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第三章

44.本当にあれがイタリア一の資産家の息子??

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「アンジェロの隣に座れ」


 くせ毛男が命令する。

 だが、青いドレスの女は黙って突っ立っている。


「汚くて座れねえって?ったく。これだから、お嬢様はよう」


 くせ毛男はゴミの山から馬蹄の柄の黄色とオレンジの派手なスカーフを探し出してアンジェロの隣に敷いた。
 青いドレスの女がストンと腰掛ける。

 肘が触れそうな距離感と、いい匂いに心が、きゅっとなる。


 なんで、この男の手を取ってしまったんだろうなあ。


とアンジェロは再び後悔。

 手を取らなければ、名前を付けられないこんな気持ちに苦しめられなかったと思ったからだ。




 記憶は、数日巻き戻る。




 昼下がりの音楽学校。

 グランドピアノが置かれた練習室。

 譜面台の上には、コンクール用の楽譜と少し日焼けしたスケッチブックの切れ端がある。

 そこに描かれているのは女だ。誰を描いたものなのかは分からない。

 軽いタッチで描かれているが、おいそれと触れてはいけない高貴な雰囲気がにじみ出ている。

 ピアニストには有利だといわれる大きな手で心臓の辺りを掴む。

 胸の奥底に、未知の感情が滾々と湧いていた。

 もう一年も前からこんな状態だ。

 それは、薄れるどころか日に日に強くなっていた。



 薄く開いた防音扉の隙間からは、くすくすと笑い声。


「本当にあれがイタリア一の資産家の息子??着ている服がダルダルなんですけどお?」

「コミュ障らしいよ。笑っちゃうほどの練習狂いでランチも取らないって」


 莫大なコレクションを持つ男の息子を覗き見しに来たギャラリー達だ。

 さっきは三人連れでやってきて観察された。今は、二人連れ。

 最近、自分の周りは騒がしい。


「父さんのせいだ。どう考えても」


 一度として美術館に収まったことが無く、世界中の富豪の元を渡り歩く流浪の絵を、父親は手に入れようとしているらしいから。 

 噂で聞いただけでどんな絵なのかは知らない。

 絵は嫌いだから。

 心の底から。

 ピアノに没頭する以外は、四六時中憎むほどに。

 だから、最近強くなる一方の気持ちにどういう名前を付けていいのか分からない。

 女を抱きしめたくなるような甘い思いを。
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