冬迷宮

関谷俊博

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 カウンセリングが終わった後で、僕はまた則子と食事をし、彼女をうちまで送り届けてから、帰宅の途についた。クリスマスが近づいていた。街にはLEDでライトアップされた樹々が、あちこちに見受けられた。親しげに笑い合う男女で、街は溢れていた。
コートのポケットに手を突っ込んで、歩道を歩きながら、僕は考えた。
 則子の病が統合失調症ならば、その原因は母親のダブルバインド(二重拘束)にあるのではないか。
 ダブルバインド・セオリーとは、二つの矛盾した指示命令を、親に課された子供が、その矛盾故に心に混乱をきたし、統合失調症の要因となるとするグレゴリー・ベイトソンが提唱した仮説である。
則子は二つの矛盾する指示命令を、母親から課されていた。一つめは「親に口答えをするな」というものであり、二つめは「プロのピアニストになる為には、自己主張する強さがなければ駄目だ」というものであった。
 この二つの指示命令は相矛盾するものである。一つめの指示命令に従えば、二つめの指示命令に反することになるし、二つめの指示命令に従えば、一つめの指示命令に反することになる。かくして子供は混乱し、心を病んでいく。
 しかし、ダブルバインド・セオリーは、あくまで仮説だった。統合失調症の原因は、遺伝やストレス、脳の代謝異常が病因であるとする説が有力なのは確かだった。

 その夜、僕がベッドで休もうとすると、枕元の電話が鳴った。時計の針は、もう十一時を指している。
「はい」
 受話器を取ったが電話は無言だった。だけど僕は直感で、受話器の向こうに誰がいるのか、感じ取ることができた。
「則子!  則子だね!  どうした!」
 そう問い掛けても、受話器の向こうからは何の返事もない。
 僕はすぐにコートをはおると、則子の住むマンションへと、車を走らせた。思いきりアクセルを踏みながら、嫌な胸騒ぎがした。様々な空想が頭を掠めた。則子に何かが起きたのだ。取り返しのつかないことが。
 則子のマンションのスペアのカードキーを、僕は持っていた。祈るような気持ちでドアを開けると、受話器を持ったまま、則子は立ち尽くしていた。
「則子!」
 則子はゆっくりと僕を振り返った。その眼は虚ろで、僕を見ていなかった。そして、こう呟き始めた。
「冬の森に据えられたピアノ…瑠璃色の冬鳥…蒼い目をした獣」
「何を言ってるんだ! 則子!」
 僕は則子の肩を揺さぶった。則子の身体が、がくがくと揺れた。
「冬の夜空にはためくオーロラ…丸太小屋の森番…冬空を抱きしめて凍りついたあなたの言葉…」
「則子!」
「凍りついたあなたの言葉…」
 僕は僕の唇で則子の口をふさいだ。長いキスのあと、則子は繰り返した。
「凍りついたあなたの言葉…」
 そして則子は微笑んだ。

 程なくして則子は精神病棟へ入院した。僕は則子に何通も手紙を書いたが、返信が来ることはなかった。僕らの関係はほどけていった。冷たい冬に舞う風花のように。

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