五度目の人生でも「君を愛することはない」と言われたので、私も愛を捨てました

たると

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振り返らない

翌朝、アルベルトの理性は完全に限界を迎えていた。
山積みになった領地経営の書類、国王からの召喚状。
それらすべてを執務机に残したまま、彼は憑かれたような足取りでルチアの部屋を訪れた。

公爵としての矜持。
冷徹な支配者の仮面。

そんなものは、昨夜の酒とともに吐き捨ててしまった。

彼はノックもそこそこに、ルチアの寝室の扉を荒々しく押し開けた。

「……っ」

そこには、ちょうど着替えの最中だったのか、薄いシルクの寝間着の上にガウンを羽織っただけのルチアがいた。
滑り落ちたガウンの隙間から、朝日に照らされた彼女の白い肩が覗いている。

「閣下……!? 礼儀を失念されていると、何度申し上げれば理解されるのですか?」

困惑と、明確な不快感を露わにしたルチアが言いかける。
だが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
アルベルトは彼女に歩み寄り、抗う間も与えず、その華奢な身体を力任せに抱きしめたからだ。

「……行くな」

耳元で、自分でも驚くほど震える声が漏れた。
腕の中にある彼女の体温。かつては彼が望めばいつでも手に入ったはずの、その温もり。
だが今、彼の腕の中にいるルチアは、驚くほど硬く、そして遠い。

「ルチア、私が悪かった。……すべてが、私の間違いだった。君を愛さないと言ったことも、君の真剣な努力を笑ったことも、すべてだ。心から謝る。だから……」

彼は彼女の肩に顔を埋め、縋り付くように言葉を続けた。

「私を見てくれ。以前のように、私だけに笑いかけてくれ。私を、一人にしないでくれ……」

アルベルトの腕の中で、ルチアは暴れることも、拒絶することもなかった。
彼女はただ、背中に回された彼の震える手に、そっと自分の手を添えた。

その感触に、アルベルトは一瞬だけ希望を見た。
彼女が自分を受け入れてくれる。
あの深い愛の海に、再び自分を招き入れてくれる。
彼は期待に胸を躍らせ、顔を上げた。
縋るような、情けないほどに期待に満ちた瞳で彼女を見つめようとした。

だが、そこで彼が目にしたのは、恋の熱でも、怒りの炎でもなかった。

それは、どこまでも透明で、そして決定的に残酷な「憐れみ」だった。

「閣下。私、五度目の人生にして、やっと分かったのです。追いかけられるより、追いかける方が、ずっとずっと苦しいと思っていました。心も身体も削れて、自分が誰かも分からなくなるほどに。……でも、違いましたわ」

彼女は、聖母のような、あるいは慈悲深い処刑人のような微笑みを浮かべる。

「追いかけるのを辞めてしまった私を、今さらになってなりふり構わず追いかけてくるあなたを見る方が……ずっと滑稽ですわ、アルベルト様」

「っ……」

「あなたが今感じているその胸の痛みは、愛ではありません。それは、ただの『執着』と『独占欲』です」

「……何だと?」

「自分の庭に咲いていたはずの花が、自分の許可なく、勝手に外へ歩き出したことが許せないだけ。……それを『愛』と勘違いして私に縋るなんて、どこまでも自分勝手で、傲慢な方」

「違う! 私は、本当に……君がいないと、私は……!」

アルベルトは、必死に手を伸ばす。
だが、その指先は振り払われた。
ルチアは、かつてないほど晴れやかで、透明な笑みを浮かべた。

「いいえ。あなたは、私がいなくても生きていけますわ。これまでもそうだったように。ですから、終わらせましょう、アルベルト様。――私との婚約を、破棄してください」

彼女の口から零れた言葉に、アルベルトの心臓が凍りついた。

「……何、を……?」

「婚約を破棄してください。 これが、私からの最後のお願いですわ」

その一言は、静寂に包まれた部屋で、鋭い刃物のように響いた。
アルベルトは信じられないものを見るかのように彼女を見つめる。

「……冗談だろう? そんなこと、許すものか! ルチア、君は錯乱しているんだ。いいから、一度落ち着いて……」

「いいえ、至って冷静ですわ」

ルチアは机の上に、あらかじめ用意していた一枚の書面を静かに置いた。
そこには、公的な書式で綴られた「婚約解消合意書」の文字があった。

「認めない……。認めないぞ、こんなもの! 君と私の婚約は、家同士の、王家も承認した神聖な誓約だ! 君の一存でどうこうできるものではない!」

アルベルトは感情のままに叫んだ。
かつての冷徹な公爵の姿はどこにもない。
ただ、自分の世界を繋ぎ止めていた唯一の絆を失うことを恐れる、哀れな男がそこにいた。

「神聖な誓約……。それを『単なる義務』だと切り捨てたのは、他ならぬあなたではありませんか。見苦しいことはおやめになって。あなたがいくら拒絶なされようと、私の意志は変わりませんわ。国王陛下とお父様の了承は既に得ました。私が王立魔導学院に寄贈する予定の特許……そのすべての権利を、王家に差し出す用意もございます」

「……そこまでして、私から逃げたいというのか?」

アルベルトの声が、絶望に震える。

「逃げるのではありません。私が私の人生を始めるために、あなたという『過去』を清算するだけです。……閣下。あなたはかつて仰いましたわね。『愛することはない』と。ならば、執着を愛と勘違いなさらず、潔く私を解放してください。それが、名門ラザフォード公爵としての、最後の矜持ではありませんか?」

ルチアの瞳には、憎しみすら宿っていない。
ただ、絶対的な拒絶と、未来への決意だけがあった。

アルベルトは、彼女の瞳の中に、自分の居場所が砂粒ほども残っていないことを悟った。
自分がどれほど叫ぼうと、泣こうと、彼女の心に届く熱はもう一滴も残っていないのだ。

「……君は、私を……置いていくのだな。本当に」

「ええ。さようなら、アルベルト様」

アルベルトは、震える手で羽根ペンを握りしめた。
目の前の書面が、涙で滲んでいく。
サインをすれば、彼女は永遠に自分の手の届かない場所へと羽ばたいていく。
だが、サインをしなければ、彼女の瞳には軽蔑の色だけが深く刻まれていく。

彼は死ぬほど嫌だった。
彼女を失うことが、死よりも恐ろしかった。
しかし、彼女をこれ以上「殺す」ことは、もっと耐えられなかった。

「……ああ……っ」

嗚咽が漏れる。
彼は、自分の心臓を抉り出すような思いで、書面にサインを記した。

「……これで、いいのだろう。君の望む通りに……なったぞ」

サインを終えた瞬間、アルベルトの肩からガクリと力が抜けた。
彼はその場に崩れ落ち、ただ床を見つめていた。

「ありがとうございます。……お健やかに」

ルチアは、署名された書類を手に取ると、手早く着替えを済ませて部屋を出た。

背後では、四度の人生で愛した男が泣いている。
しかし、振り返ることはなかった。

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