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もう二度と、あなたのために泣くことはない
少しずつ、均衡が崩れ始めた。
アルベルト様の様子が、目に見えておかしくなったのだ。
彼は、私が午後の散策に出る時間、あるいは図書館へ向かう通路に、まるで狙い澄ましたかのように「偶然」姿を現すようになった。
「……ルチア」
図書館の入り口で、彼は壁に背を預け、腕を組んで私を待っていた。
以前の私なら、彼を見つけた瞬間に駆け寄っていただろう。
だが今の私は、手元の魔導書から視線を外すことなく、彼の真横を通り過ぎようとした。
「ルチア、待て」
低い声に呼び止められ、私はようやく足を止めた。
だが、彼の方へ向き直ることはせず、横顔だけで応じる。
「何か御用でしょうか、閣下。お忙しい身ではございませんか?」
「……最近、顔を見せないようだが。以前は、日に何度も私の部屋に来ていたはずだ。……体調でも悪いのか?」
その問いかけに含まれた微かな動揺を、私は逃さなかった。
かつては、私が熱を出して倒れても「医者を呼べ」の一言で済ませていた男が、今、私の健康を案じている?
(いまさら何なの)
乾いた笑いが浮かびそうになったが、表情筋は石のように動かなかった。
「いいえ。ご覧の通り、至って健康ですわ。むしろ、最近は睡眠も十分で、食欲も旺盛ですの。……閣下もお元気そうで何よりです。それでは、失礼いたします」
「待て、話はまだ――」
「申し訳ございません。これから翻訳の続きを仕上げなければなりませんので」
私は一度も彼と視線を合わせることなく、優雅に、そして迅速にその場を後にした。
背後で、彼が何かを言いかけて、結局言葉を飲み込む微かな衣擦れの音が聞こえた。
さらに一週間後。
私の部屋に、公爵家の侍従が仰々しい黒塗りの木箱を運んできた。
蓋を開けると、そこには眩いばかりの輝きを放つ、巨大なブルーダイヤモンドのネックレスが鎮座していた。
それは、三度目の人生で、私が彼の誕生日に「いつかこんな石のような、深い青色のドレスを着てみたい」とささやかな憧れを口にし、冷たく一蹴された、あの伝説の宝石だ。
「旦那様からです。『君に似合うと思って用意した』と仰せでした」
侍従の言葉を聞きながら、私は冷めた紅茶を一口啜った。
かつての私なら、この輝きを「愛の証」だと信じて、涙を流して喜んだだろう。
だが、今の私には、この石がただの冷たい炭素の塊にしか見えない。
「アンナ。これを箱に戻して。そして、そのまま閣下にお返ししてちょうだい」
「えっ……!? お嬢様、これは……王国の至宝と言われるほどの品ですよ?」
「ええ、そうね。でも、今の私には必要のないものよ」
私はペンを手に取り、添えられていたカードの裏に、淀みのない文字でこう記した。
『閣下、素晴らしいお品をありがとうございます。ですが、当家とラザフォード家との婚約契約書の中に、このような過分な贈り物を授受する条項はございませんでした。契約にない贈り物は受け取れません。どうぞ、相応しい方へお贈りください』
「これを閣下へ。……『契約にない贈り物は受け取れません』と、一言添えて差し上げて」
困惑する侍従を見送り、私は再び静寂を取り戻した部屋で、手元の本に目を落とした。
窓の外からは、公爵邸の庭園を管理する庭師たちの話し声が聞こえる。
アルベルト様、あなたは今、どんな顔をしていらっしゃるのかしら。
私があなたの愛を乞うていた時、あなたはこの宝石よりも冷たく私を拒絶した。
そして今、私があなたを拒絶する番が来た。
ただ、それだけのこと。
私は、もう二度と、あなたのために泣くことはない。
アルベルト様の様子が、目に見えておかしくなったのだ。
彼は、私が午後の散策に出る時間、あるいは図書館へ向かう通路に、まるで狙い澄ましたかのように「偶然」姿を現すようになった。
「……ルチア」
図書館の入り口で、彼は壁に背を預け、腕を組んで私を待っていた。
以前の私なら、彼を見つけた瞬間に駆け寄っていただろう。
だが今の私は、手元の魔導書から視線を外すことなく、彼の真横を通り過ぎようとした。
「ルチア、待て」
低い声に呼び止められ、私はようやく足を止めた。
だが、彼の方へ向き直ることはせず、横顔だけで応じる。
「何か御用でしょうか、閣下。お忙しい身ではございませんか?」
「……最近、顔を見せないようだが。以前は、日に何度も私の部屋に来ていたはずだ。……体調でも悪いのか?」
その問いかけに含まれた微かな動揺を、私は逃さなかった。
かつては、私が熱を出して倒れても「医者を呼べ」の一言で済ませていた男が、今、私の健康を案じている?
(いまさら何なの)
乾いた笑いが浮かびそうになったが、表情筋は石のように動かなかった。
「いいえ。ご覧の通り、至って健康ですわ。むしろ、最近は睡眠も十分で、食欲も旺盛ですの。……閣下もお元気そうで何よりです。それでは、失礼いたします」
「待て、話はまだ――」
「申し訳ございません。これから翻訳の続きを仕上げなければなりませんので」
私は一度も彼と視線を合わせることなく、優雅に、そして迅速にその場を後にした。
背後で、彼が何かを言いかけて、結局言葉を飲み込む微かな衣擦れの音が聞こえた。
さらに一週間後。
私の部屋に、公爵家の侍従が仰々しい黒塗りの木箱を運んできた。
蓋を開けると、そこには眩いばかりの輝きを放つ、巨大なブルーダイヤモンドのネックレスが鎮座していた。
それは、三度目の人生で、私が彼の誕生日に「いつかこんな石のような、深い青色のドレスを着てみたい」とささやかな憧れを口にし、冷たく一蹴された、あの伝説の宝石だ。
「旦那様からです。『君に似合うと思って用意した』と仰せでした」
侍従の言葉を聞きながら、私は冷めた紅茶を一口啜った。
かつての私なら、この輝きを「愛の証」だと信じて、涙を流して喜んだだろう。
だが、今の私には、この石がただの冷たい炭素の塊にしか見えない。
「アンナ。これを箱に戻して。そして、そのまま閣下にお返ししてちょうだい」
「えっ……!? お嬢様、これは……王国の至宝と言われるほどの品ですよ?」
「ええ、そうね。でも、今の私には必要のないものよ」
私はペンを手に取り、添えられていたカードの裏に、淀みのない文字でこう記した。
『閣下、素晴らしいお品をありがとうございます。ですが、当家とラザフォード家との婚約契約書の中に、このような過分な贈り物を授受する条項はございませんでした。契約にない贈り物は受け取れません。どうぞ、相応しい方へお贈りください』
「これを閣下へ。……『契約にない贈り物は受け取れません』と、一言添えて差し上げて」
困惑する侍従を見送り、私は再び静寂を取り戻した部屋で、手元の本に目を落とした。
窓の外からは、公爵邸の庭園を管理する庭師たちの話し声が聞こえる。
アルベルト様、あなたは今、どんな顔をしていらっしゃるのかしら。
私があなたの愛を乞うていた時、あなたはこの宝石よりも冷たく私を拒絶した。
そして今、私があなたを拒絶する番が来た。
ただ、それだけのこと。
私は、もう二度と、あなたのために泣くことはない。
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