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黙示録の天使を脱会した女を知っている。紹介してやるよ」
道玄坂のオフィスで、佐々木はその女性の名前と電話番号を教えてくれた。
その日のうちにアポを取り、僕と女性は三日後に会うことになった。待ち合わせの場所は、雑居ビルが立ち並ぶ歌舞伎町の喫茶店だった。
雑踏に揉まれながら、約束の喫茶店に足を運んでいたとき、記憶の底からある風景が浮かびあがってきた。
「神様ってクソったれだわ」
麻里さんだった。
「この世界はできそこないの神が創造したのよ」
「できそこないの神?」
僕はきき返した。
カビ臭い匂いのするあの文芸部の部室だった。書棚には色褪せた書籍や文芸誌が並んでいて、壁には誰が描いたのかオスカー・ワイルドの肖像画がかなり巧みに落書きされていた。
「そうよ。神がいるのなら、どうしてこの世界の悲惨さを放っておくのよ」
麻里さんは眉間を曇らせた。窓の外ではやはり蝉たちが鳴いている。
「もう少しマトモになってくれないと、困るわねえ」
麻里さんは舌打ちをして顔をしかめた。
僕は我に返った。気がつけば、そこは相変わらず歌舞伎町の雑踏だった。
「気をつけろ」
僕の肩にぶつかった男が、唾を飛ばしながら怒鳴った。
いまのは何だ…。僕は思った。妙にリアルな風景…幻覚か…。
「黙示録の子羊」の元信者であるその女性は、喫茶店の奥まった席で、既に僕を待っていた。電話で約束した通り、グレーのハンドバッグを抱き締めるように腕に抱えている。
僕は興信所の名刺をだして、女性に挨拶した。女性の名前は鈴村恵子といった。紺色の地味なワンピースを着ている。
服装が地味なら顔立ちも地味だった。一重瞼に…これといった特徴のない鼻…。取り立てて印象に残らない顔立ちだった。全てにおいて普通過ぎるのだ。これでは目を閉じた途端に大抵の人が、彼女の顔を思い出せなくなってしまうだろう。
「あなたが黙示録の子羊の元信者だったというのは本当のことですか」
無愛想なウエイターにアイスコーヒーとアイスティーを注文すると、僕は鈴村さんに尋ねた。
「はい…本当のことです。今はもう脱会しましたが…友人に勧められるがままに入信してしまったのです」
「黙示録の子羊がグノーシス主義の流れを汲んでいるとも…」
「はい…それも本当です…」
鈴村さんは頻りにハンカチで口を拭った。
「正統派とされるキリスト教では、イブを唆してアダムに知恵の実を食べさせた蛇を悪と考えます。けれどもグノーシス主義諸派では、蛇は人間に知恵をもたらした善き神であったと考えるんです。黙示録の子羊もそうでした」
「それでグノーシス主義諸派は正統派キリスト教から異端とされ弾圧されたのですね」
「ええ。それだけグノーシス主義諸派が正統派キリスト教にとって脅威であったのでしょう」
まず僕は鈴村さんに単刀直入に尋ねてみた。
「黙示録の子羊は具体的にどのような儀式を執り行っていたのですか」
「それは…」
鈴村さんが言葉に詰まった。
「すみません…ちょっと口には出せないようなことです…」
そこで僕は違った角度から質問してみることにした。
「どんな宗教にも信仰の対象はあると思います。黙示録の子羊にも信仰の対象はありましたよね」
「はい」
鈴村さんは小さく頷いた。
ウエイターがやっとアイスコーヒーとアイスティーを運んできた。ひとくち飲んでみたが、アイスコーヒーはまるで冷えていなかった。
「それは何でしょうか」
鈴村さんがまた口を拭った。だいぶ間があって鈴村さんは漸く口を開いた。
「信教の自由がありますから、どんな宗教を信じてもいいのかもしれません。けれども黙示録の子羊の本尊には、正直なところ抵抗がありました」
「黙示録の子羊の本尊は、何だったのですか?」
「バフォメット…」
ぞっと鳥肌が立った。
バフォメットの別名はサバトの牡山羊。ルシファーに仕える六人の悪魔のうちの一人だった。
「バフォメット…」
僕は言葉を失いかけた。
「はい…それが黙示録の子羊の本尊でした」
「黙示録の子羊は悪魔崇拝なのですか」
鈴村さんは首を傾けて考えていたが「正直に言えばわかりません」と漸く小さな声で答えた。
「わからない?」
「はい」
「どうしてですか…元信者であるあなたが…」
「それは…黙示録の子羊の教義を私は殆ど教えてもらえなかったからです」
鈴村さんの言っていることが僕には理解できなかった。鈴村さんは続けた。
「黙示録の子羊にはヒエラルキーがあったのです。階層が上がるに従って、少しずつ教義を教えてもらえます。それも教祖であるマリィさま…いえ、マリィから直接授かるのです」
「そうなのですか…良くできた仕組みです…教義を授かる為に皆、教祖に忠誠を誓う。密教思想も加味されているのでしょうか」
「ええ。だから入信してすぐ脱会してしまった私は教義については殆ど知らされていないのです。わかっているのはグノーシス主義の流れを汲む宗教であること。それだけです」
「黙示録の子羊のことを詳しく知るには、どうしたら良いでしょうか」
「それは…あなた自身が入信するしかありません。黙示録の子羊は極端な閉鎖主義ですから」
僕と鈴村さんは暫く顔を見合わせていた。
「最後にお尋ねします。黙示録の子羊を脱会したあなたは、いま何か信仰をなさっていますか」
「いいえ」
鈴村さんは首を振った。
「私はいま無宗教です。ただ仏教には興味があるので、関連した書籍は時折読んでいます」
「仏教のどのような点に興味があるのですか」
「そうですね…難しい質問ですが…」
鈴村さんは言葉を探して考えあぐねているようだった。
「例えばこの世界がどのように創造されたのか、釈迦は答えませんでした。このような質問を釈迦は戯論と呼び否定しました。この世界の成り立ちを考えることよりも、人々が救われていくことが先決だと釈迦は考えたのです。それ以外のことは意味がないとして、釈迦は退けました」
僕は黙っていた。
「私は仏教徒ではありませんが、この考えには共感を覚えます。正統派キリスト教のように、この世界は全能の神が創造したとも、グノーシス主義のように、不完全な神が創造したとも、どちらの立場にも立ちたくありません。そんなこと本当は、どうでもいいことなんです。なんの意味もありません」
そして僕は鈴村さんと別れ喫茶店を後にした。鈴村さんが最後に言った言葉が、心の何処かに引っかかっていた。
「なんの意味もありません」
それが「異邦人」のムルソーの口癖であることに気づいたのは、僕が興信所に戻ってからだった。
道玄坂のオフィスで、佐々木はその女性の名前と電話番号を教えてくれた。
その日のうちにアポを取り、僕と女性は三日後に会うことになった。待ち合わせの場所は、雑居ビルが立ち並ぶ歌舞伎町の喫茶店だった。
雑踏に揉まれながら、約束の喫茶店に足を運んでいたとき、記憶の底からある風景が浮かびあがってきた。
「神様ってクソったれだわ」
麻里さんだった。
「この世界はできそこないの神が創造したのよ」
「できそこないの神?」
僕はきき返した。
カビ臭い匂いのするあの文芸部の部室だった。書棚には色褪せた書籍や文芸誌が並んでいて、壁には誰が描いたのかオスカー・ワイルドの肖像画がかなり巧みに落書きされていた。
「そうよ。神がいるのなら、どうしてこの世界の悲惨さを放っておくのよ」
麻里さんは眉間を曇らせた。窓の外ではやはり蝉たちが鳴いている。
「もう少しマトモになってくれないと、困るわねえ」
麻里さんは舌打ちをして顔をしかめた。
僕は我に返った。気がつけば、そこは相変わらず歌舞伎町の雑踏だった。
「気をつけろ」
僕の肩にぶつかった男が、唾を飛ばしながら怒鳴った。
いまのは何だ…。僕は思った。妙にリアルな風景…幻覚か…。
「黙示録の子羊」の元信者であるその女性は、喫茶店の奥まった席で、既に僕を待っていた。電話で約束した通り、グレーのハンドバッグを抱き締めるように腕に抱えている。
僕は興信所の名刺をだして、女性に挨拶した。女性の名前は鈴村恵子といった。紺色の地味なワンピースを着ている。
服装が地味なら顔立ちも地味だった。一重瞼に…これといった特徴のない鼻…。取り立てて印象に残らない顔立ちだった。全てにおいて普通過ぎるのだ。これでは目を閉じた途端に大抵の人が、彼女の顔を思い出せなくなってしまうだろう。
「あなたが黙示録の子羊の元信者だったというのは本当のことですか」
無愛想なウエイターにアイスコーヒーとアイスティーを注文すると、僕は鈴村さんに尋ねた。
「はい…本当のことです。今はもう脱会しましたが…友人に勧められるがままに入信してしまったのです」
「黙示録の子羊がグノーシス主義の流れを汲んでいるとも…」
「はい…それも本当です…」
鈴村さんは頻りにハンカチで口を拭った。
「正統派とされるキリスト教では、イブを唆してアダムに知恵の実を食べさせた蛇を悪と考えます。けれどもグノーシス主義諸派では、蛇は人間に知恵をもたらした善き神であったと考えるんです。黙示録の子羊もそうでした」
「それでグノーシス主義諸派は正統派キリスト教から異端とされ弾圧されたのですね」
「ええ。それだけグノーシス主義諸派が正統派キリスト教にとって脅威であったのでしょう」
まず僕は鈴村さんに単刀直入に尋ねてみた。
「黙示録の子羊は具体的にどのような儀式を執り行っていたのですか」
「それは…」
鈴村さんが言葉に詰まった。
「すみません…ちょっと口には出せないようなことです…」
そこで僕は違った角度から質問してみることにした。
「どんな宗教にも信仰の対象はあると思います。黙示録の子羊にも信仰の対象はありましたよね」
「はい」
鈴村さんは小さく頷いた。
ウエイターがやっとアイスコーヒーとアイスティーを運んできた。ひとくち飲んでみたが、アイスコーヒーはまるで冷えていなかった。
「それは何でしょうか」
鈴村さんがまた口を拭った。だいぶ間があって鈴村さんは漸く口を開いた。
「信教の自由がありますから、どんな宗教を信じてもいいのかもしれません。けれども黙示録の子羊の本尊には、正直なところ抵抗がありました」
「黙示録の子羊の本尊は、何だったのですか?」
「バフォメット…」
ぞっと鳥肌が立った。
バフォメットの別名はサバトの牡山羊。ルシファーに仕える六人の悪魔のうちの一人だった。
「バフォメット…」
僕は言葉を失いかけた。
「はい…それが黙示録の子羊の本尊でした」
「黙示録の子羊は悪魔崇拝なのですか」
鈴村さんは首を傾けて考えていたが「正直に言えばわかりません」と漸く小さな声で答えた。
「わからない?」
「はい」
「どうしてですか…元信者であるあなたが…」
「それは…黙示録の子羊の教義を私は殆ど教えてもらえなかったからです」
鈴村さんの言っていることが僕には理解できなかった。鈴村さんは続けた。
「黙示録の子羊にはヒエラルキーがあったのです。階層が上がるに従って、少しずつ教義を教えてもらえます。それも教祖であるマリィさま…いえ、マリィから直接授かるのです」
「そうなのですか…良くできた仕組みです…教義を授かる為に皆、教祖に忠誠を誓う。密教思想も加味されているのでしょうか」
「ええ。だから入信してすぐ脱会してしまった私は教義については殆ど知らされていないのです。わかっているのはグノーシス主義の流れを汲む宗教であること。それだけです」
「黙示録の子羊のことを詳しく知るには、どうしたら良いでしょうか」
「それは…あなた自身が入信するしかありません。黙示録の子羊は極端な閉鎖主義ですから」
僕と鈴村さんは暫く顔を見合わせていた。
「最後にお尋ねします。黙示録の子羊を脱会したあなたは、いま何か信仰をなさっていますか」
「いいえ」
鈴村さんは首を振った。
「私はいま無宗教です。ただ仏教には興味があるので、関連した書籍は時折読んでいます」
「仏教のどのような点に興味があるのですか」
「そうですね…難しい質問ですが…」
鈴村さんは言葉を探して考えあぐねているようだった。
「例えばこの世界がどのように創造されたのか、釈迦は答えませんでした。このような質問を釈迦は戯論と呼び否定しました。この世界の成り立ちを考えることよりも、人々が救われていくことが先決だと釈迦は考えたのです。それ以外のことは意味がないとして、釈迦は退けました」
僕は黙っていた。
「私は仏教徒ではありませんが、この考えには共感を覚えます。正統派キリスト教のように、この世界は全能の神が創造したとも、グノーシス主義のように、不完全な神が創造したとも、どちらの立場にも立ちたくありません。そんなこと本当は、どうでもいいことなんです。なんの意味もありません」
そして僕は鈴村さんと別れ喫茶店を後にした。鈴村さんが最後に言った言葉が、心の何処かに引っかかっていた。
「なんの意味もありません」
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