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第二十二話:本当の脅威
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立羽は平地に額づき「申し訳ございません」と繰り返す二人の使蟲間を、母にも似た哀れみの目で見下ろした。そばに跪き、彼らの頭にそっと手を置く。
「よく耐えた。すまない……」
自らが放つ芳香の脅威を知らない夜華への配慮が足りず二人を苦しめたのは、自分の落ち度だと立羽は思っていた。挙句、夜華を叱責し、まだ十六年しか生きていない幼い心を傷つけてしまった。そのせいで、目に見える範囲にとどまっているだろうと予想した彼の姿はどこにもない。
「すぐに夜華君を探す。手伝ってくれ」
使蟲間たちは顔を上げ、唇を引き結んで頷いた。女児と青年の顔にはまだ疲労の色が残っている。二人の今の状態は、たとえるならば強い催眠から無理やり目覚めたようなもの。
先ほど夜華が頭のサークレットを外したとき、瞬時に広まった暴力的な芳香は、二人の本能をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。そして欲求を膨張させ、彼らの足を芳香の発生源へと向かわせた。
大量の蟲たちが平地に押し寄せてこなかったのは、この先の登山の道程を見越して彼らが事前に駆除していたからだ。それが思いもよらず功を奏した。
彼らがふらつきながら平地に現れたとき、衣服の袖に隠れた彼らの腕にはいくつもの歯形があった。自分自身を噛むことで急激に増幅された食欲と性欲に耐えていたのだ。一歩間違えれば彼らは、凶暴な蟲と化して夜華に喰らいついていたかもしれない。
しかし、理性と使蟲間としての矜持はすんでのところで彼らを野生から引き戻した。
彼らは史上最大の誘惑に対して五感のすべてを閉ざすようにうずくまり、嵐が去るのを必死に待った。そうして共食いすらすることなく、ほとんど痛みに近い欲を制したのだ。
「蜻迅衛、換身できるか」
「はい」
「ならば東へ飛べ。私は西へ行く。網玲は平地から下、麓のあたりまで網で探れ。消えた方角からして下山している可能性はないとは思うが、念のためだ」
了の返答ののち、網玲は網を張る蟲術の詠唱を始め、蜻迅衛は蜻蛉の姿に換身して東へ飛び去った。立羽も蝶に姿を変えて西へ飛ぶ。
探知用の鱗粉を薄く振りまきながら、目と鼻と耳を研ぎ澄ませて夜華の気配を探る。
夜華がサークレットを外した影響は、立羽の身にも起きていた。外すのを見た瞬間、反射的に羽衣の袖で鼻と口を塞いだが、芳香とは単に吸い込まなければいいというものではない。
網玲と蜻迅衛より夜華の近くにいたこともあり、受けた威力は絶大だった。人界で初めて会った時の、幽けきそれとは比べものにならない。白華山の大気はよほど夜華の身体に合ったのだろう。
立羽は今、五感が鈍っていた。目はかすみ、鼻は普段の半分も利かず、耳鳴りが止まないうえに手足は痺れている。だが使蟲間たちの前で弱音は吐けない。少し経てば感覚も戻るだろうから、それまでは気力で持たせるのだ。
林間を縫うように飛んでいた立羽は、草の踏み折られた跡を見つけた。多足の蟲が胴をずるように移動する跡とは違う。点々と小さく続くそれは、二足の足跡だ。
これだ、と立羽は思い、跡の行く先を追いかけた。跡は白華山の上方へ向かって進んでいた。
胸騒ぎがした。何か見えたわけでも聞こえたわけでも香ったわけでもない。第六感的な感覚。
果たしてそれは的中した。足跡を追い、林間から断崖絶壁に臨む高地へと飛び出したとき、視界の端に鮮やかな緑色が映った。
心拍数が一気に上がり、立羽は換身を解いて地に降り立つ。
「翠鎌ッ……」
「これはこれは立羽殿。見つかってしまいましたか」
「なぜ貴様がここにいる!?」
色つき蟲間ともあろう者が他国の修行山に忍び込むなど、おおやけに知れれば一大事だ。緑国に侵略の意思ありとして、正当な理由のもと兵を挙げることもできよう。
もしも赤女王が、病床に伏せていなければ。
「道に迷いました、では済まされんぞ翠鎌」
「そのような見え透いた嘘をつきはしませんよ。ただ正直に申し上げましょう。私は夜華を求めて来たのです」
「なぜ夜華がこの白華山にいると思う。いや、なぜ思ってここへ来た?」
「それをお話ししてもよろしいですが……今となってはどうでもよいことでしょう。先ほど放たれた強烈な芳香、よもやこの白華山のみにとどまるとは思いますまい。ただの蟲や蟲間ならいざ知らず、色つき蟲間たちは気づいたことでしょうね」
立羽はぐっと奥歯を噛んだ。
そう……何よりも恐れていたこと。それは芳香に酔った白華山の蟲どもが押し寄せてくることなどではない。もっと先。
この世のすべては形を変えていくだけで、この世から消え去るわけではない。氷が解ければ水になり、蒸発すれば大気の一部になるように、芳香は、匂いとして感知できなくなったその先でも存在し続けている。
その存在は、研ぎ澄まされた色つき蟲間たちの第六感に必ず引っかかる。
あの瞬間、夜華間が華界の赤国にあるという事実は、確信でないにせよ、他の六国に知れ渡ってしまったのだ。
六国の使者あるいは国軍が、その詳細を問うべく赤国にやって来る。
この翠鎌のように、侵入して探ろうとする輩も出てくるだろう。
間もなく、赤国は荒れる。
「だから何だ」
立羽は内心の焦りを悟られぬよう気丈に声を張った。
「誰が来ようと何が来ようと、排除するのみだ――縛粉」
「よく耐えた。すまない……」
自らが放つ芳香の脅威を知らない夜華への配慮が足りず二人を苦しめたのは、自分の落ち度だと立羽は思っていた。挙句、夜華を叱責し、まだ十六年しか生きていない幼い心を傷つけてしまった。そのせいで、目に見える範囲にとどまっているだろうと予想した彼の姿はどこにもない。
「すぐに夜華君を探す。手伝ってくれ」
使蟲間たちは顔を上げ、唇を引き結んで頷いた。女児と青年の顔にはまだ疲労の色が残っている。二人の今の状態は、たとえるならば強い催眠から無理やり目覚めたようなもの。
先ほど夜華が頭のサークレットを外したとき、瞬時に広まった暴力的な芳香は、二人の本能をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。そして欲求を膨張させ、彼らの足を芳香の発生源へと向かわせた。
大量の蟲たちが平地に押し寄せてこなかったのは、この先の登山の道程を見越して彼らが事前に駆除していたからだ。それが思いもよらず功を奏した。
彼らがふらつきながら平地に現れたとき、衣服の袖に隠れた彼らの腕にはいくつもの歯形があった。自分自身を噛むことで急激に増幅された食欲と性欲に耐えていたのだ。一歩間違えれば彼らは、凶暴な蟲と化して夜華に喰らいついていたかもしれない。
しかし、理性と使蟲間としての矜持はすんでのところで彼らを野生から引き戻した。
彼らは史上最大の誘惑に対して五感のすべてを閉ざすようにうずくまり、嵐が去るのを必死に待った。そうして共食いすらすることなく、ほとんど痛みに近い欲を制したのだ。
「蜻迅衛、換身できるか」
「はい」
「ならば東へ飛べ。私は西へ行く。網玲は平地から下、麓のあたりまで網で探れ。消えた方角からして下山している可能性はないとは思うが、念のためだ」
了の返答ののち、網玲は網を張る蟲術の詠唱を始め、蜻迅衛は蜻蛉の姿に換身して東へ飛び去った。立羽も蝶に姿を変えて西へ飛ぶ。
探知用の鱗粉を薄く振りまきながら、目と鼻と耳を研ぎ澄ませて夜華の気配を探る。
夜華がサークレットを外した影響は、立羽の身にも起きていた。外すのを見た瞬間、反射的に羽衣の袖で鼻と口を塞いだが、芳香とは単に吸い込まなければいいというものではない。
網玲と蜻迅衛より夜華の近くにいたこともあり、受けた威力は絶大だった。人界で初めて会った時の、幽けきそれとは比べものにならない。白華山の大気はよほど夜華の身体に合ったのだろう。
立羽は今、五感が鈍っていた。目はかすみ、鼻は普段の半分も利かず、耳鳴りが止まないうえに手足は痺れている。だが使蟲間たちの前で弱音は吐けない。少し経てば感覚も戻るだろうから、それまでは気力で持たせるのだ。
林間を縫うように飛んでいた立羽は、草の踏み折られた跡を見つけた。多足の蟲が胴をずるように移動する跡とは違う。点々と小さく続くそれは、二足の足跡だ。
これだ、と立羽は思い、跡の行く先を追いかけた。跡は白華山の上方へ向かって進んでいた。
胸騒ぎがした。何か見えたわけでも聞こえたわけでも香ったわけでもない。第六感的な感覚。
果たしてそれは的中した。足跡を追い、林間から断崖絶壁に臨む高地へと飛び出したとき、視界の端に鮮やかな緑色が映った。
心拍数が一気に上がり、立羽は換身を解いて地に降り立つ。
「翠鎌ッ……」
「これはこれは立羽殿。見つかってしまいましたか」
「なぜ貴様がここにいる!?」
色つき蟲間ともあろう者が他国の修行山に忍び込むなど、おおやけに知れれば一大事だ。緑国に侵略の意思ありとして、正当な理由のもと兵を挙げることもできよう。
もしも赤女王が、病床に伏せていなければ。
「道に迷いました、では済まされんぞ翠鎌」
「そのような見え透いた嘘をつきはしませんよ。ただ正直に申し上げましょう。私は夜華を求めて来たのです」
「なぜ夜華がこの白華山にいると思う。いや、なぜ思ってここへ来た?」
「それをお話ししてもよろしいですが……今となってはどうでもよいことでしょう。先ほど放たれた強烈な芳香、よもやこの白華山のみにとどまるとは思いますまい。ただの蟲や蟲間ならいざ知らず、色つき蟲間たちは気づいたことでしょうね」
立羽はぐっと奥歯を噛んだ。
そう……何よりも恐れていたこと。それは芳香に酔った白華山の蟲どもが押し寄せてくることなどではない。もっと先。
この世のすべては形を変えていくだけで、この世から消え去るわけではない。氷が解ければ水になり、蒸発すれば大気の一部になるように、芳香は、匂いとして感知できなくなったその先でも存在し続けている。
その存在は、研ぎ澄まされた色つき蟲間たちの第六感に必ず引っかかる。
あの瞬間、夜華間が華界の赤国にあるという事実は、確信でないにせよ、他の六国に知れ渡ってしまったのだ。
六国の使者あるいは国軍が、その詳細を問うべく赤国にやって来る。
この翠鎌のように、侵入して探ろうとする輩も出てくるだろう。
間もなく、赤国は荒れる。
「だから何だ」
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