13 / 14
俺だけのもの
バルドール北部の開墾が、冬の訪れを前に劇的な成果を見せ始めていた頃。
アイリスは地熱の蒸気が立ち込める石造りの動力室で、煤(すす)にまみれて羊皮紙の図面と格闘していた。
「……ここの蒸気の圧が、計算よりもわずかに高いわ。これでは青銅の管が耐えきれない。ドニー、そこの重石をもう一つ増やして。力の均衡を保つのよ」
アイリスは作業員たちにてきぱきと指示を出し、泥と油で汚れた作業着の袖をまくり、煤を拭った手で額を拭う。
もはや公爵令嬢としての面影は、その揺るぎない理知的な眼差しにしか残っていない。
そこへ、リュカが重厚な外套を翻して現れた。
その手には、皇帝の印章が捺された重々しい親書が握られている。
「おい、アイリス。土をいじるのはそこまでだ。これを読め」
「なあに? 私は今、この大地の熱を御するための、極めて繊細な調整の最中なのだけど」
リュカは溜息をつき、作業に没頭するアイリスの肩をがっしりと掴んで自分の方へ向かせた。
「……父上――皇帝陛下からの直々の沙汰だ。『北部の開墾という偉業は認めるが、いつまで土鼠(つちねずみ)のような真似をしている。早急に皇子妃としての作法と教養を身につけよ。さもなくば、次の晩餐会で泥だらけの娘を我が一族として紹介せねばならん』とよ」
アイリスの動きが止まった。
「……作法教育? あの、扇の角度で意思を示したり、数代前の家系図を暗唱したりする、あの非生産的な時間の浪費のことかしら?」
「……バルドールのそれは、王都の甘っちょろいものとは違うぞ。他国の使節を言葉の刃で切り伏せる弁論術や、毒を盛られた際の対処、さらには有事の際の指揮権の掌握……。まあ、貴婦人としての優雅な振る舞いも最低限は含まれているがな」
アイリスは、手に持っていた青銅の道具を床に置いた。
「……っ、そんな! 今、私の頭の中は北部の水路の最適化で隙間もないのよ! 雅(みやび)なだけの所作を覚え込む余裕なんてないわ!」
「……そう言うと思っていた。だがな、アイリス」
リュカは、アイリスの頬についた煤を、指先でそっと拭った。
その灰色の瞳には、いつもの荒々しさではなく、深い慈しみと、隠しきれない独占欲が滲んでいる。
「あんたが気高い貴婦人として、バルドールの社交界をその『知恵』で完膚なきまでに黙らせる姿……俺は、それも見てみたいんだ。……泥まみれのあんたも最高だが、絹を纏(まと)い、傲慢な貴族どもを冷徹に笑い飛ばすあんたを……俺は、俺だけのものとして誇りたい」
「…………っ!!」
アイリスの顔が、一瞬で沸騰したかのように赤く染まった。
リュカの低く響く声が、動力室の蒸気よりも熱く肌を刺す。
「……『俺だけのもの』、だなんて……。それは、貴方の独占欲に基づいた、極めて私情に満ちた要求……」
「ああ、そうだ。私情だ。……俺のために、少しだけドレスを着てくれ。……教練の時間は、俺が付きっきりで見てやるからな」
リュカが彼女の腰を引き寄せ、耳元で静かに囁く。
「……もし作法を一つ間違えたら、その都度、俺が『罰』を与えてやる」
「……罰!? さっきの……頬に、触れた、あれのこと!?」
アイリスは、頭の芯まで痺れるような感覚に陥り、慌てて視線を泳がせた。
「わ、分かったわよ! やればいいんでしょ、やれば! 私の修練能力を侮らないで。大地の開墾も、皇族としての教養も、同時に完璧にこなしてみせるわ!」
「ははっ、それでこそ俺の相棒だ」
リュカは満足げに笑うと、照れ隠しに道具を片付け始めたアイリスの頬に、今度は「教練の前のおまじない」と称して、もう一度静かに唇を落とした。
「……もう! リュカの馬鹿! 思考が乱れるでしょう!」
アイリスは真っ赤な顔で抗議したが、その日の夜、彼女はメイに命じて、かつて捨てたはずの「帝国の儀礼書」を引っ張り出させた。
(……見てなさい。開墾も、皇子妃としての矜持も、世界で一番理知的に、かつ完璧に体現してあげる。そして、バルドールの社交界を私の知恵で平伏させてやるわ!)
アイリスは地熱の蒸気が立ち込める石造りの動力室で、煤(すす)にまみれて羊皮紙の図面と格闘していた。
「……ここの蒸気の圧が、計算よりもわずかに高いわ。これでは青銅の管が耐えきれない。ドニー、そこの重石をもう一つ増やして。力の均衡を保つのよ」
アイリスは作業員たちにてきぱきと指示を出し、泥と油で汚れた作業着の袖をまくり、煤を拭った手で額を拭う。
もはや公爵令嬢としての面影は、その揺るぎない理知的な眼差しにしか残っていない。
そこへ、リュカが重厚な外套を翻して現れた。
その手には、皇帝の印章が捺された重々しい親書が握られている。
「おい、アイリス。土をいじるのはそこまでだ。これを読め」
「なあに? 私は今、この大地の熱を御するための、極めて繊細な調整の最中なのだけど」
リュカは溜息をつき、作業に没頭するアイリスの肩をがっしりと掴んで自分の方へ向かせた。
「……父上――皇帝陛下からの直々の沙汰だ。『北部の開墾という偉業は認めるが、いつまで土鼠(つちねずみ)のような真似をしている。早急に皇子妃としての作法と教養を身につけよ。さもなくば、次の晩餐会で泥だらけの娘を我が一族として紹介せねばならん』とよ」
アイリスの動きが止まった。
「……作法教育? あの、扇の角度で意思を示したり、数代前の家系図を暗唱したりする、あの非生産的な時間の浪費のことかしら?」
「……バルドールのそれは、王都の甘っちょろいものとは違うぞ。他国の使節を言葉の刃で切り伏せる弁論術や、毒を盛られた際の対処、さらには有事の際の指揮権の掌握……。まあ、貴婦人としての優雅な振る舞いも最低限は含まれているがな」
アイリスは、手に持っていた青銅の道具を床に置いた。
「……っ、そんな! 今、私の頭の中は北部の水路の最適化で隙間もないのよ! 雅(みやび)なだけの所作を覚え込む余裕なんてないわ!」
「……そう言うと思っていた。だがな、アイリス」
リュカは、アイリスの頬についた煤を、指先でそっと拭った。
その灰色の瞳には、いつもの荒々しさではなく、深い慈しみと、隠しきれない独占欲が滲んでいる。
「あんたが気高い貴婦人として、バルドールの社交界をその『知恵』で完膚なきまでに黙らせる姿……俺は、それも見てみたいんだ。……泥まみれのあんたも最高だが、絹を纏(まと)い、傲慢な貴族どもを冷徹に笑い飛ばすあんたを……俺は、俺だけのものとして誇りたい」
「…………っ!!」
アイリスの顔が、一瞬で沸騰したかのように赤く染まった。
リュカの低く響く声が、動力室の蒸気よりも熱く肌を刺す。
「……『俺だけのもの』、だなんて……。それは、貴方の独占欲に基づいた、極めて私情に満ちた要求……」
「ああ、そうだ。私情だ。……俺のために、少しだけドレスを着てくれ。……教練の時間は、俺が付きっきりで見てやるからな」
リュカが彼女の腰を引き寄せ、耳元で静かに囁く。
「……もし作法を一つ間違えたら、その都度、俺が『罰』を与えてやる」
「……罰!? さっきの……頬に、触れた、あれのこと!?」
アイリスは、頭の芯まで痺れるような感覚に陥り、慌てて視線を泳がせた。
「わ、分かったわよ! やればいいんでしょ、やれば! 私の修練能力を侮らないで。大地の開墾も、皇族としての教養も、同時に完璧にこなしてみせるわ!」
「ははっ、それでこそ俺の相棒だ」
リュカは満足げに笑うと、照れ隠しに道具を片付け始めたアイリスの頬に、今度は「教練の前のおまじない」と称して、もう一度静かに唇を落とした。
「……もう! リュカの馬鹿! 思考が乱れるでしょう!」
アイリスは真っ赤な顔で抗議したが、その日の夜、彼女はメイに命じて、かつて捨てたはずの「帝国の儀礼書」を引っ張り出させた。
(……見てなさい。開墾も、皇子妃としての矜持も、世界で一番理知的に、かつ完璧に体現してあげる。そして、バルドールの社交界を私の知恵で平伏させてやるわ!)
あなたにおすすめの小説
王太子に婚約破棄されてから一年、今更何の用ですか?
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しいます。
ゴードン公爵家の長女ノヴァは、辺境の冒険者街で薬屋を開業していた。ちょうど一年前、婚約者だった王太子が平民娘相手に恋の熱病にかかり、婚約を破棄されてしまっていた。王太子の恋愛問題が王位継承問題に発展するくらいの大問題となり、平民娘に負けて社交界に残れないほどの大恥をかかされ、理不尽にも公爵家を追放されてしまったのだ。ようやく傷心が癒えたノヴァのところに、やつれた王太子が現れた。
夫「お前は価値がない女だ。太った姿を見るだけで吐き気がする」若い彼女と再婚するから妻に出て行け!
佐藤 美奈
恋愛
華やかな舞踏会から帰宅した公爵夫人ジェシカは、幼馴染の夫ハリーから突然の宣告を受ける。
「お前は価値のない女だ。太った姿を見るだけで不快だ!」
冷酷な言葉は、長年連れ添った夫の口から発せられたとは思えないほど鋭く、ジェシカの胸に突き刺さる。
さらにハリーは、若い恋人ローラとの再婚を一方的に告げ、ジェシカに屋敷から出ていくよう迫る。
優しかった夫の変貌に、ジェシカは言葉を失い、ただ立ち尽くす。
結婚したけど夫の不倫が発覚して兄に相談した。相手は親友で2児の母に慰謝料を請求した。
佐藤 美奈
恋愛
伯爵令嬢のアメリアは幼馴染のジェームズと結婚して公爵夫人になった。
結婚して半年が経過したよく晴れたある日、アメリアはジェームズとのすれ違いの生活に悩んでいた。そんな時、机の脇に置き忘れたような手紙を発見して中身を確かめた。
アメリアは手紙を読んで衝撃を受けた。夫のジェームズは不倫をしていた。しかも相手はアメリアの親しい友人のエリー。彼女は既婚者で2児の母でもある。ジェームズの不倫相手は他にもいました。
アメリアは信頼する兄のニコラスの元を訪ね相談して意見を求めた。
幼い頃、義母に酸で顔を焼かれた公爵令嬢は、それでも愛してくれた王太子が冤罪で追放されたので、ついていくことにしました。
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
設定はゆるくなっています、気になる方は最初から読まないでください。
ウィンターレン公爵家令嬢ジェミーは、幼い頃に義母のアイラに酸で顔を焼かれてしまった。何とか命は助かったものの、とても社交界にデビューできるような顔ではなかった。だが不屈の精神力と仮面をつける事で、社交界にデビューを果たした。そんなジェミーを、心優しく人の本質を見抜ける王太子レオナルドが見初めた。王太子はジェミーを婚約者に選び、幸せな家庭を築くかに思われたが、王位を狙う邪悪な弟に冤罪を着せられ追放刑にされてしまった。
【完結】キズモノになった私と婚約破棄ですか?別に構いませんがあなたが大丈夫ですか?
なか
恋愛
「キズモノのお前とは婚約破棄する」
顔にできた顔の傷も治らぬうちに第二王子のアルベルト様にそう宣告される
大きな傷跡は残るだろう
キズモノのとなった私はもう要らないようだ
そして彼が持ち出した条件は婚約破棄しても身体を寄越せと下卑た笑いで告げるのだ
そんな彼を殴りつけたのはとある人物だった
このキズの謎を知ったとき
アルベルト王子は永遠に後悔する事となる
永遠の後悔と
永遠の愛が生まれた日の物語
【完結】身代わりに病弱だった令嬢が隣国の冷酷王子と政略結婚したら、薬師の知識が役に立ちました。
朝日みらい
恋愛
リリスは内気な性格の貴族令嬢。幼い頃に患った大病の影響で、薬師顔負けの知識を持ち、自ら薬を調合する日々を送っている。家族の愛情を一身に受ける妹セシリアとは対照的に、彼女は控えめで存在感が薄い。
ある日、リリスは両親から突然「妹の代わりに隣国の王子と政略結婚をするように」と命じられる。結婚相手であるエドアルド王子は、かつて幼馴染でありながら、今では冷たく距離を置かれる存在。リリスは幼い頃から密かにエドアルドに憧れていたが、病弱だった過去もあって自分に自信が持てず、彼の真意がわからないまま結婚の日を迎えてしまい――
姉の婚約者に愛人になれと言われたので、母に助けてと相談したら衝撃を受ける。
佐藤 美奈
恋愛
男爵令嬢のイリスは貧乏な家庭。学園に通いながら働いて学費を稼ぐ決意をするほど。
そんな時に姉のミシェルと婚約している伯爵令息のキースが来訪する。
キースは母に頼まれて学費の資金を援助すると申し出てくれました。
でもそれには条件があると言いイリスに愛人になれと迫るのです。
最近母の様子もおかしい?父以外の男性の影を匂わせる。何かと理由をつけて出かける母。
誰かと会う約束があったかもしれない……しかし現実は残酷で母がある男性から溺愛されている事実を知る。
「お母様!そんな最低な男に騙されないで!正気に戻ってください!」娘の悲痛な叫びも母の耳に入らない。
男性に恋をして心を奪われ、穏やかでいつも優しい性格の母が変わってしまった。
今まで大切に積み上げてきた家族の絆が崩れる。母は可愛い二人の娘から嫌われてでも父と離婚して彼と結婚すると言う。
10日後に婚約破棄される公爵令嬢
雨野六月(旧アカウント)
恋愛
公爵令嬢ミシェル・ローレンは、婚約者である第三王子が「卒業パーティでミシェルとの婚約を破棄するつもりだ」と話しているのを聞いてしまう。
「そんな目に遭わされてたまるもんですか。なんとかパーティまでに手を打って、婚約破棄を阻止してみせるわ!」「まあ頑張れよ。それはそれとして、課題はちゃんとやってきたんだろうな? ミシェル・ローレン」「先生ったら、今それどころじゃないって分からないの? どうしても提出してほしいなら先生も協力してちょうだい」
これは公爵令嬢ミシェル・ローレンが婚約破棄を阻止するために(なぜか学院教師エドガーを巻き込みながら)奮闘した10日間の備忘録である。