ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり

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第一章 14歳の真実

12 進展

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 赤いバッグ……。たしか小学生のころに美咲に買ってやったものだ。
 図書館で本を借りるときや、夏はプールに行くときに水着を入れるなどして使っていたが、中学生になってからは普段使い用に新しくハンドバッグを買ったので、最近は使っているところを見ていなかった。

 それが事故現場に置かれていたとはどういうことだ? 何が入っている?
 ひきだしの中身……。加藤が即座に思い浮かべたのはそれだった。そしておそらく美咲の通帳も入っているのだろう。
 昨日の空き巣……。空き巣が探していた物もその中に入っているのだろうか。

 しかし、いったい誰が置いていったのか。置いていった者は美咲からバッグを託されていたのだろうか。だとすればどうしてこのタイミングで現場に置いたのか……。
 いずれにしても「これ、美咲ちゃんからの預かりものです」と言って直接に加藤の家まで返しにくることができないものなのだろう。

 バッグを開けることで、おそらく事態は進展する。しかし、進展を前に加藤の胸中は怖れに浸食されていた。
 加藤は悪い知らせを覚悟し、暗い気持ちで車を東署に向けた。


 東警察署の狭い駐車場に車を駐め、寒さに身を縮めながら自動ドアを通る。
 入ってすぐに総務課があったので、刑事課の場所を尋ねる。総務課の女性警察官が「どういったご用件ですか?」と聞いてきたので「課長の岩崎に呼ばれました」と答えたら、丁寧に場所を教えてくれた。

 加藤は教わったとおりに階段を昇り、二階にある刑事課のドアを開けた。
 広い……。そして、大勢の刑事が慌ただしく何かをしている。
 同じ公務員なのに、加藤の職場とは雰囲気が全く異なる。よく言えば「活気がある」だろうが、第一印象は「騒がしい」だ。
 加藤はその騒然とした刑事部屋の最奥、他よりひとまわり大きな机に鎮座する岩崎を認めた。岩崎はまだ俺に気付いていないようだ。
 他の刑事も、加藤に気付いているのかいないのか、誰一人として声をかけてくる様子はない。
 加藤は足早に歩く若い刑事を呼び止めた。

「岩崎課長に呼ばれて来ました加藤といいます」

 若い刑事は一瞬、加藤の頭から足元までを眺めてから「少々お待ちください」と言って岩崎の方に駆けていく。
 知らされた岩崎が加藤に手で挨拶をした。
 若い刑事は加藤のところに戻ってくると「こちらへどうぞ」と言って加藤を先導する。案内された部屋は応接室のようだった。刑事は「失礼します」と言って、部屋を出ていった。
 さすがにここは静かだな……。加藤がそんなことを考えているとすぐに岩崎が入ってきた。
 赤いスポーツバッグを持っている。

「よお、早かったな」

「まあな。することがないのも落ち着かないもんだ。それにしても刑事ってのは忙しそうだな。誰も俺に気が付かなかったみたいだ」

 岩崎が笑う。

「それは違う。みんな、お前のことを同業者……つまり本部か余所の署の刑事だと思ったんだ。声をかける必要なし、と判断したんだよ」

「刑事に見えただと? 俺がか?」

「なんだ、不満か?」

「いや、悪い気はしないが……」

「お前の愛想のない感じ、立派なベテラン刑事に見えるぞ。それに……」

「それに……なんだ?」

「刑事部屋の客は大抵、そんなパリッとした身なりでは来ない」

「……そんなものか」

「そんなもんだ」

 刑事に見えた……か。加藤はまんざらでもない気分になった。
 この数日で加藤は、これまで直接世話になることがなかった刑事……いや、警察官という人種に、少なからぬ好感を抱くようになっていた。

 色々な不祥事も取り沙汰されているが、昨日、空き巣の被害で家に来た交番の人も含め、加藤が接した警察官はみな誠実で、それでいて確たる矜持をもって働いているという印象だった。
 果たして自分はどうだろうか? 交番の一巡査よりは大局を担う仕事をしているという自負はある。だが、苦労して根回しをした仕事が、ほんのちょっとした風向きの変化で無になることも少なくない。

 努めて無力感と折り合いをつけながら働いているな、俺は。
 美咲は父親の仕事をどう思っていたのだろう……。
 さして収入が多いわけでもなく、否応なしに転校させられ、美咲にとっては何一つ良いところがなかったのではないだろうか。

「そういえば、富永君はいないのか?」

「今、呼び戻してる。もうすぐ帰ってくるだろうよ。で、加藤、これが例の物だ」

 そう言って岩崎は、一度床に置いていたスポーツバッグをテーブルに乗せた。
 加藤の脳裏に一瞬、小学生の美咲の姿がよみがえる。

「間違いない。美咲の物だ。最近は使っているところを見なかったから、ないのに気が付かなかった」

「それで、鍵は?」

「ああ、これだ。……と思う」

 加藤はポケットから鍵束を出し、岩崎に差し出した。岩崎は手に取って確かめる。

「……この、一番小さいやつだな?」

「そうだ」

 岩崎は小さな鍵に刻まれた小さな数字を読み、次にスポーツバッグのファスナーを縛っている南京錠の底を改め、そして小さく頷いた。

「間違いない。開くぞ、これで。加藤、お前が開けるか?」

「誰が開けてもいいが……富永君を待たなくていいのか?」

「ん? いいんじゃねえか? べつに」

「いや、待とう。三人揃ってから開けよう」

「相変わらず義理堅いな。富永なんかに気を使う必要ないぞ。こっちは仕事でやってんだ」

「いや、三人揃ってから開けた方が良い。そんな気がするだけだ」

「そうか。お前がそう言うんならそれでも構わんが……ところで加藤、この中には何が入っている?」

 言われて加藤は、そのスポーツバッグを持ち上げてみる。
 かなりの重さだ。少なくとも10kgは超えている。

「判らん」

「……なあ、なんか嫌な感じじゃないか?」

「そうだな、いい物が入っているとは思えんな」

「置いていった人間に心当たりはあるか?」

「ない。おそらく美咲は死ぬ前に誰かにこれを預けたんだろう。そして預かった奴は、持っているのが怖くなった。そんなところじゃないか?」

「しかも、堂々と加藤の家に返しにくることができないもの、ということだな」

「……そうなるのかな」

 そのとき、加藤らがいる応接室のドアがノックされた。富永が到着したのだろうか。

「開けていいぞ」

「失礼します」

 ノックしたのは富永ではなく、30代半ばの男の刑事だった。部屋には入らず、岩崎の方を見る。

「おう、なんだお前か」

「課長、これ、言われたやつです」

 そう言って刑事は、岩崎にA4大の茶封筒を手渡すと、もう一度「失礼します」と言って行ってしまった。
 岩崎は「どれ」と言って封筒から何枚かの書類を出して見始めた。
 なんの書類だろう? 岩崎の表情は真剣だ。
 尋ねるのが憚られたので、加藤は黙って岩崎を眺める。
 そして、書類の最後の方になって、一瞬だけ岩崎の表情が険しくなったのを加藤は見逃さなかった。

「なんの書類だ? それは」

 書類を見終わった後も思案顔だった岩崎は、一寸間を置いてから答える。

「え。……ああ、これは別件だ」

「そうか。……それならいいんだが」

「遅くなりましたっ」

 そこに突然、富永がドアを開けて入ってきた。
 岩崎の体がビクッとするのが分かった。

「おい……ノックぐらいしろよ」

「すいません。あれ、まだ開けてないんですか? バッグ」

「お前を待っててやったんだ」

「開けるのが怖かったんですね解ります」

「……耳をちぎってやろうか?」

「あ、それ、なんとかハラスメント」

「その前に、馬鹿にされた気がするのは俺だけか?」

「気のせいですよ、課長。さあ開けてみましょうよ、これ」

 富永はそう言って岩崎と加藤の顔を交互に見る。

「……開けるか、加藤」

「……そうだな」

「おい富永、開けろ。鍵はこれだ」

「え、私が……ですか?」

「お前がさっき言ったんじゃねえか。俺たちは怖くて開けられないんだ。お前が開けろ」

 富永が天を仰いで軽口を悔やむ。
 口は災いのもと……。いや、あるいは計算ずくか。

「……たしかに、覚悟が要りますね、これは」

「そんなことは分かってる。待っててやったんだ、さあ開けろ」

「……はい」

 富永は覚悟を決めたようだ。


「開けます……」

 富永が南京錠に鍵を挿して捻る。

   キンッ

 乾いた響きで南京錠が解かれた。
 富永が恐る恐るファスナーを開く……。
 そしてバッグの口を拡げた。

「これは……」

 富永は何かを言おうとしたが、言い終わる前に中の物の一つを手に取る。
 岩崎、そして加藤も各々の目当ての物が見つかったとばかりにそれぞれ何かを手に取る。

 3人とも、手に取った物を無言で確かめているため、暫し沈黙が流れた。
 スポーツバッグからは剥き出しのプライベートともいえる大量のアダルトグッズ……いわゆる大人のおもちゃの類いが覗いている。
 その量は中学生の持ち物としては充分に驚きだが、それに目もくれず岩崎が手に取ったのは黒い化粧ポーチ、加藤は小さな手提げ金庫、そして富永は一冊の本だった。

 沈黙を破り、岩崎が口火を切る。

「……なんとなく判ってきたんじゃねえか?」

「ああ、そのようだ」

「そうですね。……つまり」

「美咲ちゃんはドラッグに溺れていたんだ」
「美咲は児童売春の元締めをしていた」
「加藤美咲は男性だった」



「…………富永、お前は何を言ってるんだ?」

 加藤も富永の言葉の続きを待つ。

「はい。まず自死の方法です。下半身をトラックに轢かせたのは、おそらく死ぬ前に、自分が持つ女性の部分を壊したかったのだと思われます。それと……」

「辞世の句……か」

「そうです」

「おい、どういうことだ?」

「『なくせみとして こときれん』……岩崎、蝉はオスしか鳴かないんだ」

「…………。」

「そして、決め手はこの本です」

 そう言って富永はバッグから真っ先に取り出した本をテーブルに置く。

 ~多様化する性、その態様と社会~

「この本……性同一性障害の部分にびっしりラインが引いてあります」

「いや、しかし……」

「課長、これが私が加藤美咲になってみた答えです」

「岩崎、富永君の言うことはおそらく事実だ。俺も何度か考えたが確信がなかった。生活には支障なさそうだったんで、先送りにしていたんだ。いつか美咲から告白があるかもしれないという心構えはしていた」

「そうか……」

「岩崎の方はなんだ? そのポーチは」

「これか……。これは危険ドラッグ……ちょっと前は脱法ハーブとか呼ばれていたやつだ」

「それは普通の量なのか? ずいぶん大量に見えるが」

 加藤は黒い化粧ポーチを見つめる。
 何袋ものパックが入っており、ポーチは満杯だ。

「そう……だな……。一人で使うには多すぎるが、売り捌くほどの量じゃない。加藤、そっちの金庫はなんなんだ?」

「通帳と現金が入っていた。……ひと財産あるぞ」

 そう言って加藤は金庫をテーブルに置き、通帳を岩崎に手渡した。岩崎の目が見開かれる。

「なんだこりゃ。お前、中学生にこんな大金を持たせてたのか?」

「いや、前にも言ったがその通帳は金が貯まるようなものではない。……はずだった」

「だってよ……。いや、それにしたって……」

「なんですか二人とも、いくら入ってるっていうんですか?」

「850万ちょっと、だ」

「……え?」

「金庫に残ってる万札と合わせれば、ざっと1千万ってとこか」

 予想を上回る額に、富永が一瞬言葉を失った。

「……じゃあ、美咲ちゃんは本当に……」

「ああ、おそらく中学生売春をしていた。……元締めとしてな」

 再び沈黙が三人を包む。沈黙を破ったのはまたしても岩崎だった。

「加藤、これは……」

「ああ、いつ何が起きてもおかしくなかった、ということはよく分かった」

「それで……これからどうする?」

「どうする、とは?」

「まだ調べるのか? 真相を」

「当たり前だ。このままじゃ救いがない」

「この先にも救いはないんじゃないか?」

 岩崎はスポーツバッグ内の大量のアダルトグッズをまさぐる。そして続ける。

「……売春、しかも児童。それに見ろよこれ。かなりコアな要求にも応じていたみたいだぞ」

 岩崎が示したバッグの中にはバイブやローションの他、手錠や浣腸器、体操服にブルマ、ポラロイドカメラなどもあった。
 その中に加藤は、バッグから携帯電話機が覗いているのを見つけた。

「おい岩崎、携帯があるぞ」

「ん? ……あ」

 言われて岩崎が手に取ったそれは、最新のスマートフォンのようだった。
 岩崎は首を捻りながらそれを弄ぶ。やがて無言で富永に手渡した。

「どうした? 扱いが分からないのか?」

「いや、そんなことはない……はずなんだが、電源は入るが、よく分からん」

「ああ、これは初期化されてますね。データは何も残ってません。ええと、SIMカードも……SDカードも抜かれてます」

「つまり、何も残ってないってことか?」

「……そうですね」

「そうか。仕方ないな。それだけ秘密が大きいんだろう。……加藤、はっきり言って救いがない見込みの方が大きいぞ」

「それならそれでいい。とにかくここでは終われない。……とはいえ、俺には次の手が判らない」

「……いいんだな? 加藤」

「二言はない」

「分かった、付き合おう。……おい富永、お前、何か見つけたんだろう?」

「……はい。おそらく、ほとんどのことを知っていると思われる人を見つけました」

「誰だ、それは」

「美咲ちゃんの恋人……です。おそらく」

 そう言いながら富永は一枚の紙をテーブルに置いた。

「なんだ? これは」

「図書館で見せてもらった今年4月1日の新聞のコピーです。そして美咲ちゃんの恋人は、おそらくこの人です」

 富永の指差す先に三人の視線が集まる。加藤が軽く溜め息を吐いてから言う。

「ああ……これは間違いないな。これも辞世の句、だな?」

「はい。あの句を見た瞬間から、この名前の人物を探していました。……私と同じ読み方をする名前の人を」

 コピーは4月1日付の県内の教職員の人事異動の記事で、三人の視線の先には、春に東中学校から出ていった一人の教諭の名が載っていた。

   東中・堤加南子(理科)船川中へ
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