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祝福の鐘
エルゼに拒絶され、夜の石畳に膝をついたあの日から、フィリップ・フォン・アルベルトの日常は、加速する悪夢へと変貌した。
「……嘘だ。こんなはずはない。僕は公爵家の次期当主なんだぞ!」
公爵邸の書斎で、フィリップは狂ったように書類を撒き散らしていた。
シュタイン伯爵家から正式に届けられた婚約破棄の通知。それだけではない。エルゼがこれまで無償で行ってきた領地運営の精査が止まったことで、隠されていた家臣たちの横領や、杜撰な投資計画が次々と露呈し、公爵家は莫大な負債を抱えることとなった。
さらに、追い打ちをかけるようにロゼッタの化けの皮が剥がれ落ちる。
「フィリップ様! なぜ新しい宝石を買ってくれないの? 私、こんなに苦しいのに……! 貴方が愛してくれないから、病気が悪化するんだわ!」
泣き叫ぶロゼッタを、フィリップは冷え切った目で見つめた。
かつては守るべき儚さに見えたその姿は、今や自分の資産を食い潰す寄生虫にしか見えない。
「……ロゼッタ。君のその『発作』は、宝石店が閉まっている時間には起きないようだな」
「えっ……?」
「もういい。君との遊びは終わりだ。……君の父親にも伝えてある。これまでの支援金は、すべて貸付金として返還してもらう、とな」
「そんな……! 酷い、貴方は私を一生守ると誓ったじゃない!」
「……誓った相手を間違えていたのだ。僕が守るべきだったのは、君のような空っぽな女ではなく……僕を信じてくれていた、あの光だった」
フィリップは、泣き崩れるロゼッタを置いて部屋を出た。
だが、彼が行ける場所はどこにもなかった。社交界では「有能な婚約者を使い潰し、病弱な令嬢に溺れて家を傾かせた愚か者」としての悪評が広まり、かつての友人たちは一人、また一人と彼から離れていった。
*
一方、北部のアルノー村。
かつての死に体だった湿地帯は、今や見渡す限りの黄金色の麦穂が揺れる、希望の土地へと生まれ変わっていた。
「お嬢様! 見てください、今年の収穫量は去年の三倍を超えそうです!」
村長が、涙を浮かべてエルゼに報告する。
エルゼは、飾りのない簡素なドレスに身を包み、農民たちと共に泥にまみれ、汗を流していた。
その肌は健康的に色づき、瞳には誰かを待つ必要のない、自立した女性の力強い光が宿っている。
「ええ、みんなの努力の賜物ね。……これで、冬の間の蓄えも十分だわ」
「シュタイン嬢。……いえ、エルゼ」
背後から、優しく、しかし確かな存在感を持った声が響く。
クロード・フォン・アシュレイ子爵だ。
彼は公務の合間を縫っては、この村を訪れ、エルゼと共に土に触れ、未来を語り合ってきた。
「……クロード様。お仕事はよろしいのですか?」
「貴女の笑顔を見ることも、私の大事な公務の一つですから」
クロードは、自然な動作でエルゼの額に流れた汗を、自らのハンカチで拭った。
フィリップに触れられた時に感じた所有の不快感など、今のエルゼには微塵もない。
あるのは、魂の深い場所で結びついた者同士の、静かな共鳴だけだ。
「エルゼ。……王都では、アルベルト公爵家の没落が決定定的になったと聞きました。フィリップ卿は、爵位継承権を剥奪され、辺境の管理職へ左遷されるそうです」
「……そうですか」
エルゼは、遠い空を見つめた。
かつての自分なら、その知らせを聞いて胸を痛めたかもしれない。だが、今の彼女にとって、フィリップという存在は、通り過ぎた嵐の記憶と同じくらい、自分とは無関係なものになっていた。
「憐れむ必要はありません。彼は、自らが選んだ道を歩んでいるだけです。……それよりも、エルゼ。私と一緒に、新しい道を歩んでくれませんか?」
クロードは、黄金色の麦畑の中で、ゆっくりと片膝をついた。
それは、形式的なプロポーズではなかった。
一人の開拓者が、自らが最も尊敬するパートナーに対して捧げる、命懸けの誓いだった。
「……私の領地も、私の心も、貴女という光がなければ完成しません。エルゼ・フォン・シュタイン。私の生涯を、貴女の知性と、貴女の夢と共に歩ませてほしい。……私と、結婚していただけますか?」
エルゼの瞳に、熱いものが込み上げる。
十年前、フィリップに請われた時の、あの義務感に満ちた婚約とは違う。
今の彼女は、自分の価値を認め、共に高め合える対等な伴侶に出会えたのだ。
「……はい。喜んで、クロード様。……私、貴方となら、どんな荒野も美しい花園に変えていける気がします」
二人が抱き合った瞬間、村中に農民たちの歓声が響き渡った。
*
数ヶ月後。王都の大聖堂。
澄み渡る秋空に、重厚な鐘の音が鳴り響いた。
シュタイン伯爵令嬢エルゼと、アシュレイ子爵クロードの結婚式。
参列した貴族たちは、皆、驚きを持って新婦を見つめていた。
そこにいたのは、かつて「公爵家の背景」と呼ばれた影の薄い令嬢ではなかった。
自らの知性で領地を救い、王国の農業改革の立役者となった、凛として美しい「北の女神」の姿だった。
「……エルゼ。世界で一番、美しいよ」
クロードが、ヴェールを上げたエルゼの耳元で囁く。
エルゼは、最高の微笑みを持って答えた。
その頃、王都の外れ。
ボロボロの馬車に揺られ、辺境へと送られるフィリップは、遠くに響く大聖堂の鐘の音を聞いていた。
「……あの鐘は、何のお祝いだ?」
「ああ。シュタイン家のお嬢様と、アシュレイ子爵の結婚式ですよ。なんでも、王国一の素晴らしい夫婦になると評判でしてね」
御兵の何気ない言葉が、フィリップの心に最後の一刺しを与えた。
彼は、窓の外に広がる灰色の景色を見つめながら、震える手で顔を覆った。
(……僕は、何をしていたんだ。……何を、失ってしまったんだ……)
零れ落ちた涙は、誰に拭われることもなく、汚れ果てた靴の上に落ちた。
彼がかつて踏みにじった「愛」は、もう二度と、彼の元へは戻ってこない。
大聖堂の鐘の音は、いつまでも鳴り響いていた。
それは、過去の呪縛を断ち切ったエルゼへの祝福であり。
そして、自分勝手な傲慢に溺れた者たちへの、残酷な幕引きの音でもあった。
*
エルゼは、クロードの手を強く握りしめた。
目の前には、どこまでも続く、光り輝く未来の道が広がっている。
一人の楽しみを知り、自分の足で立った彼女は、もう二度と、冷えた紅茶に泣くことはない。
「……嘘だ。こんなはずはない。僕は公爵家の次期当主なんだぞ!」
公爵邸の書斎で、フィリップは狂ったように書類を撒き散らしていた。
シュタイン伯爵家から正式に届けられた婚約破棄の通知。それだけではない。エルゼがこれまで無償で行ってきた領地運営の精査が止まったことで、隠されていた家臣たちの横領や、杜撰な投資計画が次々と露呈し、公爵家は莫大な負債を抱えることとなった。
さらに、追い打ちをかけるようにロゼッタの化けの皮が剥がれ落ちる。
「フィリップ様! なぜ新しい宝石を買ってくれないの? 私、こんなに苦しいのに……! 貴方が愛してくれないから、病気が悪化するんだわ!」
泣き叫ぶロゼッタを、フィリップは冷え切った目で見つめた。
かつては守るべき儚さに見えたその姿は、今や自分の資産を食い潰す寄生虫にしか見えない。
「……ロゼッタ。君のその『発作』は、宝石店が閉まっている時間には起きないようだな」
「えっ……?」
「もういい。君との遊びは終わりだ。……君の父親にも伝えてある。これまでの支援金は、すべて貸付金として返還してもらう、とな」
「そんな……! 酷い、貴方は私を一生守ると誓ったじゃない!」
「……誓った相手を間違えていたのだ。僕が守るべきだったのは、君のような空っぽな女ではなく……僕を信じてくれていた、あの光だった」
フィリップは、泣き崩れるロゼッタを置いて部屋を出た。
だが、彼が行ける場所はどこにもなかった。社交界では「有能な婚約者を使い潰し、病弱な令嬢に溺れて家を傾かせた愚か者」としての悪評が広まり、かつての友人たちは一人、また一人と彼から離れていった。
*
一方、北部のアルノー村。
かつての死に体だった湿地帯は、今や見渡す限りの黄金色の麦穂が揺れる、希望の土地へと生まれ変わっていた。
「お嬢様! 見てください、今年の収穫量は去年の三倍を超えそうです!」
村長が、涙を浮かべてエルゼに報告する。
エルゼは、飾りのない簡素なドレスに身を包み、農民たちと共に泥にまみれ、汗を流していた。
その肌は健康的に色づき、瞳には誰かを待つ必要のない、自立した女性の力強い光が宿っている。
「ええ、みんなの努力の賜物ね。……これで、冬の間の蓄えも十分だわ」
「シュタイン嬢。……いえ、エルゼ」
背後から、優しく、しかし確かな存在感を持った声が響く。
クロード・フォン・アシュレイ子爵だ。
彼は公務の合間を縫っては、この村を訪れ、エルゼと共に土に触れ、未来を語り合ってきた。
「……クロード様。お仕事はよろしいのですか?」
「貴女の笑顔を見ることも、私の大事な公務の一つですから」
クロードは、自然な動作でエルゼの額に流れた汗を、自らのハンカチで拭った。
フィリップに触れられた時に感じた所有の不快感など、今のエルゼには微塵もない。
あるのは、魂の深い場所で結びついた者同士の、静かな共鳴だけだ。
「エルゼ。……王都では、アルベルト公爵家の没落が決定定的になったと聞きました。フィリップ卿は、爵位継承権を剥奪され、辺境の管理職へ左遷されるそうです」
「……そうですか」
エルゼは、遠い空を見つめた。
かつての自分なら、その知らせを聞いて胸を痛めたかもしれない。だが、今の彼女にとって、フィリップという存在は、通り過ぎた嵐の記憶と同じくらい、自分とは無関係なものになっていた。
「憐れむ必要はありません。彼は、自らが選んだ道を歩んでいるだけです。……それよりも、エルゼ。私と一緒に、新しい道を歩んでくれませんか?」
クロードは、黄金色の麦畑の中で、ゆっくりと片膝をついた。
それは、形式的なプロポーズではなかった。
一人の開拓者が、自らが最も尊敬するパートナーに対して捧げる、命懸けの誓いだった。
「……私の領地も、私の心も、貴女という光がなければ完成しません。エルゼ・フォン・シュタイン。私の生涯を、貴女の知性と、貴女の夢と共に歩ませてほしい。……私と、結婚していただけますか?」
エルゼの瞳に、熱いものが込み上げる。
十年前、フィリップに請われた時の、あの義務感に満ちた婚約とは違う。
今の彼女は、自分の価値を認め、共に高め合える対等な伴侶に出会えたのだ。
「……はい。喜んで、クロード様。……私、貴方となら、どんな荒野も美しい花園に変えていける気がします」
二人が抱き合った瞬間、村中に農民たちの歓声が響き渡った。
*
数ヶ月後。王都の大聖堂。
澄み渡る秋空に、重厚な鐘の音が鳴り響いた。
シュタイン伯爵令嬢エルゼと、アシュレイ子爵クロードの結婚式。
参列した貴族たちは、皆、驚きを持って新婦を見つめていた。
そこにいたのは、かつて「公爵家の背景」と呼ばれた影の薄い令嬢ではなかった。
自らの知性で領地を救い、王国の農業改革の立役者となった、凛として美しい「北の女神」の姿だった。
「……エルゼ。世界で一番、美しいよ」
クロードが、ヴェールを上げたエルゼの耳元で囁く。
エルゼは、最高の微笑みを持って答えた。
その頃、王都の外れ。
ボロボロの馬車に揺られ、辺境へと送られるフィリップは、遠くに響く大聖堂の鐘の音を聞いていた。
「……あの鐘は、何のお祝いだ?」
「ああ。シュタイン家のお嬢様と、アシュレイ子爵の結婚式ですよ。なんでも、王国一の素晴らしい夫婦になると評判でしてね」
御兵の何気ない言葉が、フィリップの心に最後の一刺しを与えた。
彼は、窓の外に広がる灰色の景色を見つめながら、震える手で顔を覆った。
(……僕は、何をしていたんだ。……何を、失ってしまったんだ……)
零れ落ちた涙は、誰に拭われることもなく、汚れ果てた靴の上に落ちた。
彼がかつて踏みにじった「愛」は、もう二度と、彼の元へは戻ってこない。
大聖堂の鐘の音は、いつまでも鳴り響いていた。
それは、過去の呪縛を断ち切ったエルゼへの祝福であり。
そして、自分勝手な傲慢に溺れた者たちへの、残酷な幕引きの音でもあった。
*
エルゼは、クロードの手を強く握りしめた。
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