平行世界遠眼鏡

穏人(シズヒト)

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 私は別世界の私の絶望をさんざん覗き見した後で、また別の並行世界を覗き見ることに決めました。とりあえず遠眼鏡の、指定したものを見せるという能力については信じて良さそうに思いましたが、しかし犯人を間違いなく映しているという確証までには至らなかった。もしかしたら間違っているかも。私は決して、誰でもいいから人を殺して憂さを晴らしたいわけではないのです。私の妻を殺した犯人だけを殺したいのです。そいつが今ものうのうと生きているなんて、許さない。許せない。そいつだけは確実に殺す。だから間違えるわけにはいかないんです。もしも間違えて、復讐は済んだと思い込んで、実は本物の犯人を取り逃がしていたらどうしよう。そんなことは絶対に許されない。だから私は、犯人は絶対こいつだという確たる証拠が欲しかったのです。
 私は遠眼鏡の目盛りを別の並行世界に合わせました。この遠眼鏡のここの目盛りをね、こうやって弄りますと、別の世界を見られるのです。触るな! ……ああ、いや、すいませんが、今は触れるのはやめてください。私は今、とあるひとつの世界を見ているのです。その話も後でしますから、今は触るのはやめてください。
 私は遠眼鏡の目盛りを変えて別の並行世界に合わせました。そして遠眼鏡に指定しました。私の妻を殺した犯人を映して欲しいと。しかし、そこに映ったのは、最初の並行世界で見たのと全く別の人間だった。性別も違った。女だった。私達の家から、三軒離れて住んでいる女。どうしてだと思います? 遠眼鏡が間違っている? いいえ、これはね、並行世界の性質を考えれば至極当然のことだったのです。
 簡単に言うとですね、並行世界というものは、私達のいるこの世界とはまったく別の可能性を辿っていった世界なのです。だから私達のいるこの世界と、似通っている。でも何かが違う。その違いがなんなのかは観測しないとわかりませんが、例えばあなた、あなたが一体何者かは知る由もありませんが、あなたが医者の世界もある。弁護士の世界だってある。スーパースターの世界もあるだろうし、宇宙飛行士の世界もある。それと同じように、あなたが犯罪者の世界も、あなたが浮浪者である世界も、あなたが不幸な世界も、あなたが死んでいる世界も……並行世界というものは、大まかに言えばこういうものです。この世界、他の世界と、全く同じことが起こり得ているとは限らないし、我々の想像外のことさえ起きている世界だってあり得る。例えば、大まかなことを言えば、第二次世界大戦が起こっていない別世界、この国が存在していない別世界、人類が誕生していない別世界、そもそもこの星がない別世界……だってきっとあるはずです。むしろ、我々がいる世界の方が、並行世界全体で見れば珍しいかもしれないですね。何処かで聞いた話ですが、宇宙は本来10の500乗通りの可能性があるそうですよ。その中で生命が存在し得るのは、ほとんどゼロに等しいと……でも、そんな都合の良すぎる奇跡が、起こるなんてあり得ないから、生命のいない10の500乗通りの宇宙は並行的に存在していて、我々が覗き見れないだけで、我々は自分の見れるこの宇宙だけを唯一だと認識している。だから奇跡のような可能性が結実していても不思議ではない……本当かどうかは知りませんし、私のこの解釈自体間違いの可能性もありますが、だから、並行世界から鑑みれば、我々はいない方がむしろ当たり前かもしれないですね。いることが当たり前と思っているのはここにいる我々だけで、並行世界から鑑みれば、我々などいないに等しい。何を考え、何を主張し、何を誇り何を信じ何を叫んで生きたところで、我々は10の500乗通りの宇宙にたまたまできた泡でしかない……まあ、そんなことはどうでもいいですが。他の並行世界に我々が居ようと居なかろうと、我々の思考でさえすぐに弾ける泡沫だろうと、そんなことはどうでもいいし、どうしようもない。ははは。
 ですから、話を戻しますと、私の妻を殺した犯人が並行世界では別人でも、別に不思議ではなかったのです。別世界に生命がなくとも何の不思議もないように。その結論に至るまでには随分掛かってしまいましたが。
 私は焦り、もう一度遠眼鏡に念じ、やはり私達の家から三軒離れて住んでいる女を確認すると、また最初に見た世界と同じことを始めました。東京タワーは見えるか。万里の長城は映るのか。エッフェル塔は眺められるか。まあそのおかげで、私は並行世界の性質を実感することができたのですが。ええ、東京タワーがない世界も、万里の長城がない世界も、エッフェル塔がない世界も、その他有名なシンボルがない世界も星の数ほどありました。だから言ったじゃないですか。我々が当たり前にあると思っていることが、むしろない方が当たり前、なんてこともあるのですよ。私は別の世界を見ました。そこでは近所のコンビニのバイトの青年が妻を殺した犯人だった。また別の世界を見ました。小学校からの音がうるさいと、クレームを入れるのが趣味のような老人が犯人だった。また別の世界を見ました。私達と縁もゆかりもない、通りすがりが犯人でした……この話、まだ聞きたいですか? ええその通り、妻を殺した犯人は、同一ではなかったのですよ。もちろん同じ人間が出てくることもありましたが、単純に、私が見てきた犯人達を全て候補に入れるのならば、二百人以上ぐらいが容疑者になるのではないでしょうか。多いですよね。全くふざけた話ですよ。いくらなんでも、何故妻を殺した犯人にそんなにバリエーションがあるのでしょうか。いくら並行世界とは言え……しかし、それが遠眼鏡に映った事実なのだから仕様がない。
 そのくせ私が妻を亡くし、警察という望みも絶たれ、街頭に立ち、声を上げ、ビラを配り続け、いつしか浮浪者になっていく、それだけは不問律のように一切変わらなかったのです。不思議ですよね。まったく腹が立ちますよね。妻を殺した犯人は二百通りも種類があるのに、妻を殺されるという事実、そして私が彷徨い続けるという事実はほぼ固定されている。これが神の思し召しだの、運命だのと言うのなら、神様というものは随分性悪ではないですか? もしそんなヤツが本当に神様だと言うのなら、私はそいつの脳味噌にもうなんだってしてやるのに。
 私はどうするべきか考えました。いっそ、遠眼鏡の示した容疑者全部、二百人全部殺してやろうか? 本音を言えば殺してやりたい。そいつらの中に私の世界の犯人がいる可能性は高い。例え犯人でなかったとしても、別の並行世界では犯人であるのに間違いはない。であれば、並行世界の罪の罰をこの世界で受けたとして、何の障りがあるのでしょうか。並行世界で彷徨っているもう一人の私達のために、私が罰を下してやる責務が私にはあるのでは?
 しかし、私はしませんでした。何故か? 私が凡人だからですよ。いくら気勢を吐いたところで、私は普通の、何処にでもいる、ありきたりで、平凡で、ありふれた、取るに足らない、無力で無能な、そして善良な凡人なのです。そんな私が、二百人もの人間を、一体どのような方法で殺すことができるでしょうか。例えば何処ぞの体育館に閉じ込めて、一気に火をかけて焼き殺すとか? 例えそれが可能でも、取り逃がしたらどうします? 私の犯人を。妻を殺した犯人を。私は別に、人間を大量に殺して憂さを晴らしたいわけじゃない。たった一人を殺したい。そんなささやかな、控えめな、慎ましい望みしか持ってはいない。けれどもし二百人以上も手に掛けて犯人だけを取り逃がしたら、私、殺し損じゃないですか。それにその二百人の中に、この世界での犯人が確実にいる保証もないし。それにまあ、例え別世界では犯人でも、この世界では善良な人間かもしれないですからね。その罪への罰はその世界にて受けるべきで、別世界の人間なら、別人で、無罪でしょう? そんな無実の人間を、殺すなんてとんでもない。倫理とかいうヤツに従えば多分そうなんじゃないですか?
 私は途方に暮れましたよ。ああどうしたらいいんだろうって。この遠眼鏡が、例えば過去を映せるならば良かったけれど、この遠眼鏡が映し出せるのは現在と完全に並行なのです。この世界の過去と未来を垣間見ることはできないように、並行世界の過去と未来も、垣間見ることはできないのです。
 だから、私は見続けるしかなかった。土台見続けることしかできませんけど。目盛りを合わせて、別の並行世界を見て、その世界の犯人を見て、その世界の私のことも見て、目盛りを合わせて、別の並行世界を見て、その世界の犯人を見て、その世界の私のことも見て……毎日毎日毎日毎日ここに座って、ここに座って、ずっとずっとずっとずっと並行世界を眺めていた。犯人を探していた。殺したくてたまらなかった。でも見つからないんです。どうしていいかもわからない。果たして地獄というものは、私の場所より過酷でしょうか。地獄に堕ちる罪人は、私よりも苦痛に塗れて無様に喘いでいるのでしょうか。そうならいいと思うのです。だって私の方が地獄的なら、地獄なんて、一体何の役に立つんです。私はこんなに平凡で、善良極まる人間なのに、そんな私の方が苦しいなんてそんなのおかしいじゃないですか。私がこんなに苦しいのだから地獄に堕ちるべき人間は、私よりもっと苦しむべきだ。でなければ地獄の意味がない。ねえ、あなたはどう思います? 地獄って、私がいるこの場所よりも酷い場所だと思いますか? どれぐらい酷い場所ですか? 垣間見てみたい。見れたらいいのに。私よりも苦しんでいる連中の姿を見れたらいいのに。ああでもこの遠眼鏡では見れないから、地獄なんていうものは、やっぱりこの地上以外に存在しないものでしょうか。だって地上も地獄も、どちらも「地」にあるものですから、地獄が地上にあったって別に不思議はないでしょう?
 私はずっとずっとここに座って遠眼鏡を眺めていました。ずっとここにいて、風の日も雨の日も、風呂にも入らず、高熱を出して死にかけながらも、ずっとずっとずっとずっと遠眼鏡を眺めていました。だって目を離すのは怖いじゃないですか。目を離して、私の犯人に至る決定的な瞬間を見逃してしまったらどうしよう。顔が垢まみれになっても、髪の中に虫が湧いても、腹が減っても、その辺の雑草や虫を食べてなんとか生き存えても、でもそんなの今更ですから、その程度のことはどうでも良かった。ただ犯人を見つけたかった。殺したかった。それだけが私の望みだった。だから、私はこの遠眼鏡で、並行世界を見て、見て、覗き見続けて、そんなある日、私は妻を殺した犯人を、見つけることができなかったんです。
 それは、そうじゃないかって? 確かにそれはそうなんです。現に今も、私はこの世界の、私の妻を殺した犯人を、見つけることはできてはいない。でもね、でも違う、そうじゃない。私はね、いつもの通り、別の並行世界に目盛りを合わせて、妻を殺した犯人を映し出せと願ったのです。でもね、でも、何も映らなかったんです。誰も映らなかったのですよ。私は、若干パニックになりながら、私自身の姿を映し出せと遠眼鏡に願いました。私は居ました。小綺麗な格好をした私が。髪をきちんと整えて、風呂にもきちんと入っていて、きちんと勤め人の姿をした、私が。遠い日に失ったはずの私が。そして失った私の妻が。いたんですよ。私の妻が。死んだ妻が。殺された妻が。最愛の妻が。私の幸せ。私の全て。平凡で、ありきたりで、特別ではなく、何処にでもある、けれどかけがえのない、もう二度とは戻らない、私の妻の姿があったのです。私の傍で、生きている私の妻の姿が。
 私は遠眼鏡を眺めながら、何年ぶりかわからない涙をダラダラと流していました。もっとも私の身体は垢まみれで、雨も被っていて、泥にもまみれて、自分の涙の感触もわからなくなっていましたが、目が痛いのはわかった。目がどうしようもなく痛かった。拭っても拭っても、拭うほどに痛くなり、目を開けるのさえ辛かった。せっかくそこに妻がいるのに。でも、だから、私は激痛の中、ずっと目を開け続けていましたよ。だってもう二度と見られないと思っていた妻の姿があったから。それに比べれば、目に垢や泥が入り続ける激痛なんて、何程のものでもなかったんです。例え目玉を抉られたって、その抉られた目で妻の姿を見続けられると思っていた。
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