浮かべていた。



「――― あなたの事を、何よりも愛しています ―――」



 <完>
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