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第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音

31.流れを止めよ

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 扉を開け放つ。

 我が家のリビングには、戸棚の上に飾られた家族写真に縋りつく母さんと、酷く怯えた様子の母さんに寄り添う1人の少女がいた。

「クロ様?」

 凛々とした声で俺を呼ぶ。上流階級に仕える者の証、白いエプロンを合わせた黒のエプロンドレスを纏う彼女の名前はシオン。

 焦茶色の髪はいつも、うなじの近くから三つ編みに結っている。ホワイトブリムの位置にも一切の乱れはなく、赤紫色のつり目からは気の強さを感じさせる。

 ドレスリート家の侍女であり、主従という関係ながらフィーユの大親友でもある、頼りになる女性だ。

「クロニア……? ああっ、クロニアっ!」

 青褪めた右頬に一筋の髪を垂らして振り向いた母さんが、表情から虚さを消し、息子に駆け寄り抱き締める。

 啜り泣く母さんを、強く抱き締め返す。

 母さんは父さんが亡くなった後、がりがりに痩せて、骨と皮だけになってしまうかと思った。それが少しずつ栄養を摂れるようになって、今は心配するような細さではない。だが……華奢なことに変わりはなかった。

「良かった、本当に良かった……クロニア、一緒に避難しましょう。あなたさえ生きていてくれたら、この家がなくなっても構わない……さあ、私と一緒に、」

「ごめん」

 俺は母さんの両肩を掴み、縋り付くような眼差しをまっすぐ受け止めて、この人のために練習した笑顔を見せる。

「俺は、父さんとの思い出が詰まったこの家を失いたくない。だから……行ってくるよ」

「そ、そんな……駄目よ、行っては駄目! お願いだから行かないで、ああ、ああ……!」

「シオンさん、俺が戻るまで母さんを頼む。なるべく遠くの避難場所へ」

 普段は無口なシオンさんだが、俺に手を伸ばす母さんを引き離しながら、

「お母上のご無事は、必ず。貴方も約束を違えませんよう。お母上の為にも、お嬢様の為にも」

 俺は頷き、躊躇いなく外へ飛び出した。

 再び疾駆する。灯りのない小道を抜け、ひらけた修行場を抜け、まだ草花の生い茂っていない獣道を抜け……

 網膜を貫くような碧い光。バシャアと破裂する水の音がする。水塊が滝のごとく落下し、大地を容赦なく叩きつける音が、する。

 狭まっていた視野が開き、まだ薄茶の多い平原へ到達した。大禍の核が、雨雲を生み出そうとしているのを視認。

 無色透明にしか見えない揺らぎが、人の耳では音として捉えることのできない唸りを上げ……碧色の光球を、無数に、無差別的にばら撒く。

 光から生まれた第一波は「透魚」。

 簡潔に言えば、水でできた大魚群。その身体は刃のごとく鋭く、空気中だろうと水中だろうと自在に泳ぎ、攻撃対象に群れを成して突進する。

「逃がすものか……こちらを、見ろ」

 剣を抜く。同時に広がっていく紅の波紋。
 魔力の源よ、今より最大火力で燃え続けろ。魔物の標的を、何物にも渡すな。

 『剣』。

 体内で増幅させた魔力を、上方へ拡散。各々に直線的な軌跡を描いて散った紅の魔糸が「剣」を模す。

 空になった体内の魔力を源からすぐさま補充。手中の銀剣の鋒を前方へ向けることをトリガーに、上空を埋め尽くした炎剣を一斉に飛ばす。

 渾々と、渾々と。
 魚を模し、更に波を模して押し寄せる。

 数には、数を。

 魔導学において、炎属性は水属性との相性が悪いとされている。しかし、そんなものは覆せる。少し多めに魔力を込め、魔糸統制におけるあらゆるノイズを省けば、攻撃能力は研ぎ澄まされ、苦手など容易く打ち砕ける。

 透魚の移動線上に降り注ぐ剣が、その熱が、身体を構成する水を蒸発させて消し去る。炸裂によって生まれた灰色のシミに、水属性の魔石が音もなく落ちる。

 残ったのは一匹のみ。前線を上げるのは愚策。間合いにまで引き寄せる。

 素早く下へ潜り込み、立てた剣を前方へ振り抜き、真っ二つに裂く。後方へ少し進んだ場所で消滅したことを確認、数秒後に迫る第二波のため、体勢を整える。

 透魚、更に数が多い。
 加えて、大型の「霧鮫」、15。その中の1頭はかなりの巨躯。

 俺は海を見た経験がないが、師匠にはある。そして、多少の狡猾さを持ち、鋭い牙だけでなく水魔法攻撃の術を持つ、この魔物との戦闘経験も。

 『剣』を創造、ただちに撃つ。
 狙いは透魚の殲滅、ひとつ。

 魔力充填。剣の柄を両手で握って下段に構え、手のひらから魔糸を直接流して得物を燃やす。

 蒸発していく魚の間を縫うようにして迫ってくる複数の「霧鮫」。動きはバラバラだが、巨体を浮かせるのに負担が大きいため、泳ぐ高さはほぼ同じ。

 噛み締めた歯の隙間からすっと音を立てて息を吸いながら、剣を後方へと振った、その反動を利用して身体を回しながら、

「おおぉぉおおおおッ!」

 『波』。横一線に、断つ。

 銀の剣を食らう火炎は、振り抜かれる勢いの間に急激な成長を遂げ、攻撃範囲内かつその高さに在る全てを薙ぐ。

 断面から噴き出す、透明なる血飛沫。
 12頭を狩れた、残りは3頭。

 煙を吐く剣を上へ放り、いつでも手元へ戻せるよう、炎で作った球に収める。そこから2歩後退。一頭が吐き出した水の弾丸が、俺の立っていた地面を抉る。

 『縮』、3連。

 再び弾丸を発射しようと、左右から敵を挟み込むように陣取った2頭が、尖った歯の先に水の魔力を集中させる。

 発射までに要する僅かな間に、俺は圧縮した火炎球をその2頭に向けて放つ。紅き爆散に、夜闇に隠れていた影まで飲み込まれるのを視線の端で確認しながら、

「はぁぁぁああっ!」

 残ったのは他と比して2倍の巨躯。浮遊に魔力を費やして上空から、暗い咥内に光る牙を見せつけんと大口を開けた、そこへ、突き上げるように魔力塊を撃ち込む。

 喉奥をぶち抜くとともに火炎球は爆散。派手で鋭利な水飛沫が、レインから貰った服を濡らす。

 呼吸は平常。魔力は紅蓮。

 上空を重たげな雲が覆い、大粒の雨が地を叩き始める。天恵だろうと天災だろうと、問題などあるわけがない。火炎で照らし続ければ良い、ただそれだけ。

 止まらない。決して。
 ここから先へは、何物も行かせない。
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