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【第十七話】
しおりを挟む「……お前、どうやってここを知ったんだ?」
ニルギルがふーっと息を吐いて髪を吹き上げると、整った男の涼やかな目許が露わになる。淡い黄色の線が混ざった濃い灰色の虹彩。恐ろしさを抱かせるほどの美しさは、泥水のような彼の内側の上澄みなのだろう。いくら人のいい笑みを浮かべようと、人間相手でなければ意味をなさない。
「やっぱり何言ってるかはわからないな……でも、こっちの言葉は伝わってるんだろ?」
予想した通り、男は表面上は気立ての良さを見せながらも、歩み寄る姿勢はさらさらないらしい。胸ポケットから取り出した煙草を喰み、白い煙を上らせる。吹かれた白い息は湿気の多い空気の中で沈澱し、不穏さを香らせて視界を汚す。
「俺はエルド、アウルの恋人だよ。あいつの代わりにお別れの挨拶を言いに来てやったんだ」
細められた目元は確かな愉悦と侮蔑を含み、純真な肉を引き割くようにしてエルドを睨め上げた。
なにを言ってるのかと笑って追い返せばいいものを。馬鹿正直に狼狽を晒したことを後ほど悔やむことになる。不動の態度を維持できなかったのは、きっとどこかで引け目を感じていたからだ。あれほど美しい人間の娘が異種族の自分を選ぶはずがない。いつか人間の男を好きになり、ここを去って行くのだろう。
常に最悪のケースを想定して、傷を最小限に止めようと身構える。そうして芽生えてしまった劣後感は消えることがない。皮膚の中に埋もれた棘のように、じくじくと鈍い痛みで肉を抉った。
じりっと後ずさったことで垣間見えた動揺が、相手に付け入る隙を与える。下劣な笑い声を上げる男の嗜虐心を煽り、その非道な行いを増長させた。
こんっと投げて寄越されたものは、いつの日かアウルに手渡したはずの漆黒の石。男の言質を裏付けるように現れては目を奪い、純情を砕く音を立ててひび割れる。
「……ぷっ! あははっ、なんだよその顔! まさか本気にしたわけじゃないよな、人間と竜だぞ?」
鼻に付く強い煙草の香りが胸を占め、肉が焼けるような錯覚を起こさせる。一言も返せぬままニルギルは視線を落とし、長い尻尾で自身の足元を覆った。
こんな見ず知らずの男の話に耳をかすのか。そう叱咤する自分がいた。しかし、同時にどうしようもない劣等感が自尊心を踏み躙ってしまう。
やはり人間の男がよかったのか、自分では彼女の心を満たすことができなかったのか。いくら一心に愛を唱えても、愛しい者の元まで届かなければ意味がない。まるで寝起きに水の中に放り込まれたかのような混乱と衝撃。
理性が働く前に畳み掛けられたのも、相手の手の内だったのだろう。エルドは短くなった煙草を投げ捨て、雨で湿り気を帯びた手袋を剥ぎ取った。
「アウルはもう来ないよ、女神であることが軍に見つかったんだ。これからあいつは人間兵器を産む機械として強制的に孕まされて、一生牢獄の中だ」
鳴り止まない雨音に耳が腐れ、歩み寄る音に反応が遅れる。ビリッと腕のあたりで走った痛みに身を強張らせ、ニルギルは大きく尻尾を振り上げた。自身の肌に触れた男へ振り下ろすはずが、その直前で視界全体に靄がかかり意識が混沌とし始める。
「お前は自分を騙した女を許せるか? そいつのために命を捨てる覚悟があるか? なあ、どうなんだニルギル?」
耳元で聞こえるはずのない声が聞こえ、目の前に映ったのは悲痛な声を上げて泣き叫ぶ愛しい番の姿。何かがおかしいと思った時にはもう遅い。男の祝福は身体を蝕み、理性を崩していく。
幻覚に侵された脳を無理やりにでも叩きつけていれば、この先の惨劇は回避できたのだろうか。見知らぬ男に犯されているアウルの光景を前に理性は崩れ、ニルギルの瞳は赤く染まった。
「……怒りに溺れて、全員ぶっ殺してこいよ」
身体に走る痛みの感覚が途切れると、ニルギルは大きな翼を広げて空へと飛び立つ。雷雨の中を舞う一匹の黒竜。その姿を見送ると、エルドはひび割れた黒い結晶を拾い上げては濁流の渦巻く滝壺へと投げ捨てた。
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