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第二の人生
王都の喧騒が遠ざかるにつれ、馬車の窓を叩く風の音は鋭さを増していった。
ナタリー・アルノーを乗せた馬車は、舗装された街道を外れ、王国北方の峻厳な山脈へと向かう細い道を進んでいる。
背後に残してきたラングレー伯爵邸の崩壊は、今や遠い異国の出来事のようにさえ感じられた。
「奥様、もうすぐヴィンセント公爵領の境界でございます」
御者台からのバロウの声に、ナタリーは重い瞼を持ち上げた。
バロウは騎士団長という地位を捨て、ナタリーの「盾」として同行することを選んだ。
彼にとって、享楽に溺れるエドワードよりも、冷徹なまでに公正な判断を下し、部下たちの生活を守り抜いたナタリーこそが、仕えるに値する主君だったのだ。
「……あそこが、私たちの新しい戦場ね」
ナタリーが窓の外に目を向けると、そこには王都では決して見ることのできない、圧倒的な「白」の世界が広がっていた。
連なる峰々は永遠に溶けることのない氷を冠し、針葉樹の深い緑が雪の白さと鮮やかな対比をなしている。
その厳格な風景は、偽りの仮面を剥ぎ取り、剥き出しの才覚だけで生きることを決意したナタリーの心境に、不思議と合致していた。
ヴィンセント公爵領。
王国の北壁と呼ばれるその地は、長年「不毛の荒野」と蔑まれてきた。
過酷な寒冷地であり、農業は振るわず、ただ頑強な戦士たちが国境を守るためだけに存在する土地。
だが、ナタリーが三年前から極秘に収集してきた情報によれば、そこは手つかずの鉱物資源と、北方諸国との密貿易の結節点としての可能性を秘めた、宝の山であった。
馬車が境界の検問所に差し掛かる。
そこには、鉄紺色の外套をまとった精悍な兵士たちが立ち並んでいた。
王都の騎士たちのような華美な装飾はないが、一人一人の佇まいには、戦場を潜り抜けてきた者特有の静かな威圧感がある。
「止まれ。通行証を提示せよ」
兵士の一人が馬車を止める。ナタリーは迷うことなく、自らの署名が入った書状を差し出した。
それは、彼女が離縁の半年も前から、公爵家と密かに交わしていた「商取引の提案書」の写しである。
「ナタリー・アルノー殿か。……公爵閣下がお待ちだ。案内する」
兵士の態度は慇懃だが、その瞳には「王都から来た令嬢に何ができるのか」という隠しきれない不信の色があった。ナタリーはそれを冷ややかに受け流した。
不信を感服に変えるのは、彼女にとって最も得意とする仕事の一つだった。
ヴィンセント公爵家の本城、シュタール城は、断崖絶壁にそびえ立つ堅牢な要塞だった。
ナタリーは馬車を降り、冷たい風に吹かれながらその城門を見上げた。
出迎えたのは、整列した家臣たちではなく、ただ一人の男だった。
「――本当に来たのか。ラングレー伯爵夫人の座を投げ捨ててまで」
低く、地鳴りのような響きを持つ声。
ナタリーが視線を向けると、そこには黒い軍服をまとい、毛皮の外套を肩にかけた大柄な男が立っていた。
レオナード・ヴィンセント公爵。
「氷壁の守護者」と恐れられ、その冷徹な軍事指揮能力で王国北方を支える、若き公爵。
黄金のような美貌を誇ったエドワードとは対照的に、レオナードの貌は、鋭い岩山を切り出したような無骨な美しさを持っていた。
灰色の瞳は、吹き抜ける吹雪よりも冷たく、射抜くような鋭さを湛えている。
「はい、その名はすでに捨てました。今の私は、ただのナタリー・アルノーです。閣下」
ナタリーは一分の隙もない淑女の礼を捧げた。
レオナードは鼻で笑うように吐息を漏らし、彼女に近づいた。その歩みには、肉食獣のような威圧感がある。
「面白い。王都の社交界では、君は『夫を破滅させて逃げた毒婦』だと囁かれているぞ。それとも、わが領地の資産を食い潰しにでも来たか?」
「もし私が資産を食い潰すような無能であれば、あなたは最初から私をこの城門の中へは入れなかったはずです。レオナード閣下。あなたが求めているのは、冬を越すための薪ではなく、この北方を王国で最も豊かな商都へと変えるための『頭脳』でしょう?」
ナタリーはレオナードの射抜くような視線を正面から受け止めた。
二人の間に、火花が散るような緊張感が走る。
レオナードは、ナタリーの灰色の瞳の奥に潜む、決して折れることのない鉄の意志を認めたようだった。
「……いいだろう。付いてこい。君の言う『頭脳』が、この氷の地でどれほど通用するか、試させてもらう」
レオナードは翻り、城の内郭へと歩き出した。
ナタリーはその背中に続きながら、確信していた。
ここでは、自分を飾る必要はない。
家名も、淑女としての評判も、エドワードへの復讐心さえも、ここではただの付随物に過ぎない。
求められるのは、結果。そして、生き抜くための力。
(見ていなさい、エドワード。あなたがゴミのように扱った私の才覚が、この雪原にどれほどの富を築くかを)
城内に足を踏み入れた瞬間、ナタリーの「第二の人生」という名の、苛烈な戦いの火蓋が切られた。
ナタリー・アルノーを乗せた馬車は、舗装された街道を外れ、王国北方の峻厳な山脈へと向かう細い道を進んでいる。
背後に残してきたラングレー伯爵邸の崩壊は、今や遠い異国の出来事のようにさえ感じられた。
「奥様、もうすぐヴィンセント公爵領の境界でございます」
御者台からのバロウの声に、ナタリーは重い瞼を持ち上げた。
バロウは騎士団長という地位を捨て、ナタリーの「盾」として同行することを選んだ。
彼にとって、享楽に溺れるエドワードよりも、冷徹なまでに公正な判断を下し、部下たちの生活を守り抜いたナタリーこそが、仕えるに値する主君だったのだ。
「……あそこが、私たちの新しい戦場ね」
ナタリーが窓の外に目を向けると、そこには王都では決して見ることのできない、圧倒的な「白」の世界が広がっていた。
連なる峰々は永遠に溶けることのない氷を冠し、針葉樹の深い緑が雪の白さと鮮やかな対比をなしている。
その厳格な風景は、偽りの仮面を剥ぎ取り、剥き出しの才覚だけで生きることを決意したナタリーの心境に、不思議と合致していた。
ヴィンセント公爵領。
王国の北壁と呼ばれるその地は、長年「不毛の荒野」と蔑まれてきた。
過酷な寒冷地であり、農業は振るわず、ただ頑強な戦士たちが国境を守るためだけに存在する土地。
だが、ナタリーが三年前から極秘に収集してきた情報によれば、そこは手つかずの鉱物資源と、北方諸国との密貿易の結節点としての可能性を秘めた、宝の山であった。
馬車が境界の検問所に差し掛かる。
そこには、鉄紺色の外套をまとった精悍な兵士たちが立ち並んでいた。
王都の騎士たちのような華美な装飾はないが、一人一人の佇まいには、戦場を潜り抜けてきた者特有の静かな威圧感がある。
「止まれ。通行証を提示せよ」
兵士の一人が馬車を止める。ナタリーは迷うことなく、自らの署名が入った書状を差し出した。
それは、彼女が離縁の半年も前から、公爵家と密かに交わしていた「商取引の提案書」の写しである。
「ナタリー・アルノー殿か。……公爵閣下がお待ちだ。案内する」
兵士の態度は慇懃だが、その瞳には「王都から来た令嬢に何ができるのか」という隠しきれない不信の色があった。ナタリーはそれを冷ややかに受け流した。
不信を感服に変えるのは、彼女にとって最も得意とする仕事の一つだった。
ヴィンセント公爵家の本城、シュタール城は、断崖絶壁にそびえ立つ堅牢な要塞だった。
ナタリーは馬車を降り、冷たい風に吹かれながらその城門を見上げた。
出迎えたのは、整列した家臣たちではなく、ただ一人の男だった。
「――本当に来たのか。ラングレー伯爵夫人の座を投げ捨ててまで」
低く、地鳴りのような響きを持つ声。
ナタリーが視線を向けると、そこには黒い軍服をまとい、毛皮の外套を肩にかけた大柄な男が立っていた。
レオナード・ヴィンセント公爵。
「氷壁の守護者」と恐れられ、その冷徹な軍事指揮能力で王国北方を支える、若き公爵。
黄金のような美貌を誇ったエドワードとは対照的に、レオナードの貌は、鋭い岩山を切り出したような無骨な美しさを持っていた。
灰色の瞳は、吹き抜ける吹雪よりも冷たく、射抜くような鋭さを湛えている。
「はい、その名はすでに捨てました。今の私は、ただのナタリー・アルノーです。閣下」
ナタリーは一分の隙もない淑女の礼を捧げた。
レオナードは鼻で笑うように吐息を漏らし、彼女に近づいた。その歩みには、肉食獣のような威圧感がある。
「面白い。王都の社交界では、君は『夫を破滅させて逃げた毒婦』だと囁かれているぞ。それとも、わが領地の資産を食い潰しにでも来たか?」
「もし私が資産を食い潰すような無能であれば、あなたは最初から私をこの城門の中へは入れなかったはずです。レオナード閣下。あなたが求めているのは、冬を越すための薪ではなく、この北方を王国で最も豊かな商都へと変えるための『頭脳』でしょう?」
ナタリーはレオナードの射抜くような視線を正面から受け止めた。
二人の間に、火花が散るような緊張感が走る。
レオナードは、ナタリーの灰色の瞳の奥に潜む、決して折れることのない鉄の意志を認めたようだった。
「……いいだろう。付いてこい。君の言う『頭脳』が、この氷の地でどれほど通用するか、試させてもらう」
レオナードは翻り、城の内郭へと歩き出した。
ナタリーはその背中に続きながら、確信していた。
ここでは、自分を飾る必要はない。
家名も、淑女としての評判も、エドワードへの復讐心さえも、ここではただの付随物に過ぎない。
求められるのは、結果。そして、生き抜くための力。
(見ていなさい、エドワード。あなたがゴミのように扱った私の才覚が、この雪原にどれほどの富を築くかを)
城内に足を踏み入れた瞬間、ナタリーの「第二の人生」という名の、苛烈な戦いの火蓋が切られた。
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