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第二章 暗躍するもの
11 希望
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ハエのように舞い……
フラフラ。
……蚊のように刺す
ぺちっ。
よし、完璧だ……。だんだん解ってきた気がする。
「……おとうさん、熱でもあんのか?」
そう言ってきたのは部長の水沢だった。
熱があるとはどういう意味だ?今のは理想の一打だった。
「なんだよ。僕は元気だし、やる気も満々だよ」
「いや、なんか酔っぱらいみたいな打ち方だったから」
なにを失礼な。僕は加藤さんから伝授された極意を実践してるんだぞ。
たしかに今は水沢の足元にも及ばないけど……。
「加藤さんから教わった極意を練習してるんだ」
水沢の顔が少し暗くなる。部長として仲間を心配している顔だ。
「加藤って……美咲のことか?」
「そうだよ。前、加藤さんが僕にテニスの極意を教えてくれたんだ」
「……まあ、美咲は確かに強かった……けど、お前、何か変なこと教えられたんじゃないか?」
三上は憤慨した。
「そんなはずないよ。加藤さんにかぎっては僕をからかったりしない」
水沢の表情は複雑だ。
「いや、からかったとかじゃなくて、美咲にしかできないことを言われたんじゃないか?」
「え……」
言われてみればそうかもしれない。
加藤さんの極意は「打てるようになったら」という前提付きだった。
加藤さんに言わせれば、僕は打てるようにもなっていないレベルかも……。
三上の不安そうな顔を見て水沢が続ける。
「俺も美咲とはよくテニス談義をしたよ。……おとうさん、速い球を打つにはどうすればいい?」
「それは……筋トレや素振りを頑張ってラケットを速く振るか、とにかく速い球を打つだけならガットをめちゃくちゃ弛く張るか……かな?」
「確かに、要はラケットのトップスピードを速くすればいいんだ。でも、それについて美咲の理屈は理論的だったぞ」
「加藤さんの理屈?」
「ああ、打つときにラケットを動かす力は4つの要素に分けられるそうだ」
「4つ?」
「そう。一つ目は軸足から前足に体重移動するときの動き、つまり体そのものが前にいく力だ。二つ目は肩、というか体を回転させる動き」
「……うん。分かる」
「三つ目は肩の関節そのものの力、四つ目は手首……つまりインパクトの瞬間に、余したグリップを握る力だ。美咲は『要はこれを全部タイミングよく合わせればいいんだよ』と言ってた」
「言うのは簡単だけど……」
「そう、行うは難し……だ。でも、素振り一つでも、これを考えながらやるのとそうでないのとでは効果がまったく違う」
「……そうだね」
「美咲はこの理屈で男子顔負けの球を打っていた。あんな速い球を打っていた美咲の握力は20もなかったんだぞ」
「え、そうなの?」
「そうだ。要は力じゃないんだよ。おとうさんはまずこれを身に付けるのが先じゃないか?」
「……そうだね」
「ああ、それと……」
「まだあるの?」
「ああ、なんでも美咲が言うには、ボールを打つっていうのは、『叩く』んじゃなく『押し返す』ものなんだそうだ」
「……ああ、そうか」
「インパクトのほんの一瞬だけど、ラケットはボールを受け止めて、それから押し返してるんだと。だから理想では、本当はラケットがトップスピードになる直前、加速度がゼロになる前に打つのがいちばんいいって言ってた。面とボールの接する時間がどうとか……。この辺になると、俺にはよく解らなかったよ」
「僕には解る。……理屈だけなら」
「そうか。……おとうさん」
「うん?」
「引きずるなよ、いつまでも美咲のこと。気持ちは解るけど」
「……うん。ありがとう」
三上は練習の列に戻る。部長の水沢はまだ心配そうにしているが、加藤美咲が死んで一ヶ月、そして父親が殺されてから十日で、三上の心はすっかり凪いでいた。
ただ、三上自身の内面が変わったのだ。
周囲より一段、大人へと。
隣のテニスコートにもう三上の太陽はいない。そして女子テニス部の雰囲気は未だに暗い。
もう一度加藤さんと話したい。加藤さんの洒落たジョークが聞きたい……。
三上がなんとなく女子のコートを眺めていると、担任が校舎から出てきて男子のコートに走ってきた。
「ええと……あ、いた。おい三上、電話だ」
「電話……僕に、ですか?」
「ああ、加藤さんという男の人からだ。電話口で待たせてる」
加藤さんのお父さん……か。
わざわざ何だろう。
「すぐ行きます」
三上は駆け足で職員室に向かった。
(悪いね。三上くんの電話番号を聞き忘れていた)
「いえ……それより、また何かあったんですか?」
(いや、ない。けど話があるんだ)
「話……。それっていい話ですか?」
(う~ん……。悪い話ではない……と思う)
ん、歯切れが悪いな。お父さんらしくない感じだ。
いい話でもない。……そういうことか?
「ちょっとのことじゃ驚きませんよ。言ってください」
(あ、いや、三上くんは今日、塾かなにか予定があるか?)
「いえ、今日はなにもありません。6時前には帰ります」
(そうか、じゃあ俺も早めに帰っておくから、また家に来てくれないか?)
悪い話ではないのに、今は言えないのか……。
「分かりました」
(あ、そうそう、先に確認することがあった)
「なんですか?」
(三上くん、外務大臣が会いたいと言ってるが、どうする?)
「……嫌です」
(分かった。やんわり断っておく。じゃあ、また夜に。あ、そうそう、美咲の携帯を持ってきてくれ)
「はい」
電話が切られた。……なんで外務大臣が僕と会いたがるんだ?
ちょっとのことじゃ驚かないと啖呵を切ったものの、三上は加藤に会って何を聞かされるのか怖くなってきた。
「深刻そうだが……なんの電話だったんだ?」
傍らで見ていた担任が心配そうに尋ねてくる。無理もない。
「外務大臣が僕に会いたいと言ってるみたいです」
「は?」
「まあ、断りましたけど」
「は?」
「今の電話、亡くなった加藤さんのお父さんですよ」
「……ああ、そうか。加藤の親父さんは確か外務省の……って、それでなんでお前が大臣に会うんだ?」
「判りません。だから断りました」
「ん? 加藤……加藤といえば……。あ、そうだ、話は変わるが三上、生徒会長の件、考えてくれたか?」
……そういえばそんなことを言われてたな。
……何も考えてないけど。
「そうですね……。前向きに考えます」
「そうか、お前が起ってくれれば先生たちは安心なんだ。いい返事を待つよ。加藤が生きていれば、お前と加藤でいい生徒会になったのにな」
「そうですね。加藤さんがいたなら、僕は喜んで副会長をしてました」
「ん? お前が会長、加藤が副だろ?」
「いえ、会長は加藤さんですよ。器が違う」
「いや、あいつは副になって全力でお前を盛り上げていただろう。加藤はそういう奴だった。そう思わんか?」
確かにそうかもしれない。加藤さんの中で、僕はいったいどういう存在だったんだろう。
信用はされていた。それは判る。でも僕は…加藤さんが好きだったんだ。……異性として。
もう打ち明けることも叶わないけど。
部活を終えた三上は、加藤のマンションの駐輪場に自転車を駐める。
加藤さんの自転車がある……。警察署から返してもらったのか。
寒空の下、風にさらされる遺品の姿に哀愁を覚えながら三上はインターホンを押した。
「やあ、寒かったろ。さあ上がって」
お父さんは笑顔で出迎えてくれた。
三上はコタツに入って背を丸める。
「お父さん、それで、話ってなんですか?」
「ふたつある。ひとつはいい話、もうひとつは微妙な話だ」
「……いい話からお願いします」
「わかった。実は、ネット屋を黙らせることに成功したんだ」
「ほんとですか?」
「ああ本当だ。今度下手な動きをしたらネット屋はお仕舞いだ。そこで相談だ」
「……はい」
「アカウントは君に託されてる。だから美咲の携帯から、美咲塾の関係者全員に、もう心配は無用だというメッセージを送ってほしい」
「分かりました。一緒に考えてもらってもいいですか?」
「もちろんだ。一緒に考えよう」
三上は加藤と頭を寄せながら、美咲塾の関係者に一斉送信するメールの文面を考えた。
そしてコーヒーカップを片手に、完成した文面をもう一度確認する。
メールのタイトルは「美咲塾の先生方および生徒の皆さんへ」だ。
〝経営者の突然の死去により、関係者の皆さんにはこれまで御連絡もせず心配をおかけしておりましたが、美咲塾について一応の結末をみましたのでお知らせします。さて今回、先生方を含め、皆さんは事実上美咲塾とはなんの関わりもなかったものとして取り扱うことが内閣および警察の方針として一致をみました。美咲塾は「そもそも存在しなかったもの」として取り扱われます点をご理解願います。今後、関係者間で紛議が生じた場合、それは独立した個別の案件として厳正に処理されます。最後になりますが、生徒の皆さんは、塾がなくなっても各位が勉学に励み、自分の力で悔いのない進路へ進まれますことを切に願っております〟
「よし、上等だろう。これで解らない奴は馬鹿だ」
「そうですね」
「しかし、いいのか? 三上くんがその気になれば国会議員や会社役員に顎で指図することだってできたんだぞ」
三上がニヤッと笑う。
「お父さん。時効には期限がありますが、恩は一生涯ですよ。アカウントは消しません」
「……代議士にでもなるつもりか?」
「冗談ですよ。悪用する度胸がないから加藤さんは僕に託したんだと思います」
「そうか……」
「それで、もうひとつの、微妙な話ってなんですか?」
「ああ……うん、その……なんというか……」
「ほんとに微妙そうですね」
「……実は、美咲は死んでないんだ……完全には」
三上の手からコーヒーカップが滑り落ちた。
三上は落としたコーヒーカップを拾うことも忘れ、加藤の目を凝視する。
……加藤さんが完全には死んでいない?
どういう意味だ?
僕は通夜にも葬儀にも参列したし、葬儀では加藤さんの安らかな死に顔を見て哭いたのだ。
これが微妙な話……。続きを聞きたいが言葉が出ない。
三上が黙っていると加藤が続けた。
「三上くん。君は岩崎に、美咲が自殺に追い込まれたのは警察にバレたからではなく、ネット屋に何かを言われたからだという推理を披露したろう?」
「岩崎……ああ、刑事課長さんですね。はい、そう言いました」
「その推理はおそらく正しい。そして君の推理どおりネット屋は管理者権限でその痕跡を消した」
「……はい」
「だから自殺の前に美咲と具体的にどんなやり取りがあったかは判らないが、とにかくネット屋は美咲の死を即座に察知して、美咲の臨終の直後……心臓死の段階で俺に連絡してきて、美咲の脳だけを殺さずにさらって行った」
三上は言葉を失う。おいそれと信じられる話ではない。
「まあ、信じられないのも無理はない。信じられないような話だからね。でも事実なんだ。美咲が死のうと死ぬまいと、ネット屋の目的は俺の職務上の機密にあった。ネット屋は美咲の脳を人質に、俺に機密の漏洩を迫ってきたよ。もちろん美咲塾の客の情報も狙っていただろうけどね」
「……じゃあ、加藤さんの脳は、今でも人質になっているんですか?」
「いや、その件も解決した。美咲の脳はネット屋から取り戻して、今は筑波にある協力者の施設に移された」
「……そうですか」
本当に微妙な話だ。脳だけを生かされていて何ができるんだろう……。
それにしても、ネット屋は人の道を外れている。
組織が大きくなると善悪の判断がつかなくなるんだろうか。
「そこで……だ、三上くん」
「はい」
「君はもう一度、美咲と話がしたくはないか?」
……できるのか? そんなことが。
しかし、可否はともかくこの質問に対する答えなら決まっている。
「話したいです。どうしても」
「よし、じゃあ決まりだ。今度の土曜日、筑波の施設で最初の蘇生実験をするから一緒に行こう」
「蘇生……させるんですか?」
「当たり前だ。あのバカ娘をたたき起こして叱りつけなきゃならんだろう。君も美咲に文句を言う権利がある。違うか?」
「文句……は、ありません。今となっては」
「まあいい、とにかく美咲をたたき起こすんだ。土曜日の朝、君の家に迎えにいく。いいな?」
「……分かりました」
微妙な話を聞かされて、微妙な気持ちでその日、三上はフラフラと自転車を漕ぎながら帰途についた。
加藤と約束した1月の第4土曜日、三上は加藤の車の助手席に乗り、2時間ばかり揺られて研究施設が建ち並ぶ筑波の街に着いた。
加藤はその中のひとつ、かなりの広さを持つ平屋の施設の駐車場に車を駐め「さあ、ここだ」と言った。
三上は車を降りてその大きな施設を眺める。入口の上に大きな看板があった。
「ドビー研業……。なんの施設ですか?ここ」
「知らない方がいい」
「え?」
「知らない方がいい。聞いても聞かなかったことにした方がいい。……おそらく」
「…………。」
そう言われると、ますます知りたくなるじゃないか……。
三上はこの、外観や名前からは工場とも研究所とも判らない施設の正体が気になった。
加藤に連れられて三上は自動ドアを入る。自動ドアまで歩くあいだに三上は加藤から「実は俺もここには初めて来たんだ」と聞かされた。
建物の中も、化学工場のような研究所のような、よく判らない雰囲気だった。
ベージュ色のリノリウムの床は無機質だが清潔感がある。
加藤が、廊下を歩いていた白衣の男を呼び止めて「グレン博士のブースはどこですか」と尋ねている。
加藤が案内を聞き終えたとき、興味を抑えきれない三上は白衣の男に尋ねた。
「ここは、何をする施設なんですか?」
「今は危険ドラッグを作ってる」
「……え?」
「き・け・ん・ド・ラ・ッ・グ、を作ってるんだ。今はね」
「…………。」
「三上くん、余計なことは何も聞くな」
加藤に腕を掴まれ、三上は目的の場所…先ほど加藤が尋ねていたグレン博士という人のブースと思われるドアに着いた。
加藤は何も言わずにドアを開ける。
「加藤です。グレン博士をお願いします」
加藤は流暢な英語でグレン博士への取り次ぎを求めた。
……さすが外務官僚、まるでネイティブのように聞こえる。
やがて、30歳前後と思われる褐色で引き締まった体つきの男性がやってきて加藤に声をかける。
「はじめましてミスター加藤、私はグレン・フィールド。グレンと呼んでください。よろしくお願いします」
「ああ、そうさせてもらう。こちらこそよろしく」
「ええと……こちらのボーイは?」
グレン博士が僕を見る。
なんて答えるべきなんだろう……。
「この子はシュウイチ・ミカミ、美咲のステディだ。心配は要らない。すべてを知っている」
ステディ……。三上は複雑な気分になった。
「そうか……。感動の再会、になるといいけど……」
そう言ってグレン博士は僕たちを先導して研究ブースの奥へ進む。立派な設備だ。どれも新しい。
そして心の準備もないまま、突然それは視野に飛び込んできた。……人の……脳。
出来の悪いSF……。それが三上が抱いた第一印象だった。
薄い赤紫色の液体が満たされた円筒状の水槽の中央に、何枚かのパッドが貼られ何本もの針が刺された脳が金具で固定されている。
脳の底部に繋がれた二本のチューブはおそらく動脈と思われる。一方、静脈にあたる部分には何も繋がれていないのだろう、一定のリズムで脳の底から色の濃い液体を吐き出していて、それはやがて水槽を満たす薄い赤紫の中に溶ける。
想い人の変わり果てた姿を目の当たりにして、言葉にならない感情のしずくが三上の頬を伝う。
「……これが……加藤さんの……脳、ですか」
「そうだ。この施設に移されてからは俺も初めて見る。グレン、今はどういう状態なんだ?」
グレン博士は説明を始めた。その口調は興奮気味だ。
この人にとって加藤さんの脳は単なる実験台なんじゃないのか……。
形容のしようがない、当てはまる言葉のない怒りと悔しさに似た想いのうねりが三上を襲う。
「二本の大動脈から人工血液を生体と同じように送り込んでいる。静脈から吹き出したものはそのまま人工髄液と混ざるが、循環させてろ過している。水槽内の水圧も生体とほぼ同じだよ。髄液をろ過する過程では老廃物の排出も確認されているから、つまり代謝も行っているということだ。間違いなくこの脳は生きているよ」
「……意識はどうなんだ?」
「活動はある。が、脳波はほとんど眠っている状態と同じだよ。表面に貼ったパッドで脳波を計測している」
「刺さっている針のようなものはなんだ?初めて見るが」
「あれは電極だ。脳の各機能を構成する部位に2本ずつ刺している。脳をスキャンして正確に刺した。……かなり神経の要る作業だったよ」
「どうして2本なんだ?」
「インプット用とアウトプット用だ」
「……ずいぶん単純な理屈じゃないか。大丈夫なのか?」
「カトウ、私の専門は生物学で、医学はほんの少し学んだ程度だ。それでも私に白羽の矢が立ったのは、これが医学の範疇ではなく、生物学上の検証として扱うのが最適だからだ」
「つまり……どういうことだ?」
「ミサキの脳を、人ではなく脳という独立した生物とみなして、それとコミュニケーションする手段を探ろうとしているんだ。試す方法は単純なものから始めた方がいい。脳自身が持つ生物としての学習能力に賭けるんだ」
「そうか……そうかもしれないな。ん、どうした三上くん」
お父さんに言われて初めて気が付いた。
僕はかろうじて立っていたものの、悲しくて、それでも加藤さんから目を離せなくて、赤紫の円筒をじっと睨んだまま、子供のようにしゃくりあげるのを圧し殺して泣いていた。
「カトウ、察してやれよ。このステディは初めてこの姿を見たんだろう? 無理もない」
「……ああ、そうだな。落ち着くまでちょっと待とう」
休憩場所でベンチに座り、僕がようやく落ち着いたのを見て、お父さんが言った。
「三上くん、酷いようだがこれが現実だ。もしかしたら、いっそこのまま葬ってやった方が美咲にとって幸せかもしれない。だが俺はそれを許さない。美咲に問い質すことができる可能性がある限り俺はそれに賭ける。その上で、それでも美咲が死んで成仏したいというのなら、俺がこの手で美咲の命を終わらせる」
お父さんも、きっと永い葛藤を経てこの結論に辿り着いたのだ。
お父さんのこの覚悟に僕が口を挟む余地はない。
「……分かりました」
「よし、じゃあ行こう」
加藤と三上は、机に着いているグレンの背後に立った。電源が落ちた黒い画面を視たままグレンが背中で問う。
「ボーイ、覚悟は決まったかい?」
「……はい、お願いします」
「まあ、今回でいきなり上手くいくことはない。そのつもりでいてくれよ、二人とも」
「分かった」
「よし、じゃあ始めよう」
グレンが机上のパソコンの電源を入れる。その時、加藤美咲の脳の底からコポッと気泡が登るのを三上は見た。
「……グレンさん、このパソコンはネットワークでサーバに繋がってますか?」
「ああ、もちろん。それがどうかしたか?」
「ネットワークを切断してください。すぐに」
「……どうした? ボーイ」
「なんか……いやな予感がするんです」
「……分かった。そうしよう」
そして3人はパソコンの画面と円筒内の脳を交互に見ながらパソコンが起動するのを待つ。
だが、いつまで経ってもパソコンは起動しなかった。グレンが首を傾げていると、そのうち、パソコン本体から白煙が登りはじめた。
「……どうやら起動しないようだ」
グレンはパソコンの電源を落とし、本体から全てのコード類を抜いた。そして、加藤と三上に「休憩所で待っててくれ」と言い残して消えた。加藤と三上は肩を落としながら休憩所に戻る。
「無理なんですかね。……やっぱり」
「さあ、どうだかな」
それぞれが缶コーヒーを空けたところで、グレンが走ってきた。
「二人とも聞いてくれ。希望はあるぞ」
……起動すらしなかったのに何の望みだろう?加藤と三上は顔を見合わせる。
「パソコン内のハードからメモリまで、全ての領域が塗り潰されていたんだ。起動すらままならないほどに、全部」
「……それが美咲の脳からの信号によるものだと?」
「そうだ。しかも、ただ塗り潰されただけじゃない」
「……どういうことだ?」
「0だけでも1だけでもなかったんだよ。法則性は不明だが、0と1が混ざったデータで埋められていたんだ」
「可能性は残るな。……それなら」
「ああ、ボーイに言われてネットワークを切断しなかったらサーバがやられていたかもしれない。助かったよ。とにかく脳は雄叫びをあげたんだ。間違いなく」
「それでグレン、これからどうするんだ?」
「とりあえず、脳からのアウトプットを遮断して、しばらくは脳に一方的にデータを送り続ける。脳にコンピュータ言語を学習させるんだ」
「そうか。……じゃあ、俺たちは今日はここまでだな?」
「申し訳ないがそうなるな。今度は成果があった時点ですぐに連絡するよ」
「分かった。……ああそうだ、グレン」
「ん、なんだい?」
「脳にデータを送り続けるなら、英語パッチでなく日本語データにしてくれ。美咲は英語が未熟だ」
「ああ、分かった。そうする」
「じゃあ吉報を待つとしよう。三上くん、帰ろうか」
「はい」
本当にいつか、加藤さんともう一度話ができるんだろうか?
帰りの車中で、加藤と携帯電話番号を教え合い、三上は家路についた。
フラフラ。
……蚊のように刺す
ぺちっ。
よし、完璧だ……。だんだん解ってきた気がする。
「……おとうさん、熱でもあんのか?」
そう言ってきたのは部長の水沢だった。
熱があるとはどういう意味だ?今のは理想の一打だった。
「なんだよ。僕は元気だし、やる気も満々だよ」
「いや、なんか酔っぱらいみたいな打ち方だったから」
なにを失礼な。僕は加藤さんから伝授された極意を実践してるんだぞ。
たしかに今は水沢の足元にも及ばないけど……。
「加藤さんから教わった極意を練習してるんだ」
水沢の顔が少し暗くなる。部長として仲間を心配している顔だ。
「加藤って……美咲のことか?」
「そうだよ。前、加藤さんが僕にテニスの極意を教えてくれたんだ」
「……まあ、美咲は確かに強かった……けど、お前、何か変なこと教えられたんじゃないか?」
三上は憤慨した。
「そんなはずないよ。加藤さんにかぎっては僕をからかったりしない」
水沢の表情は複雑だ。
「いや、からかったとかじゃなくて、美咲にしかできないことを言われたんじゃないか?」
「え……」
言われてみればそうかもしれない。
加藤さんの極意は「打てるようになったら」という前提付きだった。
加藤さんに言わせれば、僕は打てるようにもなっていないレベルかも……。
三上の不安そうな顔を見て水沢が続ける。
「俺も美咲とはよくテニス談義をしたよ。……おとうさん、速い球を打つにはどうすればいい?」
「それは……筋トレや素振りを頑張ってラケットを速く振るか、とにかく速い球を打つだけならガットをめちゃくちゃ弛く張るか……かな?」
「確かに、要はラケットのトップスピードを速くすればいいんだ。でも、それについて美咲の理屈は理論的だったぞ」
「加藤さんの理屈?」
「ああ、打つときにラケットを動かす力は4つの要素に分けられるそうだ」
「4つ?」
「そう。一つ目は軸足から前足に体重移動するときの動き、つまり体そのものが前にいく力だ。二つ目は肩、というか体を回転させる動き」
「……うん。分かる」
「三つ目は肩の関節そのものの力、四つ目は手首……つまりインパクトの瞬間に、余したグリップを握る力だ。美咲は『要はこれを全部タイミングよく合わせればいいんだよ』と言ってた」
「言うのは簡単だけど……」
「そう、行うは難し……だ。でも、素振り一つでも、これを考えながらやるのとそうでないのとでは効果がまったく違う」
「……そうだね」
「美咲はこの理屈で男子顔負けの球を打っていた。あんな速い球を打っていた美咲の握力は20もなかったんだぞ」
「え、そうなの?」
「そうだ。要は力じゃないんだよ。おとうさんはまずこれを身に付けるのが先じゃないか?」
「……そうだね」
「ああ、それと……」
「まだあるの?」
「ああ、なんでも美咲が言うには、ボールを打つっていうのは、『叩く』んじゃなく『押し返す』ものなんだそうだ」
「……ああ、そうか」
「インパクトのほんの一瞬だけど、ラケットはボールを受け止めて、それから押し返してるんだと。だから理想では、本当はラケットがトップスピードになる直前、加速度がゼロになる前に打つのがいちばんいいって言ってた。面とボールの接する時間がどうとか……。この辺になると、俺にはよく解らなかったよ」
「僕には解る。……理屈だけなら」
「そうか。……おとうさん」
「うん?」
「引きずるなよ、いつまでも美咲のこと。気持ちは解るけど」
「……うん。ありがとう」
三上は練習の列に戻る。部長の水沢はまだ心配そうにしているが、加藤美咲が死んで一ヶ月、そして父親が殺されてから十日で、三上の心はすっかり凪いでいた。
ただ、三上自身の内面が変わったのだ。
周囲より一段、大人へと。
隣のテニスコートにもう三上の太陽はいない。そして女子テニス部の雰囲気は未だに暗い。
もう一度加藤さんと話したい。加藤さんの洒落たジョークが聞きたい……。
三上がなんとなく女子のコートを眺めていると、担任が校舎から出てきて男子のコートに走ってきた。
「ええと……あ、いた。おい三上、電話だ」
「電話……僕に、ですか?」
「ああ、加藤さんという男の人からだ。電話口で待たせてる」
加藤さんのお父さん……か。
わざわざ何だろう。
「すぐ行きます」
三上は駆け足で職員室に向かった。
(悪いね。三上くんの電話番号を聞き忘れていた)
「いえ……それより、また何かあったんですか?」
(いや、ない。けど話があるんだ)
「話……。それっていい話ですか?」
(う~ん……。悪い話ではない……と思う)
ん、歯切れが悪いな。お父さんらしくない感じだ。
いい話でもない。……そういうことか?
「ちょっとのことじゃ驚きませんよ。言ってください」
(あ、いや、三上くんは今日、塾かなにか予定があるか?)
「いえ、今日はなにもありません。6時前には帰ります」
(そうか、じゃあ俺も早めに帰っておくから、また家に来てくれないか?)
悪い話ではないのに、今は言えないのか……。
「分かりました」
(あ、そうそう、先に確認することがあった)
「なんですか?」
(三上くん、外務大臣が会いたいと言ってるが、どうする?)
「……嫌です」
(分かった。やんわり断っておく。じゃあ、また夜に。あ、そうそう、美咲の携帯を持ってきてくれ)
「はい」
電話が切られた。……なんで外務大臣が僕と会いたがるんだ?
ちょっとのことじゃ驚かないと啖呵を切ったものの、三上は加藤に会って何を聞かされるのか怖くなってきた。
「深刻そうだが……なんの電話だったんだ?」
傍らで見ていた担任が心配そうに尋ねてくる。無理もない。
「外務大臣が僕に会いたいと言ってるみたいです」
「は?」
「まあ、断りましたけど」
「は?」
「今の電話、亡くなった加藤さんのお父さんですよ」
「……ああ、そうか。加藤の親父さんは確か外務省の……って、それでなんでお前が大臣に会うんだ?」
「判りません。だから断りました」
「ん? 加藤……加藤といえば……。あ、そうだ、話は変わるが三上、生徒会長の件、考えてくれたか?」
……そういえばそんなことを言われてたな。
……何も考えてないけど。
「そうですね……。前向きに考えます」
「そうか、お前が起ってくれれば先生たちは安心なんだ。いい返事を待つよ。加藤が生きていれば、お前と加藤でいい生徒会になったのにな」
「そうですね。加藤さんがいたなら、僕は喜んで副会長をしてました」
「ん? お前が会長、加藤が副だろ?」
「いえ、会長は加藤さんですよ。器が違う」
「いや、あいつは副になって全力でお前を盛り上げていただろう。加藤はそういう奴だった。そう思わんか?」
確かにそうかもしれない。加藤さんの中で、僕はいったいどういう存在だったんだろう。
信用はされていた。それは判る。でも僕は…加藤さんが好きだったんだ。……異性として。
もう打ち明けることも叶わないけど。
部活を終えた三上は、加藤のマンションの駐輪場に自転車を駐める。
加藤さんの自転車がある……。警察署から返してもらったのか。
寒空の下、風にさらされる遺品の姿に哀愁を覚えながら三上はインターホンを押した。
「やあ、寒かったろ。さあ上がって」
お父さんは笑顔で出迎えてくれた。
三上はコタツに入って背を丸める。
「お父さん、それで、話ってなんですか?」
「ふたつある。ひとつはいい話、もうひとつは微妙な話だ」
「……いい話からお願いします」
「わかった。実は、ネット屋を黙らせることに成功したんだ」
「ほんとですか?」
「ああ本当だ。今度下手な動きをしたらネット屋はお仕舞いだ。そこで相談だ」
「……はい」
「アカウントは君に託されてる。だから美咲の携帯から、美咲塾の関係者全員に、もう心配は無用だというメッセージを送ってほしい」
「分かりました。一緒に考えてもらってもいいですか?」
「もちろんだ。一緒に考えよう」
三上は加藤と頭を寄せながら、美咲塾の関係者に一斉送信するメールの文面を考えた。
そしてコーヒーカップを片手に、完成した文面をもう一度確認する。
メールのタイトルは「美咲塾の先生方および生徒の皆さんへ」だ。
〝経営者の突然の死去により、関係者の皆さんにはこれまで御連絡もせず心配をおかけしておりましたが、美咲塾について一応の結末をみましたのでお知らせします。さて今回、先生方を含め、皆さんは事実上美咲塾とはなんの関わりもなかったものとして取り扱うことが内閣および警察の方針として一致をみました。美咲塾は「そもそも存在しなかったもの」として取り扱われます点をご理解願います。今後、関係者間で紛議が生じた場合、それは独立した個別の案件として厳正に処理されます。最後になりますが、生徒の皆さんは、塾がなくなっても各位が勉学に励み、自分の力で悔いのない進路へ進まれますことを切に願っております〟
「よし、上等だろう。これで解らない奴は馬鹿だ」
「そうですね」
「しかし、いいのか? 三上くんがその気になれば国会議員や会社役員に顎で指図することだってできたんだぞ」
三上がニヤッと笑う。
「お父さん。時効には期限がありますが、恩は一生涯ですよ。アカウントは消しません」
「……代議士にでもなるつもりか?」
「冗談ですよ。悪用する度胸がないから加藤さんは僕に託したんだと思います」
「そうか……」
「それで、もうひとつの、微妙な話ってなんですか?」
「ああ……うん、その……なんというか……」
「ほんとに微妙そうですね」
「……実は、美咲は死んでないんだ……完全には」
三上の手からコーヒーカップが滑り落ちた。
三上は落としたコーヒーカップを拾うことも忘れ、加藤の目を凝視する。
……加藤さんが完全には死んでいない?
どういう意味だ?
僕は通夜にも葬儀にも参列したし、葬儀では加藤さんの安らかな死に顔を見て哭いたのだ。
これが微妙な話……。続きを聞きたいが言葉が出ない。
三上が黙っていると加藤が続けた。
「三上くん。君は岩崎に、美咲が自殺に追い込まれたのは警察にバレたからではなく、ネット屋に何かを言われたからだという推理を披露したろう?」
「岩崎……ああ、刑事課長さんですね。はい、そう言いました」
「その推理はおそらく正しい。そして君の推理どおりネット屋は管理者権限でその痕跡を消した」
「……はい」
「だから自殺の前に美咲と具体的にどんなやり取りがあったかは判らないが、とにかくネット屋は美咲の死を即座に察知して、美咲の臨終の直後……心臓死の段階で俺に連絡してきて、美咲の脳だけを殺さずにさらって行った」
三上は言葉を失う。おいそれと信じられる話ではない。
「まあ、信じられないのも無理はない。信じられないような話だからね。でも事実なんだ。美咲が死のうと死ぬまいと、ネット屋の目的は俺の職務上の機密にあった。ネット屋は美咲の脳を人質に、俺に機密の漏洩を迫ってきたよ。もちろん美咲塾の客の情報も狙っていただろうけどね」
「……じゃあ、加藤さんの脳は、今でも人質になっているんですか?」
「いや、その件も解決した。美咲の脳はネット屋から取り戻して、今は筑波にある協力者の施設に移された」
「……そうですか」
本当に微妙な話だ。脳だけを生かされていて何ができるんだろう……。
それにしても、ネット屋は人の道を外れている。
組織が大きくなると善悪の判断がつかなくなるんだろうか。
「そこで……だ、三上くん」
「はい」
「君はもう一度、美咲と話がしたくはないか?」
……できるのか? そんなことが。
しかし、可否はともかくこの質問に対する答えなら決まっている。
「話したいです。どうしても」
「よし、じゃあ決まりだ。今度の土曜日、筑波の施設で最初の蘇生実験をするから一緒に行こう」
「蘇生……させるんですか?」
「当たり前だ。あのバカ娘をたたき起こして叱りつけなきゃならんだろう。君も美咲に文句を言う権利がある。違うか?」
「文句……は、ありません。今となっては」
「まあいい、とにかく美咲をたたき起こすんだ。土曜日の朝、君の家に迎えにいく。いいな?」
「……分かりました」
微妙な話を聞かされて、微妙な気持ちでその日、三上はフラフラと自転車を漕ぎながら帰途についた。
加藤と約束した1月の第4土曜日、三上は加藤の車の助手席に乗り、2時間ばかり揺られて研究施設が建ち並ぶ筑波の街に着いた。
加藤はその中のひとつ、かなりの広さを持つ平屋の施設の駐車場に車を駐め「さあ、ここだ」と言った。
三上は車を降りてその大きな施設を眺める。入口の上に大きな看板があった。
「ドビー研業……。なんの施設ですか?ここ」
「知らない方がいい」
「え?」
「知らない方がいい。聞いても聞かなかったことにした方がいい。……おそらく」
「…………。」
そう言われると、ますます知りたくなるじゃないか……。
三上はこの、外観や名前からは工場とも研究所とも判らない施設の正体が気になった。
加藤に連れられて三上は自動ドアを入る。自動ドアまで歩くあいだに三上は加藤から「実は俺もここには初めて来たんだ」と聞かされた。
建物の中も、化学工場のような研究所のような、よく判らない雰囲気だった。
ベージュ色のリノリウムの床は無機質だが清潔感がある。
加藤が、廊下を歩いていた白衣の男を呼び止めて「グレン博士のブースはどこですか」と尋ねている。
加藤が案内を聞き終えたとき、興味を抑えきれない三上は白衣の男に尋ねた。
「ここは、何をする施設なんですか?」
「今は危険ドラッグを作ってる」
「……え?」
「き・け・ん・ド・ラ・ッ・グ、を作ってるんだ。今はね」
「…………。」
「三上くん、余計なことは何も聞くな」
加藤に腕を掴まれ、三上は目的の場所…先ほど加藤が尋ねていたグレン博士という人のブースと思われるドアに着いた。
加藤は何も言わずにドアを開ける。
「加藤です。グレン博士をお願いします」
加藤は流暢な英語でグレン博士への取り次ぎを求めた。
……さすが外務官僚、まるでネイティブのように聞こえる。
やがて、30歳前後と思われる褐色で引き締まった体つきの男性がやってきて加藤に声をかける。
「はじめましてミスター加藤、私はグレン・フィールド。グレンと呼んでください。よろしくお願いします」
「ああ、そうさせてもらう。こちらこそよろしく」
「ええと……こちらのボーイは?」
グレン博士が僕を見る。
なんて答えるべきなんだろう……。
「この子はシュウイチ・ミカミ、美咲のステディだ。心配は要らない。すべてを知っている」
ステディ……。三上は複雑な気分になった。
「そうか……。感動の再会、になるといいけど……」
そう言ってグレン博士は僕たちを先導して研究ブースの奥へ進む。立派な設備だ。どれも新しい。
そして心の準備もないまま、突然それは視野に飛び込んできた。……人の……脳。
出来の悪いSF……。それが三上が抱いた第一印象だった。
薄い赤紫色の液体が満たされた円筒状の水槽の中央に、何枚かのパッドが貼られ何本もの針が刺された脳が金具で固定されている。
脳の底部に繋がれた二本のチューブはおそらく動脈と思われる。一方、静脈にあたる部分には何も繋がれていないのだろう、一定のリズムで脳の底から色の濃い液体を吐き出していて、それはやがて水槽を満たす薄い赤紫の中に溶ける。
想い人の変わり果てた姿を目の当たりにして、言葉にならない感情のしずくが三上の頬を伝う。
「……これが……加藤さんの……脳、ですか」
「そうだ。この施設に移されてからは俺も初めて見る。グレン、今はどういう状態なんだ?」
グレン博士は説明を始めた。その口調は興奮気味だ。
この人にとって加藤さんの脳は単なる実験台なんじゃないのか……。
形容のしようがない、当てはまる言葉のない怒りと悔しさに似た想いのうねりが三上を襲う。
「二本の大動脈から人工血液を生体と同じように送り込んでいる。静脈から吹き出したものはそのまま人工髄液と混ざるが、循環させてろ過している。水槽内の水圧も生体とほぼ同じだよ。髄液をろ過する過程では老廃物の排出も確認されているから、つまり代謝も行っているということだ。間違いなくこの脳は生きているよ」
「……意識はどうなんだ?」
「活動はある。が、脳波はほとんど眠っている状態と同じだよ。表面に貼ったパッドで脳波を計測している」
「刺さっている針のようなものはなんだ?初めて見るが」
「あれは電極だ。脳の各機能を構成する部位に2本ずつ刺している。脳をスキャンして正確に刺した。……かなり神経の要る作業だったよ」
「どうして2本なんだ?」
「インプット用とアウトプット用だ」
「……ずいぶん単純な理屈じゃないか。大丈夫なのか?」
「カトウ、私の専門は生物学で、医学はほんの少し学んだ程度だ。それでも私に白羽の矢が立ったのは、これが医学の範疇ではなく、生物学上の検証として扱うのが最適だからだ」
「つまり……どういうことだ?」
「ミサキの脳を、人ではなく脳という独立した生物とみなして、それとコミュニケーションする手段を探ろうとしているんだ。試す方法は単純なものから始めた方がいい。脳自身が持つ生物としての学習能力に賭けるんだ」
「そうか……そうかもしれないな。ん、どうした三上くん」
お父さんに言われて初めて気が付いた。
僕はかろうじて立っていたものの、悲しくて、それでも加藤さんから目を離せなくて、赤紫の円筒をじっと睨んだまま、子供のようにしゃくりあげるのを圧し殺して泣いていた。
「カトウ、察してやれよ。このステディは初めてこの姿を見たんだろう? 無理もない」
「……ああ、そうだな。落ち着くまでちょっと待とう」
休憩場所でベンチに座り、僕がようやく落ち着いたのを見て、お父さんが言った。
「三上くん、酷いようだがこれが現実だ。もしかしたら、いっそこのまま葬ってやった方が美咲にとって幸せかもしれない。だが俺はそれを許さない。美咲に問い質すことができる可能性がある限り俺はそれに賭ける。その上で、それでも美咲が死んで成仏したいというのなら、俺がこの手で美咲の命を終わらせる」
お父さんも、きっと永い葛藤を経てこの結論に辿り着いたのだ。
お父さんのこの覚悟に僕が口を挟む余地はない。
「……分かりました」
「よし、じゃあ行こう」
加藤と三上は、机に着いているグレンの背後に立った。電源が落ちた黒い画面を視たままグレンが背中で問う。
「ボーイ、覚悟は決まったかい?」
「……はい、お願いします」
「まあ、今回でいきなり上手くいくことはない。そのつもりでいてくれよ、二人とも」
「分かった」
「よし、じゃあ始めよう」
グレンが机上のパソコンの電源を入れる。その時、加藤美咲の脳の底からコポッと気泡が登るのを三上は見た。
「……グレンさん、このパソコンはネットワークでサーバに繋がってますか?」
「ああ、もちろん。それがどうかしたか?」
「ネットワークを切断してください。すぐに」
「……どうした? ボーイ」
「なんか……いやな予感がするんです」
「……分かった。そうしよう」
そして3人はパソコンの画面と円筒内の脳を交互に見ながらパソコンが起動するのを待つ。
だが、いつまで経ってもパソコンは起動しなかった。グレンが首を傾げていると、そのうち、パソコン本体から白煙が登りはじめた。
「……どうやら起動しないようだ」
グレンはパソコンの電源を落とし、本体から全てのコード類を抜いた。そして、加藤と三上に「休憩所で待っててくれ」と言い残して消えた。加藤と三上は肩を落としながら休憩所に戻る。
「無理なんですかね。……やっぱり」
「さあ、どうだかな」
それぞれが缶コーヒーを空けたところで、グレンが走ってきた。
「二人とも聞いてくれ。希望はあるぞ」
……起動すらしなかったのに何の望みだろう?加藤と三上は顔を見合わせる。
「パソコン内のハードからメモリまで、全ての領域が塗り潰されていたんだ。起動すらままならないほどに、全部」
「……それが美咲の脳からの信号によるものだと?」
「そうだ。しかも、ただ塗り潰されただけじゃない」
「……どういうことだ?」
「0だけでも1だけでもなかったんだよ。法則性は不明だが、0と1が混ざったデータで埋められていたんだ」
「可能性は残るな。……それなら」
「ああ、ボーイに言われてネットワークを切断しなかったらサーバがやられていたかもしれない。助かったよ。とにかく脳は雄叫びをあげたんだ。間違いなく」
「それでグレン、これからどうするんだ?」
「とりあえず、脳からのアウトプットを遮断して、しばらくは脳に一方的にデータを送り続ける。脳にコンピュータ言語を学習させるんだ」
「そうか。……じゃあ、俺たちは今日はここまでだな?」
「申し訳ないがそうなるな。今度は成果があった時点ですぐに連絡するよ」
「分かった。……ああそうだ、グレン」
「ん、なんだい?」
「脳にデータを送り続けるなら、英語パッチでなく日本語データにしてくれ。美咲は英語が未熟だ」
「ああ、分かった。そうする」
「じゃあ吉報を待つとしよう。三上くん、帰ろうか」
「はい」
本当にいつか、加藤さんともう一度話ができるんだろうか?
帰りの車中で、加藤と携帯電話番号を教え合い、三上は家路についた。
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