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第5章 照り輝く「橙地」の涙雨
89.嵐のようなデート「閉幕」
しおりを挟むフィーユのお父さんは、偶然にもカルカの町長……今日出会ったエリーさんのお父さんと会食の予定があり留守だった。だから俺とティアは、焦茶と深緑を基調とした応接室にて、フィーユのお母さんとだけ挨拶を交わした。
「おかえりなさい、ティアちゃん! 楽しかった? 転んだりなさらなかったかしら?」
「ただいまですっ、フィーユちゃんのママさん! 今日は、ティアにしては、あんまり失敗せずに済みました……ふへへ、フィーユちゃんのママさんが、お帽子の素敵な被り方、教えてくださったおかげかも、です……!」
「はあ~、なんて愛らしいのでしょう! あたくしの娘にしたいわあ~!」
ドレスリート家当主婦人は、佇まいや装いなどは落ち着いた雰囲気の美女なのだが、私的な空間では無垢な少女のように朗らかになる。
今も、ティアを正面から抱き締め、幸せそうに頬ずりしている。娘に遺伝したたわわに実りすぎた胸に、ティアの顔が思い切り埋まっている……だ、大丈夫かな、呼吸ができているだろうか?
「~~っ! ~~っ!!」
できていないみたいだ、手をバタバタしている。それに気づいて「まあ、ごめんあそばせ!」とティアを解放したお母さんは、俺に視線を移した……
く、来る、いや、いらっしゃる!
「クロちゃ~ん、お久しぶり~! お母様とは時折午後のお茶会を楽しんでいるけれど、クロちゃんには全然会えないのですもの……壮健でいらした? また麗しさに磨きがかかったのではなくて? はあ、息子にしたいわあ~!」
「は、はい、大変元気です……!」
熱烈なハグに耐える。相変わらずとんでもない柔らかさだ、身長が高くて本当に良かった……!
「もう、お母様ったら! 『彼』を待たせてるんだから、ボディータッチはおしまいッ」
フィーユが母親と幼馴染を引き離す。
正直、助かった。
「まあフィーユちゃん、そうでしたわね。あたくしったら、つい2人が愛らしくて……」
お母さんは臍の前で両手を重ね、悠然と微笑した。
「改めて、お礼申し上げますわ。娘と尊い絆を育んでくださって、ありがとう存じます。今夜は、ごゆるりと楽しんでいらしてね」
今夜は……?
事情を飲み込めていない俺とティアは、フィーユに先導されて廊下を進んだ。
ドレスリート邸は広いが、幼馴染である俺はよく招待を受けていた。だから分かった、行先はフィーユの部屋ではなく……
「食堂」に続く扉の前に、ドレスリート家に仕える侍女であり、フィーユの大親友でもあるシオンさんが控えていた。
黒いエプロンドレスをいつも通りに纏った彼女が、惚れ惚れする程に美しい一礼をする。
「おかえりなさいませ、お嬢様。
お待ち致しておりました、お客様方」
そして、無表情のままにさっと扉を開いた。
呆然と、室内へと足を踏み入れる。
橙光を放つシャンデリアの下、純白のクロスが掛けられた食卓を、美しく彩る料理の数々。日中は中庭の見える大窓が、濃紺に染まって鏡と化している。壁に凭れて自らの正装を眺めていた1人の男性が、こちらを振り返って垂れ気味の瞳を細めた。
「どうも、こんばんは。
戸惑ってる顔も素敵だよ、ティアちゃん。クロさんも……残念でした~、今宵はオレも一緒で~す」
「ごめんねレインくん、待たせちゃって。待ち合わせの時間、もう少し遅くしておけば良かったかしら?」
腰に両手を当てたフィーユが、半目になって問う。レインは尖った犬歯を覗かせて苦笑した。
「はは、エリーちゃんとデートしてたことを気にしてるのかな? 君なら分かるだろ、アレは互いに本気じゃない……名残惜しかったが、陽が沈む前に解散したさ。
それに、こっちの方が先約だからね」
「れ、レインさん? それに、美味しそうなお料理が沢山……あのぉ、フィーユちゃん、これって……?」
そのとき、俺はようやく気づいた。
今日俺は、フィーユとティアに1揃いずつ服を選んでもらった。それは元々、フィーユ1人との約束であり、『黒虚』の襲撃によって叶わなかったことだ。そして、俺が服を新調しなければならなかった理由は……
俺は、ちょっぴりむすっとする。
「ティアに内緒にしておくのは納得できるが、どうして俺にも言ってくれなかったんだ?」
「そんなの、アンタに隠し事ができるとは思えなかったからに決まってるでしょ?」
「ぐっ……!」
レインから痛烈な言葉のパンチを貰った。フィーユが俺と目を合わせようとしない、どうやらそれが真実のようだ……。
「ふえ、ええっ? ど、どういう……?」
困惑を続け、俺達3人の顔を見回していたティアの両手を、フィーユが掬い上げた。
「今夜の主役は、ティアちゃんなのよ。今から始まるのは、お祝いのパーティー!
五級への昇級、おめでとう!」
「……あ……」
何事かを紡ごうと唇をぱくぱくと動かしながら、漏れ出したのは一音だけ。白黒させていた琥珀色の瞳に、にわかに涙の膜が輝き、やがて大粒の真珠がぼろぼろと零れ落ちた。
俺のせいで、……いや。
今日だけは自分を責めない、そう決めたんだった。今夜はただ、誰よりも心優しい1人の女性の努力が、ギルドに認められたことを全力で祝おう!
ええと……あ、あれ?
あの日しっかり用意していた筈のお祝いの言葉が、出てこない。遠い遠い昔の記憶みたいに。俺が脳内のページを必死に手繰っている間に、レインが歩み寄ってきた。
「おめでとう、ティアちゃん。
全く、ギルドの上層部も見る目がないよなあ。ティアちゃんのように才のある女性を、五級にとどまらせているなんてさ」
「ちょっ……れ、レインくん! それ、私が用意していた言葉と殆ど同じ……いいえ、こうなったら、乾杯までにもっと素敵なお祝いの言葉を考え、繰り出してみせるわっ!」
幼馴染が胸を凛と張り直す。本当に負けず嫌いだ……じゃない、このままでは一言も発せないまま宴が始まってしまう!
追い縋るように、黒手袋をはめた利き手を無意識に伸ばす。
「あ、あの……っ」「ふ、ふえぇぇぇえええん!! ちょ、ちょっと待ってくださぁぁああい! 駄目ですぅ、嬉しすぎてぇ……ティア、ティア、もう、どうしたらいいのかぁぁぁああ!」
ああっ! ティアが本格的に泣き始めたことで、俺の声が掻き消されてしまった!
「ふふっ、主役なんだもの! 堂々と胸を張って、好きなだけ食べて飲んで、好きなだけ騒げばいいのよ! 若者らしく、ね?」
ああっ! みんなが席の方へ歩いて行ってしまう!
いっそのこと、今度こそ壁と同化して、3人が仲睦まじく賑やかにしているのを黙して見届けようか……そんな考えが浮かんだとき、主役がちらとこちらを振り返った。白兎のように赤い眼で、鼻声で、
「ぐずっ、ゔゔっ……ぐ、グロざぁん……」
この好機を逃してはならない!
お腹に力がこもるように、少し足を開く。
「ティア! ティアは、本当に強い! 人としても、戦士としても……!
優しい夢を叶える為に、この先もティアを助けていきたいと、心から思う……昇級おめでとう!」
ティアは変わらず涙を流しながら、それでも笑顔を浮かべてくれた。仲間からの賛辞に喜んでいるのと、謙虚さゆえに照れているのと、ほっと安堵しているのと……恐らくは、それら様々な理由の入り混じった笑顔だった。
俺達はそれぞれ席について、主役が耳まで真っ赤になりながら辿々しく挨拶した後で、乾杯した。
料理の殆どはドレスリート家お抱えの料理人が作ってくれたもので、どれも絶品だった。
栄養をとる必要がなくなってから、俺が食事において重視するものは量より質に変わった。京の世界でいう「バイキング」形式の食事は俺のスタンスによく合っていて、彩豊かな料理を少しずつ皿に盛って、味や質感などをゆっくり確かめながら食べた。
宴の最中、ティアは時折、使命であるかのようにむんっと胸を張った。俺は好きなだけ飲食し、フィーユとレインが……若者らしいかは分からないけれど、巧みにずっと繋いでくれる会話に耳を傾けていた。
賑やかなのに、穏やかな夜だった。
日常ではない特別な夜だ。でも……きっと俺が護りたいのは、こんな時間なのだろう。何だかとても小さく映る、赤く熟れた苺を見つめながら、そうしみじみ思った。
群れていた雲は遠くへ流れたのか、濃紺を星々が彩っていた。
ティアはレインが家まで送り届けてくれるというので、ドレスリート家の鉄柵の前で解散となった……のだが。
「あ、あの、クロさん。お別れの前に、お伝えしたいことが、あって……」
琥珀色の瞳をやや伏して、ティアは俺のジャケットの裾を握って言った。
だから俺はフィーユとレインに断って、2人の視界には入るけれど、潜めた声は届かない道の片隅へ向かった。
ティアと向かい合う。実戦稽古の直前のような、真剣そのものの眼差し……フィーユが用意してくれた温かいタオルを目に当てていたおかげで、彼女の目元の腫れはひいていた。
「その、ですね……クロさんを取り戻せた、あの夜に……あたし、クロさんから何の音もしなくなっちゃったって、思ったんです」
心臓がきゅうと縮まるような感覚。
何の音もしない、その通りだ。肺は酸素を求めることを止め、心臓も鼓動を止め、人体を模した身体を駆け巡るのは魔糸のみ。
生命の息吹のようなものは、もう、俺には。
「でも、」
ティアは逆接を用いて、続ける。
「本当は、違いました。笑ったときにちっちゃく息を吐く音、新しいお洋服のこすれる音、さっさっ、って綺麗に整った足音。クロさんからは、クロさんの音がします。あたし、ずっと……手を繋いでる間も、繋いでない間も、聞いてて……」
ティアは、とても耳が良いから。俺がお祝いを伝えられたのは、ティアが俺の細く頼りない声をちゃんと聞き取ってくれていたからだと、今更気づいた。
「あたし……あたしは、今のクロさんの音も、好きです。今のクロさんが、好きです」
「……、」
独り言のような、囁き。縮まっていた偽物の心臓が、温かいもので満たされる。
今夜はティアの為のお祝いなのに。その柔らかな熱が喉元まで迫り上がってきて、上手く言葉が出てこない。
やがて、ころんと出てきたのは、たった一言だけだった。
「嬉しい」
涼風が、火照った身体に心地良く寄せる。
故郷に、秋が訪れようとしていた。
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