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第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音

14.「ここよりは東」

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 ハーバルさんの喫茶店、その名も「鈴の小道」。
 昼食前という中途半端な時間帯のためか、店主以外で店内にいるのは、カイグルス打倒大作戦の考案者であるレインと、初回の作戦会議に参加した俺とティア、そして半ば強引に新しく加わったフィーユの四人だった。
 四人分の椅子が用意してあるのにフィーユは座らず、俺をぎゅうと抱き締め……いや、締め付けている。
 レインを魅了して止まない豊かすぎる胸が、俺の顔の右半分を埋め尽くしている。俺だって男だが、少しでも動けば即座に制裁を加えられそうなこの状況では、じっと目蓋を閉じて柔らかな嵐が通り過ぎるのを待つしかない。
「ああ大将、なんって羨ましい……フィーユちゃん! ぜひオレの顔面にも祝福を与えてくれないか!? そのふわふわもちもちの祝福を受けたなら、オレはただちに、天上に座す女神様が美神かどうか確かめに逝ったって構わないッ!」
 ……独特な言い回しだけど「死んでも良い」ということだろうか? それなら駄目だ、譲りたいけどレインには譲れない。
「フィーユ先輩、いいなあ……って、はわわっ、何でもないですぅぅう! そ、それよりあのぉ……レインさんとフィーユ先輩は、お知り合いさんなんですか?」
「ギルド職員の顔と名前は、全て一致させるようにしているわ。彼からは、説明会が終わって早々に『結婚を前提としてお付き合いしてください』ってアプローチされたし、尚更ね……まあ、私に対して積極的な男性は珍しくないんだけど」
 れ、レインがそんなことを……確かに、近所でもフィーユに想いの丈をぶつけて散っていく男性は多い。この幼馴染の凄いところは、自分を「そういう目」で見ていると知っても男性達と距離を置かず、むしろ以前より良好な関係を築いてしまうところだ。
「レインくんのことはちょっと厄介な人だと思ってた、け、ど。ちょっとどころじゃなかった、私もまだまだ人を見る目を養わないとね……。
 あなたたちの計画は分かったわ。レインくんと同じように……いいえ、それよりもちょっとひどめに振って以来、カイグルスが私に手を伸ばしてくることはなくなったけれど、他の子が迷惑な目に遭っていることも聞いている」
 カイグルスの癇癪を起こすことなく、それでも『ひどめ』に振って手を引かせた?
 一体どんな方法を使えばそれを成し遂げられるのか。この幼馴染、やはり優秀だ……。
「事務局を代表しての言い訳だけど、彼の生まれって割と名家なのよ。最近は景気が悪いみたいで額はかなり少なくなったけれど、彼の父親はカルカギルドに対して、自主的かつ見返りを求めない、金銭的な貢献を行なっているの。人徳者で有名だけれど、その分息子にも甘くて、現在進行形で溺愛しているみたいでね……。
 それに、カイグルスはギルド内での素行は悪くても、仕事先に迷惑をかけない外面の良さだけは持ち合わせているの。そういう理由で、ある程度は我慢しなきゃっていう暗黙のルールが存在したのよ」
「そ、そうだったん、ですね……でもティアたち、勝負の約束、しちゃいました……」
 フィーユは恐らく、俯きかけたティアに向けてにっこりした。
「ティアちゃんは彼に侮辱されたんでしょ? でもそれを呑み込まず、みんなのために立ち上がった……暗黙のルールに縛られて、顔を見るたびに『風魔法であのマント、雑巾にしてあげたいわ』って気持ちを抑えてきた私より、ずっとかっこいいわよ。
 あなたたちが立てた計画が成功すれば、ギルドの居心地がまた少し良くなる。応援しない理由がないわ……で、も!」
「ぐ……ッ!」
 棒術で鍛え上げたしなやかな腕に、ぎゅうううと力がこめられる。い、痛い!
「クロを交換条件にするのは悪手よ、絶対に駄目! 紅炎をカイグルスの駒に堕とすなんて……身体のどこかに消えない傷をつけられるのは目に見えているし、その三日間でクロの弱点を掌握されたら、ずっと縛られることになるかも知れないのよ!? そんなリスク、私は嫌……いいえ、私情は抜きにしても、カルカギルドに属する事務職員として、いずれ歴史を作るかも知れない仲間に、危険な橋を渡らせるわけにはいかないわ!」
「……成る程ね。分かってはいたが、尚更分からされちまったなあ……カイグルスよりずっと手強い相手だ」
 レインが困ったように肩を竦め、表情をふにゃりと緩める。
「落ち着いて、フィーユちゃん。オレのことを厄介な相手だと思ってくれていたのは、逆に光栄なことさ。
 信じてくれとは言わない。だが、代わりにお願いさせてくれ……オレに対する『厄介』って認識がどこから来るものか、改めて見定めてやって欲しい。オレは暗闇に身を委ねるようなゲームはしないのさ。その闇の中に勝ち筋がはっきり見えていない限り、絶対にね」
「フィーユ先輩、ティアからもお願いします! レインさんの『脚本』は凄いんです! それに、ちゃんと特訓だってしたんですよっ!」
「……『脚本』? 特訓?」
 フィーユは恐らく、首を傾げた。


 二日前。即ち、初回の作戦会議をした日の翌日。
 レインの望み通り、恐縮ながらティアに稽古をつけることになった。秘密の特訓という都合上、ギルドに併設された訓練場を使うわけにはいかなかったので、俺はティアとレインを、俺が普段使っている稽古場へ案内することになった。
 道すがら、自宅に寄って母さんに二人を紹介したのだが。ティアは、
「く、クロさんの、おおおおおお母さん……お、お綺麗ですっ、クロさんにそっくりですっ、クロさんを産んでくださって本当に本当に本当にありがとうございますっ!」
 と何やら感極まり、レインは、
「どうも、ご子息様には大変お世話になってます。いやあ~、ティアちゃんに言いたいこと全部言われちゃったなあ! 敢えて言い加えるとするなら……その紅色の瞳に満ちた深い慈悲、慈愛……敬虔なケラス教徒に、地上に降り立った女神様だと思われたことがあるのでは?」
「俺の知る限りではありません。行きましょう、もう行きましょう、同期だから今だけ敬語をやめます、さっさと来い」
 母親を目の前で口説かれる息子の気持ちをお察しいただきたい。レインがナチュラルに手の甲に口づけしようとするのを何が何でも止めようと、息子が彼の制服の裾をぐいぐい引っ張っているのを見て、
「ふふふっ……良い子たちね、クロニア。訓練、頑張ってね。終わったあとに余裕があれば、また寄ってちょうだい。久しぶりに……お菓子でも焼こうと思うから」
 母さんは、家事を丁寧にこなす。食事の支度から庭の手入れまで、怠ったことはない。
 けれど父さんがいなくなってから、凝った料理を作ることは少なくなった。お菓子を焼くという言葉を聞いたのは、本当に久々のことだった。

 柔らかな土の小径を歩いていく。左右を囲む木々はまだ緑葉の衣に包まれていないが、その分よく陽光が差し込んでいて暖かい。故郷を思い出すのか、ティアはギルドにいるときより伸び伸びと四肢を動かしていた。気づけばどこから来たのやら、冬が置き去りにした綿雪のような小鳥を肩に乗せていて、その鳴き声に合わせてハミングしていた。
「へえ……ギルドの周りも長閑なもんだと思ってましたけど、ここらへんはもっと長閑だな。空気の美味い良いところだが、魔物対策が若干心配ですね……」
 レインが物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回しているので、
「……あの、すみません」
「ん? オレに言ってます? だったら、さっきみたいに敬語抜きで良いですよ。呼び方もレインで構いません、オレも好きなように話しますから」
「じゃあ……レイン。ひとつ質問しても構わないか?」
「んー……ただ答えるだけじゃつまんないんで、こういうのはどうです? オレがアンタの質問に答えたら、オレもいっこ質問する」
 自分も好きなように話すと言ったが、少なくとも俺に対しては敬語を崩すつもりはないらしい。
 俺は特に考えもせず首肯し、
「レインの故郷は? この辺りの出身じゃないようだが」
「ここよりは東。オレの番ですね、」
 こ、答えてくれたのは良いが、それだけなのか?
 そう面食らっているうちに、
「アンタの人格は、『転生』の前から見て、少しでも変化しましたか?」
 思わず、口ごもった。
 レインは俺の「転生」のことを知って……いや、違う。彼がした質問は、二つの情報を引き出すためのものだ。
 一つ。若くして「紅炎」を戴いたクロニア・アルテドットは「転生者」であるか否か?
 二つ。「転生者」であるならば、記憶の再得時点において、人格への変化が起こったか否か?
 そして、俺は答えを躊躇ってしまった。この数瞬の迷いこそが、最初の質問への「肯定」だ。
「……変化して、いない」
「へえ~そうなんですね、返答どうも。んじゃ、次の質問をどうぞ?」
「…………どうして、カルカに? 故郷から最寄りのギルド、というわけではないよな?」
「故郷に残ってる必要性を見出せなかったからです。はい、オレの番。『碧水』様はご壮健ですか?」
 足を止めた。
 稽古場についたから。それもある。だが、強烈な違和感のせいが大きい。
 レインがカルカに移り住んだのが、前節の入会試験より以前だとしてもだ。俺と同時期にギルドに入会した、年齢も俺とさほど変わらない若者が、隠居同然の生活を長年続けている師匠の存在を把握している。その上、まだ弟子であると明かしていない俺に「ご壮健ですか?」と尋ねるなんて……奇妙極まりない。
 この国で、公的機関から「碧水」の称号をいただいているのは、師匠だけではないだろう。だがレインの言う「碧水」は紛れもなく、
「……元気だけど、今日は留守みたいだ」
「あちゃー、それは残念だ。『英雄』様に是非ともご挨拶しておきたかったんですけど」
 我が師、サリヤ・スティンゲールだ。
「ま、気を取り直して訓練、訓練。大将、お手柔らかにお願いしますよ」
 ちっとも残念じゃなさそうに、レインは笑う。この人の前では……俺の交渉技術は、職級に例えれば七級以前、つまりギルド入会以前。生まれたての赤児同然だ。
 警戒を怠ってはならない。そう自らを戒めながら、俺は、普段はサリヤ師匠が立っている位置に陣取った。仲間を導く師として。
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