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帰り道、五大ドームでのコンサートツアーが決まり、俺たちは浮かれていた。
「信じられねえ。俺たちがドームツアーだってよ」と倉田。
「全くです。東京ドームでやれるなんて、思ってもみませんでした」と杉浦。
白井だけが無口だった。白井が何か言いたそうにしているのに、俺は気づいた。
「おい、白井。どうした?」
「実は…」
白井が重い口を開いた。
「柴谷さんの前では言い出せなかったけれど、E&Mからオファーが来てるんだ」
「えっ」
倉田が絶句した。
「おい、ほんとかよ!」
「ああ。二日前、直接オファーがあった」
白井の言葉に、俺たちは呆然とした。
ドームでのコンサートツアーが決まると同時に、E&Mからのオファーがあったのも皮肉なことだった。
いや、これは全て計算づくで、E&Mは機会をうかがっていたのかもしれなかった。ドームコンサートの公式発表前から情報はつかんでいるのかもしれない。
暫くの間、皆言葉が出なかった。
「おい、もっと喜べよ。あのE&Mだぞ」
倉田が杉浦の背中を叩いた。
「何だか心苦しいんですよね。HALレーベル、特に柴谷さんには散々お世話になりましたから」
「レーベルの移籍なんて良くあることだろ」と倉田は言った。
「自分たちは所属事務所がないじゃないですか」と杉浦
「事務所のマネージャーがする仕事をみんな柴谷さんがしてくれていたんですよ」
「柴谷さんに黙って出て行く訳にはいかないと僕も思うんだ」と白井。
「きちんと話をするさ。ドームコンサートが終わったらな」
俺は言った。
倉田に杉浦とは途中で別れ、俺は白井と二人になった。目の前には空を焼き尽くす様な夕焼け。白井はまた何か考えているのか、無口だった。
ジョグラトルは上手く行き過ぎる位、上手く行っている。五大ドームでのコンサートツアーとE&Mからのオファー。俺たちは殆ど下積みも経験しないで此処まで来たのだ。白井は何を悩んでいるのだろう。
「夕焼け空は怖ろしいよ。僕にとっては」
白井はぽつりと言った。
「怖ろしい?」
「目に焼き付いて離れない光景があるんだ。夕焼け空を見る度に思い出して血の気が引く」
白井は何かを語ろうとしていた。
「僕には姉がいた」
俺は黙って白井の話に耳を傾けた。
「とても優秀な姉だったんだ。特に絵画に秀でた才能を持っていた。幼い頃から姉は児童画コンクールを総なめにしてきた。史上最年少でN展に入選して、新聞やテレビのニュースにもなった」
「稀にいるのさ。天才とか神童とか呼ばれる人間が」
「姉は完璧だった。優しい姉だったよ。絵画だけじゃなく、学校の成績もずば抜けていたけれど、それを鼻にかける風でもなかった。みんなに平等で親切で…だから友人たちに相談事を持ちかけられることも多かった」
僅かな違和感。この世界に完璧な人間などいないのだ。
「僕も何か困ったことがあると、いつも姉に相談していた。そのアドバイスっていうのが、本当に的確なんだ。短い言葉で、一言二言しか言わない。だけど、姉の言う通りにすると、不思議と全てが上手くいくんだ」
違和感はいっそう強くなった。白井の話もいつになく回りくどかった。
「だけど僕が十六のとき姉は死んだ。鴨居で首を吊ったんだ」
「そうか」とだけ、俺は言った。これが違和感の正体だったのだ。
「見つけたのは僕だった。姉の爪先は畳すれすれの所で微かに揺れていた。完璧主義の姉らしいな、と僕は思った。首を吊る縄の長さまで、姉は計算に入れていたんだね」
俺は黙っていた。
「窓が開いていて、夕焼け空が見えた。不思議と怖ろしくはなかった。僕は一枚の絵を眺めるかの様に、首をくくった姉と夕焼け空を眺めた。僕は知っていた様な気がした。いつかこんなことになるんじゃないかって。僕は姉の死を予感していたんだ」
「おまえも気づいていたんだろう? 完璧な人間などいないって」
「心のどこかでは…」
白井は頷いた。
「そう。忘れられない。姉が死んだというのに、夕焼け空がこんなに綺麗なのが、不思議だった。窓が開いていたということは、或いは姉は計算していたのかもしれない。夕焼け空を背景に、吊りさがった自分。それは姉が最期に遺した絵画だったのかもしれない。姉は自分の死すらも芸術にしたんだ」
俺は何も言えなかった。白井に同情したからではない。詩人は二十一歳で死ぬ。ロックンローラーは二十七歳で死ぬ。白井の姉の死に様に憧れる心が、俺の中にもあることを、認めない訳にはいかなかった。
「それからだよ。姉が死んで、僕は罪の意識に苦しめられることになった」
「罪の意識?」
「そう。僕や周囲の人間は、姉に何かを押しつけていたのかもしれないって…」
「白井、おまえ、なに言ってるんだ? 他人に何かを押しつけない人間なんていない。みんな、押しつけたり、押しつけられたりして、生きているんだ」
「だけど姉は、押しつけられることはあっても、人には何も押しつけなかった。余りにも完璧過ぎて、だから歪んでいたんだよ」
白井の言わんとしていることが俺には理解できた。余りにも完璧な人間は、心の奥の廃棄物処理場に、様々な他人の想いを溜め込んでいくのだ。
しかし、膨大な想いを全て処理することなど、所詮、人間には出来はしない。そして…やがて…溜め込まれた想いは臨界点を迎える。
「誰かが姉を救うべきだったんだ。そして、それが出来るのは、一番近くにいる僕だった。僕が気づいてあげるべきだったんだ」
白井の言葉は乾いていた。そう。白井の姉は歪んでいたのだ。きっと自分でもその歪みに気づいてはいたのだろう。救いを求めてもいたのだろう。
「宿業」という言葉が、俺の頭に浮かんだ。自分が歪んでいることに気づいても、白井の姉はどうすることもできなかったのだ。一度、回り出した歯車を止めることはできなかったのだ。
「おまえに何ができた?」と、俺は白井に言った。
「過去を悔やんで何になる? 俺たちにできるのは…もしそこに教訓があるとすればだが…教訓から学ぶことだけだ。そして、その教訓も次に来る荒波には役に立たないんだ」
「信じられねえ。俺たちがドームツアーだってよ」と倉田。
「全くです。東京ドームでやれるなんて、思ってもみませんでした」と杉浦。
白井だけが無口だった。白井が何か言いたそうにしているのに、俺は気づいた。
「おい、白井。どうした?」
「実は…」
白井が重い口を開いた。
「柴谷さんの前では言い出せなかったけれど、E&Mからオファーが来てるんだ」
「えっ」
倉田が絶句した。
「おい、ほんとかよ!」
「ああ。二日前、直接オファーがあった」
白井の言葉に、俺たちは呆然とした。
ドームでのコンサートツアーが決まると同時に、E&Mからのオファーがあったのも皮肉なことだった。
いや、これは全て計算づくで、E&Mは機会をうかがっていたのかもしれなかった。ドームコンサートの公式発表前から情報はつかんでいるのかもしれない。
暫くの間、皆言葉が出なかった。
「おい、もっと喜べよ。あのE&Mだぞ」
倉田が杉浦の背中を叩いた。
「何だか心苦しいんですよね。HALレーベル、特に柴谷さんには散々お世話になりましたから」
「レーベルの移籍なんて良くあることだろ」と倉田は言った。
「自分たちは所属事務所がないじゃないですか」と杉浦
「事務所のマネージャーがする仕事をみんな柴谷さんがしてくれていたんですよ」
「柴谷さんに黙って出て行く訳にはいかないと僕も思うんだ」と白井。
「きちんと話をするさ。ドームコンサートが終わったらな」
俺は言った。
倉田に杉浦とは途中で別れ、俺は白井と二人になった。目の前には空を焼き尽くす様な夕焼け。白井はまた何か考えているのか、無口だった。
ジョグラトルは上手く行き過ぎる位、上手く行っている。五大ドームでのコンサートツアーとE&Mからのオファー。俺たちは殆ど下積みも経験しないで此処まで来たのだ。白井は何を悩んでいるのだろう。
「夕焼け空は怖ろしいよ。僕にとっては」
白井はぽつりと言った。
「怖ろしい?」
「目に焼き付いて離れない光景があるんだ。夕焼け空を見る度に思い出して血の気が引く」
白井は何かを語ろうとしていた。
「僕には姉がいた」
俺は黙って白井の話に耳を傾けた。
「とても優秀な姉だったんだ。特に絵画に秀でた才能を持っていた。幼い頃から姉は児童画コンクールを総なめにしてきた。史上最年少でN展に入選して、新聞やテレビのニュースにもなった」
「稀にいるのさ。天才とか神童とか呼ばれる人間が」
「姉は完璧だった。優しい姉だったよ。絵画だけじゃなく、学校の成績もずば抜けていたけれど、それを鼻にかける風でもなかった。みんなに平等で親切で…だから友人たちに相談事を持ちかけられることも多かった」
僅かな違和感。この世界に完璧な人間などいないのだ。
「僕も何か困ったことがあると、いつも姉に相談していた。そのアドバイスっていうのが、本当に的確なんだ。短い言葉で、一言二言しか言わない。だけど、姉の言う通りにすると、不思議と全てが上手くいくんだ」
違和感はいっそう強くなった。白井の話もいつになく回りくどかった。
「だけど僕が十六のとき姉は死んだ。鴨居で首を吊ったんだ」
「そうか」とだけ、俺は言った。これが違和感の正体だったのだ。
「見つけたのは僕だった。姉の爪先は畳すれすれの所で微かに揺れていた。完璧主義の姉らしいな、と僕は思った。首を吊る縄の長さまで、姉は計算に入れていたんだね」
俺は黙っていた。
「窓が開いていて、夕焼け空が見えた。不思議と怖ろしくはなかった。僕は一枚の絵を眺めるかの様に、首をくくった姉と夕焼け空を眺めた。僕は知っていた様な気がした。いつかこんなことになるんじゃないかって。僕は姉の死を予感していたんだ」
「おまえも気づいていたんだろう? 完璧な人間などいないって」
「心のどこかでは…」
白井は頷いた。
「そう。忘れられない。姉が死んだというのに、夕焼け空がこんなに綺麗なのが、不思議だった。窓が開いていたということは、或いは姉は計算していたのかもしれない。夕焼け空を背景に、吊りさがった自分。それは姉が最期に遺した絵画だったのかもしれない。姉は自分の死すらも芸術にしたんだ」
俺は何も言えなかった。白井に同情したからではない。詩人は二十一歳で死ぬ。ロックンローラーは二十七歳で死ぬ。白井の姉の死に様に憧れる心が、俺の中にもあることを、認めない訳にはいかなかった。
「それからだよ。姉が死んで、僕は罪の意識に苦しめられることになった」
「罪の意識?」
「そう。僕や周囲の人間は、姉に何かを押しつけていたのかもしれないって…」
「白井、おまえ、なに言ってるんだ? 他人に何かを押しつけない人間なんていない。みんな、押しつけたり、押しつけられたりして、生きているんだ」
「だけど姉は、押しつけられることはあっても、人には何も押しつけなかった。余りにも完璧過ぎて、だから歪んでいたんだよ」
白井の言わんとしていることが俺には理解できた。余りにも完璧な人間は、心の奥の廃棄物処理場に、様々な他人の想いを溜め込んでいくのだ。
しかし、膨大な想いを全て処理することなど、所詮、人間には出来はしない。そして…やがて…溜め込まれた想いは臨界点を迎える。
「誰かが姉を救うべきだったんだ。そして、それが出来るのは、一番近くにいる僕だった。僕が気づいてあげるべきだったんだ」
白井の言葉は乾いていた。そう。白井の姉は歪んでいたのだ。きっと自分でもその歪みに気づいてはいたのだろう。救いを求めてもいたのだろう。
「宿業」という言葉が、俺の頭に浮かんだ。自分が歪んでいることに気づいても、白井の姉はどうすることもできなかったのだ。一度、回り出した歯車を止めることはできなかったのだ。
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