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1 お隣の黒川さん

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「えーっと、つまり、黒川さんは漫画家だし想像力豊かで、そういうところで色々想像の翼を広げて楽しんでたってことですね?」

 意味不明すぎて、もはや適当にそう解釈するしかない雪子だった。しかし、黒川は「うーん、それはちょっとどうかなー?」と、よくわからない返事だった。いや、違うならせめて正解を言え。

「ところで、赤城さんのほうこそ、こんな時間にパジャマ姿でこんなところに立って何をしていたのですか?」
「いや、その、誰かが玄関を叩いていたので――」
「外に出た? 変ですねえ。僕はつい今しがた階段を上がってここまで来たわけですけど、誰も見ませんでしたよ?」
「そんなはず……」

 雪子は愕然とした。このアパートの階段は一箇所しかない。何者かが彼女の部屋の玄関のドアを叩いていたとしたら、すぐに立ち去ったとしても、黒川とすれ違うはずだ。それなのに――。

「寝起きで何かの音を聞き間違えたとかじゃないんですか?」
「そ、そんなことはないです! 確かにその人、雪子って、私の名前を呼んだんです?」
「へえ、赤城さんの名前を? もしかして、どなたかお知り合いの声でしたか?」
「それは――」

 雪子には心当たりはあった。しかし、それは彼女にとって考えたくないことだった。

 第一、まだ引っ越したばかりで、親友の綾香にすら住所を教えていない状態なのだ。それなのに、あの男がここを突き止めて追いかけてくるなんて、まずありえないことだ……。

 だが、黒川はそんな雪子の表情に何か察したようだった。

「ははーん? やっぱりその声の主には、心当たりがあるんですね?」

 と、にやりと笑った。雪子はこくんと、うなずくほかなかった。

「でも、その人は私がここに引っ越したことなんて、知らないはずなんです。だから、そんなこと、ありえない――」
「その人って、今現在、ちゃんと生きてこの世にいる人なんですか?」
「え?」
「死んでたりしません?」
「いえ、そんなことないです。ちゃんと生きているはずです」

 そう、確か今は旅行中のはず。

「……そうですか。ならきっと、聞き間違いか何かでしょうね」
「はあ?」

 黒川は何か納得したようだったが、雪子には何のことやらちんぷんかんぷんだった。

「まあ、念のため、赤城さんには僕からお守りを上げましょう。昨日までのお礼もかねて」
「お守り?」
「ちょっとここで待っててくださいね」

 黒川はそう言って、自分の部屋に入っていった。そして、すぐにそこから出て雪子のところに戻ってきた。手には一枚の紙切れを携えていた。

「ここに、僕が知っている、頼りになるヒーローの連絡先が書いてあります。何か困ったことがあったら連絡するといいでしょう。きっと彼は、赤城さんの力になってくれるはずですよ」

 そう言って彼は雪子にその紙切れを差し出してきた。見ると、確かにそこには携帯電話の電話番号が書かれていた。

「は、はあ……」

 なんだろう? 怪奇現象を解決してくれる霊媒師か何かだろうか。雪子は反射的にそれを受け取った。まあ、しょせんただの紙切れだし。

「では、おやすみなさい、赤城さん」

 黒川はそう言うと、自分の部屋に帰っていった。



 その夜、雪子もすぐに自分の部屋に戻り、眠った。起きたときには前日同様正午を過ぎていた。二日連続、なんという怠惰なことだろう。無職なのに。超金欠なのに。

 再び罪悪感を胸いっぱいに感じながら、スマホ片手に就職活動を開始した。今日こそはどこかに応募しようと固く決意しながら。当然、黒川からもらった謎の電話番号が書かれた紙切れは忘却のかなたであった。

 だが、そんなとき、ふいに綾香から電話がかかってきた。なんだろう。すぐに電話に出た。

「あのさ、雪子。私もさっき知ったんだけど……」

 綾香はなんだか言いにくそうな感じだったが、やがて、

「あのストーカー野郎、死んじゃったんだって!」

 と、思い切ったようにずばっと言い切った。

「し、死んだ?」

 また寝耳に水の話だ。

「ちょっと待って。あの人、今、バイクで旅行中のはずでしょ?」
「うん。それで事故ったらしいの」
「事故? バイクの?」
「そう。それで、おととい亡くなったらしいのよね」
「お、おととい……?」

 あれ? じゃあ、ゆうべここにやってきた人物はいったい? 

「だからさあ、あんたはもう安心して店に顔出していいのよ。あいつはもういなくなったんだからさ。ラッキーじゃん――って、人が死んでるのに言うことじゃないのかもしれないけどさ」
「そ、そうね……」

 確かに綾香の言うとおり安心だ。だが、雪子はひたすらに不気味なものを感じていた。

 あの男がおととい死んでいたとしたら、ゆうべのあれはいったいなんだったのだろう?
 
 それにその前の晩の足跡も気になる。すぐに消えてしまったが、あれは男のもののようだった。それもブーツか何か。そう、ちょうどバイクに乗るときに履くような……。

「ねえ、雪子。どうせまだ新しい仕事決まってないんでしょ? だったら、店に戻ってきなよ。もう安心して働けるからさ」
「い、いやあの……」

 動揺と恐怖のあまり、もはやまともに答えることができない雪子だった。結局、「その話はまたあとで!」と言って、そのまま一方的に電話を切ってしまった。

「あいつはもう死んでる……。じゃあ、まさか、ゆうべとおとといのアレは――アイツの霊?」

 そう考えると、辻褄はあうのだった。そう、あの男は、おとといの夜に死んで幽霊になったから、例え誰にも住所を教えていなくても、雪子のもとに来れたのではないか。幽霊って、そういうものだし。
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