ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり

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第一章 14歳の真実

8 対面

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 翌日の日曜、岩崎は朝からファミリーレストランにいた。同じテーブルにいる若い家族は、中西とその妻子だ。
 中西の息子はまだ3歳くらいだろうか、今日のために急いで準備したと思われる黒い洋服を着て落ち着かない様子だ。
 中西の妻は大きな花束を抱えている。

「昨日は眠れたか?」

「はい、おかげさまで。……泣き疲れて寝た、という感じでしたが」

「そうか。まあ……そうなるよな」

 中西は予定どおり、昨日の夜に東警察署の取調べ室で釈放された。
 岩崎は釈放の手続きに立ち会い、手続きを終えた中西に遺族の意向、つまり加藤美咲の父親はいつでも中西に会う準備があることを伝えた。
 署まで迎えに来ていた中西の妻も交えて話し合い、やはり早ければ早いほどいいだろうとの結論に達し、岩崎はその場で加藤に電話をかけ、翌日、つまり今日の午前中に中西が加藤のマンションに行く段取りとなったのだ。
 岩崎はそのために、加藤のマンションに近いファミリーレストランで中西と待ち合わせることにし、今、こうして若い中西一家と相席している。

「奥さんはわざわざ来なくてもよかったんじゃないか?」

 岩崎は、加藤が妻子を亡くした身であること、そして今回の事故に中西の家族は無関係であることなどから、中西ひとりで来てもよかったのではないかと思い、思ったままを口にした。
 中西の妻が答える。

「いえ、そういうわけにはいきません。この人と私たちはこれからも一緒に生きていくんです。人生の一大事に、あえて席を外すことはしたくありません」

 なるほどもっともな言い分だ。夫の中西よりよっぽど芯の強そうな細君だ。
 ことの成り行きを自分の目で確かめたいのだろう。そしてその表情は複雑だ。……おそらく心中も相当に複雑だろう。なにせ中西にとっては不可避とも言える事故だったのだ。
 一方、当の中西は、加藤に会うことに怖じ気づいているようだ。
 昨日、釈放の際に会ったときより萎縮しているように見える。

「……そういえば中西、なんか昨日と印象が違うと思ったら、髪を切ってきたのか」

「……はい。少しでも誠意を見せたいと思いまして」

「まだ散髪屋は開いてないだろう」

「昨日のうちに行きました。調べたら、電車に乗って二つ先の駅前にある散髪屋が遅くまでやっていたので。……やっぱり、外に出るのは怖かったです」

「いや、あんたその髪型の方がいいよ。うん」

 昨日までの中西は、やや長髪で茶色い頭をしていた。
 トラック運転手といっても様々で、宅配便のように客と接するドライバーならば身だしなみにも細かく注文が付くようだが、中西はルート搬送の貨物ドライバーだったので、若干チャラチャラした印象だった。
 それが一転して短髪を黒く染め、まるで刑事のような印象だ。

「奥さんが来てなかったら、うちの刑事を連れてきたかと思われそうだ」

 そう言って岩崎は、携帯電話で加藤に電話をかける。

「俺だ。今から行っていいか。ああそうだ、一緒だ。分かった、待っててくれ」

 電話を切った岩崎は中西に告げる。

「いつでもどうぞ、だそうだ。じゃあ中西、行こうか」

「はい……」

 中西の緊張が一気に高まる。

「事故の状況はちゃんと説明してあるし、加藤はまともな奴だ。そんなに硬くなることないぞ。……たぶんな」

「はい、分かりました。行きます」

「よし。じゃあ、マンションの近くのコインパーキングに駐めるから、俺の車についてきてくれ」

「はい。じゃあ、あの、今からタクシーを呼びますので……」

「タクシー? ここまでわざわざタクシーで来たのか?」

「はい……」

 中西の妻が割って入る。

「すみません。私が運転するって言ったんですが、この人が、私が運転するのも怖いからやめてくれって……」

 そうか。中西は今、車の運転をすることがなによりも怖いのだ。
 岩崎は自分の配慮が足りなかったことを恥じた。

「いや、そこまで気が回らなかった。家まで迎えに行けばよかったな。今さらだが、俺の車に乗ってくれ」

「いえ、そんな……」

「いいんだ。気が利かない俺が悪かった。よし、行こうか」

 岩崎は助手席に中西、後部席に中西の妻子を乗せ、加藤のマンションに向けて出発した。



「さあ、主役はあんただ」

「はい……」

 加藤の玄関の前で、中西は唾を飲み込む。
 そして大きく深呼吸をしてからインターホンを押した。中から足音がして、玄関ドアが開かれる。

「わざわざすみません。どうぞ、あがってください」

 加藤はセーターにジーンズというラフな服装で、中西が何かを言う前に皆を招き入れた。

「こ、この度は、申し訳ありませんでした。本当に……申し訳ありませんでした」

 和室に通されるなり中西が土下座をする。
 細君もそれに倣い頭を床に付け、さらに幼い息子の頭を後ろから押そうとしたので加藤がそれを制した。

「そういうのはやめましょう、中西さん。私も事故の状況は聞いてますので」

「で……でも、私があのとき、あそこを通らなければ、通っていなければ……娘さんは……美咲さんは……」

「それは違う。中西さんが通っていなければ、他の誰かの車に轢かれていた。そういう状況だったんですよ。誰も……いや、少なくとも私は一切、中西さんを責めるつもりはありません」

「う、うう……」

 中西が床に頭を付けたまま嗚咽を漏らす。
 中西の妻が先に頭を上げた。加藤は中西の妻に尋ねる。

「奥さん、その、お宅の方は大丈夫でしたか? あの……ご近所の目とかは」

「……はい。近所付き合いもない賃貸住まいですので、今のところ、家の方は、なにも」

 加藤の顔に安堵が浮かぶ。

「そうですか。うちと同じですね。それなら、引っ越したりする必要は……」

「引っ越し……ですか、そう……ですね。いえ、まだ何も考えておりませんが……。それより、なによりもまず、加藤さんにお会いしてお詫びをすることだけを考えていました」

 中西の妻が戸惑っている。今回の事故は中西にとっても不幸な出来事であり、むしろ夫の方が被害者である、くらいの気持ちがこの妻の心中にはあったかもしれない。が、責めるつもりが一切ないと言い切り、さらには娘の死に触れる前に中西の家族を気遣うような言葉を受けるのはさすがに予想外であったようだ。
 加藤の気遣いはさらに続く。

「ご両親とは連絡を?」

「あ……ええ、むこうから電話がありました。私の親からも」

「……親御さんの方が住みづらくなってるかもしれない?」

「え、ええ……はい、そうかもしれません。どっちも『どういうことだ!』って、ものすごい剣幕でしたので」

「そうなのか? ……お前、何も言わなかったじゃないか」

 ここでようやく中西が顔を上げた。

「だって……あなたにこれ以上何か言えるような状態じゃなかったから……」

「だからってお前……」

「まあまあ中西さん、落ち着きましょう。……そっちの方が問題か。……そうだな……おい岩崎」

「ん、なんだ?」

「中西さんの親御さんたちに、警察から説明してあげることは可能か?」

「……何をだ?」

「何をって、事故の状況だよ。中西さんは避けられる状況じゃなかったんだろ? 誤解されたままじゃいけない。逮捕した理由も併せて、警察から説明してあげたら、親御さんたちも少しは落ち着くんじゃないか?」

「それがお前の、遺族としての希望ならお安い御用だ。だがな加藤」

「何か問題があるのか?」

「警察はあくまで、事実と、お前の意向を伝えるだけだぞ」

「どういう意味だ?」

「警察から『中西さんにはまったく責任はありません』とは言わないぞ。言ったら大変なことになる」

「大変なこと?」

「そうだ。事故は大なり小なりどこかに責任を求めなければならない。中西側に全く責任がないと断言したら、今度は車道に横たわっていた美咲ちゃんの責任を追及されるぞ」

「……そうか、それは困ったな」

「……加藤さん、お気持ちだけで結構です。私が美咲さんを、その……轢いたんですから」

「いや、しかし……でも……そうか。じゃあ岩崎、その、できる範囲で構わないから、中西さんの親御さんたちに説明してあげてくれ」

 おい加藤……お前、いくらなんでも人が良すぎじゃないのか?
 岩崎は一瞬そう思ったが、すぐに思い直した。
 加藤は単に冷静なのだ、徹底的に。

「了解だ。うちの事故の係長はベテランだから上手く説明するだろう、俺が保証する」

「ああ、よろしく頼む。それと中西さん、職場の方は?」

 中西が目を白黒させる。

「は、はい。年内は来なくていい、と言われてます、が、おそらくはクビ……になるかと思います」

「クビ?」

「はい……おそらくは、ですが。それに、もう二度と車を運転する気になれないような気がします」

 中西の言葉を受けて加藤は目を閉じる。その表情に深い苦悩が浮かんでいる。
 岩崎には加藤の心が手に取るように分かった。この既視感に似た感覚は……そうだ、中学の頃の加藤だ。
 岩崎は、このすこぶる優秀で、そのうえ人の痛みを共有してしまう性分の加藤という男の姿に、ふと懐かしさを覚えた。やがて加藤が目を開ける。

「……中西さん」

「……はい」

「これからどうするか、あてはあるんですか?」

「え……これから……ですか? あの……ええと」

 中西は混乱している。無理もない。
 自分が轢き殺した子の親に謝罪にきた修羅場で、その相手から心配されているのだ。それも心から。
 中西の妻はかろうじて落ち着いている。できるだけ見守ろうと決めていた岩崎だったが、少し口を挟むことにした。

「中西、この加藤という人はこういう人なんだ。他意はないんだよ、本当に。本心であんたの生活を心配しているんだ。で、次の仕事のあてはあるのか?」

「仕事……って、私のですか?」

「他に誰がいる?」

「あ、いえ、仕事は、そうですね……ええと、これから求人を探して……」

「つまり、あては無いんだな?」

「ええ……はい」

「だそうだ。加藤」

 岩崎が加藤を見ると、加藤は優しい目で中西の息子を見つめていた。
 中西の息子は、きつく口を結んで母親の喪服の袖を掴んでいる。

「いくつかな?」

 息子は固まっている。だが目を逸らすことなく加藤を見つめ返している。中西の妻が答える。

「もうすぐ4歳になります。あの、加藤さん、加藤さんに私たちの心配をしていただく訳には……」

「なにか問題が?」

「え? いえ、ええと、問題とかそういう問題ではなくて……あれ? すみません、何を言ってるんですかね、私」

 なんだか妙な感じになっている。不謹慎とは思いながら、岩崎は吹き出した。

「奥さん、大丈夫だよ。加藤に裏表はない。むしろ心配せずにいられないんだ。気の済むようにしてやった方がいい」

 中西の妻は、それでもまだ信じられないようで戸惑いの顔だ。そこに加藤が追い討ちにかかる。

「差し出がましいようですが、車を運転しないという条件で仕事を探すのは大変なことだと思います。私は人を雇う立場ではありませんが、たぶん相談に乗ることはできます。困ったときは連絡してください」

 そう言って加藤は名刺を差し出した。
 岩崎が捕捉する。

「中西、加藤は公務員だが顔は広い。おそらく会社の一つや二つ持ってる知り合いもいるはずだ。困ったときは遠慮なく頼るといい」

 受け取った加藤の名刺を両手で持ったまま、中西夫婦は岩崎を見る。
 ……本当に頼っていいのか。二人とも顔にそう書いてあったので岩崎が念押しをする。

「いいんだよ頼っても。警察官の俺が言うんだから嘘じゃない」

 その言葉を聞いて、堰を切ったように声をあげて泣き崩れたのは中西の妻だった。
 一気に安心したのだろう。その様は、この二日間が中西の妻にとっていかに不安で、いかに苛酷なものであったのかを雄弁に語っていた。
 母を泣かされ、幼い息子が加藤を睨む。

「警察という言葉には説得力があるな、岩崎」

「そのようだ。見ろよ、なかなか頼もしい息子じゃねえか」

「ああ本当だ。……中西さん、息子さんの誤解はお父さんがあとで解いてやってください。なんだか怖いから」

「はい……。はい……必ず……」

 中西の顔にも安堵が浮かんでいた。

「あ、そうだ。せっかく来たんだから美咲に線香をあげていってください」

 中西の妻が落ち着いた頃合いを見計らって加藤が言った。
 岩崎は、今更ながらに加藤という男に感服した。

 加藤の持ち前の性分で、本来は往々にして修羅場となる遺族との対面が、あろうことか運転者の救済の場となった。中西は、家族並んで位牌の前で線香をあげ、長い祈りを捧げる。

「岩崎、ちょっといいか」

 加藤がそっと席を外し、岩崎を手招きする。

「ん、どうした」

「富永君は今日も署に来てるのか?」

「いや、今日俺が署に寄ったときはまだ来てなかったが、出てくるはずだ。伝言か?」

「ああ、きのう富永君と調べたときは気が付かなかったんだが、美咲の部屋に、美咲の通帳が見当たらないんだ」

「通帳?」

「ああ。富永君から報告があると思うが、美咲は通帳を持っていて、毎月、うちの生活費7万円が振り込まれていたんだ。まあ、用途は主に食費や日用品で、金が貯まる性質の通帳ではないんだが、ちょっと気になるんだ。富永君に伝えてくれ」

「そうか、たしかに気になるな。分かった、伝えておく。俺も昨日の結果を富永から聞かないとな」

「ああ、頼む」

 岩崎は、加藤の関心が自殺の原因に傾注していることを改めて実感した。
 ……落としどころ、か。
 この男はいい加減な結末で満足するような男ではない。初めは躊躇った中西との対面を決めたのも、真実の追求に集中するためなのだ、おそらくは。

 加藤は中西の心を救った……。
 自分は加藤の心を救うことができるだろうか……。岩崎は自問した。


 岩崎と加藤が和室に戻ると、中西夫婦が居住まいを正して待っていた。

「加藤さん……本当に、なんと言っていいのか……何から何まで申し訳ありませんでした」

「ですから申し訳なくないんですよ、中西さん。それに事故の時の中西さんの機転で、私は美咲が息を引き取る前に病院に着けたんです」

「そうですか、それは……」

「今回のことは、中西さんにとって……それこそ本当に、事故、だったんです。一日も早く日常を取り戻してください。私にできることがあれば仰ってください。今日はありがとうございました」

「加藤、俺も一緒に引き上げるぞ」

「分かった。富永君によろしくな」

「了解した」

「では加藤さん、失礼します」

 別れ際、加藤は中西の息子と握手を交わしていた。
 ……どうやら誤解は解けたようだった。
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