冬迷宮

関谷俊博

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「ねえ学生時代、きみが有名ピアニストとつきあっていたという噂は本当なの」
 ある日、僕は堪らなくなって、則子にそう尋ねてみたことがある。そのときも、僕と則子は一緒に食事をし、食後のコーヒーを飲んでいた。
「本当よ」
 則子はあっさりと言った。引き攣れるような痛みが、僕の胸に走った。
「母が亡くなって、私には師と呼べる人がいなくなったの。だから、母の恋人だったその人に自分から近づいていったの。私はどうしてもプロになりたかったから」
 則子の言葉に僕は声を失った。続けて、僕の心にこみ上げてきたのは、強い嫉妬だった。
「母が亡くなったのは、私が高一のとき。母と父は離婚して、父は行方知れずだったし、他に頼れる親族もいなかった。性格が災いしたのかもしれないけれど、何故か母は一切の親族と縁を切っていたのよ。だから、母の恋人だったその人に頼んで、後見人になってもらったの」
「そう」
 辛うじて僕は言葉を絞り出した。
「優しい人だったわ。それにピアニストとして、とても尊敬できる人だった」
「きみが彼の子供を妊娠していたという噂もあるけれど…」
心の痛みを感じながら、僕はやっとの思いでそう言った。
「それは嘘…」
 則子は言った。
「彼はきちんと避妊をしてくれたわ。本当よ」
「その人は今どうしているの」
 ますます嫉妬をつのらせながら、僕は尋ねた。
「私が成人したとき、後見人の座を離れたわ。私との関係もそれで終わった。彼には何人も恋人がいたのよ。それから間もなくよ。私の右手の薬指が動かなくなったのは」
 そのとき、イタリアンレストランで流れていたBGMが、ある曲に変わった。僕はこの曲の題名をたまたま知っていた。レオシュ・ヤナーチェク作曲の「嫉妬」。
 まただ、と僕は思った。シンクロニシティだった。ユングが提唱したシンクロニシティの概念を、臨床心理士として、僕は一通り理解していた。
 たとえば、ある人が「あの人、どうしてるかな。電話をしてみようかな」と考えているときに、たまたまその相手から電話がかかってくる。このような普通なら起こりえないような偶然の一致。心理学者のユングはこれをシンクロニシティと呼んだ。
 どうして僕と則子の間には、このようなシンクロニシティが度々起こるのだろうか。

 冬が近づいていた。則子は澄んだ眼で、じっと僕の顔を覗きこむことが多くなった。立ち止まっては、何度もハンカチで口を拭った。何か言いたいことがあるのだが、言葉にならない様子だった。則子は何かを言いかける。しかし、則子が表現したかった何かは、薄曇の空に吸い込まれて消えてしまう。
 僕と則子は、ただ黙って歩いた。プラタナスの落ち葉が足元で音を立てた。踏みしだかれる落ち葉は、壊れやすい則子の心のようにも感じられた。則子は何かに怯えるように、僕に身を寄せてきた。
則子は雑踏の中でも時々、何かに耳を澄ますように、立ち止まることがあった。そんなとき則子は暫く目を閉じ、大きく息を吸って、また歩き始める。
「あ」
 則子がまた立ち止まり小声で言う。
「どうしたの」
 僕は尋ねる。
「ほら、聞こえるわ」
 則子は目を閉じたまま呟く。
「何が聞こえるの」
 しかし、その問いに則子が答えることはなかった。

 そして冬がきた。僕と則子は公園を当てもなく歩いていた。ライトアップされた公園の樹々。白い息を吐きながら則子は、僕のコートのポケットに、手を滑り込ませてきた。
「きみは何が欲しいの」
 僕は則子に尋ねてみた。
「遠く離れ去った夢」
 則子は呟いた。
「だけどもう手に入らないわ」
 則子は寂しげに笑った。
 その頃、僕は則子のことが、ますますわからなくなっていた。自分の意見を強引に押しつけてきたかと思えば、人が変わったかのように大人しくなる。口調までガラッと変わるのだ。まるで気まぐれな猫のようだった。ここでも僕は則子の心の秘密を解く鍵を見落としていた。後にして思えばだけれど。

 則子のカウンセリングも、もう八ヶ月になろうとしていた。則子が高一のときに亡くなったという母親のことが、僕はどうしても気にかかっていた。
「お母さんは亡くたったって言ったね」
 ある日のカウンセリングで、僕は則子に尋ねた。
「ええ。プロのピアニストとして成功を収めて、結構な額の遺産を私に遺してくれた。それに母の実家も資産家だったの。おかげで生活には困らないわ」
「お母さんは、どんな人だったの」
 僕が質問すると、則子はびくっと身体を震わせて、怖しいものでも見るかのように、僕の顔を仰いだ。そして、諦めたように語り始めた。
「母は完璧主義者だったの。母の心には私がこうあるべきだという理想像があったのね。だから一切の口答えは許されなかった」
 僕は黙って則子の話を聞いていた。
「口答えをすれば、真冬に裸でベランダに座らされたり、スリッパで背中を叩かれたり、ありとあらゆる災難が私にふりかかったわ」
「おかしいよ、それは」
「そうね…今なら私もそう思える。だけど、その頃はそう思えなかった。それに母は、プロのピアニストになる為には、自己主張する強さがなければ駄目だとも言っていたのよ。なんだかおかしいでしょ」
 僕は頷いた。まだ幼かった則子のどこに、その矛盾に気づく能力があったことだろう。たとえ矛盾に気づけたとしても、則子に何ができただろうか。
「とにかく母は私がピアノを弾いているときだけは機嫌が良かった。だから私も懸命にピアノを弾くようになったのよ。母が亡くなった後も、それは変わらなかった」
「強制されて始めたのに?」
 納得できずに僕は問い掛けた。
「そうよ。だってピアノを弾くことは、確かに楽しくもあったの。天才少女ピアニストとか言われて得意だったし、みんながチヤホヤしてくれるし…だけどね」
 少し間を置いて、則子は言い放った。
「彼が去っていったとき、私はふと思ったの。私は母の夢にしがみついていただけなのかもしれないって」
 僕は黙っていた。彼とは則子の後見人となったピアニストのことだろう。則子が抱えている問題は、確かに複雑だった。尊敬できるピアニスト。後見人のことを、則子はそう呼んだ。恋人でもある後見人は、彼女の心の支えにもなっていたことだろう。その後見人が去ったとき、則子はピアノと一対一で、向かわざるを得なかったのだ。
「ブロのピアニストになることが、母の夢なのか、私の夢なのか、  判断がつかなくなったのよ。私は私の夢が信じられなくなったの。そして、私の右手の薬指はある日、突然動かなくなった」
 これが則子の幻聴の原因なのだろうか。
 だが則子の病が「統合失調症」であるならば「虐待」から「幻聴」が起きていると断定することには躊躇いがあった。「統合失調症」の病因については、遺伝やストレス、脳の代謝異常が病因とする説が有力なようである。「虐待」が「統合失調症」の病因とする説もあるにはあるが、それは数多ある仮説のうちの一つに過ぎない。しかし、いずれも仮説の域を出ていないことは確かだった。
「幻聴なのはわかっているわ。だけど母の声が聞こえてくるの」
「何て聞こえるの」
「ピアノを弾きなさい」

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