ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり

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第二章 暗躍するもの

10 本性

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 ニューヨークの高級ホテルで一夜を明かした加藤は、寒さに身を縮めながら麻尾が約束を取りつけた場所、ニューヨークでも最も高級とされるホテルを目指して歩いていた。

 昨日加藤が泊まったホテルも加藤の懐では精一杯高級なホテルの上等な部屋を選んだ。
 たった一泊で加藤の月給の半分……。しかも正規の出張ではないので自腹だ。
 しかし加藤はこの出費を惜しいとは考えていなかった。これから会う相手に備え、相応な気分を造らなければならなかったからだ。
 一世一代の大勝負……。これで上手くいくなら安いものだ…。


 悶々と頭の中でシミュレーションをしながら、20分ほど歩いて目的のホテルに着き、ロビーで名乗って来意を告げる。
 先方は最上階のひとつ下の階、ロイヤルスイートで待っている……。
 そう教えられたがホテルマンは案内してくれないようだ。加藤がそれを尋ねると、ロビーの女性は「おひとりでお越しくださいと伝言を賜っております」と言った。
 そういうことか。加藤はエレベーターで目的の階……51階に昇った。

 その51階にはロイヤルスイートの一室があるのみだ。
 エレベーターを降りて廊下をまっすぐ進んだ突き当たりにドアがある。
 ドアの前には屈強そうなボディーガードが二人立っていた。
 加藤は背筋を伸ばして廊下を進み、ボディーガードに名を名乗る。もう勝負は始まっているのだ。

 ボディチェックは実に入念で、王から託された未封の封筒も内ポケットから抜き取られた。
 加藤は思わず声を出しそうになったが、ボディーガードも心得たもので、折り畳まれた手紙を封筒から抜き取るまでしたが、内容は確認しなかった。
 やがてひとりが「どうぞ」と言ってドアを開けたので、加藤は「どうも」と答えて部屋に踏み込んだ。そして背中で静かにドアが閉じられる。

 広いスイートの奥、ニューヨーク市街が一望できる窓の近くの応接セット……。そこにその男は静かに腰掛けていた。

 ラリー・モーガン。……アメリカの富豪を取りまとめる黒幕だ。
 この人自身も富豪には違いないのだが、格付けはあまり高くない。
 ただ、大富豪同士の利権の調整役や、富豪に絡む厄介事の処理など汚れた仕事を一手に請け負っているので、大富豪は皆この人に頭が上がらないのだ。
 今は三代目と聞いたが……。加藤は意を決して、窓の外を見つめる初老の黒幕に声をかける。

「失礼します。日本から来たジン・カトウと言います。ミスターモーガン、お目にかかれて光栄です」

 黒幕……ラリー・モーガンは窓の外に視線を投げたまま返す。

「世辞はいらないよ、日本の若い人。古い友達の頼みだから時間を割いた。話を始めてくれ」

「……はい。停滞した経済のカンフル剤、そして世界秩序の安定のための一案をお持ちしましたので、御意見を賜りたいと思います」

「世界秩序の安定……私にそんな話をするのかい?」

「見返りはあります。……相応の」

 モーガン氏の口の端が歪む。
 ……笑ったのか? ……今のは。

「いいだろう……手短かに頼むよ」

「はい、ありがとうございます」

 加藤は、大晦日に夜を徹して考えた壮大な計画を語り始めた。モーガン氏の機嫌を損ねないように端的に……。


「うん、話は解った。……それで、見返りはどこにあるんだい?」

 話を聞き終えたモーガン氏はそう言った。加藤は考える……。
 話は解った…。そう言った上で見返りの所在を尋ねる意図は何だ?
 解ったと言ったではないか……。
 判らない……。判らないがここが分水嶺……。
 加藤の本能がそう告げている。

「裏側から上がってくるものの利権はアメリカが掌握します。……永続的に」

「違うよ」

 しまった……間違えたか。……しかし、考えても判らない、降参だ。

「申し訳ありません。お尋ねの意図に及びません」

 ここで初めてラリー・モーガンが加藤の方を向いた。
 柔和な顔立ちからは何も読み取れない。

「そんなに固くならなくていい。私が聞いたのは、今の話の中に、あなたのメリットが見つからないからだよ」

「私のメリット……ですか?」

「もちろんだよ。あなたも何か目的があって、危険を承知でここに来たはずだ。ところがあなたの話は国単位の話で、あなた個人の野心がどこにあるのか判らない」

「私個人の目的は……あります。申し上げてもよろしいですか?」

「私は私心のない人間を信用しない。言わないなら私はあなたを信用できない」

 ……言うしかない。これを言うのはまだずっと先……ちゃんと信頼を得てからと思っていたが、この人はそういう順序は認めないらしい。

「私は娘を人質にとられています。アメリカの企業から」

「……誰だ? それは」

「ピアーズさんのところです」

「……聞かせてくれないか」

「はい……」

 ピアーズとは美咲の脳をさらったIT企業の代表だ。加藤は、美咲が生前にやっていたことから今までのことを包み隠さず説明した。


「……なんだそれは。それじゃあピアーズが殺したも同然じゃないか」

「…………。」

 確かに加藤もそう思う。殺すつもりはなくとも自殺に追い詰め、死ぬや否や脳だけ殺さず持ち去って加藤を利用し続けようとしているのだ。

「これだから新参のIT成金は嫌いなんだ。ルールをわきまえない。まともなのはビルくらいだ。いちばんの同盟国を相手にやっていいことじゃないだろう」

 そう言うとモーガン氏はどこかに電話をかける。

「……私だ。すまないがこの電話をピアーズのところに繋いでくれないか。番号を憶えてないんだ」

 どうやら直談判してくれるらしい。まだ事務総長からの親書も見せていないのに……これはいい流れなのか?
 加藤が考えているうちに、どうやら相手に繋がったようだ。

「どうしましたか、じゃない。ピアーズ、貴様は外道だ。私は失望したよ、心底な。……ああそうだろう、判らんだろうな。身に覚えがありすぎるんだ貴様は。教えてやる……日本だ。お前は日本の少女を殺して脳を奪い、あろうことかその親を操ろうとしている。悪魔の所業だ。……なあ教えてくれ。貴様の良心はどこにある? いったいどんな信仰に拠れば貴様は赦されるんだ?」

 電話の相手は、おそらくIT企業のトップ……ピアーズだ。
 声は聞こえないものの電話の向こうで苦しい言い逃れをしていることがよく分かる。
 なにしろモーガン氏の表情がみるみる険しくなっていくのだ。

「とにかく、だ。貴様は金輪際この件……売春の関係も含めて一切関わるな。そして少女の脳は傷ひとつない状態で私の施設に移す。長い長い話はそれからだ。いいな」

 モーガン氏は受話器を叩き付けた。そして加藤と正面で向かい合った。
 そして発した言葉は加藤の予想以上だった。

「ミスター加藤、これはアメリカの恥だ。どうか堪えてほしい。今さらだが、娘さんのことは出来る限りのことをさせてもらう。……アメリカとして」

「ミスター、それは……」

「あなたは……いや、普通の人は私たちを〝悪〟という括りで見ているかもしれないが、現実はそう単純じゃない。日陰者にも矜持はあるんだよ。性善説を信じる者も少なくないし、信仰の厚い者もいる。ピアーズのような純粋な拝金主義者は新しい成金の中のごく一部だ。ピアーズには、金だけで世の中は渡れないということを私がしっかり教えておく」

 ……結局、事務総長の親書を出すタイミングがなかった。
 俺が一生懸命考えた作戦はどうなるんだ?

「もったいないお言葉です。それで、あの……」

「うん? ……それはなんだ?」

 加藤はおずおずと、事務総長からの親書を差し出す。モーガン氏は封書を見て「王さんが……ブラウンに?」と言いながら手紙を抜き出す。
 初めてモーガン氏の顔に判りやすい笑みが浮かんだ。

「……まったく……うらやましいな。麻尾といい、どいつもこいつもいい歳して……まだうつつに夢をみている」

 しみじみそう言うと、モーガンは黒い機械を懐から取り出して、何か操作をしてから加藤に手渡した。
 それは使い古された小さい携帯電話だった。

「……これは?」

「私も、もう一回この世の中に夢をみよう。死ぬまでのいい暇潰しだ。その古い電話は私と、そしてブラウン大統領に繋がる。ブラウンには私から言っておくよ。近いうちに連絡させる」

「……と、いうことは……」

「あなたの問題は解決したが、それとは別に計画は進める。面白いじゃないか……うん」

「……ありがとうございます」

「この計画に、あなたは本当の救いを求めている」

「はい」

「ブラウンも乗るよ、間違いなく。これの扱い方次第では、苦しい大統領選の流れも再び現状維持に向くかもしれない。……まだ捨てたもんじゃないってね」

「たしかに、扱い方次第ですね」

「ああそれと、私の友だちに伝えてくれないか。いつかまた、一緒に釣りに行こうと私が言っていたと」

 友だちとは麻尾さんのことだ。麻尾を友だちと呼ぶこの人は、予想とは正反対の人情家だった……。

「……はい、必ず」

 加藤は重いドアを押し開けて、ロイヤルスイートを出た。
 ホテルを出て見上げると、ニューヨークの空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。
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