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第4章 悠久を渡る「黒虚」の暇つぶし

77.悠久を渡る「黒虚」の暇つぶし

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 『黒虚』は陽炎のように立ち上がる、月光色の虹彩を妖しく輝かせながら。

「うふふ、ふふっ、ふふふ……!
 感じる、感じるよ、尊貴なる気配ッ! 策謀も綺麗事も、何もかもを圧倒的な力で捻じ伏せる美しい火炎ッ! ああ、ああ、ボクと同類になってくれたんだね……こんなにも昂まる『想定内』が、これまでの神生であっただろうか!?」

 想定内、か。

 カイグルスとの一件について、ベルが予言書のような台本を書き上げたように……『黒虚』もまた、全てを見通している。恐らくは、ここから先も。

 それなら、遠慮は要らないな。

「ねえ、ねえねえねえ、ボクの神様ぁ!
 ボクのことを恨んでる~? そんなワケないよなぁ、ボクはキミを神様にしてあげただけ! キミの3人の元・仲間に可愛い程度の夜更かしを強いただけで、キミが何よりも大事にしてる命はひとっっっっつも、」

「いい。もう、要らない」

 魔糸掌握、焦点へ統制。
 『鎖』。

 右の手のひらの上へ魔糸を流す。
 師匠から教わった構築理論に基づき、『封印』効果を編み込んだ鎖を生成、圧縮、カプセル状の特殊結界へと収納。

 真上へ、投じる。

 制圧した結界の境界線に接触したことで、カプセルが破裂。鎖は分散し、極めて薄い魔力壁を蛇のごとく駆け巡り……まばたきの合図で噴出、あらゆる方向から『黒虚』を狙う。

 やっぱり。躱すどころか、相殺さえしない。
 ならば四肢の自由を奪う必要ない、狙うのは首ひとつでいい。

 一連を除き、全てがブラフ。右斜め前方より出でた本命が、華奢な首の周囲をぐるぐると回り、その皮膚に吸いつく。

 ……捕らえた。
 紅色の、痛みを伴わない拘束。

 『黒虚』はゆらりと数歩後退した。くはっと息を吐いて、柔らかな手、震える指先で自らの首に触れ……次第に、爪を立てて掻きむしる。

 青褪めた頬も、大きく見開かれた銀色の瞳に映った絶望さえも、

「……嘘でしょう?
 何の罪も犯していないボクを、殺すの?」

 何もかも、偽物に過ぎない。

「心にもないことを言う必要はない。どんなに誘導しようとも、俺は貴女あなたを殺さない。
 命を奪うことでは、貴女を罰せないから」

「は?」

 『黒虚』は苦しむふりを止めて、痩せこけた頬に触れた。殆ど、骨と皮だけの手で。

 ところどころ跳ねた、ぼさぼさの黒いロングヘア。ぶかぶかの白衣の下に纏ったワンピースも、左膝に大穴の空いたタイツも黒。

 銀色の瞳の下にくっきりとクマを残した、20代前半くらいの酷く痩せ細った女性。己以外の何かを重んじるばかりで、己を慮ることをまるで知らなかったような。

 俺が暴いた『黒虚』の、本当の姿だ。

「貴女の中に特殊結界を展開した。
 魔力を封じ、魔法を封じる。今は見ることが叶わないだろうが……その紅い鎖が皮膚に刻まれている限り、貴女は魔導士として『無害』になる」

「……何、それ」

「貴女は聡明で、俺について知り尽くしている。俺は貴女の思惑通りに『神格』に昇り、貴女の思惑通りに『黒虚』に憎悪を抱いた。俺が次にとる行動も、想定内なんだろう?」

「何っだよ……何なんだよぉ、そのくだらねえ態度はぁ!? 憎悪を抱いた!? 嘘吐くんじゃねえよ、道端に蹲る孤児でも見るみてえな眼ェしやがって! 微温ぬるい、微温い微温い微温い!

 『紅炎』サマなら裁けよォ、何の為の炎なんだよォ!? 憎悪しろよ、激怒しろよ、罰しろよ、償わせろよ、責めろよ、攻めろ、攻めろ攻めろ攻めろ攻めろよォォオオ!!」

 地団駄を踏み、両手を振り回し、喉を傷つけるような刺々しさで叫ぶ。華奢な身体から氾濫した黒き魔糸が、踠き苦しみ錯綜する。

 この世の全てが彼女であり、同時に彼女ではないとするなら……本物と偽物の境界線さえ、最初からないのかも知れない。

「嘘なんて吐いていない。俺は貴女を心の底から憎んでいる、物凄く大嫌いだ。
 だから……貴女の望みだけは、絶対に叶えるわけにはいかない」

「……望み?」

 ベルが、俺の言葉を繰り返す。

 ベルに対する返答にもなるように、俺は問うた。悠久を渡る『黒虚』のひとときの気紛れ、戯れ、暇つぶし……その本当の狙いを。

「貴女が消してしまいたかったのは……老いることも死ぬこともない、貴女自身だったんだろう?」

 暴れ狂っていた魔糸の動きが、止まる。

 人心は遠くにあるものを追い求めることが多い。やがて『白氷』に至る少女が生を求めたのに対し、かつて人だった『黒虚』は永い永い生に終止符を打つことを求めた。

 俺自身の身体の変化でわかる。神体は人体のように脆く儚いものではない。彼女が実際に試してみたかどうかは分からないが、普通の方法では、己を殺めることなど不可能だろう。

 だから彼女は普通ではない方法を考えた。自らと同格の存在であれば、自らを消滅させることができるかも知れないと。
 そして、その可能性に縋ることにした。

 ……これもまた、憶測に過ぎない。

 それでも、彼女は自らこう語っていた。
 女神様が、大嫌いだと。

「…………知らない」

 ラウラは呟いた。

「自己の望み等という、曖昧で記録に値しないことに関しては覚えていない。
 おい、粛清は? さっさと殺せよ」

 熱に感情を溶かして。
 紅光に、表情筋の発達していない顔を染めて。
 ラウラが、一歩前へ出る。

「殺せ」

 一歩、一歩。前へ踏み出すごとに、ひとつずつ、虚な願いを積み重ねていく。
 魂の抜け殻のような、悠久の成れの果て。

 ほんの束の間、思考した。

 命を冒涜するようなゲームを仕掛けられていなければ。魔糸が尖る程の憎悪を抱いていなければ。初めから、彼女を消滅させられるだけの力を、持っていたとしたら。

 俺は、彼女の望みを叶えようとしただろうか?
 俺にしか果たせない務めだから、と。

 ……ありえない。

「貴女の魔法すべてを封じ続ける、世界の裏側にいようとも。俺の大切な人々の視界に、決して入らないどこかで、穏やかに生きて欲しい。
 それが、貴女への罰だ。質疑は受け付けない」

 ラウラの足元に、転送用の魔法陣を構築。
 下へ下へと引く重力から解き放たれたように、ラウラの黒髪が、白衣の裾が、ふわりと浮かび漂う。

 乾いてひび割れた唇の端を微かに歪めて、ラウラは最後の呪詛を、力なく吐いた。

「残酷ね、あなたは」

「非情にさせたのは貴女だ。
 ……さよなら。2度と、会いたくない」

 魔法陣が、紅光を深くする。
 全てが冗談だったようにラウラは消えた。

 それでも俺には、彼女の実在がわかる。俺が『黒虚』を封じ続ける限り、ずっと忘れることはない。

「……っ、はあ……」

 苦しげに息を吐く音に、はっとした。

 俺は無意識のうちに、ベルの周囲に熱を緩和させる結界を張ったようだ。だが、『紅炎』と『黒虚』の魔糸が酷く縺れ合った空間に長居をすれば、体内の魔糸循環に悪影響が生じるかも知れない……!

 ベルの元へ戻らなければと、振り返り一歩踏み出した。その途端、

「あ、あれ?」

 片膝をついて項垂れるベルが、すぐ目の前に。
 一瞬で間合いを詰めた? まるで、ベルとの間にあった空間を透過したような……

「……アンタ、瞬間移動まで出来るようになったんですね。魔法陣も詠唱もナシで」

 今のは、瞬間移動だったのか?

 意思に関係なく勝手に発動したものを「出来る」とは言えない。一刻も早く制御出来るようにならなければ……と、とにかく!

 この特殊結界の所有権は俺に移っている。結界の存在する位置を微調整し、解除。暗く燃え続ける空間は、しゃぼん玉が弾けるようにぱちんと消え去った。

 煌々と灯りの点ったベルの部屋。カーテンの狭間には夜。上手く、家具の位置を避けて戻ってくることができたようだ。魔力を閉じ込める檻がなくなれば、密集した魔糸は自然に分散していくはず……

 ベルをベッドに座らせて、何か飲み物をと振り返った。卓上に、林檎ジュースを湛えた小皿が残されていた。

「それ飲んでたの、覚えてます?」

「……覚えている」

 グラスを手に取り、ベルに手渡した。

「必死に翼を動かして空を飛んだことも……大きな苺を頬張ったことも、みんなの肩に乗せてもらったことも、はっきりと」

「へえ。じゃあ上空からフィーユちゃんの胸に飛び込んだことも勿論覚えてますよね?」

「なっ、そっ、あっ……ああああれは、わざとでは……!
 くう……わざとでは、ないけれど、事実では、ある……みんなに、多大な迷惑をかけてしまったことも……」

 頬に集った熱を散らすように、頭を左右に振る。

 まずは謝らなければ。感謝を伝えなければ。
 そして、説明しなければ。クロニア・アルテドットという存在に起こった、些細では済まされない変化について、きちんと……

「……なんだ、身構えてたのが馬鹿馬鹿しいな。
 アンタ、オレに言わなきゃならねえことが、あるんじゃないですか?」

 目映い光を見るように細められる、紫色の瞳。

「……うん。その……ごめんなさい」

「そうじゃないでしょ?」

「……? 助けてくれて、ありがとう」

「だーから、違うっての」

 出来の悪い生徒を前にして、教師は後方に手をついて身体を伸ばし、困ったように眉を下げて笑う。

「仕方ねえな、こっちから言いますよ。
 おかえりなさい、クロさん」

 何故だろう。必要なくなった筈の呼吸が、胸の鼓動が……今だけは再び、主張しているようだった。

 俺は、生きているのだと。

「……ただいま、ベル」
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