夏の破片

関谷俊博

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「黙示録の子羊」の本部は新橋にあった。外観はどこにでもある教会施設である。入信費の二十万は既に支払ってあった。約束の時間の五分前、僕は教会の扉を開けた。
「夏樹様ですね。お待ちしておりました」
白い修行服を身につけた若い女性が、僕に深々と頭を下げた。端正な顔立はしているが、まるでマネキンのように無表情だった。髪を後ろで束ね、前髪は真っ直ぐに切り揃えられている。
「解脱への道に踏み出されたことは、誠に喜ばしいことです。心よりお祝い申し上げます。一定期間修行すれば出家の道もあります」
言葉とは裏腹にそこには何の感情もこもっていなかった。
「これから入信のイニシエーションが始まりますが、夏樹様にはその前にしていただきたいことがあります」
「していただきたいこと?」
「はい」
女性は部屋の隅にある木製の棚から大皿を取り出すと、恭しく両手で運んできた。
「こちらをお召しあがりください」
茶色く干からびたキノコが、そこには盛られていた。軸の捩れたひょろっとしたキノコだ。
それがマジックマッシュルームであることは容易に推測できた。マジックマッシュルームは幻覚成分であるシロシビン及びシロシンを含有するキノコの総称である。基本的には摂取すると多幸感を感じ、閉眼時にも色彩の変化や模様等、視覚的な認識を知覚する。症状としては他に知覚の鋭敏化、聴覚の歪み等が挙げられるが、感情的作用がネガティヴな方向へ向かうと(所謂バッドトリップ)パニック症状を引き起こすこともある。
勧められるがままに、僕はかなりの量のマジックマッシュルームを口にした。
「もう暫くお待ちください」
そう言うと女性は、僕の前の長椅子に腰を下ろした。マジックマッシュルームが効いてくるのを待つつもりなのだろう。マジックマッシュルームは摂取しても、すぐには効果を表さない。幻聴や幻覚が始まるのは一時間も経過してからである。
お陰で僕は「黙示録の子羊」の表玄関とも言えるその部屋を存分に観察することができた。
部屋のあちらこちらに蛇を象ったシンボルがあしらわれていた。やはり「黙示録の子羊」はグノーシス主義の影響を受けているのだろう。人間に知恵をもたらした蛇を善き神であったと考えているのだ。
小一時間も経つと女性は立ち上がった。
「それではご案内します。こちらにお越しください」
女性は部屋の正面にあるドアの前に僕を立たせた。
「それではお入りください。解脱への第一歩です」
三重構造になったそのドアは、かなり分厚かった。恐らくは防音ドアだ。女性はそこで初めて笑った。何とも冷酷で不気味な笑いだった。
僕を押し込むと、女性はすぐに扉を閉めた。ガチャンという重い音が背後で響いた。息苦しい暗さに僕は包まれた。獣たちが呻くような声…明かりとなるのは、天井近くの小窓から差す僅かな光だけである。酸っぱく鼻につく異臭がした。
目が慣れてくるに従って、おぞましい光景が露わになった。僕は息を呑み、茫然と立ち尽くした。祭壇の前で幾人もの男女が様々な体位で性交を繰り返していた。祭壇には磔にされたイエスの代わりに、牡山羊の頭をしたバフォメットが据えられていた。
バフォメットには数人の女が絡みつき…その屹立した男根に跨っているのは…麻里さんだった。
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