夏の破片

関谷俊博

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トモヒロ…。ふたりでいるとき、麻里さんはいつも僕を下の名前で呼んだ。麻里さんが意識して、そうしていたのかどうかはわからない。だけどそう呼ばれる度に僕は、麻里さんが二歳年上であることを意識せざるを得なかったし、二歳上の美人の先輩というだけで、麻里さんは僕の憧れの対象となり得た。そして僕の知らない大人の世界に、麻里さんは足を踏み入れてもいたのだ。
その意味で、僕が麻里さんに抱いていた感情は、恋というより憧憬に近いものだった。憧憬も恋のうちと言われればそれまでだが、この感情はヒグラシの声や夏祭りや、ソーダ水の泡と等価値で並んでいる、アドレッセンスの一要素に過ぎなかった。だからと言って、そこに嫉妬や独占欲が存在しなかったかといえば、決してそんなことはない。麻里さんには大学生の恋人がいた。彼はロンドンに留学中との話だった。彼がいない間の代用品なのかと、僕は嫉妬に悩まされることになった。
僕は麻里さんと二人きりで、鎌倉まで日帰りで出かけたことがある。お揃いの陶器のペンダントを小さな店で買い、お互いに身につけた。そのペンダントが、麻里さんを自分のものにできた証のような気がして、僕は有頂天になった。だけどそれも一時のことに過ぎなかった。日が経つにつれ、黒い嫉妬心は再び僕の心を焦がし始めた。
「僕はいったい何なんでしょう」
とうとう我慢ができなくなって、僕は麻里さんに尋ねてみたことがある。
「何って彼氏じゃないの」
「だって麻里さんには恋人がいるじゃないですか」
僕はムキになっていた。今にして思えば、青臭い子供じみた言動だった。麻里さんを困らせてやろうという気持ちも、その言葉には含まれていたからだ。
麻里さんは首を傾げて少し考えている様子だったが、やがて口を開いた。
「彼のことは忘れていたわ。トモヒロにいま言われるまで」
その言葉は僕の独占欲を満足させるのに十分に貢献した。麻里さんは自分のものだと僕は思いこむことができた。あのときまでは。
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