そのステップは必要ですか?  ~精霊の愛し子は歌を歌って溺愛される~

一 ことり

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第5部

カァーン……

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 王太子ヴァレリラルドの執務室には、戦場にも似た緊張感と、どこか緩やかな日常が同居していた。

 ヴァレリラルド、シーグフリード、ウルリク、ベルトルド。それにマロシュも、少なくない日数エンロートに滞在していたため、その間にたまった書類がまだ処理しきれていなかった。

 シーグフリードが分類した分厚い書類が積まれた机の前では、ヴァレリラルドが黙々と読んで確認した後に承認印をつけている。

 少し離れた文官の机では、シーグフリードが書類の仕分けをし、イヴァンを筆頭とした文官たちが承認済みの書類の処理をしている。

 その横で、護衛騎士のウルリクとベルトルドも慣れない手つきで書類整理をしているが、その表情は憔悴していた。

 「俺、書類整理には向かないんだよ」

 「わかっている。ウルには簡単なことしか任せていない」

 ぼやくウルリクに、書類から目を離さずにシーグフリードが言った。

 話し声が気になったわけではないが、ヴァレリラルドはペンを置いて顔をあげ、窓の外を眺めた。

 王太子の執務室は王城西棟の2階にあり、窓の外には王城内にいくつかある中庭のうちの1つが見えた。広くはない中庭は幾何学模様に整えられた芝生と花壇で整えられている。
 
 中庭の奥に連なるのは、側廊と訓練場へと続く回廊。空はまだ明るかったが、東の地平に近い空にはすでに宵の気配が潜み、塔の影が長く伸びていた。

 テレーシアの晩餐の招待を受けたアシェルナオが王城に到着している頃で、

 「今日は終わりにしよう」

 ヴァレリラルドは承認を終えた書類の束を机の上で揃えた。やったー、とウルリクが両手をあげて喜びを爆発させる。

 「これから奥城に戻って晩餐のための支度か。アシェルナオはテレーシア様の招待を喜んでいた。楽しい時間を過ごさせてやってくれ」

 シーグフリードは書類を置いて弟思いの兄の顔で言った。

 「ああ。母上もアネシュカも楽しみにしていたよ。楽しみ過ぎてはしゃいでいたのが怖いくらいだ」

 「えぇぇ、ナオ様との晩餐? いいなぁ」

 いいなぁ、いいなぁ、と連呼するウルリクに、ベルトルドは呆れた目を向ける。

 「今日は両陛下とアシェルナオ殿下とラルだけの内輪だけの晩餐だ。ねだっても参加できないぞ。俺とどこかに食べに行くか?」

 「それはいいけど……。だって俺、まだナオ様の元気になった姿を見てないんだよ。エンロートのことはなんだかんだで丸く収まったみたいになってるけど、だからって攫われた時の恐怖とか、知らない人間に拉致されたこととか、ナオ様が許すって言ってもそんな簡単に収まる話じゃないだろう? 愛し子を略奪しておいて都合がいいって言ってるんだ。ナオ様はあんなに窶れてたじゃないか」

 ウルリクの言葉に、シーグフリードは口元を緩める。

 「ひっ。シグ、怒らせたならごめん」

 シーグフリードを怒らせると怖いということが身に染みているウルリクは背筋を正す。

 「謝ることはない。アシェルナオのために怒ってくれて嬉しいよ」

 「お、おう……」

 戸惑いながらウルリクが頷く。

 「ナオは音楽を生業とする家に生まれ、シルヴマルクの様式と変わらない恵まれた生活をしていたそうだ。職業や結婚や住む場所など、自由が許されていた時代で生きていて、だから同郷の出でありながら、生きていた時代が違うだけで自由がなくて辛い思いをしたみつ様に申し訳ないという思いがあるんだ」

 エンロートの件では思うところのあるヴァレリラルドに、

 「だから少しくらい辛い思いをしたからといってメーヴィスたちに罪はない、むしろみつ様への贖罪だとアシェルナオは思ってるのだろう」

 シーグフリードも私見を述べる。2人の説明にベルトルドは共感できたが、ウルリクは納得できなかった。

 「けどさぁ」

 「安心しろ、ウル。私は大事な弟を拉致した者を許したわけではない。アシェルナオの寛容な心を尊重しているだけだ」

 「私も、ナオを襲って袋に詰めて怖い思いをさせた者を許していない」

 シーグフリードとヴァレリラルドが目を見合わせて互いの意志を確認しあっているとき、

 カァーン……

 クリスタルのぶつかるような澄んだ高音が響いた。

 知らない者が聞けば、王城内の神殿が時を告げる鐘を鳴らしたのだろうかと思うような、美しい音色だったが、一瞬で執務室の空気が変わる。

 王城内に響き渡る鐘は、音と回数によって意味があった。低音なら不審者・来訪者への警戒。今のような高音や急を要する異常事態が発生したことを意味した。回数は1回。それは1階で発生した事案ということだった。

 「ナオ……」

 その名を呟いた次の瞬間には、ヴァレリラルドは椅子を倒す勢いで立ち上がって扉に向けて駆け出していた。

 「待て、ラル!」

 その後を追いかけるウルリクとベルトルド。シーグフリードも立ち上がり、

 「イクセル、後に続け。イヴァンは護衛騎士を連れて情報収集を。残りの護衛騎士はここに残って文官たちを護れ」

 早口で指示をするとヴァレリラルドの後を追った。




 見る間に大きくなる裂け目から現れたのは、さっきまで回廊の向かい側にいたエンゲルブレクトだった。

 間近で見るエンゲルブレクトの目は血走り、顔は蒼白で、その手には短剣が握られていた。よく見れば短剣の刃先や手、服に少なくはない血がついていた。

 まるで幽鬼のようなエンゲルブレクトに見据えられ、アシェルナオは立ちすくむ。

 ようやく追いついたテュコが動けないアシェルナオとエンゲルブレクトの間に身を滑らせた。テュコはエンゲルブレクトに背中を向けてアシェルナオを胸の中に抱え込む。

 強く、優しく、自分を守るように包み込むテュコの腕の中で、ドン、と全身を突き飛ばされたかのような衝撃をアシェルナオは感じた。

 頭を動かすのもままならないほど強く抱きしめて来るテュコの口から小さな呻きが聞こえた。

 「テュコ……?」

 嫌な予感がして、アシェルナオはこの世界で初めてできた友達の名を、大切な侍従であり頼もしい護衛騎士の名を、呼んだ。

 「大丈夫です。……ナオ様は逃げて」

 テュコは唇を噛みしめて、押し殺したような声を出す。

 「テュコ? どうしたの? テュコ!」

 叫ぶアシェルナオの体を強引に引き寄せながら、エンゲルブレクトはテュコの体を力任せに足蹴にした。

 テュコは蹴られて転がりながら即座に受け身を取り、回廊の床に片膝をついて立ち上がる。

 だが、テュコが転がったときにその背に走る裂け目をアシェルナオは見てしまった。右肩から腰まで、服ごと深く斬られ、赤黒い血が滲んでいるのを。

 「テュコ……っ」

 動揺するアシェルナオの首にエンゲルブレクトの腕が周り、締め付けるように抱き上げる。

 「ナオ様から……その手を離せ……!」

 怒りに震える肩、荒い息遣い。テュコの顔は青白く、唇を噛みしめる表情は苦痛に満ちていたが、決してエンゲルブレクトにアシェルナオを渡さないという一心で剣を抜いて身構えた。

 だがエンゲルブレクトは冷ややかにその声を無視し、アシェルナオの首にさらに力を込める。

 「今度こそ誰にも邪魔はさせない」

 エンゲルブレクトは血の付いた剣の切っ先をアシェルナオに向ける。

 「ナオ様を離せっ!」

 剣を構えるテュコの足元が小さく揺れる。その足元には血だまりができていた。

 「テュコ……誰か、テュコを!」

 テュコが死んでしまうのではないか。そう思うと涙を止められないアシェルナオが叫ぶ。

 「アシェルナオ様を離せ!」

 それに応えるように突風のように走り込んできたキナクが、テュコを庇って前に出る。

 エンゲルブレクトは空間の裂け目にアシェルナオを連れたまま身を滑らせた。

 「ぴか……大きいぴか、テュコを助けて!」

 「アシェルナオ様!」

 裂け目に向けてキナクが手を伸ばすが、エンゲルブレクトの盾になるようにアシェルナオが拘束されていて手が出せなかった。

 「キュッ」

 空間の裂け目からふよりんが押し出される。もう一度アシェルナオの側に行こうと、空間の裂け目に入ろうとするが、ふよりんは見えない壁にはじき出された。

 「キューッ!」

 「テュコ、死なないで! 僕がいなくても、幸せな……」

 アシェルナオの言葉は最後まで聞こえなかった。ふよりん、テュコ、キナクの目の前で、空間の裂け目は閉じてしまった。



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