10 / 12
再契約
翌日の夕方。
アルフレッドが目を覚ましたとき、部屋にはランプの灯りが静かに灯っていた。
重い瞼を持ち上げると、そこには手帳を広げて計算に没頭するエリッサの横顔があった。
「……エリッサ」
「お目覚めですか。熱は少し下がったようですわね。動けるなら、早々に馬車を呼んでお帰りください」
エリッサは視線を書類に向けたまま、淡々と告げた。
アルフレッドは力なく笑い、掴んでいた彼女の袖をさらに強く握りしめた。
「……夢かと思った。君が、また私のそばにいてくれるなんて」
「勘違いしないでください。行き倒れを放置して、店先で死なれては縁起が悪いと思っただけです」
「ああ、わかっている。それでも……君が淹れてくれた茶の香りがするだけで、私は……」
アルフレッドの瞳から、一筋の涙が溢れた。
誇り高く、傲慢で、弱みを見せることを何より嫌った男の涙。
彼はそのまま、彼女の手に顔を埋めるようにして、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「君がいなくなってから、屋敷のすべての部屋が氷でできているように感じた。誰が何を運んできても、喉を通らない。君が私に向けていたあの『重すぎる愛』が、実は私の命を繋いでいた唯一の温もりだったんだ。……失って、ようやく気づくなんて、私は世界一の愚か者だ」
「……ええ。全くですわね。何を言われても、いまさら遅いですわ」
(本当に……いまさら)
ちくりと胸が痛む。
彼に冷たくされる度、自室で一人泣いた遠い過去の日々を思い出す。
何故その言葉をもっと早く言ってくれなかったのか――そんな思いも、いまさらなのだ。
エリッサはもうアルフレッドの妻であることを止めた。
彼との縁は切れた、それがすべてだ。
「……エリッサ。復縁してくれとは、今は言えない。君がこの自由を愛していることも、私を嫌っていることも知っている。……だが、もう一度だけ、君に『尽くさせて』くれないか。君が私にしてくれたことの、万分の一でもいい。償わせてほしいんだ」
エリッサは、彼に埋められた方の手を、じっと見つめた。
彼の謝罪は、あまりにも遅すぎた。
けれど、その震える肩と、必死に自分を求める熱は、嘘偽りのない本物であることも、彼女にはわかってしまった。
本気でなければ、この数か月、政務を放り出して自分に付きまとったりしないだろう。
(……彼との縁は切れた。けれど、いまの彼なら……新しい形の縁を結んでもいいかもしれないわ)
「……閣下。私はもう、微笑みながらあなたの三歩後ろを歩く女ではありません」
エリッサは、静かに言った。
「ああ、知っている。今の君は、一人で堂々と歩く、眩しいほどに美しい女性だ」
「わがままも言いますし、あなたの意見に従うこともしません。裕福な名門貴族様相手であろうと、嫌なことは嫌とはっきり言いますわ」
エリッサの声は、氷の破片が触れ合うような鋭さを持っていた。
アルフレッドが息を呑むのを、彼女は冷ややかな、けれどどこか愉悦を孕んだ瞳で見下ろす。
「勘違いしないでくださいね。私があなたを受け入れるのは、決して昔のような愛情が戻ったからではありません。ただ、収支が合わないのが気に入らないだけですわ」
「収支……?」
アルフレッドは目をぱちくりさせている。
「ええ。私があなたに尽くし、踏みにじられ続けた三年間。その膨大な負債を、あなたはまだ一分も返しておいでではないでしょう?」
エリッサはアルフレッドの顎を、指先で乱暴に掬い上げた。
かつてなら考えられない無礼な振る舞いだ。
しかし、アルフレッドはその冷たさにさえ、救いを見出すように目を細める。
「これから先、私が尽くした三年間と同じだけの時間を、今度はあなたが私に捧げなさい。私が言ったことには即座に頷き、私が望むものはすべて用意し、私が不機嫌な時はその理由を死ぬ気で考え、跪いて許しを乞う。かつて私が、あの屋敷で独りきり、あなたの背中を見ながら毎日繰り返してきたことを、今度はあなたが身をもって体験するのです」
エリッサの唇が、美しく、残酷な曲線を描く。
「三倍返し……いえ、それでは足りませんわね。私があなたに贈った、『重すぎる一途な愛』。今度はあなたがそれを背負って、私に尽くしなさい。そうすれば、復縁を考えてあげなくもないわ」
「!! 本当か!?」
「ええ。ただし、『考える』だけよ。私が復縁する気になるかどうか、全てはあなた次第。――さあ、覚悟はある?」
それは、復讐にも似た、あまりにも重い再契約。
だがアルフレッドは、その過酷な条件を聞いて、絶望するどころか、震える手で彼女の指先を握りしめた。
「ああ……もちろん。望むところだ、エリッサ。君が受けた屈辱も、君が流した涙も、すべて私がこの命を削って購おう。君が満足するまで、何度でも私を跪かせてくれ」
こうして、二人の立場は完全に逆転した。
かつて愛を乞うた令嬢は、今や冷徹な支配者として。
かつて冷酷だった伯爵は、今や最も献身的な忠犬として。
形を変えた、二人の新たな日々が幕を開けたのだった。
アルフレッドが目を覚ましたとき、部屋にはランプの灯りが静かに灯っていた。
重い瞼を持ち上げると、そこには手帳を広げて計算に没頭するエリッサの横顔があった。
「……エリッサ」
「お目覚めですか。熱は少し下がったようですわね。動けるなら、早々に馬車を呼んでお帰りください」
エリッサは視線を書類に向けたまま、淡々と告げた。
アルフレッドは力なく笑い、掴んでいた彼女の袖をさらに強く握りしめた。
「……夢かと思った。君が、また私のそばにいてくれるなんて」
「勘違いしないでください。行き倒れを放置して、店先で死なれては縁起が悪いと思っただけです」
「ああ、わかっている。それでも……君が淹れてくれた茶の香りがするだけで、私は……」
アルフレッドの瞳から、一筋の涙が溢れた。
誇り高く、傲慢で、弱みを見せることを何より嫌った男の涙。
彼はそのまま、彼女の手に顔を埋めるようにして、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「君がいなくなってから、屋敷のすべての部屋が氷でできているように感じた。誰が何を運んできても、喉を通らない。君が私に向けていたあの『重すぎる愛』が、実は私の命を繋いでいた唯一の温もりだったんだ。……失って、ようやく気づくなんて、私は世界一の愚か者だ」
「……ええ。全くですわね。何を言われても、いまさら遅いですわ」
(本当に……いまさら)
ちくりと胸が痛む。
彼に冷たくされる度、自室で一人泣いた遠い過去の日々を思い出す。
何故その言葉をもっと早く言ってくれなかったのか――そんな思いも、いまさらなのだ。
エリッサはもうアルフレッドの妻であることを止めた。
彼との縁は切れた、それがすべてだ。
「……エリッサ。復縁してくれとは、今は言えない。君がこの自由を愛していることも、私を嫌っていることも知っている。……だが、もう一度だけ、君に『尽くさせて』くれないか。君が私にしてくれたことの、万分の一でもいい。償わせてほしいんだ」
エリッサは、彼に埋められた方の手を、じっと見つめた。
彼の謝罪は、あまりにも遅すぎた。
けれど、その震える肩と、必死に自分を求める熱は、嘘偽りのない本物であることも、彼女にはわかってしまった。
本気でなければ、この数か月、政務を放り出して自分に付きまとったりしないだろう。
(……彼との縁は切れた。けれど、いまの彼なら……新しい形の縁を結んでもいいかもしれないわ)
「……閣下。私はもう、微笑みながらあなたの三歩後ろを歩く女ではありません」
エリッサは、静かに言った。
「ああ、知っている。今の君は、一人で堂々と歩く、眩しいほどに美しい女性だ」
「わがままも言いますし、あなたの意見に従うこともしません。裕福な名門貴族様相手であろうと、嫌なことは嫌とはっきり言いますわ」
エリッサの声は、氷の破片が触れ合うような鋭さを持っていた。
アルフレッドが息を呑むのを、彼女は冷ややかな、けれどどこか愉悦を孕んだ瞳で見下ろす。
「勘違いしないでくださいね。私があなたを受け入れるのは、決して昔のような愛情が戻ったからではありません。ただ、収支が合わないのが気に入らないだけですわ」
「収支……?」
アルフレッドは目をぱちくりさせている。
「ええ。私があなたに尽くし、踏みにじられ続けた三年間。その膨大な負債を、あなたはまだ一分も返しておいでではないでしょう?」
エリッサはアルフレッドの顎を、指先で乱暴に掬い上げた。
かつてなら考えられない無礼な振る舞いだ。
しかし、アルフレッドはその冷たさにさえ、救いを見出すように目を細める。
「これから先、私が尽くした三年間と同じだけの時間を、今度はあなたが私に捧げなさい。私が言ったことには即座に頷き、私が望むものはすべて用意し、私が不機嫌な時はその理由を死ぬ気で考え、跪いて許しを乞う。かつて私が、あの屋敷で独りきり、あなたの背中を見ながら毎日繰り返してきたことを、今度はあなたが身をもって体験するのです」
エリッサの唇が、美しく、残酷な曲線を描く。
「三倍返し……いえ、それでは足りませんわね。私があなたに贈った、『重すぎる一途な愛』。今度はあなたがそれを背負って、私に尽くしなさい。そうすれば、復縁を考えてあげなくもないわ」
「!! 本当か!?」
「ええ。ただし、『考える』だけよ。私が復縁する気になるかどうか、全てはあなた次第。――さあ、覚悟はある?」
それは、復讐にも似た、あまりにも重い再契約。
だがアルフレッドは、その過酷な条件を聞いて、絶望するどころか、震える手で彼女の指先を握りしめた。
「ああ……もちろん。望むところだ、エリッサ。君が受けた屈辱も、君が流した涙も、すべて私がこの命を削って購おう。君が満足するまで、何度でも私を跪かせてくれ」
こうして、二人の立場は完全に逆転した。
かつて愛を乞うた令嬢は、今や冷徹な支配者として。
かつて冷酷だった伯爵は、今や最も献身的な忠犬として。
形を変えた、二人の新たな日々が幕を開けたのだった。
あなたにおすすめの小説
戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました
Mag_Mel
恋愛
しばらく床に臥せていたエルマが久方ぶりに参加した祝宴で、隣国の姫君ルーシアは戦地にいるはずの夫ジェイミーの名を口にした。
「彼から恋文をもらっていますの」。
二年もの間、自分には便りひとつ届かなかったのに?
真実を確かめるため、エルマは姫君の茶会へと足を運ぶ。
そこで待っていたのは「身を引いて欲しい」と別れを迫る、ルーシアの取り巻きたちだった。
※小説家になろう様にも投稿しています
番ではないと言われた王妃の行く末
にのまえ
恋愛
獣人の国エスラエルの王妃スノーは、人間でありながら“番”として選ばれ、オオカミ族の王ローレンスと結婚した。しかし三年間、彼に番と認められることも愛されることもなく、白い結婚のまま冷遇され続ける。
それでも王妃として国に尽くしてきたスノーだったが、ある日、ローレンスが別の令嬢レイアーを懐妊させ、側妃として迎えると知る。ついに心が折れたスノーは離縁を決意し、国を去ろうとする。
しかしその道中、レイアー嬢の実家の襲撃に遭い、スノーは命を落とす寸前、自身の命と引き換えに広域回復魔法で多くの命を救う。
これでスノーの、人生は終わりのはずだった。
だが次に目を覚ますと、スノーは三年前の結婚式当日に戻っていた。何度死んでも、何度拒絶しても、結婚式の誓いの瞬間へと戻される。
番から逃れようと、スノーは何度も死を選ぶが――。
6年前の私へ~その6年は無駄になる~
夏見颯一
恋愛
モルディス侯爵家に嫁いだウィニアは帰ってこない夫・フォレートを待っていた。6年も経ってからようやく帰ってきたフォレートは、妻と子供を連れていた。
テンプレものです。テンプレから脱却はしておりません。
【片思いの5年間】婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。
五月ふう
恋愛
「君を愛するつもりも婚約者として扱うつもりもないーー。」
婚約者であるアレックス王子が婚約初日に私にいった言葉だ。
愛されず、婚約者として扱われない。つまり自由ってことですかーー?
それって最高じゃないですか。
ずっとそう思っていた私が、王子様に溺愛されるまでの物語。
この作品は
「婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。」のスピンオフ作品となっています。
どちらの作品から読んでも楽しめるようになっています。気になる方は是非上記の作品も手にとってみてください。
幼馴染の元カノを家族だと言うのなら、私は不要ですよね。
美杉日和。(旧美杉。)
恋愛
実るはずのない初恋は、告白も出来ぬままに終わった。
私リュシカが恋をした相手は、十五歳年上の第一騎士団の団長。彼は亡くなった母の友人であり、母たちと同じ頃に結婚したものの、早くに奥さんを私の母と同じ流行病で亡くしてしまった。
それ以来独身の彼は、ただ亡くなった奥さんを思い生きてきた。そんな一途な姿に、いつしか私は惹かれていく。
しかし歳の差もあり、また友人の子である私を、彼が女性として認めることはなかった。
私は頑なに婚約者を作ることを拒否していたものの、父が縁談を持ってくる。結婚適齢期。その真っただ中にいた私は、もう断ることなど出来なかった。
お相手は私より一つ年上の男爵家の次男。元々爵位を継ぐ予定だった兄が急死してしまったため、婚約者を探していたのだという。
花嫁修業として結婚前から屋敷に入るように言われ赴くと、そこには彼の幼馴染だという平民の女性がいた。なぜか彼女を中心に回っている屋敷。
そのことを指摘すると彼女はなぜか私を、自分を虐げる存在だと言い始め――
幼馴染しか見えない婚約者と白い結婚したので、夜明け前にさよならしました
ゆぷしろん
恋愛
公爵令嬢レティシアは、家同士の都合で伯爵アルフレッドに嫁ぐ。
けれど夫は結婚後もずっと幼馴染のシルヴィばかりを優先し、婚礼の夜から夫婦として触れ合おうともしなかった。名ばかりの妻として伯爵家を支え、領地経営まで立て直しても、彼にとってレティシアは“都合のいい伯爵夫人”でしかない。
やがて結婚一周年の夜、アルフレッドが自分を手放す気はない一方で、幼馴染を屋敷に迎え入れようとしている会話を聞いてしまったレティシアは、ついに決意する。
――もう、この結婚には見切りをつけよう。
夜明け前、彼女は離縁の準備を整え、伯爵邸を出奔。
身を寄せた北の港町で薬舗を手伝いながら、自分の力で生きる穏やかな日々を手に入れていく。そこで出会ったのは、身分ではなく一人の女性として彼女を尊重してくれる青年医師ノアだった。
一方、都合よく尽くしてくれる妻を失ったアルフレッドは、ようやく自分が何を失ったのかを思い知ることになる。
幼馴染ばかりを優先する婚約者との白い結婚に終止符を打ち、傷ついた公爵令嬢が新天地で本当の幸せを掴む、離縁から始まる逆転ラブストーリー。
いや、無理。 (3/27・0時完結)
詩海猫(9/10受賞作発売中!)
恋愛
細かいことは気にせずお読みください。
一旦完結にしましたが、他者視点を随時更新の間連載中に戻します。
もはや定番となった卒業パーティー、急に冷たくなって公の場にエスコートすらしなくなった婚約者に身に覚えのない言い掛かりをつけられ、婚約破棄を突きつけられるーーからの新しい婚約者の紹介へ移るという、公式行事の私物化も甚だしい一連の行動に、私は冷めた瞳をむけていたーー目の前の男は言い訳が終わると、
「わかってくれるだろう?ミーナ」
と手を差し伸べた。
だから私はこう答えた。
「いや、無理」
と。
「お前とは結婚できない」って言ったのはそっちでしょ?なのに今さら嫉妬しないで
ほーみ
恋愛
王都ベルセリオ、冬の終わり。
辺境領主の娘であるリリアーナ・クロフォードは、煌びやかな社交界の片隅で、ひとり静かにグラスを傾けていた。
この社交界に参加するのは久しぶり。3年前に婚約破棄された時、彼女は王都から姿を消したのだ。今日こうして戻ってきたのは、王女の誕生祝賀パーティに招かれたからに過ぎない。
「リリアーナ……本当に、君なのか」
――来た。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷たく凍るようだった。
振り向けば、金髪碧眼の男――エリオット・レインハルト。かつての婚約者であり、王家の血を引く名家レインハルト公爵家の嫡男。
「……お久しぶりですね、エリオット様」