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第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音

30.走る

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「未来の、ため?」

 鸚鵡おうむ返しにする俺に、レインは自分のライセンスを呈示した。

 魔石が白く輝いている。つまり、レインも今回の「強制配置」に関与することができない。

「滅多に出されねえだろう白が、ここに2人揃ったわけだ。よかったですね。オレもアンタも、生き残れますよ」

「……未来のために? 未来の誰かを、護るために? そのせいで今、他の誰かが……命を、落とすかも知れないのに?」

「何言ってるんですか? 登録戦闘員は採用された瞬間から、戦いの中で命を落とす可能性、殺意に食い殺される恐怖と共存しないといけない。先を読む力が足りずに、覚悟が決まっていなかったとしても」

 ああ。レインの言うことは正しい。

 俺は死にたくなかったから、事務員として採用されようとした。父さんがいなくなってから、死に物狂いで鍛錬に打ち込んだのも……いかなる脅威にも自分の命を奪われないようにするため。一緒に穏やかに長生きしたい、大切な人々を護るため。

「生き残りましょう、大将。それがカルカギルドの意思だ。生き残って……それから好きなように、事務員を目指したらいい」

 レインが、変わらず俺の肩を掴んでいる。心臓が早鐘を打っている。頭の芯がゆらゆらして、上手く定位置に収めていられない。

 それでも、だからこそ俺は……表情を、ふっと緩めた。

「……レインなら、どうする?」

 レインが、目を見開く。

「ベルスファリカ様!」

 駆け寄ってきていた2人の男性の片方が、こちらにそう呼びかけた。ベージュの軍服を上下に纏い、紅の徽章を胸に縫い付けた……シェールグレイ王国軍兵。声をかけてきた方は左手に携帯照明を、右手には、両者とも長槍を持っていた。

「その名で呼ぶなと、……いや、致し方ないか」

 レインと名乗っていた青年は、苦虫を噛み潰したような顔でそう呟きながら、紫色の瞳を伏せた。

 俺の肩から手を離し、駆け寄ってきた2人と向かい合う。2人は深々と一礼し、

「緊急事態にて許可なく参上致しましたことをご容赦願います! ザーラウド第六部隊長より通達! ガレッツェ家への対応に加わっていた全名を『大禍』沈静作戦に投入! 現在王都より第三、第四部隊がカルカへ向かっております! ラーヴェル家の御子息様には役不足かと存じますが、ベルスファリカ様には第六部隊長の補佐を願いたく!」

「私はギルドより、本作戦に関与しないよう命令を受けている。貴殿らに応えるためには、それを解かねば。

 ザーラウドは優秀な男だ。他隊の到着を待つ間であれば、彼単独の采配だろうと問題はなかろう。それでも『表向き』に私の補佐が必要だと言うならば、然るべき者より許可を。私はそれまで『保護対象』として、貴殿らと行動を共にする」

「はっ!」

 兵士の1人が、伝令のため走り去っていく。淡々と告げるレインの姿は、まるで別人のようだった。

 それも……そうだよな。
 これこそが、彼も白を出された理由だ。驚きはしたが、疑いはしない。

 世間知らずの俺でさえ、ラーヴェルの名は聞き知っている。

 シェールグレイの軍務卿の座を代々引き継ぐ大貴族。全王国軍を総括する、我が国の軍事の要。名門中の名門中の、名門。

 カルカで生活する人々ならば、生涯のうちに一度さえも会う機会がないはずの人物。『転生者』である俺が言うのもなんだが、完全に別世界の住人だ。

 「ここよりは東」。あの言葉は王都のことを示していて、母さんは恐らく、それに気づいたんだ。

「……ベルスファリカ様、と呼んだ方がいいだろうか」

 俺の言葉に、彼は横顔を向けたまま視線を流し……俺と正面から向かい合う。どこか寂しげに微笑み、唇の前に人差し指を立てて見せた。

「カルカにいる間はレイン・ミジャーレでお願いしますよ……ベルスファリカ・リグ・ラーヴェルではなく、ね。はは、参ったな……ちょろいアンタに秘密を握られることになるとはね」

 俺は一歩前へ出て、

「さっきの答えを、聞かせて欲しい。
 この状況で、レインならどうする? レインも、俺を温存するか?」

「…………あ~あ、マジで狡いなあ。そんな必死な眼、しちまって。勘弁してくださいよ、他人の采配なんてどうだっていいくせに」

 綺麗に整えられた眉を下げ、尖った犬歯を見せて。レインは困ったように笑った。

「平民だろうと、貴族のお坊ちゃんだろうと……女神様が落とされた火焔に、水をかけられるわけがないでしょ?」

「ありがとう」

 魔糸掌握。焦点へ統制。
 『速』。

 紅の魔糸が流れていく。疾走に必要となる両脚の強化。同時に、心肺機能を補助。

「行ってきます」

 走り出した。

 後方へと吹っ飛んでいく、カルカの街並み。動き出した王国、教団、ギルド。そのうちの何者かが住民たちを、俺が置き去りにした方向へと誘導していく。風の中からほんの一瞬聞こえただけの泣き声が、雪のように耳の奥に降り重なっていく。

 建物を迂回する時間が勿体無い。乗り越えられるだけの高さへ跳躍し、刹那に燃える炎のクッションで着地の衝撃を誤魔化し、また疾駆する。ひたすらに、ひたすらに、天災へと突っ込んでいく。

『くろなら、行くと思ってたよ』

 凄まじい速度で流れていく感覚の中で、京さんの声だけが、俺と共に走ってくれた。

 ごめんなさい。
 俺は言う、今なら京さんに届くと確信して。

 死が美しいものではないと知ったあの日から、死ぬことが怖いのに。あなたを、もう一度死なせてしまうことが怖いのに。

 お前の力がどうしても必要になる「未来」のために「今」は逃げろと、生き残れと……決断してくれたギルドさえも裏切って、理不尽な禍いの中へ飛び込んで。

 俺は生き残りたい。生き残りたい。その気持ちに嘘偽りなんてない。

 それでも、それでも……

『わかってる。君は、英雄になりたいわけじゃない。

 君は、みんな揃って長生きしたいだけなんだよね? 故郷で平穏に過ごす『未来』を護りたいだけ、なんだよね? そのために、自分にできることから……目を逸らしたくない、だけなんだよね』

 ごめんなさい、京さん。

『どうして謝るの?

 君は、「生き残るつもりがないのに、『行ってきます』なんて言わない」……そうだろ?』

 迷いは、ないはずだった。けれど京さんは存在しないはずの迷いを見つけ出して、掬い取って。それを……きゅっと、軽く手を握り込むことで消し去ってくれた。

『行こう。僕も……そばにいる。怖いけど、ちゃんと見届ける』

 ありがとう。
 受け継いだのが、あなたの魂で、本当に良かった。

 ドレスリートの屋敷と我が家が、目前まで迫ってくる。

 走る、ひたすらに。
 京さんが、ふっと息を漏らして笑い、

『僕もだよ、くろ』
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