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第3話
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自分は、弱かった。
大人の男より頭一つほど大きい自分より体の大きい人間はいなかったし、力でも敵う人間はいなかった。
それに加えて魔鎧という人並み外れた力まで手に入れた。
傭兵となってからも負け知らずで、自分の与した勢力はいつも勝利した。
生身の人間なら戦斧を一振りすれば片付いたし、多少の魔法なら魔鎧が弾く。
傭兵として死と隣り合わせの戦場に身を置きながら、自分一人だけ対岸の火事を眺めるような気持ちだった。
そこに、あの赤狼が現れた。
赤い狼の姿の魔鎧を持った、腕の立つ傭兵がいる。
その噂は耳にしていたが目にするのは初めてだった。
血と泥が混ざり合い、敵か味方かもわからない死体を踏みつけながら誰もが戦っていた。
己を奮わせるために雄叫びを上げ、首を、腹を、腕を、足を切られては呆気なく死体となって地に転がり、また誰かの足蹴にされる。
どこの戦場でも変わらない風景の中、自分に敵う者などいないのだから向かってきても無駄だと思いながら戦斧を振るっていた。
その最中に訪れた一撃は雷のように。
背後の死角、宙からの落下の勢いに乗せた刺突。
今でもなぜあの一撃が避けられたのかわからない。
あえて理由を挙げるならば、彼は暗殺者ではなく戦士であり、また肉食獣のような強者だった。
そして自分は戦士ではなく、狼に怯える鹿のような弱者だった。
強い剥き出しの殺意はあまりにも鋭く、鎧越しに届くほどだった。
どこからともなく湧いた殺気に恐怖を覚えた自分は咄嗟に前に転がりでた。
背後に何かが着地する。
そのほうに振り向くと、そこには赤狼が立っていた。
それは一瞬にも満たない対峙だったが、何よりも長い刹那だった。
幾重にも装甲を重ねた流線型を持つ赤い鎧。
その赤は戦場に溢れるどの血より鮮烈で、その鎧についた返り血すら色褪せて見えるほどだった。
頭部の兜は狼を模した形をしていて、噂に聞く狼男が鎧を着たならばこのような姿になるのだと思った。
黄金色の瞳は爛々と輝き、今にも飛びかかられてその大きな口に食べられてしまうのではないか。
狼の口に並んだ牙は研いだばかりの剣が突き立つ地獄の入り口のようで、一度噛まれれば肉は千々に千切れ、骨まで砕かれる。頬肉が食われた穴から覗く歯、噛みちぎられてもげた鼻、頭蓋の中に残った犬歯に貫かれて濁った目玉が、こちらを見ている。
剣そのもののような鋭い殺気に幻影を見る。それは後れを取ればこうなるのだという未来だった。
逃げなければ、食われる。
恐怖に駆られた体は踵を浮かせて後退る準備を始める。動き出した体に思考が追いつき、それでは駄目だと人の理性がひとりでに動く体を止める。
一歩でも退けば心が死ぬ。そのような者を捕食者は逃さない。死ぬまで追いかけ回されるだけだ。
生き残るためには、立ち向かわなければ。
「勘がいい」
狼は言葉を発した。あれは狼ではない、人だ。二本の足で立ち、手に剣を持つ人間だ。
雄叫びを上げ、己を奮い立たせて前に踏み出し、上段に構えた戦斧を振り下ろす。その攻撃を赤狼は容易く受け流した。
戦斧と剣では間合いに違いがあるはずなのに、その差を越えて赤狼の剣は自分に届いた。鎧の隙間を正確無比に狙う剣をやっとのことで弾いても、次から次へと襲いかかってくる。水に溺れながら息継ぎをするように、恐怖に塗れた心が一瞬だけ正気を取り戻しては致命傷に繋がる一撃を耐え続けた。
いつになればこの戦いから解放されるのか。
心臓はどくどくと脈打ち今にも弾け飛びそうだし、激しい衝撃を伴う打ち合いで手は痺れ、何度も戦斧を取り落としそうになる。体は重く、沈んだ鉄のようだ。
数えきれないほど打ち合ったはずなのに戦斧は一度も赤狼を捉えることはなく、子供の遊びに付き合う大人のように容易くかわされるだけだった。
赤狼との出会いも雷のように突然ならば、別れもまた、雷のようにすぐに訪れた。
瞬間、赤狼が何かに気を取られたように虚空を見つめたかと思いきや、後方に大きく飛び退いた。
それが何だったのかを理解するより早く、角笛が辺りに響き渡る。突然距離を開けた赤狼を警戒しながら周囲を窺えば、本陣に黒い煙が立ち上っていた。
本陣が奇襲された。そして赤狼、彼の与する勢力の意図を察する。魔鎧に魔鎧をぶつけて足止めし、別働隊が奇襲するまでの時間を稼いでいたのだ。
本陣に戻るべきか迷う一瞬の隙に赤狼は姿を消していた。
自分は、弱かった。
事ここに至って理解した。自分は力があるだけで、強くなどなかったということを。
大人の男より頭一つほど大きい自分より体の大きい人間はいなかったし、力でも敵う人間はいなかった。
それに加えて魔鎧という人並み外れた力まで手に入れた。
傭兵となってからも負け知らずで、自分の与した勢力はいつも勝利した。
生身の人間なら戦斧を一振りすれば片付いたし、多少の魔法なら魔鎧が弾く。
傭兵として死と隣り合わせの戦場に身を置きながら、自分一人だけ対岸の火事を眺めるような気持ちだった。
そこに、あの赤狼が現れた。
赤い狼の姿の魔鎧を持った、腕の立つ傭兵がいる。
その噂は耳にしていたが目にするのは初めてだった。
血と泥が混ざり合い、敵か味方かもわからない死体を踏みつけながら誰もが戦っていた。
己を奮わせるために雄叫びを上げ、首を、腹を、腕を、足を切られては呆気なく死体となって地に転がり、また誰かの足蹴にされる。
どこの戦場でも変わらない風景の中、自分に敵う者などいないのだから向かってきても無駄だと思いながら戦斧を振るっていた。
その最中に訪れた一撃は雷のように。
背後の死角、宙からの落下の勢いに乗せた刺突。
今でもなぜあの一撃が避けられたのかわからない。
あえて理由を挙げるならば、彼は暗殺者ではなく戦士であり、また肉食獣のような強者だった。
そして自分は戦士ではなく、狼に怯える鹿のような弱者だった。
強い剥き出しの殺意はあまりにも鋭く、鎧越しに届くほどだった。
どこからともなく湧いた殺気に恐怖を覚えた自分は咄嗟に前に転がりでた。
背後に何かが着地する。
そのほうに振り向くと、そこには赤狼が立っていた。
それは一瞬にも満たない対峙だったが、何よりも長い刹那だった。
幾重にも装甲を重ねた流線型を持つ赤い鎧。
その赤は戦場に溢れるどの血より鮮烈で、その鎧についた返り血すら色褪せて見えるほどだった。
頭部の兜は狼を模した形をしていて、噂に聞く狼男が鎧を着たならばこのような姿になるのだと思った。
黄金色の瞳は爛々と輝き、今にも飛びかかられてその大きな口に食べられてしまうのではないか。
狼の口に並んだ牙は研いだばかりの剣が突き立つ地獄の入り口のようで、一度噛まれれば肉は千々に千切れ、骨まで砕かれる。頬肉が食われた穴から覗く歯、噛みちぎられてもげた鼻、頭蓋の中に残った犬歯に貫かれて濁った目玉が、こちらを見ている。
剣そのもののような鋭い殺気に幻影を見る。それは後れを取ればこうなるのだという未来だった。
逃げなければ、食われる。
恐怖に駆られた体は踵を浮かせて後退る準備を始める。動き出した体に思考が追いつき、それでは駄目だと人の理性がひとりでに動く体を止める。
一歩でも退けば心が死ぬ。そのような者を捕食者は逃さない。死ぬまで追いかけ回されるだけだ。
生き残るためには、立ち向かわなければ。
「勘がいい」
狼は言葉を発した。あれは狼ではない、人だ。二本の足で立ち、手に剣を持つ人間だ。
雄叫びを上げ、己を奮い立たせて前に踏み出し、上段に構えた戦斧を振り下ろす。その攻撃を赤狼は容易く受け流した。
戦斧と剣では間合いに違いがあるはずなのに、その差を越えて赤狼の剣は自分に届いた。鎧の隙間を正確無比に狙う剣をやっとのことで弾いても、次から次へと襲いかかってくる。水に溺れながら息継ぎをするように、恐怖に塗れた心が一瞬だけ正気を取り戻しては致命傷に繋がる一撃を耐え続けた。
いつになればこの戦いから解放されるのか。
心臓はどくどくと脈打ち今にも弾け飛びそうだし、激しい衝撃を伴う打ち合いで手は痺れ、何度も戦斧を取り落としそうになる。体は重く、沈んだ鉄のようだ。
数えきれないほど打ち合ったはずなのに戦斧は一度も赤狼を捉えることはなく、子供の遊びに付き合う大人のように容易くかわされるだけだった。
赤狼との出会いも雷のように突然ならば、別れもまた、雷のようにすぐに訪れた。
瞬間、赤狼が何かに気を取られたように虚空を見つめたかと思いきや、後方に大きく飛び退いた。
それが何だったのかを理解するより早く、角笛が辺りに響き渡る。突然距離を開けた赤狼を警戒しながら周囲を窺えば、本陣に黒い煙が立ち上っていた。
本陣が奇襲された。そして赤狼、彼の与する勢力の意図を察する。魔鎧に魔鎧をぶつけて足止めし、別働隊が奇襲するまでの時間を稼いでいたのだ。
本陣に戻るべきか迷う一瞬の隙に赤狼は姿を消していた。
自分は、弱かった。
事ここに至って理解した。自分は力があるだけで、強くなどなかったということを。
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