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第十一話

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「じゃあ行こう。準備はいいかい」

 イングヴァルはそう三人に向かって確認した。
 こちらも調子は万全かと聞きたい気持ちでいっぱいだったが。
 イングヴァルは茶を飲んだだけで昼食もとらなかった。
 小一時間外にいて、そろそろ行こうかと声をかけてきたのである。
 食欲もないほどの不調なら休んでいてくれと思うが、イングヴァルが指揮官ではどうしようもない。
 絶対服従というわけではないが、上の立場の人間に言うことを聞かせるのは難しいものだ。イングヴァルが納得するだけの理由がないといけない。
 先程巨大な魔物を見た方角に、イングヴァルを先頭にして向かって歩き始める。

「あいつが駄目だったらお前らが頼りだ。頼んだぜ」

 最後尾を歩くアカートは小声でコスティとクルキに声をかけた。
 拠点から離れて森の奥に進んでいると、ちらちらと雪が降り始めた。

「時間が惜しい。早くあのでかいのを倒して戻ろう」

 イングヴァルはそう告げて、歩く速度を早める。
 森の奥から地響きと、木がみしみしと音を立てながら倒れる音が聞こえる。
 そして、巨大な魔物のいた場所に着いた。
 巨躯を引きずった跡が奥へ奥へと続いている。
 畑を耕すのに牛を使うことがあるが、あの魔物はそれと同じことを森でやっていた。
 前肢によって降り積もった雪は押し潰され、その下にある凍った土が掘り返されている。後ろにある蛇の体がそれを均して進んでいるようだった。
 深々と根を張っている木さえ障害にはならず、無残に薙ぎ倒されている。
 魔物の作った道を延々と進む。
 進めば進むほどに地響きは大きくなり、やがて地面の振動すら感じられるようになる。
 その最中、魔物の死体がいくつも転がっている。
 森を蹂躙しながら魔物はなだらかな斜面を登り、山の尾根へと進んでいた。
 振り返れば木々の隙間から湖が見下ろせ、自分たちのいた拠点が見える。かなり斜面を登っていたようだ。
 やがて、黒い霧が目に入った。
 濃い瘴気に囲まれて相変わらず全貌は明らかにならない。後ろからは蛇の尾がちらりと見え、見上げるほど巨大だとしかわからない。
 寒さとはまた違った冷たさが背筋を伝う。それだけで今まで相手にしてきた魔物とは一線を画す強さと感じ取れる。

「院長さん……」

 本当にあれとやり合うのか、と尋ねる。
 イングヴァルは悪魔ともやり合える男だというのは聞いた。しかし今のイングヴァルは明らかに不調なのだ。本当にこのまま戦っていいものなのか。
 嫌な予感がする。

「あのデカブツは僕一人でいい。コスティ君、クルキ君は周囲を警戒してくれ。アカート、君はコスティ君の近くにいたほうが安全だ。じゃあ、頼むよ」

 イングヴァルは返事を聞くまでもなく駆け出した。

「ちょっと……!」

 制止の声も届かない。
 先程から何かが少しずつおかしい気がする。
 しかし、自分たちの中で最大の戦力がイングヴァルなのは確かだ。
 あの巨大な魔物に誰をぶつけるかと言ったらイングヴァルしかいないのも事実だった。
 クルキのほうを見つめる。
 クルキもこの状況に何かを感じて不安げな顔をしている。

「クルキは左を、俺は右を見るから」

 言って魔物の作った道の左右を示す。

「わ、わかった」
「無理するなよ」

 クルキは頷いてイングヴァルの後を追うように駆け出した。

「行くぞ、おっさん」

 言って自分も走り出して右側の森を警戒する。
 濃い瘴気に誘われたのか、早速魔物が目に入った。近付かれる前に矢を放って射殺す。
 そのときだった。
 ぱき、と空気が凍る音がする。
 魔物の気配とは違う純粋な冷気が身体を襲う。
 前を見るとイングヴァルは瘴気の中に足を踏み入れようとしているところだった。
 そして一歩を力強く踏み出す。
 その瞬間に地面に雪の結晶をした紋章が浮かび上がって周囲を氷の大地に塗り替える。その氷はコスティの足元にまで届いた。

「うわっ……」

 走っている最中に地面が凍ったために足が滑って転んでしまった。大雑把な攻撃しかできない、というのはこういうことらしい。
 同時にイングヴァルは手で宙を薙ぎ払った。その手には冷気が白くまとわりついている。
 イングヴァルが手を薙いだと同時に信じられないことが起こった。
 瘴気が一斉にに地面に向かって落ちたのである。
 最初は何が起こったのかわからなかったが、瘴気に包まれていた魔物が氷の塊に覆われているのを見てやっと何がどうなったのか把握した。
 イングヴァルは瘴気を凍らせたのだ。
 凍った瘴気は雹のように氷の塊となって重力に従い地面に落下する。
 確かに物を凍らせるとは言っていたが、空気に漂う瘴気すら凍らせるとは――。

「とんでもねえな……」

 一人で悪魔と戦えるはずだ、と驚くのもすぐに終わらせる。
 なぜなら、瘴気が消えて明瞭になった視界には大量の魔物がひしめいていたからだ。
 慌てて立とうとする。
 しかしそれすら無用だった。
 イングヴァルがもう一歩を踏み出し、また地に氷の紋章が浮かぶ。
 すると魔物の中から針の山のように氷の柱が突き出した。
 体の中から心臓を氷で射貫かれた魔物はやがて氷に覆われて氷像となり、地面に倒れることすら叶わない。
 イングヴァルは止まらない。
 また一歩踏み出すと地面から氷の柱が伸び、それに乗って高く宙に跳ぶ。
 そして腰に提げた剣を抜き、氷漬けになった巨大な魔物に剣を突き立てる。
 巨大な氷塊はばらばらに砕け散った。
 本当にイングヴァル一人で全てを終わらせてしまった。
 心配するまでもない。
 そう安堵したのも束の間。砕け散った魔物の氷塊が凍った斜面を転がってくる。

「やべ……っ」

 このままでは巻き込まれる。
 クルキは大丈夫か。視線をクルキのほうに向ける。
 クルキは無事に森に入って木の陰に隠れるところだった。
 それを見て安心する。自分も何とか立ち上がって脇の森に逃げようとした。

「よそ見してる場合か!」

 一歩先に森に退避していたアカートがこちらに手を差し出している。
 その手を掴もうと手を伸ばす。
 そうしている間にも氷塊はごとごとと音を立てながらすぐそこに迫っていた。
 あと一歩踏み出せば手が届く。
 あと一歩。
 その一歩が間に合わなかった。
 氷塊に体当たりされて身体が転がっていく。
 ごつんごつんと氷の地面だか氷塊だかにぶつかって衝撃が走る。
 何となく予感はしていた。
 イングヴァルの不調をそのままにしておいたこととか。
 イングヴァルを一人で突っ走らせてしまったこととか。
 クルキの無事を確かめる前にまず自分を優先するべきだったとか。
 もうちょっと自分たちはましな選択肢を選べたのではないか。
 自分たちはもっと話し合うべきだったのではないか。
 今になってそんな正答が頭を過ぎる。
 ずれたまま積み上げた積み木がいずれ崩れるのと同じように、少しずつ間違った選択をしたツケが今自分に降りかかっている。
 もう上下も何もない。ただ勢いに任せて氷塊と一緒に氷の地面を転がっていくだけだ。
 これが池に張った氷のように平坦なら滑っていくだけだったと思うが、山の斜面を氷が覆っただけの凹凸だらけの場所を氷塊に巻き込まれながら転がっている。
 先程から体中の骨が軋んでいる。あまりの痛みに感覚が麻痺している。
 よくもまあ今まで四肢がくっついているものだ、と妙に冷静な自分がいる。
 そして、やっと頭にとどめの一撃を食らって意識が落ちた。
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