ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり

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第一章 14歳の真実

13 真実

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「で、この堤とかいう理科の先生に話を聞きに行くんだな?」

 加藤が富永に尋ねる。

「はい、そのつもりです」

「今日は平日だぞ。学校まで行くのか?」

「いえ、どこか別の場所で会おうとは思いますが、相手の出方次第ですね。まずは電話をかけます」

 電話、という言葉に岩崎が反応した。

「電話? ……お前、番号まで調べたのか?」

「いえ、電話は職場にかけます」

 岩崎が不安顔になる。たしかにデリケートな交渉かもしれない……。が、おそらくそうならないだろうと富永は踏んでいた。

「まあ見ててください」

 自信満々の口調でそう言ったあと、富永は自分の携帯電話で船川中学校の電話番号を検索する。
 ……あった。そしてすぐに電話をかける。

「もしもしぃ? あの、わたしぃ、東中で加南子先生におせわになったんですけどぉ、加南子先生いますか? えぇ……そおなんですかぁ……ガッカリですぅ。わかりましたぁ」

 堤教諭は今日、学校を休んでいるらしい。風邪ということだが真偽は怪しい。
 住所や電話番号などを尋ねれば怪しまれていただろうし、そもそも簡単に教えてくれたとも思えない。
 ……さて、どうしよう。

「堤加南子は今日、風邪で休んでいるそうです。……あれ? どうしたんですか二人とも。なんか顔が変ですよ」

 課長と加藤さんが何か狐につままれたような顔をしている。課長にいたっては口が半開きだ。

「……ああ、たった今、変なものを見たからな」

「そうなんですか? ……で、どうしましょうか。あ、もしかしたら先生の名簿が少年課にあるかもしれませんね。ちょっと聞いてきます」

「待て」

 ドアノブに手をかけた富永を岩崎が呼び止めた。

「少年課には聞くな」

「え……はい」

 課長の顔が真剣だったので思わずそう答えた。しかし、どうしたというんだろう。

「なんの件かは言いません。ちゃんと誤魔化しますよ。課長」

「いや駄目だ。昨日は取調べに割り込んで、今日また何か探っていたら、さすがに怪しまれる」

「怪しまれるって……。これはれっきとした仕事じゃないですか」

「仕事は仕事だが、このバッグのせいで、極秘事項に成り上がった」

 そうか……。言われてみればそのとおりだ。

「……おい岩崎、どういうことだ?」

 加藤さんが課長に聞く。課長はどう答えるか考えているようだ。
 富永は代わりに答える。

「……お父さん、このバッグの中身は、そこに犯罪があったことを示しています。危険ドラッグ……つまり麻薬の所持と、それと、おそらくお父さんの考えたとおり児童売春……の裏付けになる不法収益、です」

「しかし、美咲はもう死んでるぞ」

「はい。ですが警察は、被疑者死亡の場合でも捜査はしなければならないんです。……それに」

「それに、なんだ?」

「麻薬にしろ売春にしろ、売った方もいれば買った方もいるんです……必ず」

 加藤さんが沈黙する。

「加藤、そういうことだ。このバッグのことは慎重に考えなきゃならん。そして、たとえ署員の間でも下手に話が広まったら、正式に事件として捜査せざるを得ないことになる」

「しかし岩崎、事実は事実だ。仕方がないんじゃないのか? 俺だって受け入れ難いが、美咲は犯罪を犯していた」

「……お前は死人に鞭打つつもりか?」

「そんなことはしたくない。したくはないが、こうなった以上どうしようもないだろう」

「……どうしようもないことは、ない」

「なに?」

 富永は息を呑む。……課長はなにを言おうとしているんだろう。

「いいか加藤、このバッグは美咲ちゃんの事故の現場で花に紛れて置かれていたから、市の道路維持課が落とし物として届けに来た」

「……それで?」

「俺はきっと美咲ちゃんの物だと思って、加藤に確認させた」

「…………。」

「ところが、それは俺のとんだ早とちりで、加藤はこんなバッグに見覚えはないと言う。当然、南京錠も開かない」

「おい岩崎」

「俺は『違ったみたいだ』と言って、バッグを会計課に返す。それだけだ」

「…………。」

 加藤さんが再び沈黙する。富永にはその心理が手に取るように解る。
 加藤さんは、課長が背負うリスクを懸念しているのだ。

「中身には一切手を付けずに返す。通帳もだ。とにかくこういうのは作為を最小限にするのが最良だ」

「……お前に危ない橋を渡らせることはできない」

「なんのことだ? いいか、俺たちはこのバッグを開けられなかったし、美咲ちゃんの物だと確信できなかったんだ。どこに危険がある?」

「しかし……」

 言いながら岩崎はテーブル上の物を全てバッグに納め、ファスナーを閉めてから富永の方を見た。

「なあ富永、ここにはいったい何が入ってるんだろうな」

 これは意思確認だ……。
 もう富永の肚は決まっていた。

「……本当に、なにが入ってるんですかね」

「おい、富永君まで……」

 課長が手で加藤さんを制する。

「そういうことだ。加藤、念のために鍵は棄てろ。いいか、本当に棄てるんだ」

「…………。」

 加藤さんは無言で課長を見つめている。課長はついに参ったとでも言いたそうに表情を崩した。

「お前はほんとに頭が固いな。……じゃあこう考えろ。これは隠し事をするんじゃない。決断を先送りするだけだ」

「先送り、だと?」

「ああそうだ。俺がこのバッグを会計課に返せば、実際に何事もなかったようにこのバッグは持ち主不明の落とし物として保管されるんだからな」

「……保管されて、その先はどうなるんだ?」

「それは自分で調べてくれ。意外と取り決めが細かいんだ。さあ、この話は終わりだ。富永も、いいな?」

「もちろんです。でも、大っぴらに調べられないなら、次はどうしましょうか」

「さあ、ここが刑事の腕のみせどころだぞ」

 富永は考える。じゃあ、ひとまず堤加南子は諦めて、目を付けている東中の生徒から辿るか……。
 ん? 心なしか課長の顔がニヤニヤしている。
 これは……私を試しているときの顔だ。

「課長、遊ばないでください。次の指示をお願いします」

 岩崎は大袈裟に舌打ちした。そして、岩崎の隣、空いたソファに置かれていた茶封筒を取り、中から一枚の紙を抜いて富永に手渡す。

「え……これって……」

 富永は驚いた。手渡されたのは携帯電話の契約者情報で、契約者名は……堤加南子、となっている。
 当然、住所や生年月日も記載されている。

「それで住所が分かったろ? 行ってこい」

「……課長、課長はどうして堤加南子のことを?」

「たまたま、だ」

 どういうことだ? この課長はどこまで見当を付けていたのだろう。
 本当に、たまたま、なのか?

「富永、顔に出てるぞ。本当にたまたまだ。俺は危険ドラッグの線からこの携帯番号に突き当たった。お前から聞かされるまで、こいつが美咲ちゃんの恋人とは思いもしなかった。まあ結論としては、その堤という先生が美咲ちゃんのために契約した電話番号なんだろうな」

「そう……ですか」

「よし、気をとり直して行ってこい。お前一人で行った方が話が聞けるだろう。俺たちはお前の収穫を待つ」

「はいっ、行ってきます」

 富永は勢いよく応接室を飛び出した。


 富永はカーナビを頼りに堤加南子の住所に向けて車を走らせる。
 目的地が近付くにつれ、そこが事故現場にかなり近いことが分かった。

 美咲ちゃんはあの日、恋人の家から事故……いや自殺か……の現場に行ったのか?
 だとすれば自殺の直前に恋人……この堤という先生となにかしらのトラブルがあった可能性がある。

 そういえば、当日の美咲ちゃんの足取りはまだほとんど手付かずだ。事故は木曜日の夜だから、おそらく美咲ちゃんは部活には出ていなかったはずだ。
 ……「塾」という口実で。

 頭の中がすっきりとしないままであったが、富永は目的地に着いた。
 二階建てのこじんまりとした木造アパート……。
 これならいけそうだ。それが第一印象だった。
 ここがもしセキュリティ万全の高級分譲マンション等であったなら親と同居か、あるいは既婚者である可能性もあったが、このアパートなら……おそらく一人暮らしだ。
 しかし、目下の恋人と思料される美咲ちゃんが、売春にしろなんにしろ大金を稼いでいたことを考えると、このアパートはあまりに質素だ。
 堤加南子は美咲ちゃんの売春には無関係なのだろうか?……まあ、これは聞いてみれは判る。まずは堤加南子と面接して話をすることだ。
 風邪というのはおそらく嘘……。富永はそう確信していた。

 近くのコインパーキングに車を駐め、富永は乾いた音をたてて錆の浮いた階段を登る。
 そして201号室、「堤」と刻まれたプラスチックのプレートが貼られた玄関ドアの前に立ち、インターホンを押す。
 何の反応もない、いや……気配はある。それに電気メーターも回っている。富永は黙って耳を澄ませた。そしてもう一度インターホンを押す。
 ドアの向こうで微かに物音がした。こちらの様子を窺っているのだろう。富永はドア越しに用件を切り出す。

「美咲ちゃんの件で来ました……堤先生」

 返事はない。おそらく考えているのだろう。富永は黙って返事を待った。

「……どちらさま、ですか?」

 よし、無視できないことを悟ったようだ。

「東警察署です」

「…………。」

 しばし沈黙があり、富永は待たされた。
 今日は暖かいな。ふと、そんなことを思うほど、富永の心は凪いでいた。
 きっともうすぐ分かるんだ。なにもかも。
 やがて返事が返ってきた。

「……お一人、ですか?」

「はい、令状もありません。お話をさせていただきに来ました」

 富永が答えると、カチャ、と音がして薄いドアが開かれた。
 富永は顔を覗かせた人物を見る。この人が美咲ちゃんの恋人……。

 可愛い。それが富永が抱いた第一印象だった。
 少しふくよかで、優しい顔立ちをしている。

「……どうぞ」

「はい、失礼します」

 アパートはワンルームで、外見から想像したよりも内装は綺麗だった。
 部屋はよく片付けられている。堤加南子はパジャマ姿だった。部屋の中央にあるコタツで富永と向かい合う。
 改めて堤加南子の顔を見ると、かなり疲れた顔をしているが、やはり可愛らしい顔をしている。

「……すみません、こんな格好で」

「あ、いえ、いきなり来たのは私ですから」

「……美咲のこと、ですよね?」

 まどろっこしい話は抜きだ。
 富永は核心から入る。

「はい。単刀直入にお尋ねします。加藤美咲という子の心は男性、そして先生はその恋人だった。これに間違いはありませんか?」

 堤の表情は落ち着いている。警察が来ることにある程度の覚悟はあったようだ。

「……すごいですね、警察って。なかなか信じられないような話なのに核心を外さないんですね」

「……つまり、間違いないんですね?」

「恋人……そうですね。少なくとも私はそう思ってました。お恥ずかしい話です。一回り近くも若い教え子に口説かれるなんて」

 一回り「近く」ということは、私よりも若いらしい。外見こそ可愛らしいが、物腰が落ち着いているので自分と同じか少し上と思ったが、違ったようだ。
 口説かれた、ということは美咲ちゃんの方から誘ってきたということか。

「美咲ちゃんは本当に男性、だったんですね?」

「はい、少なくとも私はそう思っています。私といるときの美咲は、紛れもなく男でした」

 私ひとりで来たのがよかった。
 生々しい話も抵抗なくできる。

「それで……口説かれた、というのは?」

「きっかけは……そうですね。美咲がまだ一年生だった去年の夏、授業で身近な生き物の観察をしたんです。顕微鏡なんかを使って。それで授業が終わったとき、美咲がひとりで理科室に残っていて、私にひとこと言ったんです」

「……なにを言ったんですか?」

「……たしか『人もアリも、命の長さは同じだよね』みたいなことを」

 なんだだそれは? 同じなわけないではないか。
 これが口説き文句なのか? 美咲ちゃんは何を考えてそんなことを言ったんだろう。

「……それで、先生はなんて答えたんですか?」

「『そうかもね』と。それと『アリの方が喜びは多いかもね』って答えたと思います」

 ……どういう会話だ、それは。禅問答か?
 それとも私の頭が悪いのか? 確かに美咲ちゃんの頭は優秀だったが、それにしてもわけが分からない。

「ちょっと……私には理解が及ばないみたいなんですが……」

 堤がフッと息を吐きながら小さく笑う。
 富永に対する嘲りではない、自嘲の苦笑いだ。

「そうですよね。それが当たり前だと思います。……本当のところは誰にも分からない話ですから」

「……教えてもらってもいいですか?」

「分かりました。そうですね……刑事さん、1秒という時間は、どうやって決められてますか?」

 1秒? ……それは1分間の60分の1、1分間は1時間の60分の1、そして24時間で1日だ。
 365日で1年……いや、うるう年があるから……。
 そうか、秒の長さの基本は1日、つまり地球が1回自転する時間だ。

「……ええと、地球の自転を元に決められた単位、だと思います」

「刑事さん、正解です。すぐに答えられる人、意外と少ないんですよ。今では便宜上、セシウムの電磁波を基準に定められていますが、それは後付けで、本質は刑事さんが今言ったとおりです」

「それと、さっきの問答がどう繋がるんですか?」

「ええと、では、たとえば地球の自転がもっとゆっくりだったら、1日の長さはどうなりますか?」

「それは……長くなります、よね? ……たぶん」

「そうです。実質的には長くなっても、人間は同じように12進法の太陽時をあみだして生活していたと思います。その場合、1秒の長さも必然的に長くなります」

「そうですね……」

 なんとなく解ってきたような気がする。

「刑事さん、つまり時間というもの……少なくとも人が日常で使っている時間の単位なんてものは、人間の主観の産物なんです」

 そう、確かにそうだ。でも、客観的にみても人とアリの命では明らかに人の命の方が長い。

「刑事さんの考えていることは分かります。どう考えてもアリよりも人の方が長生きですよね」

「……はい」

「でも、時間というものが主観的な要素を含むということは、命の長さも主観的なんです」

「ああ……なんとなく解ってきました。つまり、ええと、なんて言ったらいいんだろう」

「人とアリとは、同じ1秒を生きていないんです。たぶんアリにとって1秒という時間は、人にとってのそれより長くて重い。もしかしたら1日という時間は、アリの生涯にとっては1ヶ月分の重さを持っているかもしれないんです」

 なんだか、なにかの宗教の説法を聞いている気分になってきた。

「……それで、アリの方が喜びが多い、というのは?」

「ああ、それはですね、ええと……人は生まれたときから人のかたちをしていて、ダラダラと大きくなって、ダラダラと老いていきます。ですがアリは幼虫からサナギになって、成虫になります。一生の間に体が劇的に変化するんです。これだけでも充分、人間よりもドラマチックです」

 なるほどそういうことか。堤は淡々と続ける。

「おそらく体が変化するとき、アリの小さな脳内は、快感をもたらす分泌物で満たされていると思います。成虫になってからも本能のままに働きますが、『本能のままに』というのは人間にとって、やりたくてもできないこと、ですよね」

 このとき富永は、加藤から聞かされた美咲語録を思い出した。たしか、『人間にとって一番の不幸は知性を手に入れたこと』だったか。
 ……しかし、美咲ちゃんの頭の中にはいったい何が詰まっていたんだろう? 自分には想像することすらできそうにない。

「……それで、先生の返事を聞いて美咲ちゃんはなんて?」

「あのとき美咲が何を言ったかはよく憶えてないんです。ただ、我が意を得たり……というか、やっと理解者が見つかった、みたいな感じで大はしゃぎでした」

 なるほど、美咲ちゃんのその気持ちはなんとなく理解できる。

「……それで美咲ちゃんは先生を好きになってしまったんですね?」

「そういうことなんでしょうね。それ以来、私は美咲から熱烈なアプローチを受け続けました。私もまだまだ若いつもりでしたが、美咲のエネルギーは、それこそ無限のようでした」

「口説き落とされたんですか?」

「いえ、今では言い訳にしかなりませんが、私も教職の端くれですので、性別のことはさておき、教え子と交際するつもりはありませんでした。ですので、一生懸命断りました」

「そうなんですか……」

「でも、美咲に諦める様子はありませんでした。それに……」

「それに、なんです?」

「美咲は、とにかく難しい質問をしてくるんです。それこそ本質的な……答えがないようなテーマを好んで私に問答をしかけてきました。それに応えることは教育者の務めだと思いましたし、優秀な教え子の相手をすることは歓びでもありました。ですので、付き合うとか付き合わないとかいう問題を抜きにして、私と美咲はすぐに、かなり親しくなりました。私のなかではあくまで先生と生徒、として」

「……必然的に、ですね」

「……ありがとうございます。そう言ってもらえると救われます。私と美咲の仲は本当に親密でした。それこそ美咲が持つ障害のことも共有するほどに」

「……いわゆる性同一性障害、ですね」

「はい。ですので、私といるときだけ美咲は自分のことを、俺、と言っていました。たぶん美咲が男であることを知っていたのは学校では私だけだったと思います」

 確かに、父親である加藤さんも確信を持っていなかった秘密だ。相当に親しかったことが窺える。

「では、恋人になった経緯があるんですね?」

「……はい」

「何があったんですか?」

「私と美咲はほとんど親友でした。話す内容もまるで大学時代の友人と話しているようにアカデミックで風刺が利いていて。あとは私が気を付けて一線を越えなければ大丈夫……問題ないと思っていました。美咲のアプローチは続きましたが」

「はい」

「美咲は私の気を引きたかったのか、テストでも必ず満点を取りました。……他の教科は全くやる気がないのに」

「ああ、それは美咲ちゃんのお父さんからも聞きました。本当は学校の勉強なんて美咲ちゃんにとっては簡単だったのに、ですよね?」

「それは少し違います。美咲は天才ではなく、人一倍勉強を頑張っていたんです」

「……そうなんですか?」

「はい。それは確かです」

「じゃあそれは後で聞かせてください。先生はどうして……その、一線を越えてしまったんですか?」

「はい……ちょうど一年前の12月、二学期の期末テストの前に美咲がいつものとおり口説いてきたんです。『今度のテストで百点取ったら付き合ってよ』って」

「はい」

「さすがにもう諦めてもらわないと美咲のためにも良くないと思っていたので、ちょうどいい機会だと思って、美咲の申し出を受けました。……条件付きで」

「条件、ですか?」

「はい。期末テストで百点を取ったら美咲の言うことを聞く代わりに、もし取れなかったら私のことは諦める、という条件です。テストを作るのは私ですから」

「ああ、なるほど」

「美咲はこの条件を呑みました。そして私に言ったんです『じゃあ先生、百点取ったらうちに泊まりにきてよ』って」

 ……本当に中学生の言葉だろうか。

「じゃあ、先生はとびきり難しいテストを作ったんですね?」

「ああ……いえ、他の生徒も受けるテストなので極端に難しいテストはつくれません。ですので百点が取れないテストを作りました」

「百点が、取れないテスト……ですか?」

「はい。テストの最後に10点の配点で、記述式の問題を出したんです『生命の始まりについて、あなたの考えを書きなさい』って」

 ……なるほど。考えを書かせるなら正解がないようのものだ。
 良く書けていても9点と言われれば9点だろう。
 しかし……。

「先生……卑怯ですね」

「ええ。でも、これで美咲が諦めてくれればいいと思っていました。採点に不満を言ってきても理由はどうにでもなりますし、それで嫌われたならそれでもいい、と」

 ……この話、この先どうなるんだろう。
 富永は堤教諭が語るこの道ならぬ恋物語に徐々に惹き付けられていた。

「……それで、どうだったんですか? テストの結果は」

「点数は98点、でした」

「つまり、最後の設問に8点を付けたんですね?」

「違うんです」

「……え?」

「最後の設問には満点を付けました。美咲は回答用紙の裏面にびっしり、男らしい字で素晴らしい文章を書いてきました。現在の定説が抱える課題、生命の意義、そしてそれを踏まえて美咲が考える生命の誕生について。壮大なテーマに対して持てる知識を無駄なく一枚の紙に詰め込んだ立派な小論文……いえ、名文でした」

「……じゃあ、他の問題でミスがあったんですか?」

「いえ、一番初めの基本的な穴埋め問題の解答欄がひとつ、空白でした」

「それは……どういう……」

「つまり美咲は、無理やり取りつけた約束で私を手に入れることを潔しとしなかったんです。あとは先生が考えろ……。そういうメッセージでした」

 ああ……これは完璧だ。先生が普通の女性で、美咲ちゃんが普通の男性だったならばひとたまりもない演出だ。

「私はそもそも性別を理由に美咲を拒んでいたわけではありません。この件で、逆に私が美咲に惹かれてしまいました。あとはもう、美咲を受け入れるだけでした」

 富永は考える。この先生は責められるべきなのか……。
 結果として現役の教え子と恋仲になったのだから、少なくとも褒められることではない。
 しかし、富永はこの先生を責める気持ちは持てなかった。
 一人の女性として。

「幸せ、でしたか?」

「はい。美咲は少なくとも私がこれまでに交際したどの男性よりも大人で、私を満たしてくれました」

「……そうですか。美咲ちゃんとは最近まで上手くいってたんですか?」

「はい。私が美咲に甘えるという関係で、ほとんど喧嘩もしませんでしたし、事故があった日の二日前にも会いました」

 二日前……火曜日か。
 これも「塾」の日だ。

「最近、美咲ちゃんに変わった様子はなかったんですか?」

 ちょっとした間が空く。

「……どういう意味ですか?」

 あれ? どういう意味って……だから、あれ?
 ……あ、そうか。不慮の事故なのか。
 この人なら自殺の原因まで知っているものと勝手に思い込んでいた。ドラマのような恋物語に聴き入っている場合ではなかった……。

 富永が答えに詰まっていると、不審に思った堤が聞いてくる。

「もしかして……単なる事故じゃないんですか?」

 しまった。突然の修羅場だ。恋人が自殺であるという事実を告げなければならない。
 しかし、独断で口外していいのか? 嘘はつけないし……。
 ああ、ちょっとでいい、考える時間が欲しい。

 そんなことを考えていた富永は無意識にうつむいて、右の手のひらを堤の眼前に突き出していた。
 分かりやすい「ちょっと待って」のポーズだ。
 富永の意を汲んでか、堤加南子は黙って富永の言葉を待っている。沈黙はやがて重圧になったが、富永の頭は機能が停止してしまったかのように、一向に次の言葉を見つけない。
 重圧から救い出してくれたのは、堤だった。

「……刑事さん、私は今さら驚きませんよ。自殺ですか、他殺ですか」

 富永はまだ固まっている。

「口外もしません。というか、口外できる話でもありません。美咲は確かに危なっかしい人でした。それを聞きに来たんですよね?」

 富永は覚悟を決めた。もともと手の内を明かさずに聞ける話ではないのだ、と。

「……自殺、と思われます。状況からは。……ほぼ間違いなく」

 堤加南子が一瞬目を閉じた。が、それは少しゆっくりとした瞬きのようなものだった。動揺した様子はない。

「……自殺。……そうですか。美咲が…」

「原因が判らないんです。それで堤先生なら何かご存知ではないかと…」

「ああ、そういうことですね。ええと、そうですね……直接の原因は正直、分かりません。最近でも、美咲に変わった様子はありませんでしたし……」

「先生と美咲ちゃんは……その、どれくらいの頻度で会っていたんですか?」

「美咲のお父さんは帰りも遅いし出張も多かったから、かなりの頻度で会ってました。そうですね……最低でも週に2回は会ってましたし、お父さんが出張の日は美咲の部屋にお邪魔していました」

「そうですか。連絡はその……先生名義の携帯で?」

「ええ、美咲がどうしても欲しがったので」

「先生、恋人として、美咲ちゃんはどうして死を選んだと思いますか?」

「美咲が……自殺。友達とのトラブル……ですかね。なにぶん美咲が二年生になると同時に私は学校を変わってしまったし、美咲は学校の話をあまりしなかったので……」

「そういえば、先生が学校を変わったのは、たまたまなんですか?」

「たまたま、ではないです。教え子との特別な関係を隠し続けるのは同じ学校にいては難しいと思ったので、美咲との関係を続けるために、年明けに異動願いを出したんです。適当な理由をつけて」

「そうですか。普段、美咲ちゃんとはどんな話を?」

「ええと、普通の恋人同士の話……だと思いますけど、言われてみればなんの話をしてたんですかね。科学の話、読んだ本の話、テレビの話……。あ、そういえば美咲はよくお父さんの話をしました」

「お父さんの話……ですか?」

「ええ、私のお父さんはすごいんだって。……あとは、お父さんは働きすぎだ、とか、世の中は不公平だよね、とか、よく言ってました」

「不公平……ですか」

「ええ、お父さんは大変な仕事をしているのに報われない、可哀想だって」

「……報われない、とは収入のことですか?」

「もちろんそれもありました。でも美咲が言っていたのは、奥さんの死に目に会えなかったことや、弟が産まれる間近で流産してしまったこととかですね。もちろんそれは美咲の不幸でもあったはずですが、美咲はとにかくお父さんの不幸を嘆いていました」

「……友達とのトラブルって言いましたが、なにか心当たりが?」

「美咲はモテました。……主に女の子にですが」

「そのようですね」

「言い寄ってくるたくさんの女の子の中で、何人かは分かりませんが、美咲が家に呼んでいたことは知っています。美咲塾……。たしか美咲はそう呼んでました」

「美咲塾……ですか?」

「はい、そうです」

「あの、塾って……なんの……」

 堤がまた自嘲気味に笑う。

「性の手解き……です。呼ばれる女の子たちも、もともと美咲に好意を寄せている子たちなので、みんなすっかり虜になってたみたいです」

 なるほど。これが後々、売春へと変わったのか。
 しかし、それにしても……。

「咎めなかったんですか? その……恋人として」

「美咲の火遊びを止めることは私にはできませんでした。そもそも私たちの関係も後ろ暗いものですし、美咲も女の子たちも楽しんでいたみたいでしたし、それに……」

「……それに、なんです?」

「私と美咲の関係は、美咲の方が明らかに立場が上でした。……情けないとは思いますが」

「堤先生、先生は美咲ちゃんがおカネ……それもかなりの大金を稼いでいたことは知っていますか?」

「……おカネ? 美咲が……ですか?」

「はい」

「……いえ、知りませんでした。私に秘密で体を売っていた……ということですか?」

「体を売っていた……というのは、美咲ちゃんが、ということですか?」

「はい。美咲の性はちょっと複雑でしたので、相手が男性でも、おそらくあまり抵抗はなかったと思います」

 そうなのか。しかし、一人で稼げる額とは思えない。
 お父さんは売春の元締めと言っていたが、その方が納得できる。この人はどう思うだろうか。

「あの、先生」

「はい」

「美咲ちゃんは、一年生の終わりからの1年弱で、判っている限りでおよそ1千万円、稼いでいました」

「……え?」

 驚いている。これは演技か? それとも本当に知らなかったのか? ……判らない。

「1千万……本当ですか?」

「はい。ざっとですが。お父さんは、美咲ちゃんは売春の元締めをしていたんだろうと言っています」

「元締め……。あ、ああそうか、そういうことだったのか……あれは」

 ん、なにか心当たりあるようだ。

「……あるんですね? 思い当たることが」

「はい、おそらく。でも、ここから先は私の想像になります。……たぶん間違いはないとは思いますが」

「構いません。お願いします」

「ええと……まず、美咲塾に入れる子は、美咲の中にある基準を満たしている子だけでした」

「それは……美咲ちゃんの好みが厳しかったということですか?」

「広い意味ではそうとも言えるかもしれません。容姿と性格もたしかに重要でした」

「容姿、性格……。他に何が必要なんですか?」

「成績と、堅い家庭環境です」

「……友達を選んでいた、ということですね」

「簡単に言えば、そうなるんですかね。でも、そう単純なものでもなさそうでした。一番の判断基準は、『この子は秘密を守れるか』というところにあったんだと思います」

「……それは性格、とは違うんですか?」

「刑事さん、美咲はよく『失うものがない馬鹿には敵わない』といって、勉強嫌いでチャラチャラした子を敬遠していました。もっとも、表には絶対に出しませんでしたが」

「……つまり、どういうことですか?」

「なにも失うものがない者、守るものを持たない者は信用するに価しない、ということです。そんな人間と付き合えば逆に付け入れられるだけだ、と。これはお父さんから学んだ価値観だったようです」

「……じゃあ、どんな子が選ばれるんですか?」

「まず常識を備えていて配慮ができること、そして部活か勉強でそれなりの成績をあげていて、ちゃんと友達がいる子に当たりをつけていたみたいです」

「それがつまり『持っている』ということなんですね?」

「そうです。そしてその子と話をしてみて、家庭環境なんかを聞き出していました。円満な家庭も大きな『守るもの』ですから」

「家庭を守るっていう考えは、なかなか中学生にはないんじゃないですか?」

「まあ、そうですね。ですので美咲の基準は、『この子はいざというときに、家族のことまで頭に入れて秘密を守れるか』というものだったと思います」

「選ばれし者……ですね。美咲塾は」

「そうですね。美咲のお父さんの予想が正しいとすれば、美咲塾が売春の母体に変わっていったんだと思います。私は今の今まで、単なる美咲の火遊びと思ってましたが」

 この人は間違いなく美咲ちゃんの恋人だった。
 だけど売春のことは知らないと言う。本当だろうか。
 普通に考えるなら、大人であるこの人こそ、児童売春の首魁なのではないだろうか? 今のところ悪人の気配は感じられないけど……。

「……先生は、本当に売春のことを知らなかったんですか?」

「ああ、無理もないですよね。そして『死人に口なし』ですからね。でも本当です。それは私よりも、美咲塾に籍を置いていた子を見つけて聞けばはっきりするはずです」

「ああ、そうかもしれませんね」

「ですので推測にはなりますが、私は意図せずに美咲の売春に協力していた……と思います。さっき、元締め、という言葉を聞いて思い出したんですが……」

「……なにを思い出したんですか?」

「美咲が一度だけ私に、私の顔が利く大学教授を教えてくれと言ったことがあるんです」

「どうして大学教授なんか……」

「美咲塾が守るべきものを持つ者なので、客も相応に守るべきものを持つ者を選んだ、ということだったと思います。完全に約束された秘密のもとで、本当に清楚な女子中学生と交渉できる秘密結社……。それが、私が東中を出てからの美咲塾の実態だったんじゃないかと思います」

 富永は、赤いスポーツバッグに納められていたアブノーマルな中身を思い出す。
 身持ちが固い、純朴な中学生との破廉恥な戯れ……。しかも秘密は保証されている。
 これは桃源郷だ。特別な嗜好を持つ少なからぬ男にとって、その価値はそれこそ破格だろう。

「それは……儲かりますね」

「ええ、美咲ならやりかねません。汚れのない青い果実の市場価値を、美咲は客観的に査定していたはずです。そして、市場を開拓して維持する時間と能力もあったと思います」

「しかし、基本的に真面目な子ばかり集めていたのに、そんな子たちが簡単に売春に加わるんでしょうか」

「そう……ですね。単におカネだけではないような気もしますが、それはやっぱり美咲塾にいた子に聞くしかないかもしれませんね。でも、美咲が何か他の子の弱みを握って無理矢理に体を売らせるようなことはなかったはずです」

「……どうしてそう言い切れるんですか?」

「刑事さん、美咲はたしかに危ない人でしたが、心の痛みには人一倍敏感でした。無理強いはあり得ません。美咲に心酔してそのあまり、ということならあり得ますが」

 このとき富永の脳裏に浮かんだのは、例の履歴書のようなラブレターだった。
 ……助けてください。確かにそう書かれていた。
 美咲塾に入ることは、何かしらの救いがあったはず……。
 それはなんだろう……。富永が考え込んでいると、堤が意外なことを口にする。

「……刑事さん、私、美咲がおカネを稼いでいた理由、たぶん分かります」

「え?」

「美咲は、お父さんを助けたかったんです。ボロボロになるまで働いて帰ってきて、死んだように寝て、朝、疲れたまま外見だけ綺麗に直して出ていくお父さんを毎日見送って……。『早くお父さんに楽をさせるんだ』って言ってました」

「……そうなんですか」

「お父さんがどれほど過酷な仕事をしていたのかは分かりませんが、美咲の主観では、お父さんは働きすぎだったようです。それに……」

「……それに?」

「あ……いえ、やっぱりいいです」

 ん、なんだ? ここにきて堤先生が初めて言い澱んだ。

「先生、気になりますよ。なにを言おうとしたんですか?」

「あ、ええ、そうですよね……。でもこれは本当に私の憶測なので……」

「聞かせてください、ぜひ」

「……分かりました。刑事さん、私と美咲はたしかに恋人関係だった……と思います。二人で過ごす時間は穏やかで、満たされていました。お互いに考えていることが手に取るように解っている。そんな感覚でした」

「……はい」

「ですが、美咲が一番愛していたのは、たぶん私ではありません」

「……そうなんですか?」

 続きを促すために言葉を継ぐが、この時点で富永にもなんとなく判っていた。

「美咲がいちばん愛していたのはおそらく……お父さんです」

 ……ああ、そうだ、そうなのだ。
 父娘なのだから愛で結ばれているのが自然ではあるのだが、この父娘の場合は特別だ。
 唯一の家族……。美咲ちゃんは単なる子ではなく、妻であり、そして親友であろうとしていた。
 課長はたしか、加藤さんが同窓会に来たのは20年振りだったと言っていた。
 官僚という世界のことはよく分からないが、転勤も多く、出世競争が激しい職場で、加藤さんに親友と呼べる人がいたかは怪しい。

 美咲ちゃんは父の孤独をも癒やそうとしていたのかもしれない。

「……たしかに、そうかもしれませんね」

「ええ。さっき、美咲の勉強の話がでましたが、美咲は学校の成績のために勉強していたんじゃありません。少しでもお父さんを理解するため、そして、優秀なお父さんを満足させる話し相手になるために知識を蓄積していたんです」

「ああ、だからテストの点にこだわりがなかったんですね」

「はい。テストで一点多く取ることよりも、夜に走る自転車の反射材の軌跡を見て『お父さん、サイクロイドだよ』と話せる知識を求めていたんです」

 おカネのことといい、勉強のことといい、美咲ちゃんの生前の行動は、すべて父である加藤さんのためだった……。
 手段の是非はさておき矛盾が見当たらない気がする。

「刑事さん、美咲の心は男でしたが、それを踏まえても私は、きっと美咲はお父さんの伴侶で居続けることを望んでいたと思います」

「伴侶、とは……」

「本当の夫婦のような関係です。美咲は自分の全部でお父さんを助けて添い遂げたいと願っていたようでした。お父さんの男性としての欲求もいつか満たしてあげたいと思っていたはずです。幸い、身体は女でしたし」

「でも、お父さんはそんなことはひとことも……」

「ええ、ですからこれは私の憶測で、美咲の秘めたる想いだったと考えています。私と付き合うことよりも更に道ならぬ恋ですから。美咲はもしかしたら一生、胸の内に留めておくつもりだったかもしれません。結果的にはそのとおりになったん……です……よね……」

 このとき初めて、堤加奈子の頬に涙が伝った。
 富永は口を結んで、恋人を失った一人の女性を見守ることにした。


 そうしてしばらく、置時計の小さな秒針が時を刻む音を聴いていると、堤加奈子が思い出したように言った。

「刑事さん、私……今日のお昼に、美咲のお父さんに会ったんです」

「え?」

「あ、いえ、会ったというか……見たんです。事故の場所に花をあげに行ったら」

「ああ、そういうことですね」

「私が手を合わせていたら、反対側から橋を上ってきたんです。見た瞬間にお父さんだと判りました。あんまり似てないのに……不思議なものですね。あの……刑事さん」

「はい」

「私には合わせる顔がありません。ですが、ひとりで遺されたお父さんの心が心配です。……どうかよろしくお伝えください」

「……わかりました。でも、美咲ちゃんは、いったいどうして大好きな人たちを遺して死を選んだんでしょうか」

「いかに動機が純粋でも、美咲がしていたことは危険……そして犯罪、ですよね 。たぶん何か破綻を来すようなことがあったんじゃないでしょうか。それに美咲には他にも、普通の中学生と決定的に違うところがありました」

「普通と違う……。他にもですか?」

「はい。これは美咲の成育環境に因るものですが、美咲は達観した死生観を持っていました。死への敷居が低いというか……生への執着がないというか」

「ああ、お母さんを看取ったのと……その前の、弟……になるはずだった子の不幸……ですね」

「ええ、特にお母さんの死は美咲がひとりで看取ったので、深く心に刻まれていました。永い闘病の末にもかかわらず、幸せそうに逝くお母さんの顔が。結果的に美咲は、身体的な痛みとか死ぬことに対して何の怖れも持っていませんでした。思春期にありがちな強がりとは別次元で」

「…………。」

「そんな美咲が、お父さんを経済的に助けるために体を売るという手段を選んだのは、必然というか、……あまり抵抗がなかったんじゃないでしょうか。他の子を巻き込んだのは罪深いですが……」

 富永は、昨日に美咲の上級生が言った「たかがセックス」という言葉を思い出す。
 それは響きこそ同じだが重さが違った。
 ……しかし。

「先生。加藤さんはそんなおカネを喜んで受け取るお父さんではありません」

「それは分かります。見た目も素敵でしたが、きっとそれ以上に内面も立派なお父さんなんでしょう。美咲は、まとまったおカネができたら一括で別の通帳に移して『宝くじが当たった』とでも言うつもりだったのかもしれません。現に、1千万くらいになっていてもお父さんは知らなかったんですよね? 美咲のことですから徹底していたと思います。きっと」

 この人の言葉に嘘はない……。
 本当に、純粋に恋人だったのだ。
 そして最近の美咲塾の実態も知らなかった。
 美咲ちゃんが言わなかったのだ。そう、とても恋人に言えることではないのだ。普通なら。

 富永は、加藤美咲という人物の特異性が自分の思考を曇らせかけていたことに思い至り、強い自省に駆られた。

 考え直さなければならない……。
 加藤美咲は常識も備えていたのだ。
 ……おそらく自分なんかよりも。


 富永はアパートを後にした。
 堤加奈子は別れ際にも「お父さんによろしくお願いします」と言って深く頭を下げた。
 そして、私には合わせる顔がありません、と繰り返した。

 堤加奈子との面接は、自殺の動機を追求しているはずの富永の胸に、ある一つの想いの種を落とした。
 結局、直接の動機は美咲塾の子に聞くしかなさそうだ。
 とりあえず携帯電話で岩崎に報告する。

(……分かった。また明日、加藤の家に行って報告するぞ)

「はい、了解です」

(ああ、それと富永、忘れないうちに言っておく)

「なんでしょう?」

(美咲ちゃんはお父さんが大好きだった。そこまではいい。が、その先、先生が憶測と言った父親への恋慕の情の話は抜きだ。いいな?)

「どうして、ですか?」

(……どこの親もそんなこと望んじゃいないからだ。その憶測は加藤を苦しめるだけ、しかも憶測に過ぎない。お前は刑事なんだぞ、忘れるな)

 課長と加藤さんの関係は、本当に20年の空白があったんだろうか?
 この細やかな心遣いは、それこそ大切な人に対するそれだ。羨むべき間柄に思える。

「……了解しました」

(で、お前はこれからどうするんだ?)

「東中の前で待ちます」

(その美咲塾……とやらの子を、か)

「はい。通夜で顔を憶えた子か、もしくは例の証明写真の子を待ちます」

(分かった、それが終わったら今日は直帰していいぞ。加藤も帰したしな)

「課長は何をしてるんですか?」

(……聞きたいか?)

「……聞きたくなりました。……たった今」

(大人のおもちゃを磨いている)

「指紋消し……ですか」

(人聞きの悪いことを言うな。これは……趣味だ)

「……お疲れ様です」

(まさか警部になってまでこんなことをするとは思わなかった)

 課長は今、加藤さんのために手を汚している……。
 思わず富永は、胸に生まれた不謹慎な想いを打ち明ける。

「……課長、私、やばいかもしれません」

(ん? なんのことだ?)

「……本当に加藤美咲になってしまいそうです」

 電話のむこうで岩崎が一瞬、黙る。

(……そうか。……富永)

「はい……」

(なれ、と言ったのは俺だ。止めはしない。……それに)

「……それに?」

(俺が女だったら惚れていた。間違いなくな)

 富永は空を仰いで胸の高鳴りを聴いた。


 胸の動悸が治まらぬまま富永は東中学校の正門近くに車を停めた。
 時刻はもう薄暮、部活帰りの生徒がパラパラと門から出てきている。
 まだ帰っていなければいいけど……。
 そして、真っ暗になる前に出てきてくれればいいのだけど。

 富永はカーステレオに落ち着いたピアノ曲を奏でさせる。
 これからやるのは取調べや事情聴取ではなくカウンセリングだ。そのつもりで臨まなければ話は聴けない。

 富永は視覚を正門に預けながら、改めて加藤美咲の自殺の動機を考える。
 堤先生との蜜月は美咲ちゃんの個としての情熱を窺わせる唯一の情報だった。それ以外、すべての行動の目的は父である加藤さんに向けられていたように思える。
 勉強をするのも、密かにおカネを稼ぐのも、甲斐甲斐しく妻の役割をするのもお父さんのため……。

 辞世の句には堤加南子への想いも込められていたけど、死を怖れない美咲ちゃんが、愛するお父さんを悲しませてまで死を決意したのは、それすらもお父さんのためだったんじゃないか?
 一見、相反するようだけど……。
 お父さんのために死ぬ。自身の命にあまり価値を認めないなら、実は些細な理由だったということも充分にあり得る。
 そうなってくると動機にたどり着くのは難しいかもしれない。

 そんなこと考えているうち、富永の記憶と重なる女の子が正門に現れた。通夜で泣き崩れていた子……。
 徒歩、それも一人……。好都合だ。
 富永は静かに車を降り、静かに歩み寄って声をかける。

「……こんばんは」

 女の子が全身の動きを止める。怯えきった目が富永を刺した。
 この子にとって、美咲ちゃんが死んでからのこの4日間は不安との戦いであったようだ。
 無理もないか。でも……それももう終わりだよ、たぶん。

「美咲塾のこと、聴かせて。……あなたのためにも」

「……警察……ですか?」

「そうよ。いつまでも不安を抱えていることはないわ。私は敵じゃない」

「…………。」

 張り詰めていた気が弛むのが判った。
 目の前の端正な顔が崩れかかる。
 富永は女の子の肩にそっと手を置いた。

「……もう大丈夫。だから話を聞かせて、ね?」

「……は……い」

 肩を抱き、寄り添うようにして車に戻る。
 富永は女の子を後部座席に座らせると、近くの自動販売機で温かいミルクティーを2本買った。
 運転席に戻って女の子に1本差し出す。女の子は放心に近い顔をしていた。

「少し落ち着いてから聞こうか?」

「はい……あ、いえ、もう大丈夫、です。お姉さんは少年課の人……ですか?」

「いいえ、刑事課よ」

 女の子の顔に再び不安の色が浮かぶ。

「心配しないで、事件の捜査をしているんじゃなくて、美咲ちゃんが何をしていたのかを調べているの」

「……それは捜査……じゃないんですか?」

「ええ、違うわ。美咲ちゃんが突然亡くなったことで、なにか別の事件が起こる可能性がないか確かめてる、といったところね。実際、あなたは何かを怖がっていた。……違う?」

 少し無理があるか……。
 富永は女の子の反応を待つ。

「……本当に、話しても、その……大丈夫ですか?」

「ええ、秘密は守るわ。助けが必要なら、できる限りのことはする。ええと、名前、教えてもらってもいい?」

「清水……有紀、です」

「私は富永っていうの。それで、いきなりだけど、どうして有紀ちゃんは美咲塾で男の人に体を預けるようになったの?」

「……ほんとに、いきなり……ですね」

 当然の反応、だけどこれでいい。
 警察は知っている……。まずそれを分からせないと、腹の探り合いに無駄な時間を費やすことになる。

「……ごめんなさい。じゃあ質問を変える。有紀ちゃんはこの前の期末テスト、何番だった?」

「……いきなり変わりすぎですよ。富永さん」

「そうね。……でも、美咲塾には関係あるんじゃない? ……成績も」

「…………そうですね。ええと、この前の期末は……5番でした。学年で」

「美咲ちゃんは?」

「美咲は3番でした」

「優秀ね、有紀ちゃんも美咲ちゃんも」

「私は精一杯頑張って5番ですけど、美咲は遊び半分で3番です」

 やはり仲間内でもそういう評価か……。
 性に関してはどういう認識なんだろう。

「有紀ちゃんのお父さんとお母さんのお仕事は?」

「公務員です。……ふたりとも」

「美咲塾に入る資格は充分だった、ということね?」

「……ええ、そういうことになる、と思います」

「美咲ちゃんは、その……レズだった……あ、最近は百合っていうのかな? それで間違いない?」

「はい、間違いないです。男子には興味ないって言ってましたし。実際、女子とばっかり遊んでいました」

「遊んでいた……というのはつまり、なかなか人には言えないような遊び、と思っていいのかしら?」

「……はい、美咲の部屋で、二人きりで」

「有紀ちゃんにも、その……百合の趣味があったの?」

「いえ、私はノーマルでした。好きな男子もいますし」

「そうなんだ。じゃあ、美咲ちゃんとそういう遊びをするようになったのはどうして?」

「私の場合、声をかけてきたのは美咲の方でした。それだけ資格があったのか、私が美咲の好みだったのか、今ではよく判りませんけど」

「美咲ちゃんの方から誘うっていうのは、少なかったんじゃない?」

「何人かはいるみたいですけど……そうですね、少なかったかもしれません。私はかなり初期からのメンバーだったと思います」

「美咲ちゃんはどうやって有紀ちゃんを誘ったの?」

「……私も関心はありました。……その、エッチなことに……人並みに」

「うん」

「美咲は私を家に招いて、はじめの何回かは、クラスの話とか、先生の悪口とかで盛り上がりました。そうして、ある日突然、ふざけ話の延長みたいな、ほんとに軽い感じで言ってきたんです」

「……なんて言ったの?」

「『有紀、エッチしよっ』って」

「……それは……なんというか……」

「私も言いました。『なに言ってんの?』って」

「それで、美咲ちゃんは?」

「本気で口説いてきました。『エッチなんて、食べることや寝ることと同列だよ。有紀、どんなに難しい顔をした親も、みーんなエッチなことしたから子供がいるんだよ。面白くない?』って」

「……まあ、それはそのとおり……よね」

「そんな感じで、私が抱いていた性への敷居をどんどん下げにきました。とどめの文句は今でも憶えてます。『どうせ食べるなら、私は美味しいものが食べたいんだよ、有紀』って。美咲は元々が男みたいな性格でしたが、あのときはほんとに男みたいでした」

 まあ、本当に男だったのだが、そこまでの認識はないということか……。
 今の時代、同性愛は決して特別なものではないという考えが浸透しているし。
 それにしても身も蓋もない……。そう思う一方で、富永は体の芯が熱くなるのを感じた。

「……それで、美咲ちゃんと体の関係ができた。そこまではいいわ。本題はその先、どうして美咲塾は大人の男に体を売るようになったの?」

 清水有紀はちょっと考えてから答えた。

「……兆候はありました。美咲は始めの頃から、『私たちの体って、今が最高値なんだよね』って言ってましたから」

「目的は、おカネ……よね? やっぱり」

「おカネ……そうですね。おカネももらっていました。少なくない額を」

「おカネ……も?」

 清水有紀が長考する。言っていいのかどうかを迷っている顔だ。
 富永は努めて穏やかな顔をして答えを待った。
 やがて意を決したように清水有紀が告げる。


「……私は、美咲塾の『進学組』だったんです……」
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