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1 お隣の黒川さん

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「これって本当に菱田出版から出てるんですか?」
「そ、そうですよ。ちゃんとした出版社から発売されているものですよ!」
「どういう雑誌に載ってるんですか?」
「月刊サバトという」
「あ、それってもしかして芸術系の雑誌ですか?」
「少年向けの漫画雑誌です」
「へえ……」

 聞いたことない雑誌だ。マイナー系だろうか。

「じゃあ、これって一応、読む人に面白いって感じてもらう前提で描いてるものなんですね?」
「そ、そうですが、何か?」
「いえ……世の中にはいろんな需要があるんだなと」

 雪子には価値がまったくわからない絵画作品だったが、一応は商業出版の流通に乗って世に出回っているものなのだから、この世のどこかにはこれを楽しめている人がいるのだろう。もはや、そう考えるほかないのであった。

「あの、これわざわざ見せていただいてありがとうございます」

 とりあえず、「ひょっとこリーマン」の二巻までの単行本を黒川に返した――が、

「ああ、せっかくなので差し上げますよ。耳かきのお礼に」

 と、こっちに戻ってくるではないか。

「いや、悪いですよ、そんなことぐらいでいただくのは」

 いらないし。

「まあまあ、遠慮なさらずに。お近づきのしるしです」
「そう言われても……」

 価値のわからない前衛アートのようなモノを押し付けられても、その、困る。

「いや、あの、私の部屋狭いので、こういうの置く場所が――」
「はは、何をおっしゃいます。貴重な初版本ですよ。ぜひ受け取ってください」
「貴重な初版本?」

 ふと、雪子はその言葉に違和感を覚えた。

「黒川さん、私思うんですけど」
「はい?」
「初版本が貴重って呼ばれてプレミアがつくのは、普通、何度も重版されて人気になっている作品に限定されると思うんですが」
「え」
「これって、初版本が貴重になるほど重版されているんですか?」
「……それは」
「っていうか、これ、重版かかったことあるんですか?」
「……」

 黒川は雪子の的確で容赦ないツッコミにとたんにフリーズしたようだった。絶句し、額に脂汗をにじませながら、目を泳がせるばかりである。

 重版、したことないんだ……。その表情ですべてを察した雪子であった。

 だが、そこで黒川は、

「い、いや、これは確かに貴重な初版本なんですよ!」

 と、叫ぶやいなや、近くの机の上のペン立てからマジックペンを取り、その二冊の単行本の背表紙の裏にサインを書き始めた。きゅきゅっとな。

「ほら、これで著者のサイン入りになりました! 僕のサインの入った単行本なんて、この世に数冊しか存在しないんですよ! これは貴重! すごく貴重!」

 ヤケクソのように叫ぶと、またしても単行本二冊を雪子に押し付けてくる黒川だった。

「サイン書いた本がこの世に数冊しか存在しないって……」

 いや、それプロの漫画家としてどうなの。二冊も単行本出して、サイン会とか一度もしたことないの、この人? ますますいらない気持ちが高まってしまう。ぶっちゃけ無名作家のサインなんてただの汚損だし。

 まあでも、ここまでされて、受け取り拒否するのも悪いかな……。

「わかりました。この本は、キャンプに行くときにでも有効活用させてもらいます」
「いや、それ燃やす気マンマンじゃないですか! やめて、僕のサイン入り単行本で、ご飯炊かないで!」
「えー」

 他にどう使えばいいのだろうか。

「と、とりあえず、そのへんに飾っておくだけでもいいんじゃないですか? ほら、これの装丁、黄色ベースじゃないですか。風水的にアレな感じで、黄色は部屋のどっかに置いておくといいんですよ? お金がたまるってどこかで聞きました。頼むお願いしますそういう方向で受け取ってください」
「はあ……」

 売れない作家の本なんて運気が下がりそうだが、雪子はひとまず本を受け取った。一応、わざわざこの場でサインもしてもらったし……。

「じゃあ、私はこれで――」

 そしてそのまま、逃げるように外に出ようとした雪子だった――が、そこで、ついさっき自分の部屋で見た光景を思い出した。あれは間違いなく怪奇現象だった。

「あの、黒川さんは今夜はずっとここで仕事をされていたんですよね?」
「はい、そうですが」
「……何か、私の部屋のほうから変な音とか聞こえませんでしたか?」
「いえ、何も?」

 黒川は即答で首を振る。

「赤城さんのお部屋で何かあったのですか?」
「いや、たいしたことじゃないです」

 雪子は正直に打ち明けることが出来なかった。頭のおかしい人間だと思われそうだし。
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