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第4章 悠久を渡る「黒虚」の暇つぶし
72.神に至る病
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『紅桜の節、10日。
午前8時52分、22秒、記録開始。
記録者は「転生者」としての記憶を再得。これにより、記録者自らを被験者とした実験が可能となる。
「前世」の定義について「記録者の引き継いだ魂の前・所有者である知的生命体が、出生し死亡に至るまでの一生涯分の主観的記憶」と設定。
「異世界」の定義について「記録者がその五感と魔糸にて把握している世界を『現実世界』と表現する場合、『現実世界』の範囲外に存する、人類または人類に相当する知的生命体を内包する世界」と設定。
「転生者」は「前世」を「異世界」にて経験する。
通説通り。
記録者の魔力量の増大を確認。
通説通り。
増大幅は生来と比較し6.25倍程度と予想。詳細なデータについては、本日午後4時の面談時に併せて測定、記録を行う予定。
これに伴い、記録者が作成した「黒虚」たる為に習得すべき虚属性魔法のリストを、記録者に向けたものへと再構築すること。
記録者の精神中に、別人格の発生を確認。
通説通り。
別人格は記録者との接触を試み、記録者はそれに応じる。
別人格の用いる言語が、記録者の母語であることを確認。別人格が、記録者の再得した記憶の前・所有者であることを確認。
通説通り。』
『蒼雲の節、21日。
午後1時08分、56秒、記録開始。
本日午前11時、リ・リャンテ皇宮にて、女皇陛下より「黒虚」の彩冠を戴く。
軍部における配属先は未定。
他、特筆事項なし。』
『橙灯の節、18日。
午後3時15分、41秒、記録開始。
記録者と別人格(以下、識別番号1と呼ぶ)を分離・抽出する実験に成功した。
識別番号1に提供した身体は、記録者の実父が記録者の10回目の誕生日を記念して記録者に提供した黒猫の人形、正確に言えば「縫い包み」である。
識別番号1の自立的な運動、発話を確認。
識別番号1は実験の中止を要求。
前述の通り、橙灯の節、2日(時刻における詳細な記録なし)より記録者の精神中に、更なる別人格(以下、識別番号2と呼ぶ)の発生を確認。
識別番号2について、識別番号1に対し情報提供を依頼。識別番号1は拒否、これにより記録者による尋問に移行。
質疑1:
「識別番号2は人間か」
応答1:
「貴女(記録者)の研究への情熱と直向きさは理解している、でも後悔させたくない」
質疑2:
「識別番号2は人外か」
応答2:
「質問を今すぐに中止して、消えたくない」
質疑3:
「識別番号2は女神か」
識別番号1の沈黙、直立姿勢からの転倒を確認。
記録者の呼びかけに対する、識別番号1の応答なし。
記録者は識別番号1の右肩を揺すり、再度応答を促す。
応答なし。』
「……女神」
がり、がり。爪を噛む。
国の為の研究。隣国フェオリアをはじめとした、他国との「交渉」を有利に運ぶ為のプロジェクトの一環、「彩冠」に耐え得る魔導士の育成計画。
研究者として選ばれた自己は、「転生者」と成ったことで、その育成者と育成対象とを兼ねることとなった。
研究室と実験室と皇宮とを、ひたすらに往復するだけの有意義な日々。
虚属性魔法の開発研究、その習得、可能性の実証。
記録、記録、記録、記録、記録、記録。
「…………女神」
爪を、噛む。
『必要最低限の睡眠』
『必要最低限の栄養補給』
それらから「必要」という文字が失われた。
先程、そう実証された。
記録の山が連なるだけの、研究室。
床に落とした硝子のインクボトルの破片、溢れて木床に染み込んだ黒。とっくに乾いているというのに、そこにだけは、無意識に紙束を置くのを避けていたらしい。
父が大量に遺した、草臥れたぶかぶかの白衣に身を包んだ自己。片隅でも中央でもない半端な位置に蹲り、欠けることさえなくなった親指の爪をひたすらに噛みながら、初めて無駄な思考をした。
国の為に生きてきた。
『黒虚《兵器》』を創り出す為に生きてきた。
兵器として生きることになった。
神格に昇りつめた。
神と成り、それでも皇国に、女皇陛下に、跪く理由とは何か。
呼吸も心拍も停止した。何一つ施す必要が、生活を繋ぐ必要がなくなった。
それでも、生きていると記録できるのか。
生存の定義とは? 死亡の定義とは?
神とは何か? 自己とは、何か?
……いい。
今すぐ、答えに辿り着く必要はない。
時間なら、たっぷりあるのだから。
全てが、どうでも良くなる程に。
【 】
『どうして、ぱたぱたしないの?』
言葉を覚えたばかりの頃に。
京さんだったことを思い出す前……母さんの胸に抱かれ、父さんの背に護られるだけだった、幼少の頃に。
紅葉のように鮮やかな翅を、ぴたりと閉じた蝶の死骸。そっと手のひらに乗せて、母さんにそう尋ねたことがあった。
『この子は、頑張って生き抜いたのよ』
俺と目線の高さを同じにして、母さんはそう答えた。俺に遺伝した色の瞳を、寂しげに細めて。
生きていれば必ず終わりが訪れることを、だからこそ生は尊いのだということを、生まれたばかりの俺は知らなかった。
何一つ、失ったことがなかったから。
それでも。母さんと一緒に、庭の片隅に蝶を埋めて、小さな小さな墓標を立てたときに……どうしようもなく悲しくて、寂しくて、理由もわからないままに涙を流した。
日々の平穏は勝ち取るものだと知って、勝ち取る剣に憧れて。
「誰かの為に」生きようとした。
人生の終わりが必ずしも、あの蝶の姿のように美しく、悲しいだけのものではないことを知って。
「自分の為に」「大切な誰かを護る為に」と、生きる目的は移ろった。
英雄、と呼ばれるようになって。
いつの間にか。自分にしか果たせないことなら、自分が果たさなければ、と……
『くろ。神様に成ろうと、しないで?』
『一人で何でも出来なくたって、大丈夫』
「……かみ、さま、に……成ら、な……」
金色も漆黒も、天も地も。
あらゆる境界線を喰らい尽くして、孤独に踊る紅だろうと。
いつか必ず、燃え尽きるときがくる。
『其れは、人の子の見る現』
『おいで』『わたくしの、愛しい炎』
人の形をした何かが、呼んでいる。
差し出された、その手。無垢だった頃ならば、すぐに握っていただろう。悠久の意味も知らずに。
「……っ、はぁ、……はぁ……」
身体も、身体を這う汗さえも、炎のよう。
自と他さえも、ゆらゆら、ゆらゆら揺らぐ。
それでも、それでもまだ、夢を見る。
現では何も失われていないと、信じている。
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